皆さま、今年初めて随筆を認(したた)めます。つまり、明けましておめでとうございます。
トンチンカン先生は平成29年も美の旅にまい進しております。まずは、平成29年初頭、1月に雪の舞う中、近畿地方は兵庫県小野市の浄土寺に安置されている『国宝 阿弥陀如来像』を拝観。そして、春には関東は東京、国立新美術館の『ミュシャ展』へ行って参りました。それでは順次、トンチンカンな美の旅へご案内、ご案内。
その1 浄土寺『国宝阿弥陀如来像』
大阪で環境に関する講演をしました。こんな年齢になっても講演依頼があることは本当に嬉しいものです。(感謝、感謝)
特に、最前列に座って、目をパッチリ開けて真剣に聴く人々には頭が下がります。その人々とは当たり前と言えば、当たり前ですが、つまり女性です。しかも若い女性です。講師のトンチンカン先生は、『いよよ華(はな)やぐ命なりけり』と、ついつい頑張ってしまうのです。「いよよ華やぐ」という文言は以下の詩が起源です。
年々にわが悲しみの深くして
いよよ華やぐ命なりけり
この詩は「芸術は爆発だ」と言った、例の芸術家岡本太郎さんのお母さんの岡本かの子さんが小説『老妓抄(ろうぎしょう)』の最後の部分で詠った詩歌です。こんなに長く生きると、悲しいことのみ多く思い出されるのですよ。しかし、その悲しみを乗り越えて、つまり、年をとれば取るほど元気に、晴れやかに、そして華やぐというものですよ、という意味の様です。私も老いてますます元気に、華やぎたいものです。
さて、こんなことを言っている場合ではありません。話は浄土寺でした。ごめんなさい。
講演が終わり、新大阪駅近くのビジネスホテルで一泊しました。翌朝、ホテルで朝食をとるや、一目散に新大阪駅からJR快速列車「西明石行き」に乗り、神戸の三宮で降りました。その後、乗り換え、阪急電車で新開地まで乗り、またまた乗換えで、神戸電鉄で三田行きに乗り、そして再び、鈴蘭台で粟生行きに乗り換え、長時間かけて小野駅という所まで行きました(ああ、しんどい)。途中、鵯越(ひよどりごえ)という駅、三木城があった三木駅など歴史に名前の出てくる駅を通過しました。数えませんでしたが後で調べましたら、私の乗った電車は30もの駅に停車したのでありました。つまり、大変な大旅行でした。電車の車窓からは山は頭に雪をかぶり、田園地帯は新開地から小野に出るまで全く無く、山を回り込んだり、開発された住宅地を眼下に見て走ります。電車に乗っている時間は2時間と少しを経過しました。下車した小野駅から、徒歩約30分で浄土寺に行くことが出来るのです。が、さすがに電車疲れで、お尻が痛くなっていましたので、タクシーで行く事にしました。浄土寺に着いたのでタクシーの運転手さんに1時間後にこの場所に来てもらうように頼み、浄土寺に入って行きました。
浄土寺 国宝浄土堂(例の国宝三尊が安置されている)
浄土寺の中心はやはり、国宝が安置されている浄土堂です。この浄土堂は建物の平面が正方形の建物で、屋根はすっきりと直線を描き、日本刀のようなソリはありません。つまりこの浄土堂の建築様式は天竺様式といい、国宝でした。そして、山門らしきものは無く、広い境内に様々なお堂、鐘楼、経蔵などが点在しています。境内には人っこ一人いない田舎のお寺という感じです。
浄土堂入口(中にアルバイトのおばさんが居た)
浄土堂の左角に入口がありました。拝観料はお1人様500円と書いてありましたので、すぐに入口とわかりました。そこを入ると、受付のアルバイトらしいおばさんから「ようこそ遠いところ来てくださいました。」とお礼の言葉がありました。おばさんは足元に火鉢を置いています。つい、つい、「火事にならない様に気を付けてね。」と言ってしまいました。おばさんは久し振りに人の姿を見るような、キョトンとした顔をしています。人の声を聞くのも久しぶりという感じです。もちろん、拝観者は私一人です。
中に入ると板の間でして、板の隙間からヒューヒューと隙間風が上昇気流となって足元を撫でます。寒いというより痛い感じでした。スリッパの備えもなく、冷たい体感をしました。足踏みをしながら、かじかんだ足を左右の足同士でこすり、温めます。すると、おばさんが、「そこにあるカセットテープを回してください。浄土寺や本尊を説明する声が出ます。」というのです。どうも、セルフサービスの様です。カシャッとスイッチを押すとかすれた声で説明が始まりました。
主な説明内容
①浄土堂は鎌倉時代に建立され、国宝に指定されている。柱の数も少ない東大寺と同じ天竺様式である。過去の大きな地震にも耐え頑丈な作りである。
②阿弥陀如来像は高さ5.3m、両脇の菩薩は高さ3.7mで鎌倉初期の名仏師快慶(かいけい)の作である。
③阿弥陀如来像は屋根裏いっぱいまでの高さで重量感がある。立像は珍しい。
④高さ5mを超す像であるが、全体では台座から地下へ3mほどの長さがあり、仏像の高さの合計は地上5.3m地下3m、合計8.3mとなって, 地震などでも転倒しない構造になっている。
カセットテープの説明が終わると、私はおばさんの所に行き、お礼をして、ついでに変な質問をしました。
私:「言っては何ですけど、この様な京都や大阪から遠く離れた田舎にこんな立派な阿弥陀如来像が安置されているのは、何か訳があるのですか?」
おばさん:「えっーと、住職さんの言われるには、鎌倉時代には、近畿地方のあちこちに8カ所ほどこの様な立派な阿弥陀さんが祀られていたようです。しかし、戦国時代になると、多くの戦乱によって、都のあたりでは多くの寺院が焼かれ多くの仏像も焼失したようです。運よく、田舎のこの地だけ戦火を免れたので、現在も安置されているのではないかと聞きましたが・・・。まぁ、戦争はいかんねぇ。」
なるほど、納得しました。小野市は播磨の国、播州の北に位置していることから、北播地方(ほくばんちほう)というのだそうです。山陽道までかなりの距離があり、裏手は山々が重なって、そこを越えるとすぐ山陰地方だそうです。
浄土寺 国宝阿弥陀三尊像(3体とも国宝)
(パンフレットからのコピー)
それにしても立派な阿弥陀如来像です。感激して、浄土堂を後にしました。しかし、本当に寒さがきつく、耐えられず、足踏みしたり、日当たりのよい場所を選んで散策したりと悪戦闘です。帽子は下の写真のように毛糸の帽子(ネパールのシェルパ帽、これは息子のネパール土産)、そして厚手のコートを着ています。こんな寒い所へ来るんじゃなかったと冷たい風が吹くたびに反省してしまいました。
その後、そのまま今来た道を引き返すのはもったいないと思い、加古川を経由して西明石の方へ出て新幹線で名古屋へ帰ることにしました。タクシーの運転手さんには、「小野町駅までお願いします。」と声を掛けました。
万全な防寒装備で浄土寺まいり(自撮りです。)
JR加古川線の小野町駅までタクシーで行き、タクシーの運転手さんに礼をいい駅舎に入りました。暖房された待合室には、おじいさんとおばあさんがいました。『昔々ある所に』ではありません。『現在』、小野町駅におじいさんとおばあさんが居るのです。そこに掲示された時刻表を見ると、なんと加古川行の電車は50分後に来るのです。おじいさんとおばあさんはこの長い時間である50分間をどの様に過ごすのでしょうか、今、世間話をしているのですが、しばらくすると話すことも無くなるのではと心配になりました。
駅前には商店街はありません。コンビニもありません。あたりを見回すと駅舎の一画に地域の人々が経営するお店が1軒ありました。地産地消の野菜、地域の特産品が並べられており、奥に食堂があります。丁度お昼時間でしたので、それではと中に入り、メニューを見ると特産品の『田舎そば』しかありません。私は暖かいカモ肉入り蕎麦(そば)を注文し、ついでに「熱燗はありますか。」と聞きましたところ、「地域の人たちがお昼時間だけ経営する食堂です。申し訳ありませんが、お酒は販売していません。」というツレナイ返事でした。これを聞いて、寒さが一段と身に染みてきました。
50分待たされたJR加古川線 小野町駅(無人駅)
その後、暖房された待合室で過ごし、加古川まで1両編成のローカル電車に20分間乗り、そして西明石を経由して、新幹線ひかりで名古屋へ帰りました。我が家へは午後5時過ぎの到着です。あの素晴らしい国宝阿弥陀如来像だけ拝観するために朝早く起き、新大阪を8時前に出発して我が家へ帰るまで、延々10時間を要した『美の旅』でした。あぁ~、疲れた~.寒かった~。
その2 ミュシャ展への旅
ミュシャ展の紹介は、例のNHK「日曜美術館」で見ました。私はアール・ヌーヴォーの商業デザイン(グラフィックデザイン)の美しい作品しか知らなかったのです。晩年に制作し、本当のミュシャを知ることが出来る『スラヴ叙事詩』の大作20枚があるなんて全く知りませんでした。
彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターです。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注する事にしたが、おもだった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いていたミュシャに飛び込みで依頼したものだったのです。
晩年、ミュシャは故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作します。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。しかし、1939年、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体されました。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕されました。その理由は「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」というものでした。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、まさしく、それは78歳の老体には耐えられないものであり、その後ミュシャは釈放されたものの、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じたのです。
美の旅に出る前に、NHKの「日曜美術館」などにより、この様な知識を得て、観賞に向かいました。やはり、事前の予習はいいものです。
小学校、中学校の時、もっとしっかり予習をしておけばよかった、と今になって(余命いくばくもない、こんな年齢になって)反省しています。
ミュシャの出世作「ジスモンダ」
(購入したクリアファイルよりコピー)
フランス時代のミュシャの作品(アール・ヌーヴォー)
(購入したクリアファイルよりコピー)
それでは旅の流れを最初から順にお話します。出発日の数日前、ある企業さんから相談を受け、現地に出向くことになりました。その出向く日が丁度、ミュシャ展へ出かける出発日と重なってしまいました。
つまり、出発日は午前中、愛知県の東三河地方で仕事をしました。その足で、豊橋駅から新幹線ひかりで東京へ、またまたその足で、地下鉄に乗り換え、六本木まで行き、国立新美術館へ向かいます。時間は丁度午後4時でした。その日は金曜日でしたので、人ごみは少ないのですが、切符を購入するには20分ほど並びました。
そしていよいよ、ミュシャ展です。
ミュシャ展入場券(20分ほど並びました)
入口を入ると会場マップが書かれたパンフレットがあります。それを1部頂き、展示会場を巡るのです。展示は『スラヴ叙事詩』20点が大きく会場を占めています。そして、最後の部屋は「撮影可能エリア」となっていました。「えっ、カメラで撮っていいの?」こんな展覧会初めてです。ウキウキした気持ちで順に観て回りました。
会場マップ(左下エリアが撮影可能エリア)
『スラヴ叙事詩』は20枚すべてが縦、約4m、横、約5mの大きな絵です。この絵が20枚も並んでいる様子には、圧倒されました。素晴らしい迫力です。とても晩年、78歳まで、情熱を傾けて20枚を描いたとは思えません。シッカリした筆使い、陰影の確かさ、全体の構図、申し分ありません。こうなったら、私も頑張らなければと思いました。『いよよ華やぐ命なりけり』です。
携帯カメラで絵画を撮る入場者達(撮影可能エリアにて)
そして、撮影可能エリアで元気よくバシャ・バシャと携帯カメラのシャッターを押し続けました。絵の大きさが半端じゃないので、絵画のすぐ前でシャターを切ると全体が撮影できず、遠くからシャッターを切ると上の写真のように携帯を構えた人物が多く入ってしまいます。やはり撮影可能エリアでは芸術的な写真が撮れないことが分かりました。(残念、残念)
撮影可能エリアでは、多くの人が携帯カメラで写真を撮っていました。この光景がまたまた面白いのです(上の写真)。つまり、みんなが同じポーズをとって、へっぴり腰で、携帯カメラを構えているのです。このままではとても芸術的な写真を撮ることが出来ないと思われます。撮った写真はどうするのでしょうか。他人ごとながら心配してしまうのでした。
その3 旅の終わりに
浄土寺では、長時間のローカル線の旅、ミュシャ展では超特急新幹線の旅でしたが、やはり、ローカル線の旅が印象に残ります。ゆっくり走る電車の車窓から初めて見る景色は何とも言えない感動です。これからは地方の美術館巡り、仏像巡りをしたくなりました。(年齢のせいなのでしょうか、ゆっくリズムが身に合ってきました。)
おわり。次回をお楽しみに。ごきげんよう、さようなら。