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坂部孝夫のトンチンカン先生

はじめに
 人生も60年以上やっていると、『今までの人生、本当にアホな経験の積み重ねであったことよ。』と思い出し笑い・・・。自分だけ笑っていては、世間さまに申し訳ない。ここはひとつ、ご披露し、世の中に苦笑いの渦を作ってみようと考えた。以下、ばかばかしいお話を順にご披露すると行きましょう。
 先日、新聞を読んでいたら、「笑いは免疫力を高める、という説もありますから、健康のためにも、笑える読書はいいですね。」とありました。このトンチンカン先生のお話は、基本的に真実に基づいていますが、読者の皆様により面白くご理解いただけるよう少しばかり編集した部分があります。ご承諾ください。
 読みながら ワッ ハッ ハー 。読んでからワッ ハッ ハー。各自、自分流で笑っていただきたく思います 。
 
 それでは、はじまり、はじまり・・・・・。 

                                 2011年春 坂部 孝夫

                                     

講義中に悩むトンチンカン先生(大阪での講義にて)


         
第1話 飛行機の中で 第2話 タイの病院にて
第3話 私のパワースポット巡り 第4話 外国でもトンチンカン(会話の巻
第5話 トンチンカン先生の秘密蔵書  第6話 歯医者さん
第7話 ブータンより愛をこめて 第8話 中国・大連漫遊記
第9話 トンチンカン先生の『お仕事奮戦記』 第10話 トンチンカン先生喜びのサイン・コサイン・タンジェントカーブ
第11話 『何だろう、この看板』の話 第12話 トンチンカン先生の秘密蔵書(その後)
第13話 
 トンチンカン先生、上海・南京・徐州の旅
第14話
 トンチンカン先生、の『マゴマゴ(孫々)物語
第15話  トンチンカン先生の『芸術との出会い』 二 題 第16話
 トンチンカン先生の『直島再訪』
第17話
 トンチンカン先生の『みちのく一人旅
  
第18話
 トンチンカン先生『芸術の創造』へ
 
第19話 トンチンカン先生、 
     『学会発表に参加する』の旅
第20話
 トンチンカン先生、天津、北京へ行く
 
第21話 トンチンカン先生、今年も美の旅へ 第22話
トンチンカン先生、孫との関係性について
第23話 トンチンカン先生の『北の旅人』
第24話
 トンチンカン先生、台湾へ行くの巻
第25話 平成最後の旅路 第26話
トンチンカン先生からアンポンタン老人へ
第27話
 トンチカン先生、場違いなところへ

第28話 トンチンカン先生のコロナで
          引きこもり読書歴
第29話
 トンチンカン先生 難攻不落の姫路城へ

第30話
『アンポンタン老人、恐竜と出会う。』の巻
第31話
 アンポンタン老人、再び難攻不落の
         『今度は彦根城へ』の巻

第32話
『アンポンタン老人、
       ミュージアムを訪ねる』の巻
第33話
『元気なアンポンタン老人、
        リニア新幹線に乗る』の巻

第34話




 第33話 『元気なアンポンタン老人リニア新幹線に乗る。』の巻


私事ですが、実は、2023年1月の寒い中、いつものように、例の息子一家で一泊温泉旅行をしてきました。
今回の旅行目的は、まず、①リニア新幹線が開通するまで元気でいるか心配なので、冥土の土産に一回乗りたい②大学の3年後輩である望月君が静岡市のど真ん中で静岡天満宮の宮司として勤めているので、孫にも学問の上達をお願いしたい。③NHK大河ドラマの「どうする家康」で脚光を浴びた家康のお墓「久能山東照宮」を50年振りに見たい。そして、④今、旬の石垣イチゴを孫と一緒に食べたいと言う、多彩な目的でありました。

<第1日目>
朝7時に家を出て、豊田市の上郷サービスエリアのスマートICからは入り、いきなり上郷サービスエリアのコンビニで孫たちの朝食を買い、新東名高速道路経由で一路富士山山麓へ直行です。天気が良く、富士山には雲ひとつない美しさでした。


新東名高速道から見た当日午前中の富士山

 



午前10時30分にはすでに「山梨県立リニア見学センター」に到着しました。入場料は大人420円、子供200円です。今回もシニア料金の設定はありませんでした。「リニア新幹線が開通する頃には団塊世代のシニア族は既にこの世に居ないだろうから、シニア族を引き寄せるシニア料金を特別に設定することもないだろう。」と考えてのことかとヒガンでしまいました。
 この日は、試験走行を行っており、15分に1回程度の頻度でリニア実験車両が見学センターの見学ラウンジの前を超スピードで走り抜けます。やはり開通までには元気でいられないかもしれないと思い、孫と3人でリニア新幹線に乗りました(注.1)下の写真をご覧ください。




施設見学記念撮影場所にて、孫と一緒にリニア新幹線に乗車しました。

 



館内はリニアモーターの仕組み、超伝導の実験見学等、子供達が喜ぶ展示や仕掛けが多く有りました。特に見学ラウンジでは超スピードで走る様子が間近に見られスリル満点でした。この時の走行音が大変なものでして、環境を専門とする私としては、この問題解決が大きな課題になるのではと思いました(エヘン)。



山梨リニア実験線を走るLO系実験車両

 


でも、子供達は一瞬に走り去るリニアモーターカーを見て驚いて大騒ぎでした。見学するには、大変見応えのある良い施設でした。
その後、都留市、富士吉田市内(注.2)を通り抜け富士五湖の周りをドライブし、朝霧高原を通って本日の宿、国民宿舎(注.3)へ到着です。



夕日に映える「赤富士」(宿舎の窓から)



温泉は富士山の湧き水で湧かした湯でした。透明で柔らかい泉質です。食事は夕食、朝食共にバイキング料理で、孫たちは例の如く好きな物ばかり皿にのせて食べています。


 <第2日目>
 翌朝、宿舎の窓から見る富士山もまた綺麗でした。刻々と明るくなります。
   「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 
       少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。(枕草子)
 という境地でしょうか、満足、満足(下の写真)。



朝日に輝く富士山(宿舎の窓から)

 


 バイキングの朝食を済ませ、静岡天満宮へ急ぎます(注.4)。宮司の望月君は、受験シーズンの今が最も稼ぎ時というのか、本殿から出てきません。奥の方で祝詞(のりと)を上げるうなる声、霊験アラタカな雰囲気がいっぱいでした。「さすが望月君。生物化学研究室に在籍しただけある。」と感心しました。関係ないか、全く・・・。
 忙しいので長くお邪魔をせず、望月宮司とは本殿の脇で立ち話を少しして別れました。


静岡天満宮の前にて孫たちと記念写真

 


 その後、久能山の下でイチゴ狩りを楽しみ、日本平からロープウェイで久能山東照宮へお参りし、隈研吾が設計した「日本平夢テラス」に登り、富士山に最後の別れをして無事に西尾へ帰りました。


日本平夢テラス(日本平ロープウェイ乗り場の近くにあります。)

 


 というのはウソでして、帰りの東名高速道路で走行中、スピード違反でパトカーに捕まりました(注.5)。77才の後期高齢者が高速道路で速度違反。捕まえた方もびっくりと思います。私は捕まってから文句をたらたら、たらたら、「ひとさし指で押印を。」と言うので、「印鑑を持っている。」と憮然と言ったり、「寒いからパトカーの中に入ってください。」と言うので、「寒くない。」と言ったり、「速度違反、間違いないですね。」とパトカーの中の速度測定表示を示すので、「計量法による検定を受けている計測器かね?」と言ったり、「ゴールド免許所有者を捕まえるなんて、大いに不満だ。」と言ったり、「環境技術事務所は何処の所属ですか。」と言うので、「私が社長だ。」と大きな声で言い(本当は「代表」)、警察官は「失礼しました。」と答えるなど、警察官を相当困らせ、違反金からおつりが来るのではないかと言うほどの嫌みを言って、最後は、気持ちがスッキリしました。77才、喜寿でスピード違反。やっぱり元気なアンポンタン老人かな? 皆さまも、スピード違反にはくれぐれもお気をつけください。
 それでは、みなさん、ごきげんよう。さようなら。


 


注.1 リニア新幹線に乗車したい場合は、いきなり行ってもダメです。乗れません。
    乗車希望を応募用紙に書き、投函します。対象者は中学生以上で、応募者数が
    多い場合は抽選で決定されます。約3ヶ月後に抽選結果が届き、リニア新幹線
    に乗車できるのです。今回は記念撮影用のリニア新幹線に乗りました。
 注.2 富士吉田市内では、「吉田うどん」が有名です。市内には50軒ほどのお店
     があるようです。家族で食べました。太麺で、きしめんよりさらに太く、甲
     州名物「ほうとう」のような姿と味で美味しかった。。
 注.3 宿舎は「国民休暇村 富士」です。田貫湖の岸辺にあり、真正面に雄大な
     富士山と田貫湖が見えます。早朝、湖畔を散策すると野鳥が水面を泳いでい
     ます。静かな光景でした。。
 注.4 静岡天満宮は駿府城の前、そして静岡県庁の前に位置していました。周りが
     高層ビルばかりで、静岡天満宮はビルに埋もれているようでした。その部分
     だけ、狭いけど緑の杜となっていました。社殿は周りのビル群に合わせたの
     か、コンクリート製でした。。
 注.5 スピード違反は、制限速度100キロのところ、116キロ、つまり16キロ
     オーバーで捕まりました。愛知県に入ったら途端に捕まったのです。捕まる前
     に、なにわナンバー、京都ナンバーの車が追い越していったので120キロ
     まではOKだ!と思い走っていました。夕暮れ時でして、後方からコッソリ追
     跡してくるパトカーを確認でしませんでした。残念。





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 第32話 『アンポンタン老人 ミュージアムを訪ねる』の巻


さてさて、新型コロナのまん延拡大、第7波、そしてインフルエンザと一緒になった第8波が気になるところです。
 この様な中、再び息子一家と今度は「日帰り温泉」の旅をしてきました。今回の旅は、日帰りですので愛知県の北隣り、つまり、岐阜県への旅です。岐阜県土岐市(ときし)にある「バーデンパークSOGI(土岐市温泉活用型健康増進施設:さすが、お役所が考えた名称)」です。公共施設ですので、入泉料は大人600円、子供は300円と安価でした。しかし、シニア料金はありませんでした。 それでは,いつものように、始まりぃ~。始まりぃ~。

 でも、この温泉に行く前に、数年前、毎週日曜日午後8時から放映されている、「NHK日曜美術館」で紹介されました、多治見市笠原町にある「モザイク タイル ミュージアム」を訪ねました。



モザイク タイル ミュージアム全景
(2人の子供がいるところが入口です)

 



この建物は4階建てでして、建築家の藤森照信氏が設計・デザインをしたものです。上の写真にある一番低い、子供がいる所が入口です。この建物は、山を削って陶土(タイルや瀬戸物の原料となる土)を採取している場所(採掘場)をイメージして作った建物です。つまり、山が半分切り取られている(削られている)のです。中に入ると様々なタイル製品が陳列されており、懐かしい昭和20~30年代の雰囲気が出ています。私の家にもあった表面をタイルで覆った、かまど、お風呂がありました。本当に懐かしいです。 まず、1階で受付け。と、その前に、いつもの手の消毒をアルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。
 入場料金を払います。大人310円、高校生以下は無料でした。多治見市の運営ですので料金は安く、係の人も多くがボランティアの人達です。本当に親切でした。そのためか、平均年齢も少し低く見えました。その中で、一番若いボランティアの人(推定年齢は50才過ぎ)に「館内の写真撮影はいいですか?」と聞きましたら、にっこりして「写真撮影はOKです。」でした。しかし、こだわりますが、シニア料金はありませんでした。
 1階には、ミュージアム・ショップがあります。冷蔵庫のトビラにピタッと付けるマグネット、タイルの鍋敷き、そして極めつきは、小さなタイルの詰め込み販売です。細かなタイル、花びらや葉の形をしたタイルなどなど、『タイル詰め放題』のコーナー。コップ1杯550円です。550円で買って、何に使うのかな? おはじき?それとも壁に貼るのかな。不思議なものを売っていると感じました。でも、私たちがお店にいる20分程度の間、詰め込んで買っている人は,一人としていませんでした。やっぱり。



ミュージアム・ショップのタイル詰め放題コーナー
(孫2人は、買う・買わないで悩んでいる。)

 



その他、陳列し、販売している品は、常連のクリアーファイル、多治見市特産の陶器(織部、黄瀬戸、志野などの雑器(日常使用する陶器)),イヤリング、ブローチなどの装飾品、そして文鎮などが並べてあります。私は,文鎮を買いました。一個200円でした。
 そして、一気に直線の大階段を4階まで登ります(「上り」と言うより「登り」という雰囲気です)。老人にはつらい登りでした。手すりを持って,よいしょ。よいしょ。いつものように孫が腰を押してくれます。有難いことです。優しすぎて,この厳しい世の中を渡っていけるのかという心配もありましたが、感謝、感謝です。
 4階に着くと、そこは「絵タイル」の世界でした。定番の富士山が多く飾り付けてあり,その中でも、くちびるを赤くした、マリリンモンローの絵タイル(左側の奥、薄く映っている)が目にとまります。その他、動物、三保の松原、江戸城、平安貴族の景色を眺める姿など様々な絵タイルが飾られていました。



銭湯の壁に貼る富士山、動物、日本の景色などの絵タイル
(左下はタイルで作られた「トイレ」です。「使用できません。」とありました。)

 


マリリンモンローの絵タイルなどもありました。

 


家庭用のお風呂(湯舟)と洗い場

 


タイルで作った「かまど」(母がここでご飯や惣菜を作っていたことを思い出します。)

 


次に、3階は,様々なタイルが陳列してあります。幾何学模様、西洋的な唐草模様、日本独特の格子模様など様々です。そして、その奥に、タイルが出来るまで(製造工程)やタイルの歴史を紹介したビデオ上映コーナーがありました。私はそこで足腰の疲れをとるため,約15分間、ビデオの画面が『終り』と映し出されるまで,一人で見ていました。
 2階は,台所やお風呂場を再現したコーナーです。昔の姿そのままに再現されており、こんなにも様々な所にタイルが使用されていたのかと感心しました。
 パンフレットによると、大正3年に始まったタイル産業は戦後の高度成長期の好景気と建築ブームで一気にその需要が高まり、最盛期には,全国の生産量の86%をこの地で生産していた様です(経済産業省工業統計表による。)。今では、抗菌・消臭作用を実現したタイルも生産されているようで、ミュージアムの周りには多くのタイル製造工場が並んでいました。
 ミュージアムを見学して町の中を歩くと,びっくりです。様々なタイルで出来たものが町中に設置されています。本当にタイルの町です。その例を挙げます。
笠原市民センターには、タイルで出来た「看板」がありました。触ってみましたが,ほんとにタイルで出来た看板でした。わざわざ,タイルで製作する必要というか、メリットはあるのかと思うのですが・・・・。
 またある所では、ごみステーション(ごみ集積場所)がタイルで作成されていました。タイルで囲まれている空間を見ると,銭湯の湯舟のように見えてしまい、入りたくなります。「そこまでやるかぁ~。」という感じです。その他、公園のベンチ、橋の欄干の一部分、水飲み場、家の塀など,町中の至る所がタイルでした。


タイルで作成された看板(小学5年の孫と一緒に)




タイルで作成された,道路際にあるごみステーション(お風呂みたい)

 


その後、日帰り温泉である『バーデンパークSOGI(土岐市温泉活用型健康増進施設)』でゆっくり体を休め、近くの『おばあちゃんの道の駅』(観覧車ほどの大きな水車がグルグル回っていることで有名)へ寄り、お土産を買って帰りました。面白く、楽しかった一日でした。


孫と一緒にモザイク タイル ミュージアムの前にて
孫は、「背は伸びるが、成績は伸びない。」という状況です。

 


それでは皆さん、異常気象で暑かったり、寒かったりですが、お元気でお過ごしください。ごきげんよう。さようなら。また、書きます。




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 第31話 アンポンタン老人、再び難攻不落の『今度は彦根城へ』の巻


私事ですが、実は、2022年の早春の3連休に、またまたオミクロン第6波の直前にもかかわらず、例の息子一家で一泊温泉旅行をしてきました。
今回の旅日記は、前回ご報告しました『第30話 アンポンタン老人、恐竜と出会う』の続きです。
 前回、第1日目は福井県に鎮座する霊験アラタカな永平寺を参拝後、福井県立恐竜博物館を見学し、国民宿舎で『越前ガニ』を、私の取り分(つまり、家族内の力関係の結果)として、足2本だけ食べて第1日目は終わりました。それではその続きをお話しします。
それでは、いつものように、始まりーぃ。始まりーぃ。


 第2日目は琵琶湖周遊の旅です。朝8時30分、一泊した国民宿舎を出発。福井の広い平野を東南へと突き進みます。天気が良いこともあり、日光で雪が溶け、一斉に田畑から面的にモヤモヤと霧、(いや、水蒸気とも言うべきか)が立ち昇る光景を見て、その神秘さに感動しました。九頭竜川の河口に広がる福井平野は結構広いと感じ、さすが、福井藩主、越前松平家の豊かさを物語っています。JR福井駅の恐竜像を見学後、北陸自動車道へ入ると左に大きな伊吹山が雪を冠して堂々とそびえ立っています。右は賤ヶ岳(しずがたけ)、姉川(あねがわ)の古戦場、そして、その奥には、広いベタ波の静かな琵琶湖です。この地域は琵琶湖の北、湖北地方といいます。



伊吹山の雄姿(車窓から)

 

 参考:この地方は『湖北地方』といいまして、十一面観音菩薩の宝庫です。
    京の都から白山への「山岳信仰」の道中のため、十一面観音菩薩が
    多くの寺院に奉納されています。
    私は、渡岸寺や石道寺の十一面観音菩薩を何度となく拝観しました。




まず、「長浜城へ登城。」と計画していましたが、お城公園へ入る駐車場を捜していたところ、満車という看板ばかりです。困ったなぁ~と、徐行運転で駐車場を捜していたところ、ちょうど道路脇に「長浜鉄道文化館」という小さな案内標識がありました。「アレレ。行ってみようか。孫も喜ぶし・・・。」ということになりました。いつもの通り、今回も、すぐさま瞬間的に旅の目的を変更するという、かなり優柔不断な旅です。
 こちらの方は駐車場が混んでいなく、すんなり駐車出来ました。入口で入場券を買おうと思いましたが、係の人はいません。「すみません。」、「ごめんください。」などと声をかけましたら、私たちの居ることを察したのか、奥からボランティア的風貌で、やや太り気味の、どちらかというと愛嬌のない中年女性の人が出てきました。その人はおもむろに、どっこいしょと言ったか言わないか、受付窓口に座り、そして、私たちに入場券を渡す前に切符をもぎり、半券だけ渡してくれました。合理的ではあるが、何か変な気持ちです。前回お話しした『福井県立恐竜博物館』でのややこしい対応に比べ、思い切り合理的でした。満足、満足?
 この文化館は、北陸本線の建設に向けて、多くの人々が期待をしていたことが分ります。明治時代、関西地方からアジア大陸へ行くのは福井県の敦賀港から船で行くのが最も短距離と言うことで、東海道線の米原を出発点とし、長浜を通り、北へ進む北陸本線の建設が急がれていたようです。明治政府の伊藤博文等、有名人の書による「石碑」が幾つも展示してありました。



日本で一番古い駅舎だそうです。

 



館内には本物の蒸気機関車(D51)、電気機関車(ED701)が鎮座しています。孫たちは運転台に上り「次は安城~、安城~。」と言ったり、「次は東京~、東京~。」と言って遊んでいました。かなり満足した様子です。



展示されていた蒸気機関車D51と電気機関車ED701

 


そしていよいよ、『彦根城登城』です。長浜鉄道文化館を見学後、長浜城は当然ですが、パスして、湖畔を走る道路に沿って移動し、30分程度で彦根市街へ到着です。小高い丘の上にそびえる彦根城は、3階建ての天守閣で国宝です。駐車場の確保に時間がかかるほど、人混みがすごく、とてもオミクロン感染拡大中とは思えない光景でした。小高い丘のふもとに入口があり、入城料金は、大人 800円、小・中学生 200円です。やはり、シニア料金はありませんでした。残念。姫路城と同じで、全国のお城管理者が結託(goo辞書:示し合わせてぐるになること)しているのではないかと勝手に思ってしまいました。でも、頑張って登城する事にしました。いつものように、手の消毒をアルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。
入城門をくぐり、城内へ入るといきなりダラダラと長い坂道です。これは大変、入口に用意されていた、「ご自由にお使いください。」とある竹の杖が目に止まり、すぐに借りることとしました。それも2本。両手に1本ずつ持って悪戦苦闘の登城です。優しい孫は率先して私の腰のあたりを押してくれるのです。やはり、姫路城と同じく老人には『難攻不落の天守閣』です。孫の親切にうれしい (^v^) やら、淋しいやら。



彦根城で、孫たちとヒコニャンと記念撮影(登城する前です)
私は杖2本で悪戦苦闘の登城

 


彦根城は3階建てです。「天守閣の入口に入れば、後は階段を登るだけだ。頑張ろう。3階なんて姫路城のことを思えば、スイスイ。」と思いました。
 でも、登城前の『だらだら坂』の影響で、既に息切れがしています。内部は恐竜博物館と同じ程の薄暗い様子にびっくりです。やはり築何百年だけあり、柱や床は黒光りです(手垢かもしれないけど・・・)。しばらくすると目が慣れてきました。
 いよいよ階段の前に来て,さらにびっくりです。階段なのか梯子段なのか、その傾斜は、正に60度を超えているのではないかと思うほど急です。階段の高さは8~10段程度、それほどでもないので助かりました。孫たちはドンドン進みます。私は両手に階段の手すりを持ち進みます。


天守閣内の急勾配の階段
(1階から3階まで全て同じ勾配)

 


やっとの事で登城成功。西の方面に見える琵琶湖は水面が薄いブルー色でキラキラ輝き、遠くに福井県境の山並みが雪を被り薄い青色のシルエットで、これも綺麗に見えました。登城して良かった。井伊直弼もこの景色を見たのかと思い、感無量でした。再び、孫に感謝、感謝。
 帰りは再び,急な階段を降ります。再び両手で階段の手すりをもって,孫に腕を取られて降ります。やはり、老人には『難攻不落だ!!』と確信した次第です。


彦根城天守閣から見たブルー色の琵琶湖と連山のシルエット

 


その後、売店で「おみくじ」を引きました。おみくじの「仕掛け」は人形の『巫女さん』が神社の中に入っておみくじをお盆の上に載せて持ってくるという機械仕掛けです。200円を入れたら,巫女さんは神社のトビラをあけて、お盆の上におみくじを載せて帰ってくるのですが、お盆には載っていませんでした。「おかしいなあ~。ハズレではないと思うけど?」、そして売店の人にそのことを告げるとお店の人は、「あれぇ~、これで3回目ですぅ~。」と言いながら、電源を入れ直すと、ガチャガチャと言う大きな音と共に機械は簡単に正常に動き始めました。再び『巫女さん』が動き出し、間違いなく、おみくじをお盆に載せて持ってきました。おみくじは『小吉』です。孫は二人とも『小吉』でした。そう言えば、今までどこの神社へ行って「おみくじ」を引いても、凶、大凶を引いたことはありません。いつも大吉か吉、小吉です。逆に凶を引くと『大当たり、夢かなう。』なのかもしれません、とへそ曲がりなことを考えてしまいました。

 以前、私が子供の頃、父親に連れられて名古屋へ行った時、ヤマガラという鳥が,父からもらった、確か10円玉を鳥に渡すと,それをくわえ、お賽銭箱に入れ、鈴を鳴らし、おみくじを神社から加えて持ってくる芸を見た記憶がありました。ネットで調べたらその画像がありました。でも今は鳥獣保護法でヤマガラを飼育できないと言うことで、この様なおみくじはない様です。
 いろんなことを思い出しつつ、再び2本の杖をつきながら、彦根城を後にしました。

 次回は愛知県の犬山城に孫たちを連れて行こうと思っています。挑戦する気持ちがジワジワと高まってきました。「まだまだ、若いぞぅ~。」

 それでは、みなさんさようなら。次回のお話しをお楽しみに。
                『ウォー・ガォー。』そして、『ニン・ニン。』




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 第30話 『アンポンタン老人、恐竜と出会う。』の巻


私事ですが、実は、2022年の早春の3連休に、またまたオミクロン第6波の直前にもかかわらず、例の息子一家で一泊温泉旅行をしてきました。つまり、年数回の家族旅行は徐々に恒常化しているのであります。
 今回の旅程は、まず、福井県吉田郡永平寺町にある霊験アラタカな禅の道場、道元禅師が開いた曹洞宗大本山である、いわゆる『永平寺』を参拝し、その後以前より度重なる厳しい孫からの要望により、『福井県立恐竜博物館』へ行きました。そして、JR福井駅前のロータリーに設置されている『動く恐竜』3匹(3体でしょうか。)も見てきました。
 JR福井駅前の3匹の恐竜は今回の旅で最も印象深いものでした。3匹は首と手、そして尻尾の動きに合わせて、『ウォー、ガォー』などと相当大きな鳴き声を発します。24時間鳴いていると夜間にはかなりの騒音苦情があるのではないかと心配しましたが、恐竜の説明が書かれた看板の説明文の最後の部分に小さく、「恐竜は午前8時から夜9時まで鳴きます。」とありました。取りあえず、深夜は安心、安心。
 でも、このロータリーに設置された動き、かつ、鳴く恐竜はすごいインパクトです。誰が計画し、建設したのか、「よくも、まあ、こんな予算が付いたものだ。」と、びっくり仰天しました。





JR福井駅前ロータリーの恐竜(後方はJR福井駅のビル)
『ウォー、ガォー』と鳴きながら手と首と尾が動きます。

 

その後、琵琶湖湖畔の長浜、彦根を訪ねたのですが、話が長くなりますので、この部分は次回の第31話でお楽しみください・・・。


話は変わりますが、ちなみに、現在のところ、3回目のワクチンの接種はしていないものの、一家全員、感染していません。それでは、いつものように、始まりーぃ。始まりーぃ。

 例のごとく、朝8時に安城を出発し、東名高速、北陸自動車道を走り、約3時間半で、永平寺に着きました.残雪がそこら中に高く積まれている寒い中、拝観料大人500円、子供200円(シニア料金はありません)を払って寺の中へ入ると空気も冷たい、床板も冷たい、長い階段の多い構造です。山の斜面に配置された永平寺は修行のお寺らしく、座禅をする部屋、経を習い修行する部屋、大食堂など様々な部屋があります。



入口にあった「永平寺全景」の看板(前後の渡り廊下は全て長い階段です。)

 


永平寺に着くと、階段を走る様に登る孫たちに比べ、私は例の如く、手すりをつかんでよいしょ、よいしょ、と登ります。とにかく長い階段。地獄の階段です(老人には難攻不落の永平寺!)。一通り本堂などを拝観し、その都度お賽銭を投げ入れ、何を願掛けすることもなく4~5箇所の賽銭箱のある所を回りました。拝観料と同じ程度の金額を納めました。
 そのうち、階段の登り降りに飽きたのか、孫たちは「恐竜は、まだ~?」と言うばかりでした。孫たちにはこの様な場所は単調で、寒くて、お土産屋もないので、暇で仕方ありません。1時間ほどの拝観の後、次の目的地である、『福井県立恐竜博物館』に向いました。



永平寺の長い階段を登る孫たち

 


車で30分ほど行くと、福井県立恐竜博物館に到着です。でもその前にお昼の腹ごしらえです。地元の名物を食べるには、孫たちも美味しく食べられるものが良いので、何かないかなぁ~と考えた挙げ句、孫たちも食べられる簡単なもの、つまり、結局、全国チェーンである「CoCo壱番屋」のカレーにしました。私は、アサリたっぷりカレーのチーズトッピング、1カラでした。


恐竜博物館前にて記念撮影

 


いよいよ、博物館です。五人分の入場券を購入し、いざ入ります・・・。 でもその前にいつもの手の消毒を・・・。アルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。アルコール消毒の道具は恐竜と一緒にシュッ、シュッ、本当に面白い。


▼恐竜付き手のアルコール消毒器        ▼シニアの割引券あり   

 


そして、入場券を係りの人に渡すと、「年齢確認をします。」と言うのです。見れば分るとおり、優に70才を超えた姿です。でも、よほど若く20才代に見えたのでしょうか「確認します。」と繰り返すのです。確認する自動車免許証は車の中です。ポケットの中を探ると、その中から私のパスポートのカラーコピーがありました。係りの人に見せると「確認できました。どうぞ。」・・・大変な入場でした。出鼻をくじかれた思いでした。20才に見られてうれしいやら、確認するものを探す面倒やら、つまり、老人になるとは、これほど大変なものでした。
 博物館は3階建て、一部吹き抜けで、館内はやや薄暗く、大きな声でも反射しない工夫がしてありました。『ウォー、ガォー』と鳴きながら動く恐竜がそこら中にあり、子ども達は大喜びです。本物の恐竜の骨の化石は欠けた部分もなく、レプリカも入れると、何十頭ときれいに展示してあり、圧巻です。大人も子どもも興味深く見ていました。


博物館の内部、撮影自由でした。

 


全て本物の恐竜化石ではありませんが、展示されている恐竜の内10体は本物であり、そして、そのうち5体は福井県で発見された新種の恐竜化石と言う説明がありました。それは、羽毛がある恐竜、全長10mの草食恐竜等で、フクイサウルスなど、「フクイ」と名付けられている恐竜でした。


恐竜の化石の展示状況。(展示されている内、10体は本物なのです。)

 


2時間近く見学して、その日は国民宿舎で越前ガニを酒のつまみに酔いしれました。ここまで来たら越前ガニを、と、清水の舞台から飛び降りたつもりで・・・・。あまりの高価なので大人3人で1杯予約しました。その結果、私の取り分は足2本のみでした。


一家全員で、寄って集って(たかって)食べた『越前ガニ』の一杯

 


翌日、例のJR福井駅前で動く恐竜を見ること30分、そして、琵琶湖湖畔に向いました。天気が良いこともあり、日光で雪が溶け、一斉に田畑から面的にモヤモヤと霧が立ち昇る光景を見て、その神秘さに感動しました。
 北陸道は雪の中でした。左に伊吹山を見ながら、右に賤ヶ岳(しずがたけ)、姉川(あねがわ)の古戦場を見ながら一路琵琶湖湖畔の長浜へ向かいます。
 孫たちのためにJR長浜駅に隣接した、本物の蒸気機関車や、北陸線建設に関わる資料等が展示されている『長浜鉄道文化館』を見学させ、いよいよ『難攻不落の彦根城』を目指します。
 以後、次回をお楽しみに。それでは皆さん、ごきげんようさようなら。『ウォー、ガォー』





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 第29話 トンチンカン先生 『難攻不落の姫路城へ』の巻


私事ですが、実は、この新型コロナウイルス感染拡大の中、息子一家に連れられて、関西圏の西の外れ、つまり、近畿地方のど真ん中を突っ込んで通り抜け、姫路市にある姫路城へ観光をしてきました。現在のところ、一家全員感染していません。それでは、いつものように、始まりーぃ。始まりーぃ。


1 いざ、 姫路城へ

メンバーはいつもの息子夫婦、孫2人、そして私です。車でJR三河安城駅まで行き、近くのパーキングに車を預けました。1泊2日の短い旅ですので荷物も少なめ、服装も簡単なもの、いつもの仕事用カバンで旅支度です。 ただし,新型コロナウイルス感染対策として、厳重なマスク着装、施設へ入るごとに手の消毒と検温をしました。
朝8時50分、新幹線三河安城駅を出発、名古屋でのぞみ広島行きに乗り換えました。混雑は見られなく、比較的席の空いている様子から、感染の心配はほとんどないものと確信して、一路姫路へと「出発・進行!!」 新緑の緑の香りをいっぱい含んだ木々が車窓から見えます。幸先の良い出発です。いつもの『出鼻をくじかれる』こともありませんでした。
JR.姫路駅に降りると、駅の正面に姫路城、きれいな漆喰(しっくい)の白さに感動しました。観光客もそれなりに居まして、観光地の賑わいのようなものが感じられます。それでは、歩いてお城まで・・・・、と思ったものの、5歳の孫を始め5人でぞろぞろと歩くのも大変、それではと言うことでタクシーに乗るという、いきなりオオチャクでナマケモノ的な旅となりました。タクシーは子供が2人ですので、一台で5人乗れまして、OKでした。
 さて、姫路城へ着くと、見上げるほどの大きさに圧倒されました。5階建ての天守閣まで行けるか否かの不安が頭をよぎります。ここで息子一家と別れて、天守閣の下の広場にあるベンチで待っていようか・・・、とも考えましたが、ここは家長、最年長者の威厳もあり、何が何でも天守閣の頂上へと上ることを決心しました。外観は5層の天守閣です。まあ、行くところまで行こうかと入場券を購入し、いざ天守閣へ・・・。その前に、手の消毒をアルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。




白鷺城、すなわち姫路城の勇姿(坂部撮影:間違いありません)

 



2 年寄りには難攻不落な姫路城の天守閣

「白鷺城(しらさぎじょう)」の愛称で親しまれている姫路城は、日本一高い入城料金(1,000円)だそうです。次に高い入城料金は沖縄県の首里城で820円だそうです(今は焼失して入城できません。残念)。でも、姫路城にはシニア料金の制度はありませんでした。残念、残念。このシニア料金制度がないとは、年寄りには向かない登城なのか、暗に年寄りはお断りと言う意味なのか、と不安はさらに募るのでした。  登城券を入り口の女性に渡し、その後左へ曲がり、少し坂を登ると、敵が来ると城内から鉄砲を撃ったり弓を引く、三角や四角、丸形の窓(硝子はありません)があり、それを見ながら進みます。孫たちは、その穴のような窓から頭と首をしっかり出して城下の景色を見ています。頭の大きさと同じ程度の窓ですので,しっかりハマってしまいそうで心配です。



穴のような窓から城下を見下ろす二人の孫

 


 そして、ダラダラした坂をしばらく行くと、天守閣の入り口に到着。入り口の係りの人に「お城は何階建てですか?」と聞きましたら、「6階建てです。」と言うのです。確か、外観から見ると5階建てでしたが・・・・。でも、頑張って6階まで上る決意をしたのです。

各階ごとに、ガラスケースに入った展示物がありました。古い書き物(達筆につき、全く読めませんでした。)、刀、兜(かぶと)など、ゆっくり見ながら上の階へ、そして上の階へと進みます。しかし4階に着くころには、足がフラフラ、どうも膝に来ている状態で、少し休んでいると、孫が5階から戻ってきて、「じいちゃん、手。」というのです。手を引っ張ってくれるのです。うれしいやら淋しいやらの境地で、ニコニコとしましたが、顔面がなんとなく引きつっているようでした。
「牛に引かれて善光寺参り」と言う格言(?)の様に、「孫に引かれて,天守閣へ」と言う境地です。6階の最上階には男性の係りの人がいました。再び係りの人に天守閣の標高を聞きましたら、「海抜90メートル、目の前の広場から40メートルの高さです。」という答です。眺望はすこぶる良いのです。手を引いてくれた孫に感謝、感謝。しかし、6階まで一気に階段で登ったことは十何年ぶりです。そして、下りの階段も両手を使って、ゆっくりと、ゆっくりと下り、大変な思いをしました。階段も急でして、シニア料金の制度なし。「老人には難攻不落の姫路城の天守閣」と確認した次第であります。



やっと登った天守閣6階の混み具合(やや疲れ気味)

 



6階最上階から姫路市内と広場を眺望

 


3 『ニン・ニン』

天守閣から降りて、しばらくお城の中をぐるぐる回り、その帰る途中で、職員の人なのか、ボランティアの人なのか、忍者姿の人がいました。様々なパフォーマンスで観光客を楽しませています。私の孫は忍者が珍しいのか、『ニン・ニン。』と言って,忍者姿の人に近づいていきます。そして、黒い頭巾(ずきん)の中の顔をのぞき込むと、忍者はいきなり「、えいっ。」と孫を脅すので,びっくりして、「わぁーっ。」と叫んで逃げていきます。しかし、最後は忍者とツーショットで記念写真を撮ることになりました。それが下の写真です。




『ニン・ニン』と言って手を合わす孫と忍者のツーショット

 


その後、密を避けるため,芝生の真ん中で,コンビニで買った,おにぎりとサンドイッチを食べ,ジュースを飲み、再びJR姫路駅に帰り、宿泊先である倉敷へと新幹線に乗り込みました。

姫路城は本当に迫力のある城です。まず、JR姫路駅の改札を出ると,駅のロータリーから,遠く、正面に天守閣の全体像が見えます。堂々としているその姿は戦国時代を生き抜いた勇姿であり、そのインパクトはすごいです。

皆さまも是非、コロナに負けず、姫路城への登城をお勧めします。
それでは、皆さん、ごきげんよう、さようなら。ニン・ニン。






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 第28話 トンチンカン先生のコロナで引きこもり読書歴


さてさて、皆さまいかがお過ごしでしょうか.新型コロナウイルスの感染拡大で、通常の生活が出来ないと言うご不満でいっぱいのこととご推察申し上げます。
 私も同じでありまして、すなわち、休日には家の中に巣ごもりする結果となり、日だまりの南側の部屋で、「読み出しても眠くならない本」を購入して読むことにしました。そこで、今まで読んだ本の紹介をします。興味がおありの方は、是非ご購入いただき、笑いを誘ってください。それでは、はじまりぃ~。はじまりぃ~。

その1 幻のアフリカ納豆を追え!(1900円)
     高野秀行著(新潮社)


納豆(なっとう)は日本独自の食べ物と思っている人が多いと思いますが、実は世界中にあるのです。以前、同じく高野秀行氏の著書『謎のアジア納豆 そして帰ってきた<日本納豆>』を読んで、ベトナムからラオス、インド北部、ブータンまで、様々な納豆が作られ、食べていると言う紹介がありました。納豆は納豆菌ですが、それが稲わらに付着しているだけでなく、世界中のほとんどの植物の葉に納豆菌はあると説明がありました。ハイビスカスやバナナ、パパイヤの葉で包んだ納豆などびっくりする種類があるのです。納豆は、調味料という役割があったようです。世界中の海岸地域では、魚を原料にして魚醤(ギョシュ)という醤油を作り、日本では鰹節などを作ります.そして昆布を代表とする海藻も『だし』として用いますが、内陸部では主に、納豆菌で作った納豆という調味料を使っているようです。姿は日本の納豆だけでなく、天日干しして「せんべい」の形にしたもの、また、だんご状に丸め、「ラグビーのボール」の形のもの、これらを長期保存できるようにしたものなど様々です。
 今回読みました、『幻のアフリカ納豆を追え!』の中で面白かった部分は、いや、びっくりした部分は、「納豆の原料である豆を煮るため、圧力鍋がないので、普通の鍋で煮るのですが、フタの周りに『牛糞』を詰めて鍋の中の圧力を高める工夫をしている。」と言う部分でした.本当にびっくりです.思えば、アフリカの住居はその壁が牛糞で出来ているという話を聞いたことがあるので、少しだけ納得しました。是非、手に取ってお読みください。牛糞を手に取ってではありません。『本を』であります。目からウロコの世界です。どうぞ。



   

 



その2 一度見たら忘れられない奇跡の建物(1800円)
     発行 エムディエヌコーポレーション((株)インプレス)


 まるで秘密基地のような建物、巨大な生き物にも見えるデザイン、きらびやかなライトアップや外装素材に包まれた外観など、建物そのものがアートです。異彩を放つ世界の名建築、いや、私の芸術に対するセンスからしますと、迷建築としか目に映らないものばかりです。ちなみに、この本の中には、日本国内に設置されている建築物はありませんでした。でも、日本の建築家による外国での建築物は1件だけありました。伊東豊雄氏による『中国の台中国家歌劇院(巨大な劇場)』を2016年に設計・建設したものです。

   

 



その3 その他

その他にも紹介したい本がありますが、その代表として6冊ばかりご紹介します。私は今まで多くの小説、解説本などを読んできましたが、年齢には勝てず目がショボ・ショボとなり、目が疲れるので、出来ることなら写真集を、と思いながら、最近では、図表、写真などを多く掲載した本を購入しています。①は辺境研究家の高野秀行と明治大学教授清水克行との対話形式の本です.世の中にはこんな国があるのか、本当に日本の室町時代の混沌とした世界だと驚きでした。②は詩的で情緒豊かな、きれいな写真集です。アイヌ文化をもっと理解しなければと思いました。③は変わった昆虫とその変わった生態写真がいっぱいで楽しい本です。④はホッピーと言うノンアルコールビールみたいな東京でしか飲めない清涼飲料水(実際は0.8%アルコール含有です)のお話しです。ホッピーは一般的には『焼酎割り』に使用して飲みます。私も一度飲みましたが、飲み方(焼酎とホッピーの調合割合)が間違っていたのか、すっかり酔ってしまいました。⑤は地球上にもこんな場所があるなんて驚きの写真集です。⑥は日本人が設計した世界の美しい建築物55の作品集です。本当にこんな建築物を日本人が設計したのか、驚きです。表紙の写真を4つ載せました。 是非ご購入し、読んでください。
それではまた次回まで。ごきげんよう。さようなら。

① 世界の辺境とハードボイルド室町時代
   清水克行・高野秀行(対談) (集英社インターナショナル)
② アイヌの祈り 写真 堀内昭彦 ((株)求龍堂)
③ ときめき昆虫学 メレ山メレ子((株)イーストプレス)
④ ホッピー文化論 遠藤哲夫 (ハーベスト社)
⑤ 絶対に行けない世界の非公開区域99 ダニエルスミス 
            (日経ナショナルジオグラフィックス社)
⑥ 日本人建築家が建てた、海外の美しい建築
   編著:バイインターナショナル ((株)バイインターナショナル)

  

 

  

 




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 第27話 トンチカン先生、場違いなところへ


さてさて、私は、既に70歳を超え、遂にと申しますか、当然と申しますか、残りわずか1年で「後期高齢者」の仲間入りをする時がやって来ました。でも、精神的には20歳代の血気盛んな青年を標榜しております。そして、「年寄りの冷や水」、「老いては子に、そして、孫に従え」、という格言に正面から反発し、「正月は冥土の道の一里塚、正月なんてちっともお目出度くない」、とヘソを曲げたり、時には「美術館、博物館巡り」や「自分を知るための社会学入門」〔中央公論新社 本体1500円〕、という本を読み、一方では「ゆる妖怪カタログ」〔河出書房新社 本体1600円〕と言う訳の分らない本を見てと、一応、素直に、そして無手勝流に興味を持ちながら、トンチンカン、かつアンポンタンな毎日を送っています。それでは、いつものように始まり、始まり~っ。


最近読んだ本、見た本の紹介(表紙の部分)

 



 昨年、とあることから、(『ふとしたことから』の方が正しい表現かも知れません)東北大学の先生から、東北大学が主催する「プロフェッション教育研究会第二回大会」に参加していただき、研究発表をしてほしいと依頼がありました。


教育研究会のお誘いの案内状の「はじめの言葉」

 


何で? とっくに70歳を過ぎた、この私が・・・? と思ったのですが、どうも、その原因は中国の大連市にある東北財経大学での環境に関する講演や同じく中国の天津市で開催された環境フォーラムの事例研究発表、国内では、北九州市立大学での環境問題研究会参加、名古屋市内の大同大学など2~3の大学で、環境に関する講義をしていたので、誰かが紹介し、お呼びがあったのではないかと言うことの様です。



2009年 大同工業大学(現:大同大学)の『大学案内』、教員紹介のページより
『約10年前、ニコニコと笑顔で写真におさまる』

 


スケジュールは東京羽田空港に集合し、第1・2日目に長野県にある関西電力の黒部第4ダムを見学するバスツアーコースが入っていましたが、それは時間の関係で参加出来ませんでした。第3日目の研究発表会の方はなんだか分らないうちに承諾してしまいました。つまり、発表に当たっての注意書きを読みますと、『発表は英語又は日本語』とありましたので、私は日本語が話せますので、何とかなると、かなり安心して承諾したのでした。
 ところが、当日、東北大学の講義室である会場に行きますと、外国人の多いことにまずはびっくり。私の発表は5番目です。そうしたら、ほとんど全ての発表者は英語で発表するのです。アメリカ人も、中国人も、アフリカ系の人もみんな私から見ると流ちょうな英語で、堂々とした態度で発表していました。さらにびっくりしました。
 発表内容を聞くのですが、英語なのでさっぱり分りません。発表が終わり、皆さんが感動して拍手や笑い顔をすると、私は周囲をキョロキョロと見て、1~2秒後に、音の出ない軽い拍手をして、ニコニコと笑顔をするのです。大変な目にあいました。でも頑張って、最後まで理解した『ふり』をし続けました。あ~ぁ、疲れた。本当に『場違い』な所へ来てしまったと言う感じです。



私が発表したパワーポイントの第1面

 


ちなみに、私の発表内容は、愛知県の組織である「あいち資源循環推進センター」のコーディネーターを仰せつかっているので、このセンターが主催している、環境に貢献している企業や教育システムを表彰する「愛知環境賞」の事例(高等学校、小学校の環境教育実践の受賞事例)を発表しました。

 発表が終わった後は懇親会です。わぁー、やだなぁー、英語はほとんど話せない。外国人は、アメリカ人、インド人、中国人、インドネシア人、アフリカ地域の人など様々です。75%以上は外国人です。そしていよいよ懇親会が始まりました。
 すると皆さん、なんと、ほとんど全員が日本語で会話するのです。え~っ、何で~っ? どうして~っ? 3度目のびっくりです。しばらくして、仲良くなった中国人の発表者(男性です。)に「日本で開催される研究会ですので、なぜ日本語で発表しないのですか。」と聞きましたら、「英語で話した方が間違いないし、全ての人に通じます。この様な場ではほとんど英語で発表します。」と返事をいただきました。失礼しました。
しかし、よくも、こんな『場違いなところ』へ来てしまったものだと、反省することしきりでした。でも、懇親会の席では、多くの外国人と『日本語』でおしゃべりができ、楽しいひとときでした。

 翌日には東京にいる息子のところへ行き、かわいい孫と一緒に過ごし、変なところに迷い込み、大変な経験をした『研究会』の疲れをほぐしました。 皆様、くれぐれも、『場違いなところ』には行かない様、お気を付けください。 やれやれ。


<参考> 『ニコニコと笑顔』 について

下の記事は、日本経済新聞のコラム記事です。昔から『笑う門には福来たる』と言われている様に、笑いは免疫力を高めるようです。学生時代はトンチンカンな会話で私たちを楽しませた「ひょっこりひょうたん島」を見ていました。今は毎週日曜日午後5時30分からの、「笑点」を見ています(見られない事情がある場合は録画します)。皆さんも、常に笑顔で、毎日を楽しくお過ごしください。『作り笑い』でも十分免疫効果があり、長寿につながるようです。


令和2年3月9日発行の日本経済新聞の記事 「こころの健康学」です。

 


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 第26話 トンチンカン先生からアンポンタン老人へ


さてさて、『令和』最初のお話です。すでに70歳を超えた私ですが、何かと興味を持ちながら、つまり、首を突っ込みながら、アンポンタンな解釈で発言する、行動するなど、周りの人々から、びっくりした目つきで見られ、逆に無視されて、「なんでだろう。」と勝手に不思議がる今日この頃です。ついに、トンチンカン先生からアンポンタン老人へ遷移してしまいましたが、このたび完全にアンポンタン老人へと進化しました。それでは、いつものように始まり、始まり~。


その1 孫の夏休み自由研究の手伝い

いつも私がかわいがっている孫(孝くん、または孝樹、と呼びます)から、「じいちゃん。2年生の夏休み自由研究一緒にやろうよ。」と言うのです。私は、「何するの?」と聞くと、孫は「カブトムシの研究。」というのです。「そんな、毎日見て観察するだけでは、だめだよ。研究にならないよ。」そして、「カブトムシの解剖ならいいかも。」と言いました。といっても、私も良いアイデアがないので、孫と二人でどうしよう、どうしようと考えていました。
 そういえば、昨年の夏に、アサガオの苗を学校から持ってきた孝樹が、私の家庭菜園で育てて、種がいっぱい出来たことを思い出しました。
 それは、アサガオの苗を家で育てる子には先生が1株ずつあげます、ということでもらってきた苗ですが、結局、私が家庭菜園の午前中しっかり日の当たる一等地で育て、枯れるまで管理したアサガオから出来た種です。種は100粒を超えるほどあり、冷蔵庫の野菜室に眠っていました。


研究のために使った朝顔のたね(100粒強)

 



これで何か研究できないかと考えた挙げ句、朝顔の種をいっぱい発芽させ、どのような場所できれいに成長するかを調べることにしました(この部分は、ほとんど私の考えで、孝樹はポカンとしているばかりでした)。そのためには、植木鉢がたくさん必要だろうと思いました。そこで、昔お世話になった、『常滑焼』で有名な常滑市在住のAさんに電話相談しましたら、「植木鉢の生産業者でもう生産していない会社(多分倒産したようです)があります。その工場跡地には壊れた植木鉢がいっぱいあります。中には使えるものがあると思いますので、もらってきましょうか。このままでは、どうせ、産業廃棄物になる物でして、処分するには費用がかかります。ちょうど良いと思います。」という嬉しい返事でした。
 マグカップほどの大きさの、壊れていない植木鉢を20個いただいてきました。そしていよいよ自由研究の始まりです。



研究で使用した発芽1週間目の朝顔たち

 


(研究途上のお話しをすると長いので省略します。)


根と茎の長さを測定している孫。

 


研究の成果を模造紙2枚に書き、写真もきれいにちりばめて完成しました。孝くんは元気に、自信満々な顔つきで、2学期の始業式の執り行われる9月4日に小学校へ持って行きました。1週間後、父兄の人が参観できるよう学校の体育館に並べられ、掲示されていました。私たちの(孝樹と私の)研究結果は、なんと金賞でした。数日後、孝くんは大喜びして、私の事務所へ金賞の表彰状を見せに来ました。金賞の中から1品が学校の代表で、市の展覧会に出品されるようです。孫も、私も、絶対に出品されると確信していましたが、残念なことに出品するという連絡はなく、ある日、孝くんは研究結果を書いた模造紙を持って下校してきたのです。私は大変落胆し、そんなはずない、何かの間違いではないか、いやいや審査員である先生の理解度が足りないのではないか、と次から次へと、何故、何故、どうして出品されないのだろうかと思いを巡らし、かつ、憤慨していました。そして、ハッと気づいて、あっ、いけない。孫の自由研究なのに、アンポンタン老人だけが独走している。その後、大いに反省する毎日でした。
 孫はというと、何も感じず、次の遊びに夢中になっているのでした。



その2 なわとびの練習

ある日、息子から、「孝樹がちっとも縄跳びが出来ないんだよ。」という話がありました。少し考えた挙げ句、「それなら、私が教えてあげるから、私の仕事が終わった午後5時頃、孝くんに事務所へ来るように言って。教えてあげるから。」と伝えました。
 翌日、縄を持ってやってきました。
私、「それでは飛んでみなさい。」
(孝樹は飛んだけど、縄が1回転もしないうちに、足に縄がひっかかり、飛べません。)
孝樹、「う~ん。絶対無理。」と言って、「おじいちゃん、やって見せてよ。」というのです。
  (孝樹の飛び方は、お尻を突き出して、前屈みになり、縄を力強く回すことなく、へたり込んでしまうのです。出来ない理由が読めました。)
私、「よ~っしゃ。見せてやるからね。見ててよ。」
  (孝くんから縄を取り上げ、模範演技を見せるべく飛びました。しかし、なぜか、1回も飛べません。)
私、「おかしいなぁ~。何故だろう。」・・・・・「あっ。わかった。縄が短いのだ。大人用の縄跳びの縄を買いに行こう。」ということになりました。
  (そして、私の車で孝くんを乗せて、スポーツ量販店に行き、大人用の縄跳びを買い求めました。)
私、「あのう、大人用の縄飛び紐ありますか。」
店員、「ここにあります。丈夫なものなら1,000円ほどしますがいかがですか?」
私、「一番丈夫なものをください。980円ですね。」
店員「あのう、あなたの靴は相当傷んでいますね。靴底がすり減っていますよ。これで縄とびは危ないです。」というのです。
孝樹、「おじいちゃん、靴、買った方がいいよ。」
私、「う~ん。じゃ、運動靴も買おう。」
店員「これなど、丈夫で、安全です。いかがですか、一度履いてみますか?」
(私はとりあえず、試着し、履き心地が良かったので、購入することにしました。そしてゆっくり値段の書いた札を見ると。)
私、「え~っ。8,000円!!」、
仕方ない。安全面も考えて、孫の手前、縄跳びの指導中、転んで骨折でもしたら全治何ヶ月の重傷、場合によっては寝たきり、そして、おじいちゃんの権威は失墜、と考えれば考えるほど負のスパイラル。結局、勇断を持って、つまり『清水の舞台から飛び降りる』つもりで購入しました。
私、「あ~ぁ。指導経費、8,980円も使ってしまった。」とブツブツ、ブツ。
その後、毎日、孝くんに縄跳びを教えました。
私、「お尻がでている。引っ込めて。」
私、「正面を見て、姿勢正しく。」
私、「腕は、体にくっつけて、縄を回すのだ。」
とスパルタ教育と模範演技を織り交ぜて、1週間。ついに、孝くんは連続50回ほど飛べるようになりました。そして、走りながらのなわとびも出来るようになりました。やれ、やれ。
 その後の私と言えば、膝が痛くなり、腕も筋肉痛でしばらく養生することとなりました。しかも多額な指導経費(練習資材)を投入して、であります。皆様も、あまり模範演技はしないようにしてくださいね。『模範演技先輩』からのご忠告です。

 そしてしばらく後、膝の痛みが続きましたので、膝のお皿が割れている、もしくは、足の骨がボキッと折れているのではないかと心配して近くの整形外科医院でレントゲンを撮ってもらいました。


整形外科医院で処方してもらった、炎症を押さえる薬と湿布薬

 


医院の医者、「膝関節はきれいですね。軟骨もしっかりあります。」
 私、「どうして痛いのでしょうかねぇ。」
 医院の医者、「急激な運動、無理な運動は避けてください。年齢ですから。少し炎症を起こしているようです。」と言うのです。
 『縄跳びの模範演技』のことは、恥ずかしくて言いませんでしたが、医院の医者は、過激な運動でこの様になったと、薄々感じているようでした。
 これからは、『過激な運動は控えます。』と私自身に宣言しました。
 そして、1週間分のお薬で痛みはほぼ解消しました。薬の効果は良く、この様な、あまり反応能力のないアンポンタン老人にも効果があるのだと感心しました。



その3 自転車乗りの練習

孫の孝樹は、もう2年生になってかなりの日数が経っているのですが、自転車に乗れません。私が機会ある毎に、日曜日の安城市役所職員駐車場で自転車乗りの練習をさせました。補助輪付きの子供自転車ですが、7歳の孝樹にはすでに小さすぎます。まず、工具箱を取り出して補助輪を取りはずします。

補助輪を外し練習した自転車

 



孝くんが自転車に乗ります。私が後ろで自転車を支え、スタートです。中腰になり一緒に走ります。孝くんは危険を感じるとすぐブレーキをかけます。私はつんのめりになり、転びそうになります。
 とまあ、こんな訳で大変な苦労をして練習をしました。孝樹はなかなか上達しません。私は息切れと、腰痛で座り込みます。
 孝くんは、「僕、もう出来ないから、大人になっても補助輪をつけて走るよ。」と言うのです。そんな馬鹿な、どう考えてもその様なことは出来ないので、更に練習を重ねることにしました。
 私は、「足でペダルをしっかり、キック、キック。」と叫びます。そして、「倒れる方へハンドルを切るのだ。」とも叫びます。
 最後は、孝くんの肩を持って、100メートルほどの直線を一緒に走るまでになりました。そしてついに自転車に乗ることが出来たのです。本当に疲れました。ヘトヘト。



悠々と自転車に乗る孫と新しい自転車

 

 

その日の夕方、息子(孝樹のお父さん)から電話がありました。「今日、職場から帰ると、孝樹が家の前で悠々と自転車に乗っているんだよ。ハンドルを右に切ったり、左に切って、もうずいぶん前から乗っている様な状態。びっくりしたよ。お父さん(私のこと)有り難う。」
 その後、あまりにも小さな自転車だったので、私が自転車に乗れるようになったご褒美として、孝樹に、かなり大き目のかっこいい自転車を買ってやりました(写真を見てください。かなり高額)。やはり、孫には甘く、その結果、当然ですが出費もかさむこととなりました。ヤレヤレ。



その4 孫のバイキング料理、初体験

夏休みに、大きなホテルに宿泊する計画を立てました。息子一家と私、総勢5名の団体旅行です。ホテルは大きく、食事は夕食、朝食とも、すべて『バイキング形式』です。宿泊する部屋のカード式の鍵を持ってホテルの食堂へ行くと、係のお姉さんに5人が座れる場所(テーブル)へ案内していただけるのです。
 食堂は大きく、テーブルは20~30もあります。天井は低いものの、体育館のようでした。正面奥には日本食コーナー、右側は洋食、左側は中華のコーナーです。所々に、正方形で9つのくぼみのある皿が積んであり、それを1枚ずつ持って好きな食べ物を自分で取り、テーブルまで持ち帰り、そこでいただくのです。
 私は、日本料理が並べられたコーナーに行き、刺身、おでん、おしたしなど純和風の食べ物をいただきテーブルに帰ってきました。
 孝くんも私の後に付いてきて、卵焼き、かまぼこ、たこ焼きなどを取り、私とともにテーブルに着きました。「いただきま~す。」といって食べ始めたのですが、孝くんは遠慮したのか、何なのか、少ない量でしたので、すぐ食べ終わってしまいました。
 「今度は自分で取りに行ってきなさい。あちらの方は中華のコーナーだから、孝くんの大好きな食べ物がいっぱいあるよ。」と私が言うと、空になった9つのくぼみのある皿を持って中華の方へ行くのです。
  (しばらくして)
 その後、私たちがビールやウーロン茶を飲みながら歓談していると、孝くんが9つのくぼんだ皿を大事そうに、こぼれないように、ゆっくりした足取りで帰って来るのが遠くに見えました。何か変だぞ、皿の中は真っ白です、中華系は赤色が目立つ料理ですが、全て白色です。近くへ来たのでよく見ると、写真の通り、肉まんが9つ載っているのです(写真は8つですが、すでに1つは口の中)。なんだ、なんだ、これは、「バイキング料理はいろいろな食べ物を少しずつ取り、テーブルで美味しくいただくんだよ。」というのですがすでに時は遅く、一番右手前のくぼみにある肉まんから食べ始めているのです。


肉まんの好きな孫がテーブルまで持ってきた、すべて肉まんの
載った9つのくぼみのある皿(1つはすでに『口の中』)

 


いくら肉まんが好きでも、こんなに食べるとは思いもよらぬ状況で、子供の考えることは、大人には想定できないものだとつくづく思いました。孝樹はすべての肉まんを一人で平らげました。この光景を見て、「驚きと呆れ」が一緒に来た思いでした。でも、楽しい夕食でした。
 そして翌日の朝食もバイキング形式です。孫は肉まんとは別の料理を食べています。朝からカレーライス、赤ショウガを除去した焼きそば、オレンジジュースなどです。あまりにも子供に似合わず大盛りです。いつも食べさせていない様に見えて、ちょっと恥ずかしい思いがしました。
 私はというと、本当は肉まんが大好きです。朝から肉まんを3つゲットしました。テーブルに帰り、早速食べ始めると、何と、肉まんではなく、アンまんでした。3つも食べると、口の中がアンコで甘ったるく、いつまでも味が残り、朝から肉まんのゲットは70歳代のおじさんには無理があると思い、反省することしきりでした。
 そう言えば、中国へ出張した時、ホテルでのバイキングは、いつも『夜は肉まん、朝はアンまん』ということを思い出したのでした。中国へは10回を超える回数、北京、南京、徐州、大連、蘇州、杭州などへ仕事で行っているのに、しっかり学習効果が発揮されていませんでした。反省、反省。
 と言う訳でして、つまり、縄跳びといい、自転車乗り、肉まんといい、孫と『き競い合う』と大変なことになると痛感しました。もっと、己を知ることを学習しなければ・・・・。

 令和最初のお話でした。孫には常に驚かされる日々です。マゴマゴしてしまいます。そして、アンポンタン老人は孫に可愛がられて、いつもニコニコの毎日を過ごしています。
 それでは、令和の時代を元気にお暮しください。人生3ケタ、100歳時代です。私も『アンポンタン老人』として、もう一働きも、二働きもする気持ちでいます。『令和の時代』、皆様の、ご健勝とご多幸を祈念致しております。
 それでは皆さん、次回のお話まで、ごきげんよう、さようなら。




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 第25話 平成最後の旅路


みなさま、暑い夏で猛暑、大きな台風の襲来 そして厳しい残暑、いかがお過ごしでしょうか。わたしは家庭菜園の管理の放棄、毎日のウォーキング、1万歩達成の返上など、毎日ダラダラしたイモムシのような生活を送っております。

さてさて、『令和』最初のお便りをお送りします。昭和、平成、令和と生きてきました私としては、大変な長生きをしたものだと感心していますが、『人生100年時代』という声を聞くと、かなり不安があります。

なぜかと問えば、昨年の春3月に行きました台湾での仕事がキツ過ぎて、具体的には、つまり、摂氏4度の日本からイキナリ摂氏27度の台湾南部での気温の中で、しかも『モモヒキ姿』で悪戦苦闘した結果、外国嫌い、それに『出不精』になってしまったのであります。今思えば、4泊5日の間、全て工場環境指導をしたのです。物見遊山はありません。延べ9工場の環境指導です。それもほとんど屋外の仕事です。公害対策の施設はおおよそ、屋外に設置され、しかも工場の裏手にありまして、直射日光を避ける設備も用意されていません。その結果、第一日目のモモヒキ姿が、後の工場環境指導の仕事まで尾を引きまして、さらに帰国後も体調不良、疲れやすい、すぐ風邪気味など大変なことになったのであります。


台湾新幹線台南駅にて(モモヒキを履いている)

 



体調が良くなったのは、夏も終わりごろでしたが、外国嫌いになり、その後は海外での仕事を断る状態です。しかし、そんなことばかり言ってはいけないと、まずは、飛行機に乗ることから体を馴染ませることとして、先日、鹿児島、宮崎へ家族旅行をしてきました。息子夫婦と孫2人と私の計5人、2泊3日の旅です。さ~って、ご覧あれ。


第1日目

セントレア(中部国際空港)からテイクオフ。観光当日は、好天に恵まれ、桜島がくっきり見えました。噴火している様子もしっかり見え、孫は、「マグマだ。マグマだ。」と言ってはしゃいでいました。私たちは、鹿児島空港からレンタカーで、特攻隊出撃基地の跡地に出来た知覧(ちらん)特攻隊平和祈念館、その後、知覧武家屋敷跡を見学しました。鹿児島と指宿の間にある知覧は静かな街並みです。


知覧の武家屋敷跡にて(目を寄せてポーズを取るヒョンキンな孫と(隔世遺伝かも))

 



その後、鹿児島市内の城山(西郷隆盛最期の地、桜島が綺麗に遠望できる丘)、九州新幹線鹿児島中央駅ホーム(孫の希望)に立ち寄り、鹿児島港からフェリーに乗って噴火している桜島の裾野に位置する桜島温泉(硫化鉄温泉)で1泊したのでした。


フェリーから見た桜島(頂上の右部分から噴煙が上がっていた)

 


  桜島温泉は小説『放浪記』で有名な小説家 林芙美子のお母さんが仲居をしていた
  温泉地です。そのホテルの前には『花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき』
  と刻まれた石碑の前に林芙美子像がありました。林芙美子は尾道に出るまでの幼
  少の時期にこのホテルに母と一緒に従業員部屋で住んでいたとのことです。


孫は小学1年生の国語の教科書で「いろいろな船」という読み物を習い、その中でフェリーの話が出ていましたので、それを思い出したのか、フェリーに乗るや、すぐさま客室へ行きソファーに寝そべり、また、デッキにあがり自動車がどんどん船に入る所を見て、売店ではソフトクリームを買い、大変喜んでいました。


第2日目

 

翌朝、夜明けとともに(年を重ねると寝起きが早いのです。) 私一人で林芙美子の石碑の周りをウォーキングしました。すると風の向きが変わったのか、急に火山灰が降って来ました。空を見上げると細かい黒い粒子がフワフワと降下しているのです。道路を走る自動車は火山灰の砂塵を巻き上げながら通り過ぎます。私たちのレンタカーも火山灰で汚れています(後に、孫は自動車の上に積もった火山灰に、意味不明な落書きをしていました)。私は肩や腕に火山灰が付着しているので時々、はたきながらウォーキングです。

火山灰を浴びるという、ちょっと変わった経験をしました。これぞ、旅の醍醐味というものでしょうか。満足、満足。

朝食後、再びフェリーで鹿児島市内へ戻り、高速道路を走り、宮崎県の鬼の洗濯板で有名な青島へ、そして鵜戸(うど)神社を参詣しました。


孫と宮崎県青島「鬼の洗濯板」にて記念写真。

 


孫はこの4月から2年生です。鵜戸神社では、誰が教えたのか、賽銭箱の前で、お賽銭を投げずに柏手を打って、頭を下げ、手を合わせた格好で「2年生になったら、運動神経がよくなりますように。勉強がよく出来ますように。」と小さな声でブツブツ言いながら手を合わせて拝んでいます。それを見た私はちょっと待てよ、と考えたあげく、孫に説教しました。「そのお願いの仕方はだめだよ。それは。他力本願の願掛けといって、自分の努力なしで神さまにお願いする方法じゃないか。神様にお願いする時は、『毎日、運動をしますので、運動神経が良くなりますように。毎日、しかり勉強しますので、頭がよくなりますように。100点取れますように。』と言って拝むのだよ。」と懇切丁寧に教えました。

お賽銭を投げず、他力本願の願掛けをする孫。



そして、霧島温泉郷で2泊目です。大きな露天風呂がいくつもあり、その中で湯船もいくつもあり、孫たちは、まるで子供用プールで遊ぶように、はしゃいでいつまでも湯に入っていました。

九州の鹿児島へ行くなら、絶対『焼酎』の飲み比べ、夕食時はボトルで注文と意気込んでいましたが、何てことない、一応、豪華夕食と言われるホテルの夕食では、ほとんどすべて食べ尽くしたのでお腹が張ってしまい、生ビール一杯で終わりました。年には勝てないですね。

ホテルの売店には焼酎がいっぱいありました。

 



第3日目

最後の日は午後の便で名古屋へ帰ります。午前中、大きな社殿を持つ霧島神宮を参拝しました。『日本発祥の地 霧島』という石碑があり、高千穂峡と同じくこの辺りは神話にあふれた神秘な場所です。なかなか良い所でした。次回は高千穂神社などへも行ってみたく思いました。


霧島神宮本殿



このような訳でして、楽しい家族旅行をさせていただき、息子一家には感謝をしています。そして、帰りの飛行機から降りて、家路に向かう間、「今度はどこに行こうかね。」と、すでに、次の計画に話が弾んでいました。

私も、もう73歳の年齢でして、老いては子に従え、そして孫に従え、の家族旅行でした。嬉しくもあり、淋しくもあり、平成最後の旅路でした。

それでは、元気にお暮しください。人生3ケタ、100歳時代です。次は『令和』の時代です。私ももう一働きをする気持ちでいます。
『令和の時代』、ご家族の皆様ともども、ご健勝とご多幸を祈念致しております。
「平成最後のお手紙。」ご笑納、ご一読頂き、有難うございました。
それでは皆さん、次回のお話まで、ごきげんよう、さようなら。また書きます。


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 第24話 トンチンカン先生、台湾へ行くの巻


さてさて、皆さま、私は初めて台湾という所へ行って来ました。日本に近い国ですが、まだ行ったことがありませんでした。台湾の企業から環境指導をしてほしいと依頼がありましたので、さっそく行くことを決めました。

季節はちょうど3月の中旬、日本の気候は暑い日と寒い日が交互にやってきます。しかし、台湾はもうすでに25度を超える日本でいう夏日が毎日でした。

それでは、またまた、漫遊記をどうぞ、ご覧あれ。


その1 セントレアから桃花国際空港(台北)、そして台南市へ

まず、朝9時30分、私一人でセントレアからテイクオフ。集合場所は台北『桃園国際空港』です。到着は12時15分ですが、時差が1時間あります。したがって、飛行時間は3時間45分です。

今回は、関係者4名で視察兼指導です。私を除いた3名は、それぞれ上海空港、香港空港などから集まってくる、中国人の人達です。私の飛行機は正確に到着しました。入国検査を受けて空港ロビーへは、12時45分ごろに出たのですが、肝心の集合場所には誰一人いません。携帯電話で呼び出しても応答はなく、いささか不安になってきました。

そう言えば、前回も北京空港で集合した時に上海空港から来る人と待ち合わせをしたのですが1時間30分も待たされました。そんなことから、気を大きく持ち、「まぁ、こんなもんだ。」と納得してのんびりベンチに腰かけていました。案の定、30分ほどして、2人の関係者がやってきました。しかも、ゆっくりと歩いて。

1人は通訳も兼ねた中年の男性技術者、もう一人は若い女性。なんと、大学を卒業して3年目という事です。若いなぁ~。他の1人は、空港到着が3時間後ですのでホテルで集合としました。

現地で落ち合った関係者の一人とさっそく『ツーショット』
(地下鉄『桃園空港駅』のホームにて)

 

まず、桃園国際空港から、台湾新幹線の駅まで地下鉄で移動します。上の写真をご覧ください。初対面の挨拶をかわして10分もたたないうちに、『ツーショット』です。

(さい先がいいなぁ~。今回は出鼻をくじかれずに済みました。)

新幹線は、桃園駅から台南駅まで、所要時間はおおよそ1時間30分です。10号車から12号車の自由席です。3人はバラバラになって乗りました。

桃園から台南までの台湾新幹線切符

 

①単程票とは、片道切符乗車券のことです。

②自由座車廂とは{廂はヒサシの意味}自由席車両のことです。

③10~12節とは、10~12号車のことです。

新幹線のスピードは日本でいうと「こだま」程度でして、駅が多く15分走ると止まり、20分走ると止まるという状態です。鉄路と車両は日本製、信号系統はフランス製だそうです。乗り心地は日本の新幹線と変わりはありませんでした。

台湾新幹線を背景に(台南駅にて)

 

午後3時ごろには、新幹線の台南駅に着きました。この駅は郊外にあり、台南市の中心部に行くにはさらにローカル電車に乗り換えて市の中心部に行くのです。ところが、駅を降りホームへ出ると、暑いのなんの、気温は27℃です。中部新国際空港(セントレア)を出る時は気温が4℃でして完全な冬の装い、つまり、モモヒキを履き、上は長袖の下着です。汗が滲んでくるというより、身体が蒸れてしまい、急速に疲労感が襲ってきたのです。ネクタイをはずし、ズボンのバンドを一つゆるめるなどして可能な限りの対応をしました。本当に散々な目にあったのでした。

ローカル電車は下の写真のように青い電車でした。乗客もほぼ全員座席に座ることが出来る程度の混みようです。10程度の駅に停車し、台南駅に着きました。そこから、タクシーでホテルまで行きます。ホテル到着は午後5時近くになりました。

新幹線台南駅から台南市内までの列車(重そうな感じでした。)

 

その2 台湾料理で、最高級のおもてなしを受ける

ホテルで一休みです。早速、モモヒキを脱ぎ、シャワーを浴び、日本から持って来た半そでシャツに着替えました。そして、夜の歓迎宴会に出席です。

ホテルのロビーに6時集合、歩いて10分程度の場所の台湾料理専門店へ入りました。何故か、ウエイトレスが多くいた印象があります。しかも、案外高年齢のウエイトレス(どっちかというと『としま』)で、みな白い割烹着の様なものを着ています。これが台湾料理のお店か、独特の雰囲気だなぁ~、と思っていると、さっそく鍋料理です。野菜が鍋からあふれんばかりの「てんこ盛り」に入っています。火を付け、しばらくグツグツと言う音です。この音の優しさと言い、野菜が煮えた良いかおりと言い、実にうまそうだなぁ~。中を覗きこむと「とんこつラーメン」の様な汁の色です。とんこつラーメンはしょう油ラーメンより好きです。これは行けるぞぅ~。シメシメ。

と思いきや、例の「としま」ウエイトレスさんが鍋の底から何やら怪しいものを取出し、鍋の淵に並べるのです。6人で食事ですので、それは6本ありました。

うへぇ~っ。それは、豚の足か腕の骨が2つに切断された代物です。それが下の写真です。これはグロテスク。何ともいえない感じです。

切断された豚の骨が入った鍋料理。
(経験のない味でした。味はわかんない。失礼)

 

通訳の人に、「これを食べるのですか?」と聞きましたところ、通訳の人は箸でその骨をつまんで私の皿の上に載せ、「はい。これをストローで飲みます。」というのです。つまり、ストローで骨の髄液をチューチュー吸うのです。

わぁー、これは大変だ、初めて味わう味でして、美味しいのか不味いのかわかりません。しっかり、目をつむって吸いました。何とも言えない味です。招待して頂いた企業の人に失礼のないよう、やっとの思いで、全て、きれいに飲みました。ところが、としまのウエイトレスのおばさんが、いきなり、ささっ、とやって来て、おもむろに鍋の汁をしゃもじ(おたま)に取り、私の皿の上にある骨の空洞に注ぐのです。「わぁー、また飲むの?」

ストローでチューチュー吸って飲みます。
(下部の関節とおぼしき周りにはゼラチン質がこびりついています。)

 

今度は、再び鍋の汁を注がれないよう、ゆっくり飲んだり、飲んだふりをしたり、と悪戦苦闘です。すると、通訳の人が、「骨の関節の部分のゼラチン質も食べるのですよ。美味しいですよ。」というのです。「もう騙されないぞぅ。これも多分同じ状況になるのではないか。」と思い、少しづつ遠慮がちに食しました、ほとんど残して・・・。周りの人は、食べていました。よく見ると、ゼラチン質の油で、口の周りをギラギラさせて食べているのです。参ったなぁ。

その3 いよいよ、工場視察兼指導

朝起きると、天気の良い、南国調の日差しが照りつける晴天の日でした。外国旅行では、朝早くの市街地はその国独特の習慣が垣間見えるという事で、いつも朝の散歩をします。

朝の散歩の途中にて(台南市メインストリート)

 

今回も、台南市の下町を1時間ほど歩きました。台湾は中国、ベトナム、タイと同様、バイクの多い町です。赤信号になると、10~20台のバイクが自動車の前に並びます。そして青信号になると一斉にバイクが走り出し、その後を自動車が走り出すのです。

路地を入ると中国の上海、南京と同じような風景が見られます。中国語は十分な知識がありませんが、台湾では何だか言葉が少し違うなぁ、中国語とも違うし・・・、と思いました。台湾南部では、福建省の人達が多く移住しているようでして、この地域では中国語、中国語と少し違う台湾語、そして福建語の3つの言語が重なっているという事で、この3か国語(?)を理解し、話せないと仕事にならないのだそうです。

ホテルから台南市の市街地を見る

 

そして、午前8時にホテルロビーに集合です。いよいよ仕事のはじまり、始まり~っ。まずは、台南市のサイエンスパークに設置されている排水処理施設の運転管理の指導です。サイエンスパークと言っても、いわゆる工業団地です。しかし、大規模な、きれいな工場が立ち並び、大気汚染もありません。実にきれいな工場団地です。まず、私たちは、この工業団地のお偉い方に挨拶をするため、工場団地の管理事務所へ行きます。事務所の前には野外展示物として様々な芸術品が並んでいます。下の写真は有名な彫刻家によるものと解説がありました。その他、薬缶(やかん)のようなマンモスの様な芸術作品、人がベンチで休んでいるような芸術作品などいたる所にありました。何でこんなにも多く、いたる所にあるのだろうと不思議に思いました。

管理事務所の前にある芸術作品(鼻をナデナデしてゴマをすっている。)

 

名刺交換をし、挨拶が終わり、現場へ向かいます。もちろん車です。この工場団地には3つの工場排水処理場があり、2か所は稼働中、1か所は建設中でして最新の設備を整えることにしています。

わたしたちは、既に稼働中の施設の運転状況を見て回りました。管理責任者は常駐しているのですが、処理施設はその能力を100%発揮していないように思われました。稼働して2~3年だそうです。安定した運転に向けてさらなる指導が求められます。

活性汚泥法による大規模な工場排水処理施設
(1日3万トンの排水を処理するそうです。)

 

そして、難しい話になりますが、低分子の難分解性有機物質の除去が不十分という話になりました。排水基準が相当厳しいのです。そこで、下図のような工場排水をもう一度利用する、『水のリサイクル』を提案してきました。

将来の水リサイクルを考えて、膜ろ過装置の設置を提案しました。

 

とは言うものの、設備が高度化すればするほど、運転管理が難しく、この工場団地で使いこなせるかが今後の課題となりました。しかし、出来るだけ排水処理設備や発生汚泥の維持管理の教育をしていくこととしました。この様に、日本では当たり前の設備でも、その導入には細心の注意が必要であることも分かりました。 この様に、台湾では毎日、工場の排水処理場の指導をしたり、責任者と意見交換をしたりと忙しい日々を過ごしました。

その4 台北からセントレアへ

4泊5日の台湾の仕事も無事に終え、今日は日本へ帰る日です。今回の旅は余裕がなく、観光地へは行けませんでした。故宮博物館も行かず、ただ、1日だけ夜に台湾マッサージに出かける程度でした。このマッサージがまた、ものすごくて、つまり、マッサージは男の人が対応するのです。私は、体育系の若い男の人に当たって、マッサージというより力強く柔軟体操をしてもらったようで、終わってから、節々が痛くて痛くて、お金を払うのがもったいないと思うほどでした。

台湾で最後に食べた台湾ラーメン風の麺
(どんぶりはプラスチック製)

 

帰る日の午前中も仕事でして、途中、空港への帰り道、『元祖 台湾ラーメン』のようなものを食べました。辛くて、辛くて悪戦苦闘しました。中身はラーメンというよりも、きしめん(名古屋名物のうどん)という方が当たっている様な太麺でした。そして、赤ちゃんのこぶし大ほどの大きさの大根、ニンジン、肉(何の肉かわからないが筋があり歯でかむことが大変なもの)が入っているのです。でも何とか、日本まで帰って来ました。

結局、今回の旅は、疲れた~っ、の一言でした。その後、日本の気候に慣れるまで再び風邪気味、花粉症気味になり、2週間ほど体調が回復しませんでした。気候のせいもさることながら、骨を2つに切断した鍋料理を食べたせいもあるのではないかと、現在でも思っています。

 それでは、終わります。さようなら。やはり、疲れた~っ。

皆さま、来年はイノシシの年です。猪突猛進で幸せをゲットしてください。それではよいお年をお迎えください。

 <追加です>

そういえば、幸先の良い、ツーショットで記念写真を撮った御嬢さんとはどうなったかと申しますと、『竜頭蛇尾』とはこのことでして、その後は特段何もなく、別れの握手もなく、日本語で「さようなら。」と言っただけで別れました。名刺交換はしたのですが、中国語でして読むことが出来ません。これだけは残念というほかありませんでした。         以上、おわり。


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 第23話 トンチンカン先生の『北の旅人』    


さてさて、皆さま、今年もよろしくお願いいたします。実は、昨年の11月に23日の日程で、一応、研修旅行と題して、スタッフ3人で北海道に行って参りました。今、話題になっている水俣病の原因である水銀の使用に関して世界条約が発効し、全面的に使用禁止となりました。いわゆる水銀条約です。日本の国も水銀に関する様々な法律がこの条約に合わせて、大きく改正されました。もう水銀はPCBと同じく完全に使用できないのです。そのため、日本で唯一、水銀を無害化処理する工場である『野村興産イトムカ鉱業所』を視察することとしました。

もう一つの研修旅行の目的は、札幌市が運営する『モエレ沼公園』です。この公園は、産業廃棄物や一般廃棄物の埋め立てが終了した広大な廃棄物処分場を自然豊かな自然公園に造成したものです。設計も有名な彫刻家、いや、総合芸術家と言いましょうかイサム・ノグチ(父は詩人の野口米次郎、母はアメリカの作家レオニー・ギルモア)によるもので、知る人ぞ知る有名な施設です。それでは、お待たせしました。いつもの珍道中をご覧あれ。

 

表 北海道視察旅行の旅程

日にち

主 な 視 察 場 所

第1日目

モエレ沼公園視察、北海道大学資料館

第2日目

野村興産㈱イトムカ鉱業所視察

第3日目

札幌、小樽の景観視察、日本銀行資料館

 

第1日目 名古屋から札幌、旭川へ

 まず、朝7時50分テイクオフ。セントレアから新千歳空港へのスカイマークでのフライト。格安空港券を使いました。新幹線で名古屋から東京へ行くより安い運賃でした。しかし、格安の運賃だけあって機内はやや狭く、ちょっと窮屈な感じがしましたが快晴のため、窓から見る景色は最高でした。木曽三川の河口、乗鞍岳、諏訪湖、日本海、佐渡島、鳥海山、津軽海峡と流れる景色は目を見張りました。津軽海峡を渡るときはかなり低空飛行で、白波が目の前に見えるようでした。

  JR新千歳駅からは快速エアポート号で一路札幌へ、それからどの様にしてモエレ沼公園へ行くのか分からない。とにかく、JR札幌駅構内の札幌市内観光案内所のボランティアおばさんに聞くことにしました。

私「あのぅ、モエレ沼公園へ行きたいのですが。どのようにして行けばいいでしょうか。」

(時計台とか大通公園とか、すすき野のラーメン横丁など有名な観光地の問い合わせではないので、ボランティアおばさんはいつもと違う問い合わせに怪訝(ケゲン)そうな目で私たちを見た挙句、答が来ました。)

おばさん「地下鉄東豊(とうほう)線で終点の栄町まで行き、そこからタクシーですね。今、公園の紅葉がすごくきれいですよ。」

私「東豊線はどこから乗るのでしょうか?」(また怪訝そうな目)

おばさん「駅(JR札幌駅)の地下ですよ。」(何だか当たり前のような答)

何だかおかしな会話の後、東豊線に乗り、タクシーに乗りました。またしてもタクシー運転手さんと意思疎通のない会話

私「運転手さん、モエレ沼公園の中にレストランはありますか?」

運転手さん「公園事務所の中に一軒だけありますよ。」

私「ありがとうございます。2時間ほど見学して食事をしますので、その時間に迎えに来てくださいね。」

運転手さん「わかりました。携帯電話番号を教えますので電話をかけてください。よろしく。」

しかし、レストランは、かなりと言うか、相当な高級レストランでした。私の頭の中には1食1,000円未満の「一膳めし屋」的なレストランを想像していたのです。やはりここは、レストランと言わず「ちょっとした食堂はありますか?」と聞くべきでした。

最も安いランチでした。勢いでワインも飲みました。(パンは食べ放題)

 

 入口を入ると、まず、応接セットがあり、お茶を飲みながらしばらくそこで休憩し、そこから蝶ネクタイをしたウエイターに案内されると4人掛けのテーブルには白いシーツ、メニューを見ると上からランチ3,500円、4,000円、5,000円と書いてありました。そこでしかたなく「一番上のランチをお願いします。」と言いました。つまり、一番上に書いてある、安いランチをお願いしたのです。ところが、蝶ネクタイは確認するように、「3,500円のランチでよろしいでしょうか。」と言うのです。ランクが上ではなく、一番上に書いてあるものを注文したのですが、イヤミなウエイターですよね、まったく。坂部環境技術事務所の研修旅行ですので、旅姿は工場見学ですから汚れても良い服装で来ました。レストランの従業員の人達は、私たちの服装、立居振る舞いなどを観察してたのでしょうか、私たちが場違いなところへ来たので戸惑っている様子に見えたのでしょうか、少し、不安感の様な不信感の様なものがありました。特に、奥の方に居る料理人は、この人たちお金を持っているのかなぁ~、という目つきでした。

とはいえ、さすが3,500円。品があり、美味しく頂けました。あまりの美味しさに、ワインも注文してしまい、ほろ酔い加減になったのです。

でも、食事も最後の佳境に入るころは、蝶ネクタイは優しく、「どこから来られました?」と聞くので、「名古屋からです。」と答えると、「私の出身は静岡です。」と、いつもの出身地を紹介することから始まり、少しづつ話が弾み良い雰囲気になりました。満足、満足。

 

モエレ山からモエレ沼公園北東を見る(中央建物は公園事務所)

 

その後、3,500円の食事を終え、そして、広くて、山あり谷ありの自然公園を、荷物を持って徒歩で回りました。公園面積は189ヘクタールです。そしてモエレ山は標高62メートルです。とにかく広大で標高差もあり全てを見て回ることが出来ません。そこで、まず、眺望の効く「モエレ山」に登ることにしました。つまり、公園の全体像を見たいのです。ところがアルコールが入っているのか、はたまた、身分不相応な高級ランチを食べた結果なのか、息が切れて、息が切れて、20歩あるくと20秒休むと言う誠に不名誉なリズム感で登り切りました。この様な素晴らしい景色と自然豊かな風景の下に産業廃棄物が埋まっているなんて想像もできませんでした。ちなみに埋立てられたごみの量は、273.6万トンという記録が残っています。思いもよらない出費と山登りの疲労でしたが、十分研修成果が得られました。

<解説>

『モエレ』とは、アイヌ語の「モイレペツ」が語源と言われています。 「モイレ」は「静かな水面」・「ゆったりと流れる」、「ペツ」が「川」を意味します。 そして、モエレ沼は近くを流れる豊平川が自然河川として流れていた時代、たび重なる洪水や氾濫で出来た河跡湖と考えられています。

 

その後、札幌駅に戻り、歩いて北海道大学を見学しました。北海道大学の正門で記念撮影です。『子育ての失敗を孫で取り戻す。』と言わんばかりに、孫にはこの様な大学へ入学させたいと正門に向かって手を合わせ(仏さま)、柏手を打ち(神さま)ました(つまり多神教、あるいは無宗教)。そして、北海道大学博物館を見学した後、JR札幌駅から、函館本線で特急カムイ29号 旭川行に乗りました。日は既に陰り、車内の雰囲気は『本当に北海道』と言う状況でした。車窓からは暗黒の中に家のともしびがポツリ・ポツリと見え、夜行列車の雰囲気には十分なしつらえでした。

こんな訳で、第一日目から、脱線に次ぐ脱線の漫遊記でした。札幌駅で観光案内のボランティアおばさん、タクシーの運転手、さらには、3,500円のランチと、またしても、出鼻をくじかれた感じでした。


 

 

第2日目 野村興産イトムカ鉱業所



  旭川より北見の方が近い位置にあります。

 

朝早く、レンタカーで目的地である『野村興産イトムカ鉱業所』へ向かいます。何せ午前9時からの見学予約です。前日の天気予報では「雪、積雪15センチメートル」と報道されています。野村興産の案内書では旭川から高速道路を使い2時間という説明です。これは困った、そんなにスピードを上げて走れない。峠もあるようです。とにかく、何があっても時刻通りに着きたい。考えに考えた挙句、旭川のビジネスホテルを午前5時30分の出発としました。ホテルで朝食も取らず、市内のコンビニで菓子パンと野菜ジュースを買い、道中、車の中でムシャムシャと朝食です。

 


旭川から北見国道を東へ、東へ、そして石北峠を越えた所にイトムカ鉱業所はありました。スピードの出しすぎなのか、8時ちょうどについてしまいました。何か、おかしいな。9時まで、まだ1時間もあるのです。寒さの中で待つことは大変なので、一旦引き返えし、20分ほどの所にある層雲峡を視察しました。層雲峡に近づくにつれて車窓からは『民宿大雪(みんしゅく・おおゆき)』とか、『レストラン大雪(れすとらん・おおゆき)』などの看板が見えます。いくら何でも、大豪雪地帯ではないのに、いたる所に『大雪(おおゆき)』の看板です。おかしいなぁ、何で大雪なんだろうと考えていましたら、途中に『喫茶・大雪山』と言うのがありまして、さすがオオユキヤマとは読まず、ダイセツザンと読み、「なぁんだ、大雪(だいせつ)なのか。」と納得しました。

 その後、9時ちょうどになりましたので、野村興産イトムカ鉱業所の門を入りました。

 

野村興産イトムカ鉱業所の入り口にあった。

 

 そこにはすでの大型トレーラーが4~5台、鉱業所の開門と同時に入場する順番待ちをしています。聞きましたところ、全国から集められた水銀を含む廃棄物(蛍光管や乾電池など)はJR北海道の貨物列車で北見までコンテナで運び、それをコンテナ専用トラックに積み替えてイトムカ鉱業所まで輸送するのだそうです。

イトムカ鉱業所へ入場するコンテナ専用トラック

  

 9時ちょうどに、私たちも、入場しました。始めの1時間は工場の概要説明と水銀鉱山の歴史などのお話しをいただき、その後工場見学です。とは言うものの、絵になる写真はあまりなく、普通の工場みたいです。唯一、水銀含有乾電池の無害化工場のみが絵になるものでした(下の写真)

 

水銀含有乾電池を無害化処理する工程の入り口(乾電池を並べている)

 

 見学コースの途中、見学者のためのサービスと言うのでしょうか、水銀が入った二重になった容器の展示がありました。そこでは、鉄製の大きな釘(クギ)がプカプカと浮いています。異様な感じです。水銀の体験実験で、私たちは分厚い手袋をしてその容器の中に手を入れることが出来るのです。水銀の比重が大きくて手が入りません。力いっぱい手を突っ込んでようやく手首まで入るのです。なかなか面白い経験をしました。あまりに力を込めたので腕が痛くなりました。

 視察終了時間が近づき、12時を過ぎていましたので、鉱業所内を案内していただいた人に「ここらあたりで、食事するところはありませんか?」と聞きましたところ、「北見市の方へ少し下ったところに『つるつる温泉』があり、そこに食堂がありますので、そこを利用してください。」と言うのです。『利用してください?』何か引っかかるものがありましたので、さらに突っ込むと、「イトムカ鉱業所の水銀鉱山からの湧出温泉です。」というのです。シメ、シメと思い、そこでさらに突っ込み、「何か利用券とか、割引券など、いただけるものはありますか?」と聞きましたら、簡単に「ありません。申し訳ありません。」と言うつれない返事でした。『言ってみるもんだ。』という事が通用しませんでした。残念。

 

水銀鉱山から湧き出た温泉です。昼食のみ利用し、温泉には入りませんでした。

 

つるつる温泉はイトムカ鉱業所から15分ほど、北見の方へ下って行った左側奥にありました。食堂には思ったより多くの客がいました。お客は地元のお年寄りが中心です。私たちは、しかたなく、全員が、安くて、早く出来るものを注文することとし、結局、定価600円の生姜焼き定食を食べることにしました。昨日のモエレ沼公園でのランチと大違いです。

ところで、つるつる温泉の名前の由来ですが、湯がつるつるしていて、入浴すると肌もツルツルになるという事から来た名前だそうです。イトムカ鉱業所の人は「名前が良くないですね、何だか品が無い様でして・・・、頭が『つるつる』を連想してしまいます。」と申しておりました。残念でしたが、時間がなかったので入浴はできませんでした。

いずれにしましても、野村興産イトムカ鉱業所は見る価値がありました。

 その後、レンタカーで旭川まで帰り、再び函館本線で特急ライラック36号で札幌まで帰りました。札幌ではススキノで地元料理の夕食を食べました。


<解説>

『イトムカ』の語義は不明ですが、そのまま読めば i-tomka(それ・輝かす)とも,また i-tom-muka「それが・輝く・無加川(支流)」とも聞こえる。i-tom-utka(それが・輝く・早瀬)とも読める。鉱物が光って見えたものかと推測されています。

 

 

第3日目 札幌、小樽、そして名古屋へ

 3日目は名古屋へ帰る日です。早朝、例の時計台を見に、いや、朝6時の鐘の音(かねのネ)を聴きに行きました。午前5時40分に札幌駅前のビジネスホテルを出て、歩くこと10分で時計台前に着きました。人通りは少なく、ジョギングをする人がちらほら見えました(犬の散歩をしている人はいません)

 ちょうど6時10分前です。敷地内では警察官の様な制服を着たおじさんが竹帚(タケボウキ)で落ち葉を集めています。観光客はいません。6時になると、ガラン・ゴロン、いや、そんな音ではありません。もう少し濁った音でした。ジャラン・ジャゴンと言う濁った鐘の音です。よく言えば歴史を感じる音、悪く言えば錆びた音です。初めて聞く音でして、最大限に賞賛し、つまり、心にしみる音でした。感激して、パチ・パチ・パチ(拍手)

 

早朝6時の札幌時計台(鐘の音は少し濁音が入った感じでした)

 

ホテルの朝食(バイキング)を頂き、今日の午前中は小樽を見学する事としました。新千歳発のフライトは16時ですので、ゆっくりとした見学です。小樽駅を降りて記念写真。そして、小樽運河をめざし、堺町通りのメインストリートを歩きます。この日は北海道ではまれな暑さです。コートを脱ぎ、汗の出ない様にゆっくり歩きます。

 

JR小樽駅のプラットホームで記念撮影

 

途中、雰囲気の落ち着いた、ちょっとレベルが高そうな『大正硝子館 宇宙(そら)』というお店に入りました。大量生産・大量販売という品ぞろえではなく、美術品の様な、レア物の様な作品が、品よく並んでいます。中に入ると、30歳ほどの美人の店員さん(容姿淡麗でややフックラ、中肉中背で少し背が高い)がニコニコして、「どうぞ、奥へ入って見てください。」と声をかけるので、ついつい奥に入って行き、美人の店員さんと2.3会話しているうちに、いつの間にか、おススメされた『ラジオ・メーター』を買ってしまいました。これは、光が当たると球体の中の四角い羽がグルグルと回るのです。ただそれだけのことですが、結果として買ってしまいました。何で買ってしまったのだろう、と反省することしきりでしたが、やはり、一言でいえば、ニコッとする女性には弱いです。この際、白状します。

『大正硝子館(宇宙)』のお店の中からショー・ウインドーを見る

(勧められて買ってしまったラジオ・メーターは中央にあります。)

 

美人の店員さんに今生の別れを告げ、お店を出ます。すると、今までとは全く違い、喧騒な街の賑わいです。中国人らしい人の喧しい声があちらこちらで聞こえます。その後、水天宮と言う神社の丘に登り、小樽の街を一望しました。丘を降りて寿司屋通りで美味しい寿司を食べます。やっぱりお寿司にはビールです。1時間ほどかけてランクが上から2番目の『上寿司(1.5人前)』を食べ、その後、日本銀行小樽支店跡地の金融資料館を見学です。私は1万円札の模様を焼印したお札と同じ大きさの『お札煎餅』を買いました。そして再び堺町通りへ出ます。何とか歩き通しました。万歩計はゆうに1万歩を越えていました。疲れました。

 

小樽で入手したパンフレットの表紙

 (こんな美人は、例の人以外にはいませんでした。)

 

小樽では、様々な旅行案内パンフレットがありました。本当に観光に力を入れています。しかし運河の長さはそれほど長くはありません。むしろ、愛知県半田市の運河の方が長いと言われています。半田市は酢のまち、お酒のまち、新美南吉のまちと言う観光資源がいっぱいあります。しかし小樽の方が観光地として有名です。こんな切り口から考えることが出来て、小樽の視察旅行は、美人の店員さんのことも含めて、十分な研修成果が得られたと考えています。

ちなみに、ラジオ・メーターは本棚の上に淋しく置かれています。そこは薄暗い場所ですので、四角い羽は回っていません。

また、お札煎餅は、安城へ帰ってから、孫と一緒にムシャ・ムシャと食べました。孫は「お金もちになるぞぅ~。」 私は「老後の資金を蓄えるぞぅ~。」と宣言しながら・・・・。

 それでは今回はこれまでとします。ごきげんよう、さようなら。


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 第22話 トンチンカン先生、孫との関係性について


さてさて、皆さま、私は孫の面倒を見ていますというか、孫に見てもらっているというか、つまり、大変なんです。孫は現在保育園の年長さん、来年4月からは小学一年生です。毎朝、自分の健康も兼ねて、孫を保育園へ連れて行きます。そのため、孫は非常になついているのです。でも、最近は、自我に目覚めて、主張する、拒絶する、すねる、など多彩な反応をします。孫は家族の序列も父、母、自分(孫)、ジイちゃん、弟と認識しており、自分(孫)より私(トンチンカン先生)の方が序列的に『下』と位置付けているようです。ごく最近では「もう、ジイちゃんは何も知らないんだから。」と発言するようにもなってきました。とは言うものの、可愛くて目に入れても痛くないとはこのことです。

それでは順次、トンチンカンな奮戦記をご紹介、ご紹介。


 孫に連れられ、京都梅小路蒸気機関車庫見学

 

その1 おじいちゃん・おばあちゃんの参観日

先日、息子(坂部文孝)から以下の連絡がありました。

息子:「保育園から『おじいちゃんとおばあちゃんの参観日』開催のお知らせがあったので、参観してもらえないかなぁ。」

私:「うん、いいよ。なになに、午前中ね。了解したよ。孝樹(孫の名前)も喜ぶよね。」

私も子供の頃、何らかの都合により参観日に親が来ない時は淋しい思いをし

たものでした。これは、絶対行かなければいけない、万障繰り合わせてでも参

観しなければいけないと思ったのでした。

いよいよ、参観日の当日です。保育園の門を入ると園児たちが中庭で遊んでいます。孫はいるかなぁ、と園内を見渡すと、小さな園児が「あっ、たか君のおじいちゃん。」と言って寄ってくるのです。小さな子供が何で私を知っているのだろうかと驚いたり、感激したりでした。

そして時間が来ましたので、子供たちも、おじいちゃん、おばあちゃんたちもそれぞれの部屋へ入りました。私の孫は、「パンダ組」です。園児は30人ほどでして、おじいちゃん、おばあちゃんはその半分の15人ほどです。パンダ組の先生は男の先生でした。孫は私の顔を見るなり、ニコニコ、そしてソワソワとして、小さく手を振るのです。

孫の写真(愛知県岡崎市・岡崎東公園で恐竜の足とツーショット)

 

先生:(園児に向かって)「みんな並んで。」

(園児が一列になって教室の南側へ並びます。よく訓練されています。)

先生:「それでは、おじいちゃん、おばあちゃん、園児に向かうよう、一列に並んでください。並ぶ順番は決めていません。自由です。」

 (私は、先生から最も遠い、一番奥に並びました。)

先生:「おじいちゃん、おばあちゃん、よくいらっしゃいました。それでは順番に、お孫さんのお名前を言ってください。奥の人からどうぞ。はい、そちらのおじいちゃん(すなわち私です)からです。」

 (えっ、私が最初ですか?と思い、覚悟して、一歩前へ出て答えました。)

私:「坂部文孝(ふみたか)です。」

 (実は、本当にあわてて、私の次男、すなわち孝樹くんのお父さんの名前を言ってしまったのです。孫は、私の顔を見て、「その人、誰あれ。」と言わんばかりに、キョトンとしています。私は、ハッ、と気が付き、孫の孝樹の名前を言おうとしたのですが、なかなか名前が出てきません。うっ・・、と一瞬、多分2,3秒の間があり、やっとの思いで、思い出し・・。)

私:「失礼しました、坂部孝樹です。」

 

と答えたのです。ボケ老人なのか、とっさの反応ができないアンポンタン老人なのか、反省することしきりでした。私に続いて、おじいちゃん、おばあちゃんが順にお孫さんの名前を言っています。私の様な赤恥をかいた人は、多分、一人もいません様でした。(残念!)

あいさつが終わった後、園児と一緒にゲームをします。道中すごろく、コマ回し、カルタ取り、着せ替え人形など23人のグループになって1時間ほど、一緒になって遊ぶ時間です。それが終わると、園児たちが二列に並び、歌を披露してくれるのです。おじいちゃん、おばあちゃんは園児の小さな椅子に座って、手拍子や、手でヒザをたたいてリズムを取って聞くのでした。私はと言うと、反省しきりで、歌など耳に入りませんでした。

 やはり、おじいちゃん・おばあちゃんの参観日にふさわしい、『ちょっとした、でも私にとっては愕然とした意味のある失敗』でした。(反省、反省)

(幼稚園内ではプライバシーの関係もあり写真撮影禁止でした。残念)

 

その2 自転車乗りの練習奮戦記

ある日、可愛い孫から息子(私の次男)の携帯電話を使って電話がありました。

孫:「じぃ、じぃ。僕、自転車に乗りたい。自転車を買ってね。」

私:「へぇ~、自転車に乗りたいんかねぇ~。いいよ。今度の日曜日に買に行こうかね。」

孫:「わーぃ、わーぃ。じぃ、じぃ大好き~。パパ、じぃ、じぃが自転車を買ってくれるんだって。」

そして、その電話は、瞬時に息子に換わりました。

息子:「えっ、本当にいいんですか? 孝樹がよろこんでいるよ。有難う。」

私:「うん。いいよ。いずれ買ってあげようと思っていた所なんだ。そんなに高価なものでもないと思うし、気にしなくていいよ。」

と、携帯電話での話は終わりました。孫も、年中さんでもうすぐ6歳です。もう自転車に乗っている子供も見かけるし、自転車に乗る練習は早い方が修得が速いようだ、と自分自身に言い聞かせて、納得しました。

しかし、よく考えてみると、息子の携帯からの電話、孫との会話が終わると瞬時にして、息子に換わり、お礼の言葉・・・・。なるほど、どうも、親が、子供に言わせた可能性が非常に大きいものであります。これはやられた、と思いましたが、可愛い孫のため、やっぱり買うことになりました。

  

孫に買い与えた子供用自転車

 

 次の日曜日、さっそく孫を連れて自転車屋さんに行きました。もちろん父兄同伴です。店員さんは、男の子らしい青色の自転車を推奨してくださいましたので、それを買うことにしました。衝動買いです。当時は補助輪がついていました。しかし、2つの補助輪がついていると自転車はペダルを漕ぐのに重く感じてしまい、孫はあまり進んで練習しようとしません。

 そこで、自転車を購入後、3ヶ月で補助輪を取ってもらい、本格的な自転車乗りの練習をすることにしました。練習はおじいちゃんの仕事です。安城市にある『明治用水自転車道』での練習です。

 私が少し屈んだ状態で自転車の後ろを持ち、一緒に走るのです。それが大変です。一番困ったことは、孫が危ないと思った時に、自分で急ブレーキを掛けるのです。私は屈んだ状態で前のめりになり、あわや、転んで、最悪の場合『骨折』してしまう所でした。

 50メートル走り、休憩、50メートル走り、休憩の連続です。後ろにいる私は、手を放していないのに「手を放しているよ。」と大声で、激励することしきりです。そして、やっとハンドルを左右にゆすりながらの自転車乗りができました。まっすぐ行くにはもう少しの練習です。このまま行くと1ヶ月のちには自由に自転車が乗れる見込みだと思い、満足していました。

 しかし、ついに私が参ってしまったのです。前かがみの姿勢で、自転車の後ろを持ち、50メートルを走り、休憩、50メートルを走り、休憩をする、の繰り返しを毎週日曜日に5回ほど行うのです。ついに、腰が痛くなり、当分の間、自転車のりの練習は休憩となってしまったのです。

 もちろん、孫はまだ自転車を自由に乗りこなせません。

 

その3 マゴマゴします。

おじいちゃんの最近の関心事は、孫の動向です。とにかく、「そんな言葉、どこで覚えたのかねぇ。」と言う事ばかりです。先日も、レストランで孫と二人で昼食をしましたところ、孫は「あのぅ、すみません。」と大きな声で店員さんを呼ぶのです。中年のおばさん風のウエイトレスさんがやって来ると、孫は二つ折りになったメニューを見ながら、「お子様ランチ1つと、ハンバーグをトッピングでお願いします。」と注文をするのです。「トッピング? その言葉どこで覚えたの?」と言いたくなりました。まさか保育園ではないと思うが・・・・。

 

 

JR東海 新幹線浜松工場一般公開へ行く

(左は700系、右はドクターイエロー)

 

つまり、孫は日々成長し、おじいちゃんは日々、ボケとアンポンタンが激しくなり、かつ、筋力も落ちていきます。これも、時の流れと納得しています。「時の流れに身をまかせ~、です。」気張ってはいけません。

つまり、『トンチンカン先生、孫との関係性』は孫が右肩上がりで、トンチンカン先生は右肩下がりなのでした。   おわり。

 それでは、次回をお楽しみに。ごきげんよう、さようなら。


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 第21話 トンチンカン先生、今年も美の旅へ


皆さま、今年初めて随筆を認(したた)めます。つまり、明けましておめでとうございます。

トンチンカン先生は平成29年も美の旅にまい進しております。まずは、平成29年初頭、1月に雪の舞う中、近畿地方は兵庫県小野市の浄土寺に安置されている『国宝 阿弥陀如来像』を拝観。そして、春には関東は東京、国立新美術館の『ミュシャ展』へ行って参りました。それでは順次、トンチンカンな美の旅へご案内、ご案内。

 

その1 浄土寺『国宝阿弥陀如来像』

大阪で環境に関する講演をしました。こんな年齢になっても講演依頼があることは本当に嬉しいものです。(感謝、感謝)

特に、最前列に座って、目をパッチリ開けて真剣に聴く人々には頭が下がります。その人々とは当たり前と言えば、当たり前ですが、つまり女性です。しかも若い女性です。講師のトンチンカン先生は、『いよよ華(はな)やぐ命なりけり』と、ついつい頑張ってしまうのです。「いよよ華やぐ」という文言は以下の詩が起源です。

 

年々にわが悲しみの深くして

        いよよ華やぐ命なりけり

 

この詩は「芸術は爆発だ」と言った、例の芸術家岡本太郎さんのお母さんの岡本かの子さんが小説『老妓抄(ろうぎしょう)』の最後の部分で詠った詩歌です。こんなに長く生きると、悲しいことのみ多く思い出されるのですよ。しかし、その悲しみを乗り越えて、つまり、年をとれば取るほど元気に、晴れやかに、そして華やぐというものですよ、という意味の様です。私も老いてますます元気に、華やぎたいものです。

さて、こんなことを言っている場合ではありません。話は浄土寺でした。ごめんなさい。

講演が終わり、新大阪駅近くのビジネスホテルで一泊しました。翌朝、ホテルで朝食をとるや、一目散に新大阪駅からJR快速列車「西明石行き」に乗り、神戸の三宮で降りました。その後、乗り換え、阪急電車で新開地まで乗り、またまた乗換えで、神戸電鉄で三田行きに乗り、そして再び、鈴蘭台で粟生行きに乗り換え、長時間かけて小野駅という所まで行きました(ああ、しんどい)。途中、鵯越(ひよどりごえ)という駅、三木城があった三木駅など歴史に名前の出てくる駅を通過しました。数えませんでしたが後で調べましたら、私の乗った電車は30もの駅に停車したのでありました。つまり、大変な大旅行でした。電車の車窓からは山は頭に雪をかぶり、田園地帯は新開地から小野に出るまで全く無く、山を回り込んだり、開発された住宅地を眼下に見て走ります。電車に乗っている時間は2時間と少しを経過しました。下車した小野駅から、徒歩約30分で浄土寺に行くことが出来るのです。が、さすがに電車疲れで、お尻が痛くなっていましたので、タクシーで行く事にしました。浄土寺に着いたのでタクシーの運転手さんに1時間後にこの場所に来てもらうように頼み、浄土寺に入って行きました。

 

浄土寺 国宝浄土堂(例の国宝三尊が安置されている)

 

浄土寺の中心はやはり、国宝が安置されている浄土堂です。この浄土堂は建物の平面が正方形の建物で、屋根はすっきりと直線を描き、日本刀のようなソリはありません。つまりこの浄土堂の建築様式は天竺様式といい、国宝でした。そして、山門らしきものは無く、広い境内に様々なお堂、鐘楼、経蔵などが点在しています。境内には人っこ一人いない田舎のお寺という感じです。

 

浄土堂入口(中にアルバイトのおばさんが居た)

 

浄土堂の左角に入口がありました。拝観料はお1人様500円と書いてありましたので、すぐに入口とわかりました。そこを入ると、受付のアルバイトらしいおばさんから「ようこそ遠いところ来てくださいました。」とお礼の言葉がありました。おばさんは足元に火鉢を置いています。つい、つい、「火事にならない様に気を付けてね。」と言ってしまいました。おばさんは久し振りに人の姿を見るような、キョトンとした顔をしています。人の声を聞くのも久しぶりという感じです。もちろん、拝観者は私一人です。

中に入ると板の間でして、板の隙間からヒューヒューと隙間風が上昇気流となって足元を撫でます。寒いというより痛い感じでした。スリッパの備えもなく、冷たい体感をしました。足踏みをしながら、かじかんだ足を左右の足同士でこすり、温めます。すると、おばさんが、「そこにあるカセットテープを回してください。浄土寺や本尊を説明する声が出ます。」というのです。どうも、セルフサービスの様です。カシャッとスイッチを押すとかすれた声で説明が始まりました。

主な説明内容

①浄土堂は鎌倉時代に建立され、国宝に指定されている。柱の数も少ない東大寺と同じ天竺様式である。過去の大きな地震にも耐え頑丈な作りである。

②阿弥陀如来像は高さ5.3m、両脇の菩薩は高さ3.7mで鎌倉初期の名仏師快慶(かいけい)の作である。

③阿弥陀如来像は屋根裏いっぱいまでの高さで重量感がある。立像は珍しい。

④高さ5mを超す像であるが、全体では台座から地下へ3mほどの長さがあり、仏像の高さの合計は地上5.3m地下3m、合計8.3mとなって,

地震などでも転倒しない構造になっている。

カセットテープの説明が終わると、私はおばさんの所に行き、お礼をして、ついでに変な質問をしました。

私:「言っては何ですけど、この様な京都や大阪から遠く離れた田舎にこんな立派な阿弥陀如来像が安置されているのは、何か訳があるのですか?」

おばさん:「えっーと、住職さんの言われるには、鎌倉時代には、近畿地方のあちこちに8カ所ほどこの様な立派な阿弥陀さんが祀られていたようです。しかし、戦国時代になると、多くの戦乱によって、都のあたりでは多くの寺院が焼かれ多くの仏像も焼失したようです。運よく、田舎のこの地だけ戦火を免れたので、現在も安置されているのではないかと聞きましたが・・・。まぁ、戦争はいかんねぇ。」

なるほど、納得しました。小野市は播磨の国、播州の北に位置していることか

ら、北播地方(ほくばんちほう)というのだそうです。山陽道までかなりの距離があり、裏手は山々が重なって、そこを越えるとすぐ山陰地方だそうです。

 

浄土寺 国宝阿弥陀三尊像(3体とも国宝)

(パンフレットからのコピー)

 

 それにしても立派な阿弥陀如来像です。感激して、浄土堂を後にしました。しかし、本当に寒さがきつく、耐えられず、足踏みしたり、日当たりのよい場所を選んで散策したりと悪戦苦闘です。帽子は下の写真のように毛糸の帽子(ネパールのシェルパ帽、これは息子のネパール土産)、そして厚手のコートを着ています。こんな寒い所へ来るんじゃなかったと冷たい風が吹くたびに反省してしまいました。

その後、そのまま今来た道を引き返すのはもったいないと思い、加古川を経由して西明石の方へ出て新幹線で名古屋へ帰ることにしました。タクシーの運転手さんには、「小野町駅までお願いします。」と声を掛けました。

万全な防寒装備で浄土寺まいり(自撮りです。)

 

JR加古川線の小野町駅までタクシーで行き、タクシーの運転手さんに礼をいい駅舎に入りました。暖房された待合室には、おじいさんとおばあさんがいました。『昔々ある所に』ではありません。『現在』、小野町駅におじいさんとおばあさんが居るのです。そこに掲示された時刻表を見ると、なんと加古川行の電車は50分後に来るのです。おじいさんとおばあさんはこの長い時間である50分間をどの様に過ごすのでしょうか、今、世間話をしているのですが、しばらくすると話すことも無くなるのではと心配になりました。

駅前には商店街はありません。コンビニもありません。あたりを見回すと駅舎の一画に地域の人々が経営するお店が1軒ありました。地産地消の野菜、地域の特産品が並べられており、奥に食堂があります。丁度お昼時間でしたので、それではと中に入り、メニューを見ると特産品の『田舎そば』しかありません。私は暖かいカモ肉入り蕎麦(そば)を注文し、ついでに「熱燗はありますか。」と聞きましたところ、「地域の人たちがお昼時間だけ経営する食堂です。申し訳ありませんが、お酒は販売していません。」というツレナイ返事でした。これを聞いて、寒さが一段と身に染みてきました。

 

50分待たされたJR加古川線 小野町駅(無人駅)

 

その後、暖房された待合室で過ごし、加古川まで1両編成のローカル電車に20分間乗り、そして西明石を経由して、新幹線ひかりで名古屋へ帰りました。我が家へは午後5時過ぎの到着です。あの素晴らしい国宝阿弥陀如来像だけ拝観するために朝早く起き、新大阪を8時前に出発して我が家へ帰るまで、延々10時間を要した『美の旅』でした。あぁ~、疲れた~.寒かった~。

 

 

その2 ミュシャ展への旅

ミュシャ展の紹介は、例のNHK「日曜美術館」で見ました。私はアール・ヌーヴォーの商業デザイン(グラフィックデザイン)の美しい作品しか知らなかったのです。晩年に制作し、本当のミュシャを知ることが出来る『スラヴ叙事詩』の大作20枚があるなんて全く知りませんでした。

彼の出世作は1895、舞台女優サラ・ベルナール芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターです。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注する事にしたが、おもだった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いていたミュシャに飛び込みで依頼したものだったのです。

晩年、ミュシャは故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作します。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。しかし、1939年、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体されました。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕されました。その理由は「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」というものでした。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、まさしく、それは78歳の老体には耐えられないものであり、その後ミュシャは釈放されたものの、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じたのです。

美の旅に出る前に、NHKの「日曜美術館」などにより、この様な知識を得て、観賞に向かいました。やはり、事前の予習はいいものです。

小学校、中学校の時、もっとしっかり予習をしておけばよかった、と今になって(余命いくばくもない、こんな年齢になって)反省しています。

 

ミュシャの出世作「ジスモンダ」

(購入したクリアファイルよりコピー)

 

 

フランス時代のミュシャの作品(アール・ヌーヴォー)

(購入したクリアファイルよりコピー)

 

 

それでは旅の流れを最初から順にお話します。出発日の数日前、ある企業さんから相談を受け、現地に出向くことになりました。その出向く日が丁度、ミュシャ展へ出かける出発日と重なってしまいました。

つまり、出発日は午前中、愛知県の東三河地方で仕事をしました。その足で、豊橋駅から新幹線ひかりで東京へ、またまたその足で、地下鉄に乗り換え、六本木まで行き、国立新美術館へ向かいます。時間は丁度午後4時でした。その日は金曜日でしたので、人ごみは少ないのですが、切符を購入するには20分ほど並びました。

そしていよいよ、ミュシャ展です。

 

ミュシャ展入場券(20分ほど並びました)

 

 入口を入ると会場マップが書かれたパンフレットがあります。それを1部頂き、展示会場を巡るのです。下の図のように、スラヴ叙事詩』20点が大きく会場を占めています。そして、最後の部屋は「撮影可能エリア」となっていました。「えっ、カメラで撮っていいの?」こんな展覧会初めてです。ウキウキした気持ちで順に観て回りました。

 

会場マップ(左下エリアが撮影可能エリア)

 

スラヴ叙事詩』は20枚すべてが縦、約4m、横、約5mの大きな絵です。この絵が20枚も並んでいる様子には、圧倒されました。素晴らしい迫力です。とても晩年、78歳まで、情熱を傾けて20枚を描いたとは思えません。シッカリした筆使い、陰影の確かさ、全体の構図、申し分ありません。こうなったら、私も頑張らなければと思いました。『いよよ華やぐ命なりけり』です。

 

携帯カメラで絵画を撮る入場者達(撮影可能エリアにて)

 

そして、撮影可能エリアで元気よくバシャ・バシャと携帯カメラのシャッターを押し続けました。絵の大きさが半端じゃないので、絵画のすぐ前でシャターを切ると全体が撮影できず、遠くからシャッターを切ると上の写真のように携帯を構えた人物が多く入ってしまいます。やはり撮影可能エリアでは芸術的な写真が撮れないことが分かりました。(残念、残念)

撮影可能エリアでは、多くの人が携帯カメラで写真を撮っていました。この光景がまたまた面白いのです(上の写真)。つまり、みんなが同じポーズをとって、へっぴり腰で、携帯カメラを構えているのです。このままではとても芸術的な写真を撮ることが出来ないと思われます。撮った写真はどうするのでしょうか。他人ごとながら心配してしまうのでした。

 

その3 旅の終わりに

浄土寺では、長時間のローカル線の旅、ミュシャ展では超特急新幹線の旅でしたが、やはり、ローカル線の旅が印象に残ります。ゆっくり走る電車の車窓から初めて見る景色は何とも言えない感動です。これからは地方の美術館巡り、仏像巡りをしたくなりました。(年齢のせいなのでしょうか、ゆっくリズムが身に合ってきました。)

 

おわり。次回をお楽しみに。ごきげんよう、さよ

 


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第20話 トンチンカン先生、天津、北京へ行く 


 さてさて、トンチンカン先生は、平成28年、すなわち2016年に中国は天津(てんしん)と北京(ぺきん)に仕事で行って参りました。天津は環境汚染に関するフォーラムに参加し、土壌汚染事例を紹介する講演をしてきました。北京では環境展に参加し中国の環境事情を見てきました。それでは『天津・北京の珍道中』、始まり、はじまり。

その1 天津への旅、―天津飯と天津甘栗は何処―

天津市人民政府外事弁公室への表敬訪問(前列右端がトンチンカン先生)

 

天津は北京の外港です。日本からも多くの企業が進出している人口約700万人の大都市です。上記の写真のように日本から総勢8人の参加です。

早朝、7時30分にセントレアに集合、そして9時25分発の飛行機で出発です。予算の都合で、韓国の仁川空港で乗換え、つまりトランジットして、天津国際空港へ向かいました。乗換えの手続きに不案内な人が多く、乗り換え時間が50分でしたので、あわててしまいました。中には乗換え場所に行かず、韓国への入国審査の方へ行ってしまった人もいて、幹事さんは大変でした。でも、何とか予定通り午後1時25分に天津国際空港に到着しました。

ホテルは、「天津水晶宮飯店」と言い、玄関ロビーにはロビーいっぱいに大きな水晶のシャンデリアが吊るされております。水晶ではなくガラスではないかと疑ってしまうほどの大きなものです。

そして、午後4時から天津市人民政府外事弁公室へ表敬訪問です(写真)。いわゆる環境部局への訪問です。天津市側は女性の副部長さんに対応していただき、通訳を通じてお互いを褒め合った言葉を交わし、オチャッパ(お茶の葉がそのまま湯呑に入っている)の入ったお茶をすすり、会談は終わりました。

20分ほどマイクロバスに乗ってホテルへ帰って一服した後、夜、天津の街へ出て、私たちだけの夕食会を開きました。せっかく天津へ来たので、『本場の天津飯』を食べるぞー、と意気込んだのですが、ショウケースにもメニューにもそれらしきものはありません。中国人の通訳の人に「天津飯を食べたいのですが。」というと、通訳の人は「卵のあんかけ丼ですね。その天津飯は日本で発明された料理です。なので、天津にはありません。」という返事でした。天津飯は日本人が日本で発明し、日本で広まった料理の様です。つまり、台湾ラーメンと一緒でした。初日の夕食で、本場の料理『天津飯』に舌鼓を打とうと意気込んでいたのですが、青森県の三内丸山遺跡の受付嬢が青森県人でなく愛知県人でした、と云う経験同様(第17話トンチンカン先生の『みちのく一人旅』を参照)、またもや出鼻をくじかれたようです。が、しかし、頑張って餃子、野菜炒めなど定番の中華料理を腹いっぱい食べました。一応、満足。

第2日目はいよいよフォーラムの開催です。初日は大気汚染対策に関するフォーラム、次の日は土壌汚染対策に関するフォーラムです。私は、化学工場の土壌汚染対策事例について発表しました。日本の企業がどれだけ苦労して土壌浄化に時間と費用を使っているか、通訳を通じて90分お話しました。特に、①住民対応が重要な事項であること、②常に公開で作業を行うこと、③専門家からの意見を聴きながら対策を進めることの必要性を強調しました。

フォーラムで発表したパワーポイントの表紙(第1ページ)

 

 90分の発表を終え、いよいよ、質問時間に入ります。特にびっくりした質問は、「なぜ、企業が浄化費用を負担しなければいけないのか。」という質問が来ました。私は汚染者負担の原則を説明し、「汚した人が責任を持って浄化するのです。」と発言したら、会場中の中国人の人々は不思議な顔をしていました。中国では、国が税金を使って浄化対策事業を進めるようです。企業負担にすると価格に反映し、値段が上がり、売れなくなる、輸出できなくなるという理由の様です。日本とは随分異なった考えだと思いました。

 その後、自由時間がありましたので、全員で天津の旧市街区を見学しました。

天津は特に有名な、誰でも知っているという観光スポットは無いようです。昔の天津は様々な国の統治下にあったようでして、100年ほど前に建てられた様々な国の建物が残っています。私たちはイタリアの人々が建てた建築物を見学に行きました。意大利情街Italian Style Street)と言いまして、かなり変わった建物が並んでいます・

天津のイタリア風情街(Italian Style Street)に建つ住宅の例

 

 ちょっと見ると、悪趣味のような建物に見えます。看板に書かれている内容を中国人の案内の人に解説していただきますと、「この家は、イタリアの商人が建てた家で、100年ほど前に建てられました。今でも人が住んでいます。」と説明がありました。なんだか、アントニオ・ガウディ(カサ・ミラ、グエル公園、未完成のサグラダ・ファミリアで世界遺産となった作品を残した、スペイン人)の作品みたいです。しかし、ガウディのような感動はありませんでした。当時の貿易商で大きな富を蓄えた、成金趣味のようにも見えました。でも、建物のいたる所にテラコッタ(素焼の塑造)の作品が張り付いており、見応えはありました。

 

有名なガウディ作『サグラダ・ファミリア』(教会)

注.ガウディはこの教会を建設中に交通事故で亡くなりました。

 

この様な住宅があちらこちらに並んでいるので、しばらく散策をしていると、鐘の音を鳴らしながら「パッカ・ポッコ、パッカ・ポッコ」と蹄の音も軽やかに、いや、軽やかではありませんが、馬車が迫ってきました。多くの観光客を乗せた重そうな荷馬車を一頭の馬が一生懸命にひいています。なんだか、馬を虐待している、パワハラのような気がしました。

 荷馬車に乗っている観光客は殆どヨーロッパ人(中にはよく肥えたおばさん)の様でした。

「パッカ・ポッコ」と馬車がゆっくりと行き過ぎました。

(荷馬車が重そうで、馬がかわいそうでした。)

 

その後、天津鉄道駅の前を通り、やはり夕食に出かけました。特に天津ならではという中国料理はない様でしたが、ちょっと驚いたことがありました。中華料理店が入っている大きなビルのロビーで異様な光景を見てしまいました。

 それは、『天津、おばさんパワー』です。30人ほどのおばさんがこれから晴れ舞台に出る直前の最後の練習、そして、最後の化粧直しをしているのです。

「おばさんダンシングチーム」はロビーいっぱいを使い、こちらでは化粧直しと衣装のタルミ直しをしています。あちらの方では、踊りの振り付けの確認をみんなでやっているのです。化粧のにおいがプンプン、やかましさは人一倍でした。

天津『おばさんダンシングチーム』の本番準備

 

天津市で見かけた『おばさんダンシングチーム』の底力

 

 そんな訳でして、天津で一番印象に残ったものは『おばさんダンシングチーム』のパワーでした。

 帰りに、天津みやげの『天津甘栗』を買っていこうと、空港の免税店に行きましたが、あれっ、天津甘栗はありません。中国人の通訳の人に、最後の質問、「天津甘栗はどこで売っていますか。」と尋ねましたところ、通訳さんは「天津甘栗はありません。天津郊外には大規模な栗園が多くあります。以前から天津港は日本へ栗を輸出する積み出し港でした。それで、日本人が甘栗に『天津甘栗』という名前を付けて日本で売り出したところ、爆発的に売れたのではないでしょうか。」という答えでした。またまた、大変なことを知ってしまいました。

 

その2 北京への旅-故宮博物館の老人票・本物の万里の長城―

 北京へは初めての旅です。しかも、一人でセントレアから飛行機に乗り、中国人と空港で待ち合わせです。大変な思いをしました。朝8時にセントレアへ行き搭乗手続きを終え、出発の連絡をする人がいないので、とりあえず、息子の嫁に「今から行って来るよ。」と携帯電話で連絡しました。

 そして、飛ぶこと約2時間、無事に北京空港に着きました。ここからが冷や汗の連続でした。飛行機を降りて皆さんがゆく方へ歩いて行きました。思った通り入国検査所がありました。パスポートを見せ、指紋を取り無事通過。しかし、荷物を受け取る所がありません。皆さん、電車に乗るのです。ええっ! 荷物は?皆さんが乗るから違っていてもまた戻ってくればいいや、と思いつつ、乗り込みました。駅は2つあります。国内線と国際線をつなぐ地下鉄の様な車両です。そして3つ目の駅が空港出口です。そこで降りて、皆さんに付いて行くと、荷物受取場がありました。やっとの思いで、トランクを持って北京空港のロビーに降り立ちました。

しかし、指定された待ち合わせ場所に中国人はいません。一難去って、また一難。携帯で連絡したところ、北京市内が混んでいて、約1時間後に空港に着きますという返事でした。トランクに腰を落として待つこと1時間30分、やっと中国人に会えました。タクシーでホテルへ行き、翌日環境展を見学しました。

 今回の旅は、余裕を持ったスケジュールでしたので、故宮博物館と万里の長城へ行くことが出来ました。この2つの観光地への珍道中をお話します。

 

(1)故宮博物館

 故宮博物館は天安門広場の奥にあります。北京の地下鉄に乗るときは飛行機の荷物検査と同様、荷物のX線検査があります。乗る人は全員、荷物を機械に通します。

私は、ペットボトルを持っていましたが、検査員から「ペットボトルの飲料を私の前で飲みなさい。」と言われました。しかたなく一口飲んで見せました「行ってよい。」と言われ、地下鉄のホームへ降りた次第です。

『前門』という名前の駅で降り、大きな毛主席記念堂を左に見て天安門広場へ出ました。とにかく人が多く、つまり、人が渋滞しているという感じです。

 

天安門広場にて

 

 日曜日でもないのに、大変な人出です。視界に入る人々の数は、右を見ても、左を見ても、どこを見ても100人以上います。これぞ、本当の中国なのだと実感しました。

天安門広場を歩き、天安門の中に入ると故宮博物館の切符売り場があります。そこで、パスポートを見せて切符を買うのです。年齢がわかってしまい、購入した切符は『老人票』というものでした。

北京・故宮博物館入場券(老人用)

 

確かに大人50元のところ老人は30元なので安いのですが、ちょっとムカッとしてしまいました。「私はまだまだ、若いのだぞー。」と言いたいほど切符売りの女性は淡々と、こちらを見ずに知らんぷりして切符を窓口から出したのでした。

 

 

北京・故宮博物館の内部

 

 故宮博物館は非常に広く、一日では回りきれないほどです。写真などの撮影は禁止されていません。大きな石仏や石版など迫力のあるものばかりです。ここでも、人だかりがすごく、一番前で見ることは出来ないほどでした。半日を要して見学しましたが、全体の半分も観られないほど、展示場、展示物が多くありました。満足、満足。

 

(2)万里の長城

 次の日朝早く、昨日と同じように地下鉄で前門駅まで行き、そこからバスに乗って3時間余りかけて万里の長城を見学しました。

 2時間ほどバスに揺られていると、遠くに万里の長城が見えてきます。「わー、すごい、万里の長城だ。」とみんなが騒ぎ出したのですが、バスガイドは「あれは、今から見学する万里の長城ではありません。お金持ちが自分のお金を出して作った偽物の万里の長城です。」という説明です。相当な大富豪で、お金に任せて万里の長城の隣に自分だけの万里の長城を建設したもののようです。日本人の感覚でしたら、何千年も風雨にさらされた万里の長城の修復に寄付するのですが・・・、ちょっと感覚が違うのでしょうね。

そして、ぴったり3時間で本物の『万里の長城』へ到着しました。

 そこからロープウエイでのぼり、万里の長城を散策しました。ここでもやはり、人が渋滞しています。

 

 

万里の長城入場券(こちらは老人票ではない)

     

  万里の長城を見学した日は、本当に良く晴れて、スモッグなどありませんでした。こんな天気はまれだという説明がありました。長く連なっている万里の長城が遠くまで見えるのです。

 写真を見てください。空はどこまでも青く、遠くまで撮影することが出来ました。しかし、坂の多いこと、息が切れて大変な思いをしました。

万里の長城にて。(混雑ぶりが分かります)

 

 万里の長城では、アスファルトで補修していたり、老人のための手すりが、万里の長城にドリルで穴をあけて設置してあります。日本では考えられないことですが、万里の長城のデコボコ床面はアスファルトで滑らかに、横の手すりは、重要な文化財にもかかわらず、穴をあけて手すりを設置するのです。

少し休憩(こんなに快晴の日はないという説明でした)

 

文化財に対する考え方が日本と違っていることに驚きました。

 2時間ほど万里の長城で過ごした後、ロープウエイで降り、みやげ店を見て回りました。万里の長城での記念品にと孫に帽子を買いました。帽子には万里の長城の英語として「 Great Wall と書かれていました。孫は大変喜びました。

翌日は日本へ帰る日でした。午前中、ちょっと時間がありましたので、北京の繁華街を散策しました。百貨店には、ドラえもんやキティーちゃんの縫いぐるみが山のように積んでありました。食料品売り場には何でもあるという状態で中国の生活物資の消費はすごいと思いました。

 

足をバタつかせたタツノオトシゴとサソリの串物を売っていた。

(足をバタつかせて、元気よく生きている)

 

 一方、昔ながらの露店もいくつかありました。上の写真のように、タツノオトシゴやサソリの生きたものを売っている露店(その場で焼き鳥のように焼いて、タレを付けていました。買った人は歩きながら口に運んでいます。)もあり、行き交う若者はジーンズを履き、大きなサングラスをかけています。

中国という国は、これからもどんどん変わって行くのではないかと思いました。

 

反省

<その1> 思い込みの激しさ(天津飯と天津甘栗)

 天津では、天津飯を食べたい、天津甘栗を買いたいと思っていましたが、ダメでした。天津と名がつくものは全てその発祥が天津と思ってはいけないのです。思い込みの激しさに反省です。

<その2> 国が違えば考えも違う(自己責任)

 日本のルールは外国では通用しないのです。日本では環境汚染を浄化する責任は汚染者に有りますが、中国では責任はないのです。ビックリです。

<その3> いつまでも若い?(故宮博物館、万里の長城)

 古希に入ったが、体力はまだまだ、そして、気持ちは20代と思っていました。しかし、故宮博物館で渡された『老人票』はショックでした。そして、万里の長城でのアップ・ダウンの道は、やはり古希なり、と反省しました。


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第19話 トンチンカン先生、『学会発表に参加する』の旅

 

実は、昨年、トンチンカン先生は40年ぶりに学会に参加しました。それは「地下水・土壌汚染とその防止対策に関する研究集会」という5つの学会の共同主催の研究集会でした。場所は九州大学です。伊都(いと)キャンパスでの開催です。伊都キャンパスは新しく大学を統合移転したばかりで、ちょっとした丘の上に10階建ての校舎が3棟大きくそびえ立ち、まるでパルテノン神殿のような異様な姿でした。その中の椎木(しいき)講堂という円形の講堂で開催されたのです。

 

写真―1 プログラム(入場料も含め料金は1万円でした。高い~。)

 

私たちの頃は、農芸化学学会での発表でしたが、最近は失礼な表現ですが、小さな学会がやたらと多く(多分、専門分野が細かくなったものと思います)、今回は5つの学会の合同開催で、そのため、『研究集会』という名前の催しでした。私は発表しませんでしたが、共同研究者の一人として参加しました。年齢も年齢ですし、恥ずかしさもあり、この研究にアドバイスした程度でありましたので、研究者として研究発表会のプログラムに名前を出していただくのは、ダメダメ絶対ダメ、と勘弁してもらいました。

 

★ガレリアはオープンスペースでパネルディスカッションが開かれた。

★コンサートホールは3,000席の大ホールで研究発表が行われた。

図―1 椎木講堂の平面図(直径は100mです)

 

発表は、私たちの時代とは大きく変わっていました。発表はコンサートホールで行われ、発表者は演壇に上がりそれぞれ3分ずつ発表するのです。A4用紙にカラーで作成した5~6枚の図表を用意してOHPを使ってスクリーンに大きく映し出します。質問はしません(質問時間は設定されていません)。ただ、順番に発表するだけです。午前中、広いコンサートホールで次から次へ発表するのです(昔のような分科会形式ではありません)。そして、午後から、ポスターセッションと言いまして、椎木講堂の1階ロビー(ガレリア)でB紙大の画用紙にカラーできれいに作成したポスター(図や写真を多く用いて、研究目的、方法、結果をまとめています。)が張られており、その前に全ての発表者がそれぞれの場所に立ち、様々な人からの様々な質問に答えているのです。40年前と全く違った学会発表に目を白黒してしまいました。

 

写真―3 九州大学伊都キャンパス案内図(右上の青い円が椎木講堂)

 

 なんか、場違いな様子で疲れてしまいましたので、私は、発表を聴いた後、パネルディスカッションの展示をさらさらっと見て、早々にサボって、博多天神から西鉄電車に乗り、久留米市の近くの柳川という水郷で有名な観光地に行く事にしました(これは以前から、できれば観光したいと思っていました。また、途中、久留米の近くに『花畑』(はなばたけ)というかわいい名前の駅がありました)。

柳川は『城ケ島の雨』、『赤い鳥・小鳥』、『この道はいつか来た道・・』の唱歌などで知られる北原白秋の生地です。

西鉄柳川駅のすぐそばの渡船場から川下りをしました。70分の舟遊びでして、なかなか情緒がありました(前立腺がやや大きく、途中でおしっこに行きたくなりましたが…)。

写真を見ていただきたいのですが、同船した人々は、定年記念の旅行でしょうか中年の二人連れ、若いカップル、3人の家族連れでして、私だけ1人でした。意地になって一番前に座り込みました。その結果、船の前方が沈み勝ちとなり、船頭さんは櫂を漕ぐのに大変だったと思います。そして、前に乗ったせいか、写真うつりが良かったのでやや満足しています。

 

写真―4 柳川の川下り(一番前に座っている)

 

少し空模様が悪く、時々雨粒が落ちてきましたが、船頭さんの案内とこの地域の民謡の歌声、舟のきしむ音に心が和み良い雰囲気でした。

そして、終点の船着き場で船から降りると目の前に古民家の様な食堂がありました。そこは、有名なうなぎ料理店です。入口を入ると、例の定年記念らしきご夫婦が居ました。どうも東北弁らしい訛りのある話し声です(後でわかったのですが山形県酒田市の方でした)。私は奥の席に座り、メニューを見ましたところ、柳川名物うなぎの重箱(うな重)、松・竹・梅とあります。これほど遠くの柳川へはなかなか来られないだろうと思い、そして、女房がいないので、松を注文しても梅ランク2人分の値段より安いと瞬時に計算し、大きな声でランクの最上級「松」を注文してしまいました。周りで『松』を食べている人が一人も居なかった分、やはりおいしかったのです。満足、満足。お腹をさすりながら、爪楊枝を加えてお店を出ました。

運河沿いにしばらく行くと北原白秋記念館がありました。私はかなり暇でしたので長い時間をかけてじっくり見学しました。記念館の事務員の人が、「しっかり見ていただき有難うございました。」とお礼の言葉をかけていただきました。しっかり見た結果、北原白秋は2回の離婚と3回の結婚をしていることが分かりました。1回だけで、2回目への自信、度胸、若さ、その他もろもろの勇気のない私にはうらやましいかぎりでした。不謹慎な・・・亡き女房に怒られそうです。

 その後、 帰りには、ひたすら孫のため、博多ラーメン、長崎カステラなどを土産に買い、家路へと帰りました。

 事務所へ帰り、研究集会でいただいた資料を整理していますが、学会より柳川の記憶の方がほぼ90%を占めていたので、資料整理できない状況で、今もって、資料はそのままに机の隅でほこりをかぶっています。研究集会の事務局の方々、大変申し訳ありません。

(以上)

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第18話 トンチンカン先生、『芸術の創造』へ 


 引き続き、さてさて、皆さんもご存じのとおり、トンチンカン先生は、ここ数年来、急速に『美』について強く考えるようになってしまいました。ここ1年間の実績ですが、昨年の秋には東京での『春画展』を皮切りに、今年の春には瀬戸内海に浮かぶ直島と豊島への『美を求めて』の一人旅。そして、初夏には、新緑の『みちのく一人旅』、また、9月には江戸東京博物館で開催された『妖怪展』を観てきました。

 今思えば、60歳以降の第2の人生では、仕事の途中で様々な美と接する機会があったのです。例えば、タイの『タイシルク』の美しいテーブルクロス、中国の『南京雲錦織』の美しい壁飾り、そして、ブータンでは鬼や動物などの『仮面』と『曼荼羅図(仏画)』、など東南アジアの美しく、しかも、可愛い民芸品にのめり込んでいたのです。ただ、観ていて、蒐集(しゅうしゅう)するばかりで、なんとなく腑に落ちないと言うか、納得いかない部分があったのです。

 そして、ついに、トンチンカン先生は『芸術の創造』に挑戦したのです。

 

ブータンの仮面(祭りではこの仮面を付け道化師役として踊る)

1 石材をいただきました。

 ちょうど、数年前、石材店を営んでいました女房の実の兄が商売をやめることとなり、「欲しい石材があったら持って行っていいよ。」という電話連絡が入りました。どうしてだろうと思っていましたら、「店の在庫は処分するけど、産業廃棄物として処分するので処理経費が掛かる。」そうです。そこで、欲しいものは全部持って行ってほしいとの連絡です。

 それではという事で、私の自家用車(当時はトヨタカローラ1200ccでした)で名古屋の中心部にある石材店に行き、いただけるものは全て頂いて来ました。と言っても自家用車です。重たい石を運ぶためには不完全な自動車でしたので、前の座席の足元に、後部座席の左右に均等にと積載し、エンジン音も重くやっとの思いで自宅まで運びました(実は3往復ほどしました)。

しかし、当時は何に使うかも考えず、やみ雲に運んだので、庭の隅で山積みとなったのでした。でも、よく見るとなかなか質の良い石のように見え、高価ではないかと思い始めました。我田引水。

2 石の活用について思案顔のトンチンカン先生

  そこで、トンチンカン先生は頂いた石をどうしようか、と毎日、毎日思案していました。石は一辺が20センチメートルほどの正方形に切った『鉄平石』です。これを自家用車で30枚ほど頂き、運んできたのです。とりあえず、庭に碁盤の目のように、市松模様のように並べてみました。下の図が『市松模様』です。黒い部分が鉄平石で、白の部分は土です。始めはきれいだなぁ・・、と感心していましたが、日に日に白い部分から雑草が生えだし、そして、雨が降る度に、土が侵食されて段差ができ、歩くとつまづいてしまうのです。あぁ~、これはダメだと反省し、撤去し、再び庭の隅に山積みとなったわけであります。

 

図―1 代表的な市松模様

 

 一方、一辺が10センチメートルほどの御影石は50枚ほど頂いて来ました。

こちらの方は、全く使い道に見当がつきません。市松模様では御影石の白っぽさから、映えない。しばらくそのままにしておくと汚れが目立ち、汚い御影石となり果ててしまいました。つまり、相当、使い勝手が悪いのです。これも思案の挙句、鉄平石と一緒に庭の隅に保管することとなりました。

 

3 芸術の創造に向けて

私は、初めにも申した通り、美術にのめり込んでいます。綺麗な絵だけでなく、額から飛び出した部屋全体が芸術というもの、屋外展示物など、目からウロコの芸術鑑賞をしています。そして、この芸術鑑賞と鉄平石・御影石が、私の頭の中で、ぐるぐる回り、かき混ぜられて、うまくコラボレーションしたのです。その結論はつまり、『芸術の創造』でした。

 ちょうど、我が狭い、猫のヒタイ程度の庭でガレージの設置工事をしていましたので、その建築屋さんに、庭の低くなっているところを指で示しながら「山土を、この少し庭の低くなった部分に入れてもらえませんでしょうか。」とお願いしたところ、二つ返事で了解をいただきました。

 ある日、坂部環境技術事務所の仕事を終えて帰ってみますと低い庭の部分に土が入れてありました。低いところを平たんにするのではなく、なんと小山になっているのではありませんか。

数日間、そのままにしておきましたが、ある日、夕刻、縁側で、一人でお酒をチビリチビリとやっていると、その小山は、白く、粒子も砂状になって、粒径もほぼ同じ状態になっているのです。それからしばらく、じーっ・・と眺めていると石川啄木の詩が思い浮かんできました。「海は荒海、向こうは佐渡よ、」ではありません。

ここで説明。私は子供の頃、家の棚に並んでいました日本文学全集を見て、『石川啄木』を『石川豚木(ぶたき)』と読んでいたことを思い出しました。失礼。

つまり、詩集『一握に砂』の中にある、『初恋』という詩があることを思い出したのです。

 

砂山の砂に 砂に腹這い

       初恋のいたみを

        遠くおもい出ずる日

      初恋のいたみを

       遠く 遠く あ~ あ~

             おもい出ずる日

 

        石川啄木 作詞 越谷達之助 作曲

 

 こんな年になって、初恋もあったものではありません。すでに、遠く、遠く、相当に遠くです。そして、庭のこの部分を砂山にして、例の石を芸術的に配置することを思いついたのでした。

 翌日、どのような構図にするか、考えて、考えて、ほんの1時間後、ついに構想がまとまり、さっそく創作に入ったのです。そして、作業すること1時間。石の配置を微調整した後に完成したものが下の写真です。この写真は私の家の縁側から見たアングルです。ブロック塀とフェンスの向こう側は、トナリの渡辺さんっち、です。つまり、なんと、あの有名な『借景』という技術もしっかり取り入れているのです。

トンチンカン先生の作品(名前はまだない。)

 

5 題名は如何にしようか。

 作品の題名を考えなくてはいけません。『初恋』? トンデモナイそんな年でもない、今は古希(こき)、古来より稀(まれ)なケースの70歳です。「老いらくの恋」なんて揶揄されそうです。これはダメだ。

 少し解説します。写真を見てください。使用している、左上の青い自然石は愛知県山間部をドライブしていた時に耕作放棄地の畦道で拾ったもの、中央の赤い自然石は天竜川の上流部の支流(河川名は知らない)で拾ったもの、右下の壺(ツボ)は愛知県の常滑市内で多くみられる常滑焼の窯元で梅干しを作る道具としての壺ですが不良品として処分される瞬前のものをタダで頂いて来たもの、真ん中のサザンカの木は10年ほど昔、お隣さんから、実が落ちて芽が出てきた小さな苗木をいただいたものなのです。もちろん四角い御影石は義兄の石材店からタダで頂いて来たものです。三角の鉄平石も同じです。

そうだ、題名は『リサイクルの輝き』にしよう。でもなぁ~、ちょっと、アートというには名前がイマイチです。

 しかし、まあいいや、我が芸術の創造の成果は、とりあえず『リサイクルの輝き』としておきましょう。という事で、仮の名としました。

 

6 反 省

 完成してから、毎日、毎日庭を見ています。砂山の砂に腹這うことが出来ないほどの猫の額ほどの広さですが、毎日、毎日、お酒をチビリ、チビリやりながら、夜遅くまで縁側から見ています。満足。満足。

 しかし、砂山をジーッと見ていると何か、モコモコとしている部分がありました。庭へ出て、竹ヘラを使って調べてみると猫が糞をした跡です。掘って見るとありました、ありました。その後も、何度となくありました。もう、怒れちゃう。

 また、ある雨の上がった朝、再びジーッと見ていると雑草の芽が一面に出ています。さっそく草取りです。親指と人差し指を使って1本ずつ、1本ずつ丁寧に抜くのです。もう、疲れちゃう。

 つまり、芸術を創作した時の状態に保つことは大変な作業であることを思い知らされました。


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 第17話 トンチンカン先生の『みちのく一人旅』


 さてさて、皆さんもご存じのとおり、トンチンカン先生は、東京での「春画展」の出会い以来、『美』について強く、さらに強く考えるようになってしまいました。春には瀬戸内海に浮かぶ直島と豊島への『美を求めて』の一人旅。そして、最近では、NHKの番組「日曜美術館」を毎回予約録画して気に入ったものを何度も見る状態になってしまいました。

 ある時、録画したものの中に、青森県の2つの美術館の紹介番組があり、これを見た途端、「これは一度観る価値があり、いや、必要がある。」と思ってしまいました。本当に、外部からの圧力により、こうなってしまいました、ということです。

 そして、今回、『みちのく一人旅』、となった次第です。それでは、『みちのく一人旅』珍道中をご覧あれ。

<第1日目> いざ新青森へ、そして青森県立美術館へ

 午前6時に我が家を出発しました。名鉄桜町前駅から名鉄に乗り、名古屋から新幹線のぞみで東京へ。そして、例のごとく一度トイレに行き、次は東北新幹線『はやぶさ』で一路、新青森駅へ向かいました。指定席はほぼ満員です。

 乗り過ごしたら北海道まで行ってしまいますので、かなりの緊張感を持ち、眠らないように新青森駅まで乗りました。新青森で降りる人は相当居ましたが、まだ半分ほどの乗客が乗っています。

 

1 三内丸山遺跡にて

新青森駅へ降り、タクシー乗り場でタクシーの運転手さんに「青森県立美術館へお願いします。」というと、「時間があるのでしたら、お隣の『三内丸山遺跡』を見学してから美術館へ行った方がいいですよ。コインロッカーも美術館は100円ですが、三内丸山遺跡の方はタダですから。」というのです。それではという事で三内丸山遺跡を先に見学することとしました。(タクシー料金は三内丸山遺跡が美術館の手前にあることから低料金でした。)

三内丸山遺跡の資料館(この後方に広大な遺跡群があるのです)

 

 入口を入ると青森県人らしい、ニコニコした優しそうな、りんごの様な若い女性が受付のカウンターにいましたので、ついその青森県人らしい素朴な笑顔の女性に「愛知県から来ました。」といいましたところ、その女性は「私は豊田市出身です。」というのです。なあんだ、愛知県人かといきなり反省し、「なぜ青森に就職しているのですか。」と聞いてみると、「訳ありです。」と即答があり、簡単にフェイントをかけられました。どうも、出鼻をくじかれた様子。

とは言うものの、気が合ったのか「シャッターを押しましょう。」と言って、貸衣装の『縄文衣装』を着せていただき、縄文土器の前で写真に納まりました。

そして、元気に野球場2つほど、いやもっと広い、広大な遺跡を2時間ほどかけて見学しました。

 

縄文衣装を身に付けて、豊田市出身の受付嬢にシャッターを押してもらう

 

 中学生の社会科授業では「縄文時代は、人々は狩りをして生活をしており、獲物を追って移住生活をしていた。」と先生が絶対に間違いないという態度で説明した様子を昨日のように思い出します。中学生の私は、イノシシやシカを追って野山を駆け回る光景を浮かべたものです。しかし、三内丸山遺跡は縄文時代の人々ですが、1500年も長い期間定住し、魚(ホンザメ、ブリなど)やノウサギ、ムササビなどを獲って生活していました。そして、栗やクルミの木を植え、つまり植樹をして実を収穫するという「栽培生活」をしていたようです。中学生時代の先生は私たちに間違ったことを教えていたことになります。縄文時代をひとくくりにしてはいけないのです。地域の自然的条件に合わせ多様な生活をしていたようです。

 『多様性』という言葉が重要なキーワードでした。目からウロコの感動を得ました。

 

2 青森県立美術館にて

 三内丸山遺跡に荷物を預けたまま、隣の青森県立美術館まで200mほどの散歩道の様な細い砂利道を歩いて行きました。

丁度、『棟方志功特別展』を開催しておりました。版画の技術で女性の丸みのある頬の曲線、鼻筋のピシッとした直線、そして色彩、素晴らしい技術で私たちを魅了します。

  

棟方志功『弁財天妃の柵』(300円で購入したクリアファイルからのコピー)

でも私は、NHK番組「日曜美術館」で予習したとおり、美術館が所蔵しているシャガールの舞台背景を観ることが大きな目的の一つでした。シャガールは1942年、亡命先のアメリカでバレエ「アレコ」の舞台装飾に取り組み、全4幕からなるバレエの背景画を作成し、その内、3幕を青森県立美術館が収蔵しているのです。その大きさといえば、展示室がバレーボールやバスケットボール2面ほどの広さ、高さも体育館の様な高さです。その展示室の3面にその絵は壁面いっぱいに展示してありました(3枚の絵はいずれも大きさは縦10m、横15mです)。私は椅子に座って長い間観賞していました。こんなことを言っては申し訳ないですが、観客はほとんどいません。管内は少し冷え冷えとしており、思わず、「ハックション。」とやってしまいました。すると、館内に大きく響き渡り、「うわん~うわん~」とこだましているようでした。これはまずいと、周りを見渡しても誰もいません。ほっと安心しました。それにしても、大迫力の背景画でした。

 次に、第2の目的『あおもり犬』です。地元青森県弘前市出身の画家・彫刻家奈良美智(ならよしとも)によって建築と一体化した作品 (コミッションワーク) です。屋外に設けられた高さ8.5mの犬の像です。純白で、ややうつむき加減の『あおもり犬』は何となく淋しそうでした。逆光でしたのでうまく写真に収められず。様々な角度で観ていました。 

 

奈良美智「あおもり犬」一般的なアングルです。(ガラス越しの逆光)

 

 そして、室外に出て再度様々なアングルで観ていました。とにかく時間はたっぷりありましたので、あちらから、こちらからと観ていると、なんと可愛い『あおもり犬』を発見しました。つまり『あおもり犬』の鼻の真下から仰ぎ見た、下の写真の姿です。『あおもり犬』は笑っているのです。

 物は、様々な角度で観ると様々な姿を現します。ものの見方によってこんなにも違うのかと感心しました。三内丸山遺跡といい、青森県立美術館といい大変勉強になりました。感謝、感謝、来てよかった。

 

笑っているような『あおもり犬』(鼻の下あたりから仰ぎ見て撮影)

 

<第2日目> レンタカーで十和田市現代美術館へ

 2日目は、トヨタレンタカーでプリウスをレンタルして目的地を巡回することにしました。

まず青森市内から、八甲田山麓を目指します。途中、強酸性の湯、千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉でトイレ休憩しました。そしてまたまた走り、蔦温泉に到着です。

 

1 蔦(つた)温泉にて

この温泉は過去2回も宿泊した思い出の場所です。大町桂月が逗留したことでも有名です。入泉料800円を払い、長い廊下を進み、突き当りの男湯へ入ると、私一人です。こんなところで心臓麻痺や脳溢血でも起こしたら大変ですと思いながら静かな雰囲気でゆったりと湯船に浸かりました。温泉は湯船の下から湧き出ているのです。時々温泉のガスが下から「ポコッ、ポコッ」と小さな音を出して浮き上がってくるのです。湯船の中でオナラみたいに見えました。決して私ではありません。泉質は緊張感のある透明な湯で、やや高い温度でした。少し長く湯に浸かっていたので、湯疲れをしてしまいました。それにしても、湯船、洗い場、壁、天井の梁など周りは全てヒノキで工作してあり、旅情豊かな温泉でした。

 

蔦温泉正面玄関、右が温泉、左が宿泊施設です

 

 湯疲れしたので、玄関前の木製ベンチで腰を下ろして、しばしの間、ブナ林を通り抜けて来たそよ風に当たりながら新緑を堪能しました。

それから再び、レンタカーを運転して、(予定時間を過ぎているため)猛スピードで十和田市現代美術館を目指しました。

 

2 十和田市現代美術館にて

 十和田市現代美術館は市役所、保健所などが並ぶ官庁街に有りました。国の出向機関の統廃合などで空き地が目立つようになった市の中心にある官庁街を活性化することを目的に、何か人が集まる施設を作りたいという思いから計画されたようです。そこは、官庁街通り全体を美術館と見立て、多くのアート作品が屋外展示されていました。

 

十和田市近代美術館のエントランスロビーにて(右が入口、左に受付がある)

 

 まず、現代美術館に行きました。『現代』という名前のとおり、入り口の床面は様々な蛍光色で原色の線で出来上がっています。受付の人から「この床も芸術作品です。作品名は「ゾボップ(Zobop)」で作者はジム・ランビー(イギリス)です。」と説明がありました。写真撮影はここまでで、これから先は撮影禁止ですので紹介できないのが残念ですが、光あり、音あり、映像ありで、私たちが考える額縁におさまった絵ではないのです。特に感心したのが「スタンディング・ウーマン(立っているおばあさん)」ロン・ミュエク(オーストラリア)です。高さ4メートル近くあるこの女性像は、見る者を圧倒する迫力でたたずんでいます。憂いを含んだ風情はあまりにもリアルで、大きすぎるサイズとのずれが、奇妙な感覚を覚えさせました。

 とにかくのんびりした一人旅ですので、長い時間をかけて隅々まで美術館を観て回りました。そして外へ出ると、何やら若い女性が野外展示物のフラワー・ホースの前で写真を撮ろうとしています。自分のカメラを旅行カバンに立て掛け自分を写そうとしています。「シャッターを押しましょうか。」と声をかけると、ニコニコして「お願いします。」と明るい返事です。やはり一人旅はいいなぁ~、と思いつつ、アングルを変えて数回シャッターを押しました。そして、私も撮ってもらいました。なかなかいい雰囲気です。以下、主な会話の状況です。

私 :「私は愛知県から来ました。」

女性:「私は福島です。」

私 :「交通手段はどうですか。時間がかかりましたでしょうね。」

女性:「東北新幹線の八戸で降り、ここまでバスでした。これから八戸に戻り、今日中に青森に行きます。明日は青森県立美術館です。」

私 :「私は昨日、青森県立美術館を観てきました、良かったですよ。三内丸山遺跡もいいです。今日はこの後、奥入瀬、十和田湖を走り、大湯ストーンサークルを見て、弘前経由で青森へ帰ります。レンタカーです。」

女性:(乗せてもらいたいような気持で、目をパッチリあけて)「そうですか、奥入瀬はまだ行ったことはありません。いいですねぇ。」

私 :(ここはちょっと我慢して)「それでは気を付けて旅を続けて下さい。さようなら。」

と言って別れました。

 

「フラワー・ホース」チェ・ジョンファ(韓国)の前にて、福島の女性にシャッターを押してもいました。

 

 本当は一緒にドライブをしたいところですが、そこは『おじさんの控えめさ』グーッと我慢しました。何かあると困ってしまうのです。例えば、新聞記事に『自称コンサルタント会社社長、みちのくでご乱心』とか、『これぞ老害、みちのくでセクハラ』なんて記事が出たら大変です。技術士の資格、行政書士の資格など全てはく奪、または返上となりかねません。『男はつらいよ』と泣く泣く一人旅をつづけました。

 

屋外展示物 ファット・ハウス(デブの家)

 

 若い女性と今生の別れをしたのち、野外展示物の『ファット・ハウス』を観ました。この作品は見た目には非常にユーモラスなものですが、説明では、「太るという生物としての仕組みを、機械や建物に重ねることで、『私たちの当たり前』を裏切ります。通常、家は太ることはありません。生活の基準となる価値や常識が、非常に曖昧なものであることを、私たちに教えてくれているようです。」と書いてありました。「価値や常識は自分が(勝手に)作ったもので、決して他人に当てはめることが出来ないものである。」という実感がしてきました。またしても、目からウロコの十和田市現代美術館でした。

 

3 大湯ストーンサークルにて

 その後、一人で運転して、奥入瀬渓谷、十和田湖畔を走りました。奥入瀬渓谷は昔の賑わいはありませんでした。登山装備の老夫婦や女性同士のグループばかりです。十和田湖も、観光船が淋しげに係留されていました。ホテルの人に聞きましたら、「最近は海外旅行ばかりで、青森には来ていただけないのです。」という返事でした。淋しい限りです。

 十和田湖畔を抜けて発荷峠を越え秋田県に入りました。2時間ほどのドライブで大湯環状列石(ストーンサークル)に到着です。大小の川原石が円形、楕円形などに組み合わされた不思議な遺跡です。石の配置が夏至の日没方向を向いているなど、この時代にすでに天文学的な知識があったようです。やはり縄文時代の遺跡でして、祈りと祭の道具や数字を意識したもの、女性の姿をしたものなど、発掘されたものは展示室にいっぱい手が届く近さで展示されています。

 

大湯環状列石と一緒に(福島の女性とツーショットのつもりで)

 

 『大湯ストーンサークル館』に入ると、非正規社員の様な、とっくに定年を過ぎた様なおばさんが、「300円です。」と言い、入場券と施設案内のリーフレットを渡してくれました。やはり見物人は私一人でした。縄文土器、矢じりなどの出土品をゆっくり見ました。縄文時代独特の火焔型土器がたくさん並べられ、非常に迫力のあるものでした。その後、野外のストーンサークルを見て回りました。そして帰ってくると、そのおばさんは、「もう一度入っていただいていいですよ」、という内容の東北弁で私に話しかけてくるのですが、何せ東北のど真ん中、イントネーションも独特な東北弁でよく意味が分からなかったのでした。私が展示品の写真を撮ってもいいですかと言いますと、「はい。」と言い、そして屋外へ誘導され、ストーンサークルの前まで来てシャターを押していただきました。お互い意味が十分伝わらない中での結果、上の様な写真になったのです。

 その後、東北自動車道碇ヶ関から、弘前を経由して青森に帰りました。途中自動車を運転しながら見た『岩木山』の姿は、山すそから頂上まで雲一つなく、夕日を背景に灰色のシルエットが素晴らしく綺麗で、荘厳で素晴らしかったのを覚えています。まさに堂々とした『津軽富士』でした。サービスエリアでの休憩時に写真を撮ろうと思ったのですが木々に邪魔をされ、良い写真を撮ることができなかったことが残念でした。

 

<第3日目> 青森から東京へ

 3日目は、いよいよ青森ともお別れです。新青森から新幹線に乗り、お昼に上野駅に降り立ちました。夕刻、息子一家と食事をするのです(もちろんお代は私持ち)。時間がありましたので、国立西洋美術館で開催されているカラヴァッジョ展を観ることにしました。入場券を買うのに長蛇の列、館内に入ってもまじかに見ることが出来ないほどの混雑ぶりです。青森で風邪を拾ってきたのか、はたまた、都会の空気が汚れているのか、思わず「ハックション。」とやってしまいました。もちろん、全く、館内に響き渡り、こだますることはありませんでした。ただ、館内にいる数人の人からいやな目線が飛んできたのです。クシャミの犯人は私ではないという素振りで、次の展示物に移動しました。

 

カラヴァッジョ展のリーフレット

 

青森とは全く違う環境の中で一生懸命観て回ったので疲れがドッと出てきました。やはり、美の観賞は静かな雰囲気がいいなぁ、とブツブツ言いながら美術館を後にしました。そして、夜は孫と息子夫婦で楽しい食事会をしました。そして翌日は孫にお祭りで着る可愛い浴衣を買ってやり家路につきました。

 今回の旅はNHK「日曜美術館」で紹介された言葉『頭で考えることはやめて、心と体で感じるアートの旅』そのものでした。本当に充実した『みちのく一人旅』でした。満足、満足。感謝、感謝。

 

<数日後、西尾にて>

 旅は楽しいものでしたが、やはり疲れます。私は2ヵ月前に健康状態を確認するための血液検査をしてもらいました。その結果を聞くためにいつもの開業医(医師は高校時代の同級生です)の所へ行き、体調の不具合があるか診察していただき、そして血液検査の結果を説明してもらいました。

医者:「血液検査の結果は全項目にわたって『異常なし』です。つまり、正常値範囲内という事だね。さかべ君、この状態で規則正しい生活をしてね。薬はいつもの痛風の薬と軽い高血圧を抑える薬を処方するよ、いつもと同じ内容だから、続けてね。」

私 :「有難うございます。いたって健康に留意した生活を送っている結果と思うよ。先日も、青森県へ一人旅をしてきました。」

   (そして、診察室で次の患者を気にしなく、『みちのく一人旅』の話を延々5分超、話しました。)

私 :「あとは、ボケ防止が大切だね、オレオレ詐欺など会わない様にしないといけないねぇ。」

医者:「オレオレ詐欺だけでなく、結婚詐欺にも会わないように気を付けなきゃ、だめだよ。」

私 :「結婚詐欺は、大丈夫。血の気は多くないよ。」

医者:「え~っと、赤血球の数は・・・・。」

 とまあ、こんなトンチンカンな会話をして、診察室を出ました。三内丸山

遺跡の豊田市出身の受付嬢の話、十和田市現代美術館でカメラのシャッターを押した福島の女性の話は、全くしなかったはずですが・・・。友人の医者は、私があまりにもウキウキと旅の話をしたので、私のニコニコ顔と鼻の下の長さを見てその様な発言をしたのではないかと考えました。どうも私は、根が正直ですので、つい顔に出てしまうのです。大いに反省しなければなりません。

 

                            (終わり)

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第16話 トンチンカン先生の『直島再訪』


早春の直島と豊島の漫遊記

 さてさて、皆さんもご存じのとおり、1月の直島訪問漫遊記では全ての美術館が休館でした。したがって、どの美術館もそのアートを観たことがありません。帰りの連絡船に乗り、島を離れる時に港に向かって「必ず来るからなぁ~。待ってろよ~。」と口ずさんだのです。

 

玉野・直島・豊島の位置関係

 そして、今回、直島(なおしま)の再訪となりました。直島だけではもったいないと、隣の豊島(てしま)も訪問することにしました。豊島は産業廃棄物の不法投棄事件で有名な島です。この現場も訪問することとしました。

<第1日目> 直島訪問

 午前7時にJR岡山駅に降り立ちました。そして、例のごとくローカル線で宇野駅まで行きます。今度こそと思い、慎重にフェリー乗り場まで歩くと、いたる所に変わったものが目に付きました。まずは宇野駅の外壁が純白に変わり、その白い壁に電柱みたいものが黒いペンキで何本も描かれています。少し行くと今度は自転車が6台ほど吊り下げられています。そして、もっと目についたものは外人さんがやたらに多いのです。「YOUは何しに日本へ。」というテレビ番組を見ているようです。彼らは私と同じフェリーに乗るのです。直島とはこんなに世界的に有名なんだ、と思いながら直島の宮浦港へ降り立ちました。

すると、今度は学生の集団が30人ほど、先生と思われる人から説明を受けているのです。なんか怪しいと思いつつ乗船切符売り場を見ると、なんと『瀬戸内国際芸術祭2016(セトウチ・トリエンナーレ2016)』というポスターが貼ってあります。会期は3月20日~4月17日とあります。またしても事前調査不足で、開会2日前の訪問です。でも、宇野駅の外壁がアートになっており、外国人も学生も多いのです。やはり会期中は混むので考えたのでしょうか、かなりの人でした。

直島の町営バスは満員で、雨も少し降っています。最悪の日となりましたが、頑張って美術館を目指すことにしました。

 まずは、地中美術館です。少々お値段が高いのですが、見ごたえのある美術館でした。この美術館では、『アートとは従来の額縁に入った絵のようなものでなく、部屋全体も含めてアート』なのですアートスペースともいう部屋はいくつもあり、部屋ごとに違った内容です。おじさんにはついていけない世界のようでしたが、長い時間その部屋で瞑想していると何だかわかるような気持になってきました。そこのところが、また不思議でした。

 

地中美術館の入場券(2,060円でした)

 

しかし、雨が降って来て天井のないアートスペースではレインコートを着ての観賞でした。

その後、雨の中をレインコートにリックサック姿で2つの美術館を巡り、野外展示物を観ました。途中、海岸にほど近いところに『文化大浴場』という変わった名前の野外展示物がありました。人種を越え、年代を越え、国を越え、様々な人が寄り集う場という意味だそうです。文化大浴場(時々、文化大革命と言い間違いをしてしまいます)では、戦争もなく、いがみ合いもなく、いじめもなく、心も落ち着き、みんなと仲良くお風呂に入る、裸の付き合いができるというものでしょうか。全景を見ると本当に様々な人(石)が様々な姿で憩う場所のように見えました。

 

 

題名:文化大浴場

(中央の四角い部分は湯船(露天風呂)、石は中国の太湖の湖底産。

私はもちろん入浴しませんでした。)

 

最後に、例の草間彌生のカボチャを見ながら帰ることにしました。しかし、雨の中せっかく来たので記念写真を撮ろうと思いましたところ、5人の女子学生と遭遇し、小さな声で、「シャッターを押してもらえませんでしょうか。」とお願いしたところ、快く引き受けていただきました。

 

再びカボチャの前で(レインコート・傘・リックサック姿)

(5人の女子学生に見られながらの雨の中でのポーズです。)

 

<第2日目> 豊島訪問

 一度、岡山へ帰り安いビジネスホテルで泊まりました。そして再度宇野港から今度は豊島行きの船に乗り、いよいよ豊島入りです。

ここでお話ししますが、連絡船の出航の時やJR電車の発車時にはほとんど必ずという程、『瀬戸の花嫁』のメロディーが鳴り響くのです。始めは情緒豊かでいい感じでしたが、旅の終わりごろには鳴り響くというイメージで、どこでも『瀬戸は日暮れて、夕波小波 あなたの島へお嫁に行くの』、『瀬戸は日暮れて、夕波小波 あなたの島へお嫁に行くの』と小柳ルミ子だらけでした。

 

豊島(てしま)行きの連絡船(手前は岡山県警察の巡視艇)

 

 豊島の家浦港に午前9時に着くと、さっそく豊島に1台しかないタクシーで産業廃棄物不法投棄現場を視察しました。タクシーの運転手さんに「午後から美術館巡りをしたいので、タクシーの予約は出来ますか。」、と聞きましたら、「午後は予約が入っており対応できません。レンタサイクルで巡ってください。」というツレナイ返事でした。しかたなく、簡単に視察を終えて、足早にレンタサイクルショップへ行きました。そこにはまだレンタルの自転車が10台ほどあり、ほっとしました。お店の人は簡単に自転車の使用方法と、『心臓音のアーカイブ』まで45分、帰りに『豊島美術館』まで15分、そして『豊島横尾館』まで35分ですという説明に、不安な心を抱きつつも、いずれにしても頑張ると心に決めました。何せこの様な長距離自転車運転は高校生、大学生以来のことです。荷物はできるだけ軽くするため預けました。いざ、出発~。

  

心も軽く、レンタサイクルで豊島一周

(1日乗り放題で1,000円 アシスト自転車です)

 自転車で出発すると、いきなり登り坂です。アシスト自転車といえどもお尻を上げてヨイショ・ヨイショとペダルを漕ぎます。足に力を、そして腕にも力を込めて峠まで到着しました。すると、前方に棚田、豊島美術館のオワンを伏せた型の建物が見えます。今度はブレーキをコントロールして時速40キロメートル以上と思われるスピードで下ります。集落を抜けてしばらく行くと『心臓音のアーカイブに』到着しました。

 

心臓音のアーカイブの内部(真っ暗な部屋)

(絵葉書よりコピー)

そこには、受付の女性が一人ポツンと居ます。私以外お客はいません。入場料を払い、ちょっとした説明を受け、左側の扉を入るとそこは真っ暗な部屋で真ん中に裸電球が点滅しています。低音の心臓音に合わせて、灯ったり点いたりしています。(すみません。灯ったり消えたりです。)低音は体に響き、本当に心臓の音が迫って来るようでした。これも芸術かと思いながらしばらくその部屋で佇んでいましたが、あまりの低音で、私の心拍数に近い周波数で、「ドドッ、ドドッ」と響くので、私の体の下の方から、「ぷっ。」と短く出てしまいました。次に入ってくる人に申し訳なく思いながら心臓音のアーカイブの部屋を出ました。受付の女性が「ありがとうございました。」といいましたので、「どういたしまして。」と返事をして退散しました。

冷や汗をかきながら、再びアシスト自転車に乗り豊島美術館を目指します。途中、バスケットボールのゴールがいっぱい並んだ『勝者はいないマルチバスケット』(野外展示物)を見学し、置いてあったボールでゴールを目指して投げたのですが、ゴールが6つもあるのに一つも入りませんでした。やはり『勝者はいない』でした。

 

勝者はいないマルチバスケット(豊島にて)

 

再び、アシスト自転車で坂を上り、豊島美術館を目指します。棚田を見ながらヨイショ・ヨイショとペダルをこぎ、やっとの思いで豊島美術館に付きました。この美術館はちょっと変わった美術館です。入場料を払う受付の建物があり、そこから両際に雑草が生え、ゆるく右にカーブした小道を進むと、アートスペースという所に付きました。そこでは靴を脱ぎ、ビニールの靴下をはくのです。そして中に入ると何もありません.真っ白なドーム(ドームは直径100mの球体の上部をナイフで薄く切ったような、低い天井の円型の建物です。)の中に人々が静かに立っていたり、しゃがんでいるのです。絵もありません、彫刻もありません。ただのスペースです。天井は2か所、大きく穴が開いており、そこから清々しい風が入り、青空、遠くの山並みが見えるだけです。何だこれはと思ってはいけないのです。生と死を体験する場だそうです。しんみりとした雰囲気の中、話し声は聞こえません。10人ほどの人々は様々な方向を向いて静かにたたずんでいるのです。これも芸術かと思いながら私もしばらくそのスペースに佇んでいました。結局、心臓のアーカイブといい豊島美術館のアートスペースといい、私にはよくわからない世界でした。

再び、再びアシスト自転車に乗り家浦港目指して帰りました。途中、豊島横尾館を訪ねました。この美術館は旧家を改造したもので、庭石は赤くペンキで塗ってあり、滝は黄金色に塗り込められています。中に入ると床はガラス張りで庭の池が床の下を這っているのです。トイレも上下・左右・前後ともステンレスのピカピカ鏡、納屋では天井と床がピカピカの2枚のステンレスで、天井は高く宇宙へとつながり、下は奈落の底までつながっているようです。足を踏み込むのが怖い感じです。変な感じです。

変わった体験をしながら、冷や汗をかきながら帰りの船に乗り込みました。

 

帰りのフェリー(豊島家浦港にて) 

 芸術とは、四角い額縁の中でなく、周囲全体が芸術で、音響もあり、光もありです。新しい芸術です。『瀬戸内国際芸術祭(瀬戸内トリエンナーレ)』のオープン2日前でしたが様々な作品との出会いがあり、新たな気持ちになって帰りました。豊島の家浦港を離れる時に港に向かって「トリエンナーレ開催中には、必ず来るからなぁ~。待ってろよ~。」と再び口ずさんだのです。

 しかし、数日後、胸のあたりが痛くて、痛くてたまりません。芸術に感激したのではないはずですが・・・。自転車のせいとすれば、足が痛いはずですが、胸です。ペダルをキックするとき相当な腕の力の助けをもらっていたのでしょうか、いずれにしましても、全治1週間の筋肉痛でした。

 

追加説明:足が痛くない理由は、孫と一緒に毎週遊園地へ行き『サイクルモノレール』に乗り、私がペダルを漕いでいたことによるものと思われます。この結果、相当に足が鍛えられていたと考えられます。

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第15話 トンチンカン先生の『芸術との出会い』 二題

<その1> 冬の直島漫遊記

 瀬戸内海には、直島(なおしま)という有名な美術館のある島があります。皆さん、もうご存知かもしれませんが、島全体が美術館のようでして、一度は行きたいと思っていました。ちょうど1月15日に北九州で仕事がありまして、その帰りに寄ることとしました。

 その帰りですが、博多を午前7時の新幹線に乗り岡山駅に降り立ち、JRローカル列車2両編成の児島行きに乗って途中、茶屋町という駅で乗り換え宇野まで行きました。ローカル列車内には多分美術館へ行くと思われる女子大生の様な人が10~15人ほど乗っています。シメシメ、うまくいけば一緒に美術館巡りが・・・、と思い、気もそぞろです。宇野駅構内の観光案内所で直島の観光案内を聞き、パンフレットをもらいました。60歳ほどの叔母さんでした

宇高連絡船フェリーの自動車乗り入れ口

 

が明るくていい不雰囲気です。彼女いわく「1日では到底全ての美術館は回れませんよ。」というのですが、とにかく島へ渡ってみようという事にしました。宇野駅から200mほど歩き、宇野港から宇高連絡船に乗り、直島まで20分の船旅です。なんだか先ほどの女学生はいません。乗船客も少ない状況で嫌な感じがしました。まあ、1月の寒い時期だからでしょうと思い、まあいいや、女学生なんて居なくても、とのんびり船窓から瀬戸内海を見ていました。

そして、直島の宮之浦港へ着岸しフェリーを降りたところ、港の切符売り場のお姉さんから、「今日は全館休館です。」という説明がありました。

安藤忠雄設計の地中美術館入り口にて

 

壁のペンキ塗り、庭の樹木の剪定、芝の手入れなど全ての修復・修繕をこの時期に『メンテナンス休館』として一斉に実施するのだそうです。その他は1年中無休だそうです。

なんだこれは、と思ってもあとの祭り、とりあえず行ってみよう、と島内循環バスに乗りましたら、同じような60歳代のおじさんがバスの運転手さんに「どこか見るところはありませんか。」と聞いているのです。そして2人とも

草間彌生制作のカボチャの前で

 

 終点まで行き、そこから歩いて美術館の屋外展示物を見ることにしました。その人は奈良に住んでいる人でして、私と同じくリタイア―人生を送っています。優しそうな、メガネをかけた知的な雰囲気、やややせ気味、つまり、私によく似ているところから好感が持てました。意気投合して、靴音高く、いや軽く、手はつながなかったのですが、3時間余りの屋外展示物鑑賞をしながらの楽しいハイキングでした。

 叔父さんと別れたあと、直島から再びフェリーに乗って宇野港へ、その足で宇野駅の観光案内所に立ち寄り「全館休館でしたよ。」といったら、「あらまぁ~、知らなかったわ。勤務は12月末以来でしたので申し訳ありません。」と恐縮して何度も何度も頭を下げていました。つまり、この人はパートのおばさんで、情報不足の結果でした。あまりにも恐縮しているので、しかたなく、観光案内所で売っている土産物のうち、廃線となった玉野市電(チンチン電車)のレールを輪切りにした『文鎮』を買ってあげました。パートの叔母さんの顔

レールの輪切り文鎮、1000円でしたが、重かった。

 

がたちまちニコニコと明るくなりました。しかし、帰りの荷物の重いことには辟易しました。情に流されるとロクなことはありません、でした。

 つまり、『せっかく、新幹線、ローカル列車、フェリーと乗り継ぎ、寒い中、やっとの思いで来たのに、美術館は閉館。そして帰りは重い荷物と悪戦苦闘・・・。』ということでした。        

  以上。

 

 

<その2>老いては子に従え 春画展

 11月の終わりに、東京で環境に関する講演をすることになりました。せっかく東京へ行くので、息子に会う、いや、可愛い孫に会うため前日から東京に入りました。夜は孫と息子夫婦で食事会。もちろん、御代は私が払います。

(食事会の場で)

私:「明日の講演は午後2時からだけど、午前中、どこか素晴らしい美術館はないかねぇ、イベントでもいいんだが・・・。」

息子:「今、永青文庫で『春画展』を開催しているから観るといいよ。」

:「えっ。ロンドンで初めて開催されたということは新聞で読んだことはあるが・・・、東京で開催されているのか・・・。(感無量の様子)」

息子:「そうだよ。日本でも東京だけで開催するようで、巡回はしないという事だよ。僕も観てきた。よかったよ。」

息子に春画展を見なさいと言われるとは思いませんでした。親の権威も台無し、でも興味もあるし、息子の手前、『すぐ行く。』とは言いにくいし・・・、と少し考えた振りをして、「じゃあ、行ってみるか。」と生返事の雰囲気をかもし出してしっかり返事をしました。つまり、この場合、『老いては子に従え』という諺に救われた思いがしたのでした。

(翌日:春画展を観に行った日)

朝、早くから目が覚めてしまいました。開館の少し前に到着すればよいと考え、逆算してビジネスホテルを出て、山手線目白駅で降り、学習院大学を右に見て20分ほど歩くと、例の永青文庫がありました。予定通りオープン10分前に付きました。すると、すでに大勢の人が並んでいます。大変な賑わいです。会場の中は満員で、気の弱い私は後ろの方から背伸びして観ました。前の方には、45人のおばさん連中や23人の女子学生の連中が、ペチャクチャとおしゃべりをして観賞しています。なかなか次の展示物へ移動しようとしません。女性はグループで観賞に来ているのですが、一方、男どもは一人で来ているケースが多く、むっつりして観賞しています。(私もその一人ですが・・・)

春画展で購入したカタログ(写真集です)

 

こんな情景で、ついつい春画のそこばっかり気になるのですが、金粉の屏風に描かれているもの、背景が四季の花々で飾られているものなど見ごたえがあり、アートとして十分に味わうことが出来たのでした。結局、シッカリ2時間をかけて観ました。息子に感謝。

春画というものにすっかり虜にされてしまい、その後、『春画を旅する』という本を買って勉強しました。まず平安時代から始まった春画は、高貴なお人の占有的な所持品で、肉筆画です。絵の中の男子は烏帽子(えぼし)をかぶり、女子は十二単(じゅうにひとえ)の姿です。

戦国時代になると、大名の御姫様の嫁入り道具の一つとなります。また、武将の兜をしまう箱の底に春画を入れておくと勝ち戦になるなど縁起を担ぐものとなり、やはり権力者のものでした。しかし、江戸時代になると、浮世絵が世に出て、春画も大量印刷の技術に乗り一般庶民のものとなります。有名な浮世絵師も盛んに春画を書いていて、江戸の文化となりました。つまり、春画を知らずに江戸文化を語れないという事です。その頃から、春画にまつわる『川柳』も出来ました。その一例は以下の通りです。

◎ バカ夫婦 春画をまねて 手をくじき

◎ 無理をして 春画をまねて 筋ちがえ

春画を旅する(山本ゆかり著)

 

 この様に、みんなが身近に感じる文化となったのです。しかし、江戸時代が終わり、明治の世の中になると、外国人にこんなものを見せては日本の恥という事で、明治政府は、春画の禁止令を出したのです。そして、春画は地下深く眠ることになったのです。

 そして今、この春画が再評価されているのです。        以上。

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第14話 トンチンカン先生,の『マゴマゴ(孫々)』物語 


1 はじめに

 トンチンカン先生はすでに60代の後半に差し掛かっています。この先、どの様な生活をしていくか、思案のしどころです。

年(とし)、どしに我が悲しみの深くして、いよよ華やぐ、命なりけり

と、かの有名な岡本かの子先生(芸術家岡本太郎さんの母)が老妓抄(ろうぎしょう)の最後の部分で申しておりました。私も、いよよ華やぎたいと奮励努力をしていますが、男はつらいよの寅さんのように、高望みが過ぎて失敗の連続です。

 そこで、私の生きがいの一つである孫についてお話をします。こんなにも孫に力と愛情を注ぎこんでよいものかと思ってしまうのですが、『子育ての失敗を孫で取り戻す。』を、大目標に日夜、子育て、いや、孫育てをしているのです。今回はトンチンカン先生の孫との付き合いの失敗談、照れ隠し談、『マゴマゴ物語』を紹介します。

 

2 孫とお嫁さんの優しい会話

 私はしばしば、孫とお嫁さんを車に乗せて水族館やさかな広場、JRの沿線で貨物列車や電車を見ます(1時間ほども)。そして、安城の堀内公園でこども汽車に乗り、滑り台を滑り、ブランコに乗り、芝生の丘を駆け登り、池で亀や鯉に餌をやります。つまり、子供には、何でも体験をさせなければなりません。環境が子供を育てるのです。

環境が子供を育てるとは、より良い環境で子供を育てることです。子供にとって非常に重要なことなのです、という意味なのです。昔、自分の子供を育てるために孟子の母は3度住まいを変わったのです(孟母三遷の教え)。これを息子のお嫁さんに教えています。子供には様々な経験をさせ、子供の質問には正直に何でも答え、そして、手を抜かないことを・・・・。まさに、環境が人を造るのであります。

 

【孟母三遷の教え(もうぼさんせんのおしえ)】

〔「列女伝」から。孟子の母が,はじめ墓所の近くに住んでいたところ,孟子が葬式のまねをして遊ぶので市中に引っ越した。今度は商売のまね(ちんどん屋さんのまね、と中学生の時、先生から教えられた)をするので学校のそばに引っ越した。すると礼儀作法をまねたのでそこに居を定めたという故事〕

教育には環境からの感化が大きいという教え。三遷の教え。

 

その夜は、家庭料理を家族全員で作りました。息子のお嫁さんは、私の家の台所でよく働きます。そして食器洗いも上手です。しかし、孫がまつわり付いて思うように台所仕事ができません。お嫁さんは孫と話をしながら、両手は洗いものをしています。私は、その日の昼に孫を堀内公園へ連れて行きましたので疲れてしまい、居間でテレビを見ながらウトウトしています。実際は、寝たふりをして聞き耳を立てているのです。お嫁さんは、実によく子供と会話している。どこでも連れて行き、なんでもこたえている。まさに『孟母三遷の教え』、よく、やっている。まずまず良い環境になっている。3歳になった孫は将来有望ではないかと私一人で満足しています。

 その時です、お嫁さんと孫が台所で何か対話をしています。

孫:「これ、なあに?」

嫁:「じじぃの『入れ歯』。」と、間髪入れず、すぐ回答しました。(私は、「孟母三遷の教えが行き届いている。」 と一瞬思った。)

孫:「へぇ・・・、『入れ歯』ってなあに?」

嫁:「じじぃに聞いておいで。」と、私に答を振るのです。(この部分はいけない対応だ、問題を正面からとらえて答えていない。孟母三遷の教えではない。ちょっと嫁に苦言を奏しなければ・・・。)

 そんなことより、入れ歯を台所の流しにコップに水を入れて、置いたままだった自分に気が付き、しまったと思いましたが、後の祭り。

孫:「じじぃ、『入れ歯』ってなあに?」

 そこで、じじぃは説明するより、実演する方が3歳の子供には理解が速いのではと考え、台所から、私の入れ歯を持ってきて、「たか君、これはねぇ。この様に使うのだよ。」と言い、入れ歯をはめるところを、孫の顔から15センチの至近距離で演じました。

孫:「じじぃ、すご~い。」

これで、この対話は終了しました。環境が子供を育てる行為(入れ歯をはめる)をしたことにより、孫はしっかり理解したと思います。嫁は、何ごとが起こったのか瞬時に理解できない状況でした。じじぃがあまりにも想定外の行動をしたからなのでしょう。

 それにしても、入れ歯の置き場所を忘れてしまうなんて『認知症直前』です。昔のことはよく覚えているが、ちょっと前のことはすっかり忘れてしまうのです。

 

 

3 『良薬は口に苦しの巻』(薬の効用は如何か)

 

 60歳を超えると、特に65歳を超えると様々な持病と向き合うことになります。私は毎日大量の薬を飲むことになってしまいました。以下説明します。

①痛風(32歳の発病から、ずーっと毎日2錠、ザイロリックという薬を飲んでいます)②軽い高血圧(7年前から軽い高血圧症の薬2種類を1錠づつを飲んでいます。これは、私の母方の遺伝でしょうか、叔母さん、叔父さんとも脳溢血、クモ膜下出血で亡くなっています)、

③左足ひざ内側のしびれ(脊髄の下から3番目の骨が左足へ伸びる神経を圧迫し

ている。原因は加齢ですと医者は簡単に言いました。そして、治りませんとも言いました。)

④最後に、美と健康の妙薬であるプロポリス顆粒剤を一袋、そしてビタミン剤1錠

 

その結果、朝は10種類の薬を飲む毎日です。毎週土曜日から息子一家が泊りにやってきます。そして、私が薬を飲む様子に関心を持った孫がやって来て、

 

写真―1 毎日、これだけの薬を食後に飲みます。

薬は、孫が私の口の中に入れます

 

 

孫:「じじぃ、これなあに?」

私:「薬と言って、大人になったら飲むものだよ。」

孫:「僕がやる(口の中に入れてやる)。」

というのです。仕方なしに、1錠ずつ孫に手渡しし、私が大きく口を開けて、薬を入れてもらうのです。入れた薬は、すぐさま舌の下へ隠し、次の薬を入れてもらいます。錠剤を全て口に入れ終わると、

私:「たか君、薬はどこへ行ったのでしょう。」

孫:「もう飲んだ(飲み込んだ)でしょう?」と言います。

私:「ほんとかな?」

そう言うと、私は、おもむろに、舌の下に隠した錠剤9つ全てを舌の上に戻し、大きく口を開けます。そして、孫に口の中を見せます。

私:「どーだ。」

孫:「じじぃ、すご~い。」

バカなことをやっている、「じじぃと孫」でした。それにしても、現代の薬は『良薬は口に苦し』ではなく、『良薬は孫と会話できる』でした。

 

3 『パンダとコアラ 珍獣の巻』(思い込みの激しさ、照れ隠し。)

 孫は、外出から帰ると必ず手を洗う習慣を身に付けています。これは幼稚園で毎日行われる手洗いの習慣付け(訓練)の賜物です。自宅へ帰っても、坂部環境技術事務所へ来ても、私の西尾の家に来ても必ず手を洗います。しかも、石鹸で洗うのです。

 ある日、家族全員で坂部環境技術事務所へ来ました。息子夫婦は2人で事務所のパソコンのちょっとした修繕を行うことになりました。その間、私は孫のお守りをすることになったのです。

事務所の前では様々な野菜が育っていて、孫には絶好の遊び場です。孫は、私の家庭菜園を手伝うといって野菜の葉を千切り、まだ大きくなってないピーマンを収穫してしまい、そして、最後に土を触り始めました。ダンゴ虫を集め、コオロギを捕まえるのです。その結果、手は土で汚れ、石鹸で手を洗うことになりましたが、孫はダンゴ虫に夢中で手を洗うどころではない様子です。

事務所の手洗いには、孫用のためにと『コアラの形をした固型石鹸』が洗面台の右隅に置いてあります。いつまで経っても、手を洗いに来ないので、ついに、私はじじぃの威厳を持って叫んでしまいました。

私:「早く、パンダの石鹸で手を洗いなさい。それでないと家に入れないよ。」

 孫が、その叫びに、へぇ~、と顔だけで振り返り、のっそりと立ち上がりました。反応が遅いなぁ~。早く来ないかとやや、イライラ気味の私に向かって、私をなだめるような優しい声でいうのです。

孫:「じじぃ。パンダじゃないよ、コアラだよ。」

3歳の孫に間違いを指摘され、それも、なだめるような、さとすような優しい声で言うのでした。

私はその状況に大いにあわてるじじぃでした。『珍獣、イコール、パンダ』という脳細胞の神経伝達系が単純系として確立されていて、融通が利かない『認知症直前』症状に、がっくり。3歳になったばかりの孫からの強烈な、そして優しいイントネーションで指摘を受け、全く照れ隠しで赤面するばかりでした。

写真―2 トレイにのった『コアラの形をした固型石鹸』

(かなり使いこなし、顔が消えている)


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第13話 トンチンカン先生、上海・南京・徐州の旅 

 

中国への旅は、環境技術指導という仕事の旅でした。しかし、仕事の旅でも、一応、予備日というものがあり、その日は1日中観光をして楽しみます。それでは最近出張しました中国旅行のお話しをします。

セントレアから旅立ってものの2時間と少しで上海の浦東(プートン)空港へ降り立ちます。空港はやや薄暗いという印象です。しかし大勢の人たちでごった返し活気がありました。その後、例の中国新幹線で南京へ移動します。空港から上海中心部までは渋滞、その後はそれほどでもない渋滞で上海の新幹線駅『虹橋駅』に着きました。上海の郊外に国内線用と思われる空港と隣接して設置されています。それから約2時間の旅で南京につきました。南京の中心部には玄武湖という大きな湖があり、その下を自動車専用トンネルが掘られており、ひっきりなしに自動車が貫通しています。やることが大きい。さすが中国と思いました。

写真―1 空気が汚れているので日中でも薄暗い上海の中心部

 

その日の歓迎会は有名なバイチュウというアルコール分47度のお酒と上海料理です。ツアーでないので本当の上海料理でして、味は日本人に合わせていなく、非常に辛い、砂糖がいっぱい使ってある様子、醤油の色が濃いなど、日本で食べる中華料理とたいへんな違いです。食材は日本とよく似ていますが料理の仕方、盛り付けの方法が全く違うのです。例えば、ニワトリの頭を真正面から左右2つに切ったものが左右対称に鏡で写したように真っ白な皿の上に載っている料理が出てきました(眼は薄目を開けていました)。載っているのはこれだけのみです。私は驚きのあまりニワトリの目と合ってしまい、かなり怖かったのでした。(怖いので写真は省略します。)

次に運ばれてきた料理は直径20センチメートルほどのナベが運ばれてきました、例の回転テーブルの上に載せられました。蓋を外したのち、順に時計回りに回しながら、みんなが箸で中のものを少しずつ取り出して食べます。何か鶏のから揚げかなと思っていましたが、なんとニワトリの足(足首から先の部分)が『あんかけ風から揚げ』になっている料理です。肉もほとんどついてなく4本ある指の部分が足首の部分から切られている『あんかけ風から揚げ』です。何だこれと思いながら箸で1つナベから取り出しました。隣にいる中国人が「これは美味しいです。宮廷では鳥の足をこの様に食べます。ニワトリの体の部分は捨てます。人民に分け与えることもあります。」と説明していただきました。へ~っ。鳥の胸肉、もも肉の方がよっぽど美味しいのに、この部分を捨てちゃうなんて信じられない、と思いながら、足を口に運ぶ(ニワトリの足のあんかけ風から揚げを私の口に運ぶ)と、これが意外や意外、想定外に、かなり美味しいのでした。足の裏側、鳥が立っている時に土と接触する部分は『肉球』という部分(犬や猫などは丸い球体になっている部分)でして、コリコリとした食感、味も良く浸みていて美味しかったのです。私は、再びターンテーブルを回し、ナベから左の足を2つ取り出し、コリコリ、ムシャムシャと美味しく食べました。

ちなみに、以前、中国大連の繁華街で中国料理のレストランへ入った時のことです。何気なく写した写真の中に、食堂入口に陳列してある食品サンプルを写した写真がありました。その値段は48元(現在、1元は10円として、480円)で、ニワトリ一匹の38元より、足の方が10元ほど高価でした。

 

写真―2 ニワトリは左の本体(手前が顔部分)より右の足首の方が10元高価です。

 

次に運ばれてきた料理は、木製の料理台(花台の様なもの)に豚の右側の顔半分が横になり寝ているように載っています。むろん、産毛がない、ヒゲもなく、ほとんど白骨化したもので、相当大きなブタです。その顔の上に載っている肉片を箸で一枚ずつ取り、食べる料理です。硬さや歯触りはチャーシュー(煮豚)のようですが、やや白っぽく塩味が基本のものでした。食べていると徐々にブーチャンの歯が見えるところまで来ました。「ウヘッ~。もうこれ以上食べられない。しかし冷静に大皿にのっかっているブーチャンの歯を見ると虫歯は1本もなくきれいな歯でした。変なところに感心している自分にはっと気が付き、場違いな空想をしてしまったと下を向いてしまいました。

写真―3 歯の部分が見える豚肉の料理、右下はニワトリの足料理

 

この様な訳でして、南京では酔っていなければ箸が進まない料理ばかりでした。翌日は南京で企業の人への相談・指導を行いましたが、中国人は「お金が一億元と20ヘクタールの土地があるが何か環境に関する良い(もうかる)仕事はないか。」というような雲をつかむような相談が多く、大変な相談時間でした。それにしても、漢民族は華僑といって海外へ進出するだけあって『なかなかやるなぁ~・・・。』と思いました。相談は水質汚濁防止から、廃棄物リサイクル、土壌汚染まで多義にわたっていました。その日も上海料理でした。

 翌日は、列車で南京から徐州へ行きました。300Kmを2時間30分の旅です。南京を出発して10分もしないうちに、長江(旧名:揚子江)を渡ります。水面から50m以上の高さもある鉄橋を10両連結以上の長い列車が通過するのです。眼下に長江を航行する大型船を目にして、あまりにも大きな船舶の航行に感激しました。長江の河口からおおよそ700Km(蛇行しているので東京・大阪間程の距離)も上流で大型船が行き来しているのです。(写真を撮ったのですが、空気が汚れており、大きな船がボヤケてしまいました。)

 長江を渡ると景色は一変します。今まで水田が続く南の国の様子でしたが、今度は、内陸部特有の小麦畑が続きます。春小麦の畑でして、芽を吹いたコムギが地平線まで緑のストライプ模様のようにズーッと続きます。一方、車窓からは川の中州で牛を洗っている老人とその横に孫と子牛が遊んでいる光景が飛び込んできます。またしばらく進むと集落の小さな広場なのでしょうか、道端でしょうか、昼間からたむろしている大人たち(男性)が何やら小さな木箱(机として用いている様子)を取り囲んでいる光景も車窓へ飛び込んできました。トランプまたは花札をやっているのかなと思いました。この様に内陸部へ行くと上海とは全く違った光景が見られました。

 

写真―4 南京駅で徐州行き列車を待つ人々

 

途中で、長州発北京行きの急行列車と駅ですれ違いました。2日ほどかけて北京までゆくのだそうです。窓の手すりには、ペットボトルや食べ物がいっぱい置いてあり、満員列車でした。中国人は力強い、ハングリー精神が旺盛などの形容詞がよく似合っていると思いました。

 徐州は「麦と兵隊」という軍歌をよく父がお酒に酔うと仲間と歌っていましたので、徐州駅に降り立ったときは感激しました。「徐州 徐州と人馬は進む、徐州居良いか、住みよいか しゃれた文句に 振り替えりゃ、お国なまりのおけさ節、髭がほほ笑む 麦畑」と我ながらついつい口ずさみ、日本の兵隊はここまで歩いて来たのかと感無量でした。隊長、歩兵など上下の隔たりなく同士が心を一つにする(隊長のひげがほほ笑む)光景が、徐州駅と車窓から見た麦畑などと重なりました。

ところで、徐州駅は、人がいっぱいでした。切符を手に入れるため、駅前広場に並んで座っているのです。その列の長さ100mほど、その数、何百人、右を見ても、左を見ても、私の視界の中には必ず150人以上の中国人がいる(目に入る)という状態でした。服装も人民服のようなほこりっぽいような服装で、何日もお風呂に入っていないような感じの人びとばかりでした。本当に日本では見られない光景でした。しかし、ビジネス関係の人でしょうか、きれいにしている人もいましたが、それほど多くはいませんでした。

 

写真―5 徐州駅の正面(空気が汚れているため、霞んで見える)

 

 思えば遠くまで来たもんだ、という歌のセリフ通り、身体は骨の芯までクタクタ、ニワトリや豚の顔を思い出し精神もクタクタ、それ以上に胃は重く大変でした。

その後上海へ帰り、上海の森ビル(100階建てで、当時は世界一高いビルという事でした)に昇ったり、女房へのおみやげを買ったりして、予備日の1日を観光気分で過ごしました。

 とまあ、大変な中でも楽しく、得難い経験の旅をしてきましたが、寄る年並みには勝てず、ついに、帰国後はちょっと上海料理とバイチュウで胃腸の調子が悪くなり、病院へ行きました。ニワトリと豚の顔にうなされた訳ではありませんが、ちょっとひどい状況で、点滴注射のため、1週間ほど病院へ通いました。

 その後、中国からは、ビジネスチャンスがあるので再度来てほしいという日本の進出企業からの様々なメールが来ておりますが、上海料理には勝てず、バイチュウには、ナオサラ勝てず、今度こそ、ニワトリと豚の顔にうなされると思い、今のところ、渡航を渋っている状況です。


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第12話 トンチンカン先生の秘密蔵書(その後 


♪♪♪♪秘密蔵書の紹介♪♪♪♪(第2回目)

前回お話ししました『第5話 トンチンカン先生の秘密蔵書』のお話は好評でした。特に宗教本の中の25年前の我が家の記念写真、『桃太郎神社への参拝』(犬が一番、りりしく、しっかりしている。)が非常に好評でした。そこで、さらにそれらしい本を求めて、本屋さんをウロウロし、また、インターネットの「ショッピング―CD DVD 本」の部分に目を凝らし、毎週日曜日の新聞読書欄を見て、足掛け2年。とうとう、何冊かの珍本を購入することができました。それでは、この2年間の成果をご披露いたしましょう。

なお、私の立ち位置から見て『珍本』でして、一般の読者からは決して珍本ではないと思いますので、誤解のないようにお願い致します。

 

<その4:なんだこりゃ日本語辞典?>
小学館の「日本語オノマトペ辞典」(小学館 6,00円)

「オノマトペ」とはなんだろうと思いました。オノマトペ(仏:onomatopee)とは、擬声語を意味するフランス語です。物事の声や音・様子・動作・感情などを簡略的に表し、情景をより感情的に表現させることの出来る手段として用いられており、我々の生活は数限りないオノマトペを利用することによって成り立っています、と解説にありました。

特に日本語はオノマトペの種類が多く(この辞典では4,500語を収録)、その重要性は高いと言われております。また、同じ形態素 (特に2音節のもの) を繰り返す、スヤスヤ、チョイチョイ、ボツボツ、スヤスヤなどの「畳語」オノマトペが多いのも特徴的であります。擬声語とは、擬音語と擬態語の総称のことなのです。

 

写真1 オノマトペ辞典の箱と開いた状態のオノマトペ辞典

 

 中を覗いてみると、なかなかなものです。4,500語と余りにも多いので、アイウエオ、カキクケコの中から、面白いものを10例挙げます。

表―1 オノマトペの例示(あ行とか行のみ記載しました)

 

いずれに致しましても、面白い表現があるものだと思い感心しました。それにしても、衝動買いでもあるまいに、4,500円と思い込んで、レジで6,300円と言われ、びっくり、実は4,500語を収録したというところを、4,500円と読んでしまった、慌て者だったのです。それにしても、どうしてこんな本を、6,300円も出して買ってしまったのか、大いに反省しています。そしてこの本の重いこと、紙質も厚く、本屋さんから自宅までの持ち運びに苦労しました。

現在は、我が本棚の真ん中に鎮座しているにもかかわらず、本を開く機会がごくごく少ない状態です。しかし、一度、このオノマトペ辞典を開くと、面白さに、ついつい、ニコニコして時間の経つのも忘れてしまうのです。

 

<その5:なんだこりゃ昭和の写真集?>
農文協の「昭和の暮らしで写真回想法①」(農文協 3,00円)

1 表紙を見て、中をチラッと見て、衝動買い

大きな本屋さんで、「昭和の暮らし」、「写真集」というキーワードを見てすぐ手に取りました。それは『子どもと暮らし』というタイトルで、昭和時代の子供の情景が生き生きと表現されたモノトーンの写真集です。表紙を見ますと、家庭での散髪風景、私も子供の頃は家で散髪をしたものです。あまり切れ味のよくない『バリカン』で母が頭を刈るのです。「いてて、いてて。」と言ってわめいた記憶があります。下の写真は紙芝居屋さんです。当時、私たちの街にも自転車の後方の荷台に紙芝居のセットと水あめを載せて紙芝居屋さんがやってきました。私の母は学校の先生でしたので、この様な紙芝居屋さんには一線を引いていたようでして、私に紙芝居屋さんの水あめを買うお金を絶対渡しませんでした。そのため、私は常に後ろの方で「ただ見」(料金を払うことなく紙芝居を見ること)ばかりしていました。

写真2 「昭和の暮らしで写真回想法」の表紙

 

2 本を開くと写真がいっぱい

本を開くと、懐かしい写真がいっぱいです。これは良い本を買ったと心もち、満足、満足とニタニタ(オノマトペ:声を立てないで、気味わるく笑い続けるさま)。

県営住宅でしょうか。同じような家が並んでいます(写真3)。その手前を妊婦さんとその子供、犬が散歩をしています。妊婦さんは運動しなければならないと言って、いつも以上にトイレの掃除をさせられた、という話も聞いたことがあります。私が住んでいた家から少し西に行くとこの様な県営住宅の様な家々が並んだところがありました。家の人々は洗濯物を干したり、子供をおぶって近所の子供、自分の子供、分け隔てなく遊びを教えていました。夕方になると、裸電球がつき、ご飯の支度をするお母さんの姿、夕飯のカレーライスの臭い、魚を焼く臭いなどが、ぷーんとしてきました。ラジオの前(テレビではありません)では、家に帰って寝そべって、新聞を読んでいるお父さんの姿が見られ、本当になつかしいものです。

 

写真3 県営住宅らしい前の堤防を散歩する妊婦さんと子供、犬。

 

次の写真(写真4)は、腕白小僧の姿です。なつかしい子供の遊び、はなたれ小僧の『また、勝っちゃったー。』と少し照れくさそうな勝ち誇った笑顔。手にはメンコをいっぱい抱えて勝負の後のご満悦。私は、メンコが上手ではありませんでした。いつも負けてばかりで家の押し入れにあった大量のメンコ(多分、兄が幼いころ集めたものらしいのです)を少しづつ使い、そして負ける度に、少しづつ無くしていきました。

 



写真4 はなたれ小僧のメンコ遊び

 

そして、庭で行水をしている写真5、この様な情景は子供の頃でも、見たことはありません。私の時代のもっと前ではないかと思います。私の子供の頃は、銭湯へ行く人が半分、家庭にお風呂がある人が半分という状況でした。私は父が家庭大工で作ったお風呂がありましたので、銭湯へは行かずに済みました。

写真5 庭での行水風景、鶏が放し飼いにされている。

 

3 あれれ! 写真の中に数字が・・・・・。

 この様にじっくり見ていると、不思議なことに気づきました。写真の中に、何か数字が打ってあります。例えば、「写真5」の行水の写真ですと、お母さんには①、行水をしている子供には②、鶏には③と④、見ている子供には⑤とあるのです。これはいったい何の本だろうかと、1ページ目の『はじめに』を読んだところ、この本は写真回想法による治療を実践するために使用する本であることが分かりました。結論から言いますと、つまり、『認知症』になった人が、病気がより軽くなったり、場合によっては回復したりするよう、昔の写真を見せ、介護人とおしゃべりをする本でして、認知症患者に対する治療法の一つで、要するに、そのためにこの本が関係施設に販売され、活用されるのです。

こんな本、本屋さんの一般図書の棚に並べるなんて、間違って購入するではありませんか。実際、私自身、あわて者なのか、間違ったけど・・・・。読んでいるうちに、何だか私も認知症になってしまいそうな気持ちになってしまいました。やはり、衝動買い(あわて買い)は慎まなければならないことを改めて、確認しました。

 

 4 補 足

先日のある日曜日に我が家でこの回想法の本を読みながら、静かに庭を眺めている時でした、遠くから、一字一句を読み上げるような、ゆっくりした声の西尾市の防災放送が聞こえてきました。

 <放 送>

(ピンポン、パンポゥ~ン、という『音さ』による前奏の後に) 

「西尾市広報よりお知らせします。(2~3秒、間をおいて) 西尾警察署からの行方不明者のお知らせを致します。(再び、2~3秒、間をおいて) 本日午前9時ごろ、〇〇町の73歳の男性が行方不明になっています。(再び、2~3秒、間をおいて) 行方不明者は丸がり、背は普通、やや痩せた体格です。(再び、2~3秒、間をおいて) 行方不明者は、白いTシャツにチェック模様のズボンをはいております。(再び、2~3秒、間をおいて) 心当たりの方は、西尾警察署までご連絡ください。」、 「繰り返し、西尾市広報よりお知らせします。(以下、同じなので、省略します)。」

2回ほど繰り返し放送されてから、「ピンポン、パンポゥ~ン」、と再び、『音さ』の音で終了しました。

 

 ええっ。私の年齢とさして違わないではありませんか。そして、○○町も私の家から目と鼻の先です。私は、やはり、この回想法の本を買った意味が十分あると認識し、しっかり最後まで読むことと意を決し、元に戻って、1ページ目から一字一句、のがさず読み始めたのでありました。

 

<その6:なんだこりゃ江戸マンガ本?>
小学館の「江戸マンガ①芋地獄」(小学館 1,00円)

私は毎週日曜日の新聞読書欄を必ず読んでいます。文芸書や写真集など興味をそそる本の紹介がされています。7月のある日曜日に新聞読書欄を読んでいましたら、『江戸マンガ①』という本の紹介がありました。今度こそは衝動買いしてはならないと、しっかり記事を読みました。

『江戸マンガ①』は江戸から明治初期にかけて出版された絵入り娯楽本の草双紙のうち『黄表紙』と呼ばれた作品群を基に作られた本だそうです。全体がマンガ絵ですとの説明、監修者が外人のアダム・カバット氏という事で、外人から見た江戸の面白さを紹介するものです。これは面白そうと思い、やはり衝動買いをしてしまいました。

 

 

写真6 「江戸マンガ 芋地獄」の表紙

 

アダム・カバット(Adam Kabat)氏は、アメリカ人の日本文学研究者です。武蔵大学の正真正銘の大学教授でして、専門分野は近世・近代日本文学(幻想文学)、日本の妖怪だそうです。日本の文化を研究している人はドナルド・キーン氏、ロバート・キャンベル氏くらいしか知りませんでしたが、小泉八雲から始まった日本文化の研究は、現在、40人ほどの外国人が研究に没頭しているという事です。 日本文化の研究ではやはり、江戸時代の研究が面白く、特に、お化け、妖怪ものに人気があるようです。

写真7 芋地獄の内容(一部):芋を天秤バカリにかけて、

罪の重さを測っている所

 

この本の内容は吹き出しを新たに作ったり、古文的な表現を現代日本語風に直すなどきめ細かな配慮がされており、読み易くなっています。順に読んでいくと、なかなか面白く、何とも言えぬ滑稽さがあります。「ゆるさ」や「キモかわいさ」があり、日本文化の真骨頂ではないか、という解説がありました。この本は、江戸マンガ①ですので、この次の『江戸マンガ②』も、絶対、購入しようと決意しました。

 

<反省>

その1 やはり衝動買いは慎むべきと思いました。買って手に入るや、いきなり読み始め、面白いなぁ、と一度読んだだけで次の面白本に飛びついて行く状態です。一度だけの読書ではもったいない。何か使い道はあるか思案中のトンチンカン先生でした。

その2 読書の後、私の中で何か教養めいた言動があるかと思いきや、全くありません。教養としての読書感がないので読んだ気がしないのです。後味が良くありません。でも、読んでいる途中、笑っている瞬間はストレス解消という状態でしたので、『まぁいいか。』という事になりました。


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11話 『何だろう、この看板』の話


トンチンカン先生は、仕事で様々な国を訪れています。ツアーではありません。本当に仕事です。そのためか、変わった光景に出くわし、びっくりしたり、笑ったりしてしまいます。今回は各国の街を散策した時の面白看板などをご紹介します。一人で噴き出したり、一人でなるほど思ったり、こんなのアリィ~? と思ったりしながら一人旅をしています、これからも一人旅を続けます。

ご連絡が遅れましたが、女房は1年半前、すい臓がん、肝臓への転移で他界しました。

 

 

<その1  A-COOPではないですか?(ブータン編 その1)>

 幸せの国ブータンは、観光で行くと、観光税がアメリカ・ドルで、1日1000ドル必要です。その代り、ホテルが指定、マイクロバスで観光地を周遊してくれます。従いまして、リックで頭がボサボサの無銭旅行者はまず間違いなく入国が出来ないのです。私は、我が豚児の勤務先がジャイカ・ブータン事務所でしたので、豚児の実の親という事で40ドルの入国税でブータンに入れました。そして、タクシーを使い、あるいは徒歩で既定の観光地以外の場所へも行けたのです。特にティンプーというブータンの首都(日本で言えば東京ですが、人口はわずか15万人です)を隅から隅まで散策することができました。

参考:ブータンのタクシーは全て軽自動車です。そして、料金メータはありません、運転手さんのサジ加減で料金が決まるのです。

 

写真―1 『B-COOP』の正面入り口

 

そしたら、写真ー1のような「B-COOP」という看板がありました。A-COOPの間違いではないでしょうか。とにかく変わっていましたのでシャッターをガシャ。

息子が住んでいるアパートに帰って、息子に詳しく聞きましたところ、ブータンの農業省が日本のA-COOPのにぎわいを見て、「この販売方法は大いによろしい、我が国もこの制度を取り入れるべきだ。」、という事でそのノウハウを取り入れたのですが、A-COOPではあまりにも同じだから、『 A 』でなく、『 B 』にしようと決めたようです。しかし、よくよく考えて、名前の『パクリ』はよろしくない、という事で、ABCの「B」ではなく、ブータン(BHUTAN)の「B」という事にしようとなったようです。

 B-COOPの店内に入ると、レジはなく、商品は高原ハチミツ、ヤク(牛類)の乳から作ったビン入りチーズ、ビニールに約200gづつ入った豆類(ハナマメのような感じの豆でした)、牛乳(一応、冷蔵庫に入っています。)、卵(これは冷蔵庫に入っていません)、ハーブ茶など10種類程度で店員は女性2人男性1人の計3人です。このシステムはまだ始まったばかりのようですので、これから期待できそうです。

 

写真―2 高原ハチミツ(左)、ヤクのチーズ(右)、ハーブティ―()

     何度撮影してもチーズの容器がゆがんで見えました。その原因は、

ラベルが斜めにのり付けされていたからです。でも、ヤクの姿は

まっすぐです。

 

 私は、ハーブティー(サフラン入り)、高原ハチミツ、ヤク(牛の仲間)の乳から作ったチーズを買いました。チーズは非常に臭いがきつく、チーズ党の人しか食べられないものでした。しかし、私は無理して美味しく食べました。

どの商品も、不思議ですが、1個約120ニュルタム(1ニュルタムは1.6円程度)とほぼ同じ値段(日本円で約200円弱)でしたので、日本に比べたら特段に安いので、それぞれの商品を5個づつ買いました。

 

 

<その2 セブンイレブンではないですか?(ブータン編 その2)>

 我が豚児の嫁さんが、「ヨーグルトとパンを買いに行きますので、一緒に行きますか。」

というので、お店をのぞくことが大好きな私です。二つ返事でOKしました。嫁さんは孫と二人で手をつなぎ、前を歩いています。私はカメラを首にぶら下げて、街の中の面白い光景、変わった光景を探すため、シャッターチャンスを逃がすまいと、キョロキョロしながら3歩~5歩ほど遅れて歩いて行きます。今日はなかなか良い光景がないなぁ~、と思いながら歩いていますが、なんせ、標高3000メートルのブータンのこと10分も歩くと、呼吸が苦しく、足は進まず、ハーハー、ゼーゼーとなります。決して歳のせいではありません。観光客は皆この様になるのです。

 

写真―3 『8-ELEVEN』の正面入り口

 

やっとの思いで、日用雑貨店とコンビニが合体したようなお店に到着です。看板を見たら、『なんだこれ?』となってしまいました。写真ー3を見てください。何と、『8ELEVEN(エイト・イレブン)』なのです。これは、完全に「パクリ」です。驚きました。中に入ると、雑貨、玩具、飲み物、乾物、お米、唐辛子の1Kg入りパック、飲料など様々な品物が所狭しと並んでいます。

 

写真―4 店内に所狭しと陳列されていた毒々しい飲料。飲む気が薄らいでしまいます。

 

嫁さんは、冷蔵庫の中を覗いています。牛乳、チーズ、ヨーグルトなどが入っています。やっぱり、卵は入っていません。B-COOPと同じように、古紙で作った卵ケース(1ケース20個入り)が7段ほど積んでありました。卵が割れないかなぁ~、腐らないかなぁ~、と心配してしまいました。


写真―5 ドラえもんのお菓子も売っていました。(著作権など関係ない様子)

 

 

<その3 「老婆を娶(めと)って嬉しいな!」って、マジ?>

 中国の大連に行ったときです。私と女房が泊まるホテルでは、ちょうど結婚式が執り行われていました。ロビーでは、新婚さんの友人たちが次々に記念写真を撮り合っていました。この光景は日本と変わりません。私も女房も、気持ちが爽やかになり、いい雰囲気でした。私はこの光景を、真横から見るアングルで写真を撮りました。外に目をやると、やはり親友らしき人々が、今から出発する新婚旅行のための自動車を取り囲み、なにやら騒いでいました。「ちょっと見て来るわ。」と言い、女房は外へ出ていきました。そして帰ってくると、「ナンバープレートに何か貼ってあるわ、何かしら。」というのです。どれどれ、と言いながら見に行くと、写真―6のようにナンバープレートの上に漫画を描いたプレートがくくりつけられているではありませんか。道路交通法、道路運送車両法違反ではないでしょうかと思いましたが、ここは中国、そのようなことはないのではと思い直しました。

 

 

写真―6 新婚旅行のための自動車(正面より)

 

それにしても、なにが書いてあるのだろうと、近づいて、マジマシと見ますと、写真ー7のように新婚さんの間に漢字が書かれており、読んで見ると、「ええっ。」、『老婆』という漢字は読めます。『娶る(めとる)』という漢字も、何とか思い出し、思い出し、読めました。最後の右側が読めません。まさか、「老婆をめとって悲しいな。」ではあるまいに、と思いました。

 

写真ー7 ナンバーの上に張られたプレート(老婆をめとって嬉しいな)

 

翌日、親しい長期にわたって中国に在住している日本人の人に聞きましたら、「嬉しいという意味ですよ。」と教えていただき、さらに「老婆とは花嫁さんという意味ですよ。」とも教えていただきました。結局、「老婆をめとって悲しいな、ではなく、お嫁さんをもらってうれしいな。」という意味であることがわかりました。それにしても、老婆が花嫁さんとは、驚きと共に、噴き出してしまいました。外国では、日本の常識で判断してはいけないことがつくずくわかりました。

 

 翌年、工場緑化の指導で、中国は広州へ出張しました。その帰り、空港でお土産を買おうとお店に入りましたところ、『老婆饅頭』と言うものがいっぱい並べられ、化粧の厚い若い女性店員がニコニコして、「お土産買ってください。どうぞ。」と日本語で客引きをしています(私が日本人だとよくわかったなぁ、と一応、感心)。「老婆饅頭なんて、マズそうな名前だなぁ~、どんなものだろう。」とブツブツ言いながらマジマジと見ていると、その時、大連の『老婆をめとって嬉しいな。』を思い出しました。花嫁さん饅頭だったのです。そして若い女性店員さんに「これ下さい。」と日本語で言い、あまりに愛想が良かったので、衝動的に5箱も買ってしまいました。

参考:実は、4箱買うと、1箱おまけでした。この様な、おまけシステムはタイやシンガポール、中国など東南アジア地域ではよくあるシステムです。

 

 中身は、中国の結婚式にもよく出される月餅饅頭の様なものでした。いずれにしましても、甘く、美味しかった。やや厚化粧のニコニコと愛想の良い若い女性店員に勧められてよかった。

 

 

<その4 『大娘』って、お相撲さんの小錦みたい?>

 中国の江蘇省へ環境技術支援として出張した時のことです。上海駅(虹橋駅)の待合室、蘇州の駅前、南京の街なかなど、いたる所に、「大娘・水餃子(オオムスメ・ミズギョウザ)」の看板がありました。写真ー8は上海の駅の中です。

 

写真―8 大娘・水餃子のお店の正面

 

 お店の中に入ってみると、特段大きな餃子ではないし、みんな美味しそうに食べています。日本の餃子と色合い、形とも、そんなに違うものではありませんでした。私も食べようと思いましたが、なんせ、中国に到着したばかりで、1万円札しか持っていなく、毛沢東の肖像が印刷された「元」のお金は持っていませんでした。そのため、『大娘・水餃子』を食べることができませんでした。残念。

 中国人の通訳の人に聞きましたら、「オオムスメとは、『田舎のお母さん』という意味ですよ。」そして、「全体を読むと、田舎のお母さんの味がする餃子という意味です。」という返事でした。なるほど、看板の中央、大娘と水餃子の間に、メガネをかけたお母さんの笑顔があります。なるほど、田舎のお母さんね、と感心しました。いずれにしても、大娘はびっくりでした。

 

 

<その5 番外編>

 まだまだ、面白い看板、お店の様子、販売している品々があります。どうしても紹介したいものだけ5点を紹介してこのシリーズは終わります。

それでは、皆さん、ごきげんよう、さようなら。

 

写真―9 マッサージ店の看板(中国 上海にて)

なんとか、マッサージと読めるところが面白いですね。「ツ」も左に寄っており、

横書きの物を忠実に縦書きにしようとした心意気が伝わります。

 

 

写真―10 マクドナルドのお店(中国 南京にて)

 マクドナルドを中国語で書くとこの様に「麦当労」となるのです。そのほか、「股券(またけん)」は宝くじ、「5折(5せつ)」は50%引きだそうです。なんとなく面白いですね。

 

 写真―11 露店の風景(中国 蘇州の朝市)

 買い物客の後方にある大きな麩の様なものは、「豚の表皮の天ぷらだそうです。何に使うかと聞きましたら、スープなど中国料理の「だし汁」を取るのだそうです。手前の棒状のものはパンの天ぷらです。

 

 

写真―12 露店の風景(タイのアユタヤ付近)

 タイの気温は35度を超えています。この様な場所で「ナマ」のつくね、イカ団子、ボイルしたエビやイカを並べています。注文するとその場で焼いていただけます。私は当然ですが、食中毒が心配で食べませんでした。それにしても、右上にある「コカコーラ」は中身がボトルの肩までで、日本の様に首まで入っていませんでした。本物かしらと首をひねりました。

 

写真―13 海水浴場の風景(タイ ブーケット付近)

 海水浴場で、浮き輪のレンタル。自動車のタイヤを再利用したものですが、全てに『ドラえもん』の顔がペンキで描かれていました。やはり、ここでも、著作権など関係ない様子。しばらく見ていましたが、どうも、あまりレンタルされていない様子でした。

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第10話 トンチンカン先生、喜びのサイン・コサイン・タンジェンカーブ 

トンチンカン先生、喜びのサイン・コサイン・タンジェントカーブ

―ベストティーチャー賞の受賞―

1 はじめに

私は毎年4月から7月までの前期に、大学で教鞭をとっています。その講義は文学部教育学科、工学部土木学科、工学部都市環境デザイン学科と受講する学生は多種多様です。講義時間は第1限の9時から始まるもの、お昼の1時から始まるもの(第3限)とあります。どこの大学の授業でも、9時からの授業では、欠席者及び遅刻者が多いのです。お昼からの授業では、血の巡りが頭から消化器官の方へシフトし、爆睡(ばくすい)する者が多いのです。でも、坂部先生は頑張って授業を行っています。

大同大学でのことです。私は環境政策論という、見るからに、聞くからに難しい授業を受け持っています。難しそうな授業ですので受講者数も10数人と少ないのですが、この様な授業に限って、ムラムラ・ムラと力(ちから)が入ります。ちなみに、逆に、100人レベルの授業の場合は講演をしているようで、双方向のコミュニケーションがないので、ともすると授業が上滑りしてしまうのです。

授業回数は4月の第2週から7月の最終の週までで15回です。そして、最後の授業では、学生による授業の評価をアンケートで受けるのです。アンケートは学生が記名するのでかなり信頼度の高いものです。そして、その内容は、①先生はこの授業に対して熱意を持ってやっていましたか(先生のやる気度)、②シラバス通りの授業でしたか(先生の計画性の有無)、③あなたは授業中いねむりをしましたか(つまり、先生の授業内容のつまらなさ度)、④先生の声の大きさや話し方はどうでしたか(先生の元気度)、⑤この事業は知的興味、関心を呼び起こしましたか(先生の知識の豊富さ度)、⑥板書、パワーポイントなどのプレゼンテーションはどうでしたか(先生の表現力度)、などで、それぞれの内容について5段階評価をするのです。この日ばかりは先生は冷や汗タラタラなのです。

 

2 嫌な予感

ある日、授業が終わって非常勤講師控室へ帰ると、教務職員の人と一瞬ですが目が合ってしまいました。私はちょっとお辞儀をして、すんなりすり抜けようとしたところ・・・・。

教務職員の人:「坂部先生、学科長が学科長室でお待ちです。すぐに行ってください。」

坂部先生:「はい、わかりました。」

「はい。」、と言ったものの、いつもの教務職員の人の言葉の抑揚が少し上ずっていることが鮮明にわかりました。『これは何かあるぞ。』と一瞬思い、頭の中で、思いがグルグル。何だろう、嫌な予感がするなぁ・・・。 思えば、非常勤講師は、愛知県を退職してから毎年、ズーッとやっており、思い起こせば、かれこれ5年もやっている。授業内容もワンパターンになりつつあるようだし、授業内容のリニューアル化もこのところ、ややサボり気味だし、いよいよ、年貢の納め時か、『男は引き際が大切だ。』などと思いを巡らせていると・・・・。

教務職員の人:「坂部先生、学科長室は3階です。」

もう、わかっているよと言いたげに、しぶしぶ、重い足で、ウツムキ加減、そして、いよいよ、学科長室のドアをノック、そしてドアを開けると、いきなり、例の学科長教授さんが私を見て・・・。

 

3 突然の受賞

学科長:「坂部先生、おめでとうございます。」

何言っているのだろう、この学科長教授先生。 私は今非常に落ち込んでいるのです。おめでとうなんてトンデモナイ。来年から授業ができない。若い学生から毎週、毎週『オーラ』をもらって、元気を出しているのに・・・・。来年からは『単なる、おじさん』になってしまう・・・。どうしよう、どうしよう・・・・。

 

学科長:「坂部先生に、ベストティーチャー賞を授与することになりました。本学のために本当にご尽力いただき有難うございます。」

坂部先生:「えっ、何でしょうか。」

それ、何? 私に? イグ・ノーベル賞のような、イグ・ベスト・ティーチャー賞ではないだろうかと一瞬、疑い、そして、なんでぇ~、と思いました。そして生唾を、ごっくん。

学科長:「大同大学では、学科ごとに毎年度、素晴らしい講義を行っていただいた先生を1名、『ベストティ-チャー』として表彰する制度がありまして、本年度は坂部先生に決まりました。誠におめでとうございます。」

 

その後、徐々に現実に戻りつつ、恐れ多くもこのような賞をいただくなんて、申し訳ないという思いが募ってきたのです。

いずれにしても、賞をいただくことが理解できるまでの、おおよそ15分間は、私の気持ちは、ぐぐっと曇り、そして足取りも重く、目も焦点が合わないほど落ち込んでいました。それが、3階へ上り、ドアをノックした途端、なんだか知らないが、本当に賞を頂けるのかしらという過渡期的な心の動きを経て、うれしさに変わったのです。心が不安定なまま落ち込んでその後グ・グーッと晴れの心になりました。うれしさ2倍なのです。

その心の動きを時系列的にグラフで表すともっとよく理解できると思います。つまり、下の図ー1の様になります。縦軸にうれしさ(θ;シータ) 、横軸に時間(t)を取ります。一般的にはうれしさが+1(θ=+1)としますと、通常状態からうれしくなるとその差が+1-0=+1ですが、今回のように一度落ち込んで-1となり、その後スーツと明るくなり+1のこころになると、その差が+1-(-1)=+1+1=2、答θ=2という事になるのです。つまり、うれしさ2倍なのです。そしてその心は、結局、この様な曲線、サイン・カーブになるのです。

 

図―1 嬉しさのサイン・カーブ

 

 

学科長の説明では、このベストティーチャー賞の選考は、毎年度全ての授業をピックアップし、授業ごとに行う、学生による授業評価アンケートの結果を重点に、数人に絞り込みを行い、教授会で最終決定をするのだそうです。

 

※ イグノーベル賞とは

イグノーベル賞 (イグノーベルしょう、英: Ig Nobel Prize) とは、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞です。1991年に創設されました。

「イグノーベル(Ig Nobel [ignoubél])」とは、ノーベル賞の創設者ノーベル (Nobel [noubél] ) に、否定を表す接頭辞的にIgを加え、英語の形容詞 ignoble [ignóubl]「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」にかけた造語ということです。

日本人の受賞者の例として①医学賞、資生堂横浜研究所、『足の悪臭の原因となる化学物質の解明』に対して。②心理学賞、慶應義塾大学、『ピカソとモネの絵画を見分けられるようにハトを訓練し、成功したこと』に対して。③医学賞、帝京大学、『心臓移植をしたマウスにオペラの「椿姫」を聴かせたところ、モーツァルトなどの音楽を聴かせたマウスよりも拒絶反応が抑えられ生存期間が延びたという研究』に対して。④生物学賞、北里大学『パンダのふんから取り出した菌を使って生ごみの大幅な減量に成功した功績』に対してなど多数あります。

 

 

4 受賞の秘密(私なりに考えたこと)

それにしてもなぜ私が・・・、と思いました。特に学生にゴマをすったわけでもありませんし、学生の成績に座布団を敷き、点数を良くしたわけでもないし、と思いつつ、私の授業内容と授業に対する学生の授業評価アンケート結果を見てびっくりしました。学生からの評価が比較的良いのです。

私の授業は、毎回、例のごとくパワーポイントを使用し、その映像は字数を少なくして、写真、グラフを多用しています。これは、私の前職である愛知県環境部から最新の環境情報を画像やグラフとしていただき、作成しています。そして、授業の最後の10分間を「今日の授業に関する小論文提出」として、毎回授業の中で『これだけは覚えてほしい項目』を小論文のテーマとして板書きに書き、次の授業(来週)までにこのレポート、つまり『小論文』を提出する宿題を出しています。

学生には、「小論文は、就職試験や採用試験に必ず出題されるものです。採用する側では、この小論文を読んで就職試験や採用試験の受験を認めるかどうかを決めるのです。つまり、どれほど知識や技能があっても入口の小論文でつまづいたらどうしようもないのです。すなわち、門前払いの道具としての小論文なのです。」

そして、「今日から15回の授業で、小論文の書き方を訓練しながら、環境のことを勉強していきます。小論文の原稿用紙は私の自家製のものです。コピーしたり、ダウンロードできません。自分の手で、受験していると思って書くのです。」と言いますと、学生はしっかり反応してくれるのです。

論文ですから『私の意見』がなければ良い点数はあげられません。並の意見でも低得点です。学生たちは奇抜なアイデアを持って論文を書くのです。(添削しながらじっくり読むと、本当に面白い意見があります。若いっていいなあと思います。)

この様に、環境に関する最新の情報を与え、小論文を書く力を養い自分の意見をしっかり言える訓練を行いました。この結果が『ベストティーチャー賞』なのかもしれません。

 

図―2 涙の出た、受賞記念品(何故か、賞状は有りませんでした。)

 

5 記念品の中身の使い方

 記念品は『全国百貨店共通商品券』です。頂いたときはかなり厚さがあり、これは、もしかすると・・・・、と思いました。が、しかし、その内容は常識の範囲内と思われる量でした。でも満足、満足、大変満足です。

 早速、百貨店へ行き、品定めをしましたが、今のところ、特に買いたいものがあるわけでもないので、結局は、デパ地下で、孫のために、肉まん、餃子、シュウマイ、を買ってしまいました。その後はポテトサラダ、チーズ、コロッケなどデパ地下での使用が1年ほど続きました。今思えば、記念となる万年筆などを買うべきであったと後悔の念を強く感じましたが、後の祭り、常に孫には弱く、マゴマゴしてしまう坂部先生なのです。

                   
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第9話 トンチンカン先生の『お仕事奮戦記』

はじめに

 坂部環境技術事務所の仕事はいわゆる『コンサルタント業』です。環境に関するコンサルを請け負うのが本来の筋ですが、コンサルタント業は、アドバイス業、どんな悩み事でも受けたまわります。なんでもござれ、即刻応需、つまり、『何でも屋』なのです。依頼される仕事は、まさに千差万別、何でも来い、皆出て来い・来い・来い、です。

 坂部環境技術事務所は、一応、環境に関する各種届け出の支援、産業廃棄物処理業者のコンプライアンス支援、大学での環境に関する講義などが主な業務です。そして、皆さまのおかげで、『開設5周年』を過ぎました。そこで、今まで請け負いました非常に難しかった例をご紹介して、坂部環境技術事務所の『実力発揮』と『冷や汗かいた』の一部を紹介します。以下ご覧あれ。

 

<参考> 坂部事務所の主な業務

番号

業 務 内 容

環境関連法規の届出支援

環境コンサルタント

大学教育研究

ビオトープ企画、設計等

審議会委員、審査員等

その他環境に関連した事項

 


第1話 騒音の原因は誰だ!(実力発揮編)

 ある日、A社社長さんから電話がありました。

A社社長:「わが社の工場騒音が基準を超えているので、防音壁を作りたいのですが・・・、どのようなものを作ればよいのか、建設費はどれほどか相談に乗ってほしいのですが・・・。」

坂部:「工場の音の発生源や工場全体のレイアウトを頭に入れたいので、一度訪問します。」

A社社長:「お願いします。わが社の担当者にご指導お願いします。」

という訳でして、A社B工場を訪問しました。工場の周りを歩いてみると、周りは田園地帯、近くにベッド数50床ほどの病院、人が実際生活している住居は工場からおおよそ200メートル離れていました。そして、西北側には200メートルほど離れ、東側には100メートルほど離れて大きな幹線道路が走っていました。それは高架構造でして、4車線の高規格道路です。この自動車音もかなりなものでした。そして、幹線道路が見えなくなる場所へ移動すると騒音は少なくなり、再びその道路の見渡せる場所に来ると騒音は大きくなるのです。「ははぁ~。これが原因だな。」と直感しました。そして、簡易な騒音測定を行い、自動車音が工場の外壁に反射して、その音が騒音の測定値を高くしていることを確認しました。

後日、社長さんにこのことを説明するため訪問しました。すると、社長さんは、いきなり言うのです。

A社社長:「ご苦労様でした。それで、どれぐらいの大きさの防音壁が必要でしょうか。5,000万円ほど用意しなければいけないでしょうか。大きな防音壁を作るとなると製品の積み込み作業のし易さにも影響しますしなぁ。結果はどうでしたか?」

坂部:「しっかり測定しなければなりませんが、多分、防音壁の設置は必要ありません。5,000万円は用意しなくても済みそうです。」

A社社長:「何ですって。実は、親会社から国で決められている規制基準を守らないと仕事を回さないといっているし、市役所環境課からは改善勧告をいただいているし、ISO14001の審査では毎回指摘されているという状況なんですよ。そんなことできるんですか? できるとなれば、こんな有難い話はないです。」

坂部:「騒音の測定に影響しているものは、多分、道路の自動車音が工場の外壁に反射して、その音を騒音計が拾っていると思います。したがって、音の発生源は、ほぼ間違いなく道路から来ているものがほとんどだと思います。つまり、測定目的でない音を拾っているのです。ちなみに、このような自動車音など関係ない音を暗騒音(あんそうおん)と言います。」

A社社長:「なんだか、意味が分かりませんが、どうすればよいのでしょう。」

坂部:「これは、工場が一切の設備を止める長期休暇の期間中に測定することが必要です。その時の音のレベルが工場の操業時と同じ音のレベルならば、この音は工場以外から飛んできている暗騒音と考えられます。」

A社社長:「何だかわかりませんが、とにかく、わかりました。坂部環境技術事務所にお任せします。」

坂部:「それでは、お盆の長期休暇の期間中に測定しましょう。その結果をもって今後の方針を考えることにしましょう。」

A社社長:「よろしくお願いします。あぁ~、とりあえず、助かった。」

 

 という訳で、夏の炎天下で騒音測定です。測定時間は以下の通りです。

 

番号

測定開始時間

測定時のコメント

午前6時

早朝の野鳥の声で頻繁に測定の中断

午後2時

もっとも暑い時間帯で測定者に熱中症の兆候あり。セミの鳴き声で測定の中断

午後7時

ヤブ蚊の襲来で悪戦苦闘

午後10時

眠気との戦い

. 騒音測定は工場周囲4か所と幹線道路に近い2か所、合計6か所

 

 夏の炎天下で、鳥は鳴く、セミは鳴く、ヤブ蚊に刺される、のど渇く、熱中症の兆候でフラフラになりながらの測定です。測定時間は一回当たり約1時間です。騒音測定のほか、風向・風速、気温、湿度など音に影響を与える項目の測定、そして、道路に面した測定場所は、自動車走行量、大型車走行量(のちに大型車混入率を計算します)の測定などかなりレベルの高い測定をしました。そして、結果は予想通りでした。満足。満足。

    下の表を見てください。工場からの騒音よりも高い暗騒音の数値が出ているケースもありました。つまり、高架になっている道路からの自動車音は工場の壁に当たり、反射して、あたかも工場から出ている騒音のように聞こえるのです。

 

表―6 A株式会社B工場の敷地境界における通常時騒音と暗騒音の測定結果

 

夜間

備考

  工場北側(北に幹線道路)

52

54

49

49

 

暗騒音

55

47

50

48

  工場東側(東に幹線道路)

54

65

64

48

 

暗騒音

54

54

50

53

  工場東南側

51

49

51

48

 

暗騒音

51

50

49

52

  工場の西南側

52

51

51

51

 

暗騒音

52

52

49

52

  工場の西北側(西北に幹線道路)

46

44

46

44

 

暗騒音

52

45

52

47

  場東側(三叉路上)

63

64

64

47

 

暗騒音

57

54

51

52

  規制基準

55

60

55

50

 

注1. 操業時の測定日;2009(平成21年)11月

2. 暗騒音は、過去2回の測定のうち高い方の値を表示した(2回とも長期お盆休みに実施)

3.  赤色は暗騒音として測定した測定結果がすでに環境基準を超えたものを示す。

注4. 水色は操業時の測定結果より、休業時の測定結果が高い測定結果であったものを示す。

注5. 黄色は規制基準値を示す。

 

<結 果>

これらのデータを持って、市役所環境課を訪問し、その原因は主に自動車騒音であり、工場の長期操業停止時においても、同じ騒音レベルであったと説明しました。市役所は了解し、坂部環境技術事務所が作成した『騒音に関する報告書』を受け取っていただきました。そしてその結果をもって、親会社へ報告しました。ISO14001の定期検査の時にも説明し、問題ないという結論をいただきました。

 最後に、市との公害防止協定についても、協定値は変更しないものの、市は今後、一切、騒音測定結果については意見を言わないこととなりました。

 

<今回のポイント>

  暑い日に測定することは大変でした。セミの鳴き声、野鳥の鳴き声、そしてヤブ蚊に悩まされました。今後は秋の涼しい時期を選ぶべきとして、計画しています。

  測定した数値がすべて工場から発生する騒音と思い込んではいけないのです。測定しようと思っている音以外の雑音は『暗騒音(あんそうおん)』といい、測定データから削除しても良いのです。たとえば、今回問題になった自動車音の反射音、野鳥・セミの鳴き声、木の葉のサラサラ音、犬の鳴き声、高圧電線(鉄塔)の風切音など、暗騒音は私たちの身の回りにいっぱいあるのです。

  音はよく反射するものです。例えば、空高く飛んでいる飛行機の音がよく雲に反射して低いゴロゴロとした音として聞こえます。ビルの谷間にいる場合、音の来る方向ばかり見ていると飛行機の飛んでいる姿は見つかりません。ビルに反射していると考えて音の方向を見極めると必ず飛行機が見つかるのです。

  音に対して十分な知識を持つことは大切であると思いました。音は一般に苦手な物理の領域ですので、最初から敬遠してしまうのです。ましてや、中小企業の方々には難解な数式で音の伝わり方、防音の方法を検討するのでなおさらです。坂部環境技術事務所に相談することが必要です。

 

第2話 元公務員でしょう。(冷や汗かいた編)

 ある日、C社の社長さんから電話がありました。

C社社長:「ちょっと、お願いがあるのですが・・・。」

坂部;「何でしょうか、できる事なら何でもいたします。」

C社社長:「私は、相撲の○○部屋の中部地区後援会長をしているんだが、後援会規約が無いので、素晴らしい規約を作ってもらえないかねぇ。」

坂部:「ええっ、後援会規約ですか?」   

C社社長:「いいじゃありませんか、坂部さんは元公務員でしょう。この辺りは得意な分野じゃありませんか?」 

  (私とこの事務所は、環境技術事務所なんだけどなぁ~、と思いつつも、

ここで断ったら、以後仕事がもらえない、と思い、勢いで『わかりました。』と言っちゃいました。)

 

 さてさて、困ったぞ。『素晴らしい規約』、OKはしたものの、どのような規約にするのか見当が付きませんでした。兎にも角にも、後援会というものに関係したことがありません。

わかりました、といった手前、後には引けません。とにかく、インターネットで「後援会 規約」と打ち、検索しました。芸能人の後援会(ファンクラブ)、流行歌手の後援会、国会議員の後援会、伝統芸能の後援会など、後援会と名の付くものを片っ端から調べました。そして、お相撲の後援会規約らしくて、ハンドリングの良いものを選びました。それは、即ち、『ど演歌流行歌手の後援会規約』でした。

 その特徴は下表の通りです。

  後援会の総会は開催しない。

  後援会の決議は理事会が行い、その結果を後援会会員に、はがきやメールで伝える。伝える回数は年に1回程度のケースが多い。

  流行歌手がご当地に巡回公演で来るときは、この地域の後援会会員に知らせるとともに、チケットの斡旋をする。

  ご当地に巡回公演で来るときは、公演の最終日に、後援会主催の立食パーティーを開催する。パーティーでは、子供たちにも参加してもらえるようにゲームやくじ引きも行う。

  後援会費は、年額2000円から1万円の低料金で、『会員の増加が第一』を目指している。

 

 

 という訳で、上記5つの特徴を織り交ぜて、お相撲の○○部屋の後援会規約を作成しました。なんだか変な気持ちですけど、この規約はどうも、今でも生きているようです。

 

後援会からいただいた平成25年秋場所番付表の一部分

 

<今回のポイント>

1 コンサルタントの経営理念は、どんな依頼でも断ってはいけない、というものですが、やっぱり断るところは断る必要があるのかなぁ、と少しだけ思いました。相当な悪戦苦闘の結果、自信のない成果物を提出してしまいました。しかし、当たらずとも遠からずというのでしょうか、第三者から見るとかなりの出来栄えだったようです。

2 とにかく、大変勉強になりました。特に、総会というものはないというところに、『う~ん。』とウナズイテしまいました。これから、このような依頼があっても、自信を持って対応できるぞ~ぅ、と確信しました。

3 そうですよねぇ、会員が北海道から沖縄まで広く広がっている状態で総会など開けませんよね。

4 こんな訳でして、坂部環境技術事務所は、いざという時に頼りになる事務所に一歩近づいたかな、という気持ちになりました。


第3話 闇夜の音(実力発揮編)

今度は、D社社長からの電話です。

D社長;「当社の工場騒音ですが、夜間の騒音規制基準をクリアーできないので

す。何が問題なのか調査し、対策を考えてもらえないかなぁ~。」

坂部:「はい、わかりました。貴社のE工場で夜間でも稼働している換気扇、ポンプ類の設備の位置を調べ、音の発生源や工場全体のレイアウトを頭に入れたいので、一度訪問します。」

D社社長:「お願いします。わが社の担当者にご指導お願いします。」

さっそく、ある日の夜10時過ぎにE工場へ訪問しました。10時を過ぎるとほぼ全体の製造ラインは止まるようです。しかし、工場の換気扇、排水処理施設、受電施設から、「ブーー」という周波数の低い音が聞こえます。しかし、この低音はさほどのものではありません。工場の周囲を歩いてみました。すると、西北の方角で、空が明るいことに気が付きました。かなりまとまった市街地が2キロメートル向こうにあるのです。そして、遠くで電車の走行音が聞こえます。そのほかの気になる点はありませんでした。周りは田園地帯です。

翌日、坂部環境技術事務所のスタッフと音の発生源について検討しました。

(会話は三河弁そのままで忠実に再現しました。)

 

坂部:「換気扇、排水処理なんかの音はそんなに気になるもんじゃない、と思ったよ。排水処理設備も工事の敷地から、だいぶ離れとるし、測定結果に影響を与えるもんじゃないと判断するよ。」

Aスタッフ:「音は低い音ほど遠くまで伝わるじゃん。やっぱ、遠くから飛んでくるじゃないかねぇ、ほい。」

Bスタッフ:「そんなら、近くに、幹線道路はなかったかねぇ。」

坂部:「あったよ。だけどねぇ、夜間の自動車走行量は少ない状態だったじゃん。でもよぅ、2キロメートルほど遠方にかなりまとまった市街地があったんだけどねぇ。こいつが気になるんだよ。」

Aスタッフ:「だったら、そこからの低周波音じゃないかねぇ。」

坂部:「測定の日は、音に関して、そんなに気にならんかったよ。」

Bスタッフ:「風もなく、湿度が高く、気温が下がっている場合(三河弁では『ばやい』と発言します)は、遠くからの電車音の音がよく聞こえるという現象を知っとるよ。特に低音部の音がよく伝わるという話じゃんか。」

Aスタッフ;「大気の状態が逆転層になっとる場合は音がよく聞こえるじゃん。」

坂部;「たしか、逆転層の状態じゃぁ、遠くの大型船のエンジン音が山の手まで聞こえるという話じゃん。そうだ、これが原因の一つと考えればいいじゃん。話は簡単だなあ、ほい。」

Bスタッフ:「一度、騒音測定をやろまい。その時は必ず、騒音測定だけでなく、温度、湿度、風向、風力も同時に測定をやろまい。また、当日の天気図も入手しようや。」

 

<解説>

▼排水処理なんかの・・・排水処理などの

▼気になるもんじゃないと思ったよ。・・気になるものではないと思いましたよ。

▼だいぶ離れとるし・・・かなり離れているようですが

▼与えるもんじゃない・・与えるものではない

▼伝わるじゃん・・・伝わるでしょう(同意を期待する言葉)

▼やっぱ・・・やはり

▼飛んでくるじゃないかねぇ、ほい。・・・飛んでくるのではないでしょうか

(「ほい」は特別な意味はなく、発声時のリズム感的役割とでも言いますか・・。)

▼そんなら・・・それでしたら

▼なかったかねぇ・・・有りませんでしたかねぇ

▼でもよぅ、・・・でもね

▼だったら、・・そうでしたら(そうであったら)

▼気にならんかったよ。…気になりませんでしたよ

▼知っとるよ・・・知ってますよ

▼話じゃんか・・・話ではないですか

▼状態じゃぁ、・・・状態では

▼測定をやろまい・・・測定を実施しましょう(勧誘の意がある)

▼入手しようや・・・入手しましょう(「やろまい」ほど強い勧誘の意味はない、むしろ、

同意の意味合いがある)

 

という訳で、夜間10時の騒音測定を実施しました。騒音測定は同時に気温、湿度。風向、風速、その他気の付いた事項をメモするなどスタッフ全員(3人)とD社の環境担当職員の合計4人で対応したのです。

 やはり、規制基準の50デシベルを超えていました。その場所は市街地が望める地点であり、市街地の後方5~7キロメートルは海になっています。そして当日の天気図をインターネットで調べると、この地域全体がほとんど風もなく、低い温度になっています。逆転層が形成されやすい条件が整っていました。

下の図をご覧ください。音は逆転層の境界を反射している状態です。いわゆる『音がこもる』という状態です。逆転層内にある音の発生源(市街地)と測定点は、まさしく音のこもった中にありました。

 したがって、市街地の低周波音が測定データを高くしていたのです。そして後日、D社社長さんにこのことを説明し、基準値を超える原因はD社の工場ではありませんと結論しました。その結果をもって市の環境保全課を訪ね、市との公害防止協定の見直しを約束しました。

 

図 逆転層形成により騒音レベルが高まる仕組み

 

<今回のポイント>

  騒音測定は、音の測定だけでなく、周囲の状況、当日の気象状況、場合によっては近くの幹線道路の自動車走行量、大型車混入率などの情報もしっかり取得しておく必要があります。

  騒音をはじめ水質、悪臭、土壌など環境に関する測定は、測定する前に測定値に影響を与える要因をピックアップし、十分な検討、関係者からのアドバイスを得て実施することが望まれます。

  測定には関係する情報をできるだけ取得すると、測定データの評価がより確実なものとなります。測定している時の状況、例えば、電車音が聞こえた、ヘリコプターが飛んでいた、生活道路に軽トラックが走行した、風が吹きトタンが揺れる音、木の葉がサラサラ鳴るなどできるだけ記録することが必要です。


第4話 あのぅ、坂部せんせいぃ~。(冷や汗かいた編)

私は、一応、大学の客員教授や非常勤講師をやっています。講義の内容は環境に関するものです。そして、講義では学生の目線で優しく、質問しやすい雰囲気づくり、自分の意見を主張できる雰囲気づくりを目指しています。

大学は、文学部教育学科、工学部土木学科、工学部都市環境デザイン学科での教鞭です。それぞれ学科は違うのですが、『環境』という切口では一緒です。学生は、もちろん、文学部は女子学生がほとんど、工学部はほとんど男子学生です。

女子学生も、男子学生も、皆さん単位を取得するため、しかも、A判定での成績を狙って、あの手、この手と様々な方法で、要領よく勉学に勤(いそ)しんでいるのです。以下、3例ですが、学生のアクションと坂部先生の対応を紹介します。

 

 

講義の風景 中国大連 東北財経大学にて

 

<その1> 先生、お聞きします。

 E大学では、「5回以上講義に欠席をすると、単位を与えてはならない。」という決まりがあります。そのため、授業の時間がモッタイナイのですが、毎回、授業のはじまる前の5分間前後の時間を使って出席を取っています。でも、時々、授業をサボる、授業を休む学生、そして遅刻する学生もいます。

 ある時、授業が終わると、一人の学生がやってきました。何か授業でわからないことを聞きに来るのかなぁ。まじめな学生だ、どんなことでも答えてあげなければいけない、と自分に言い聞かせ、「何か分からないことでもあるのかねぇ。何でも聞いて。」と学生が質問しやすい雰囲気づくりに努めました。すると学生は言うのです。

学生:「先生、僕、あと何回、授業を休めますか? 」

坂部先生は一瞬何の事かわからなく、頭が真っ白。授業を休むって、何だろう?そして、理解しました。『5回以上休むと単位を与えない。』と言う決まりがあるので、単位を取得できるにはあと何回まで休むことができるのだろうか、と言っているのです。

坂部先生:まじめに閻魔帳を見て、「あと1回だ。」

 

<その2> 先生、お願いぃ~。

 F大学では、「A判定の評価を受けた授業がいくつ以上ないと、教育実習をさせてもらえない。」と言う決まりがあります。つまり、教育学科を卒業しても教育実習の単位を取得していないと教員免許と言う国家資格の受験資格がなくなるという事です。

ある時、夕食後の貴重な時間に、少しお酒が入った状態ではあるものの(少し顔が赤い程度で、判断力は決して衰えていない状態です)、手際よく、かつ、じっくりと学生から集めた100人分の小論文を添削していると、その中に次のような書き込みを見たのです。

「先生、お願いぃ~。教育実習に参加できるためには、A判定がどうしても1つ足りないのです。A判定くださ~ぃ。♡!!」

そこで先生は考えました。教員になるチャンスを私が潰してしまうのではないか、いやいや、そもそも、ギリギリの成績で教員免許を取得して、はたしてどのような先生になるのだろうか。しかし、成績と先生の資質との間には相関関係がないと考える方が正しい。と言って、ああでもない、こうでもないと、いろいろなことを15分程度考えていました。

そして、結果は、『この学生は、自分を主張する勇気がある。』という事で、座布団を1枚加え、A判定としました。繰り返し説明しますが、決してお酒が入っているせいではありません。あしからず。

 

<その3> 先生、頼みます。

 G大学では、比較的作文力の弱い理系の学生ですので、特に期末試験の時は、論文の原稿用紙に余白は残さない、与えられた1800字の原稿用紙の95%は書き込むことなど、論文の書き方を教えています。私は試験が始まる前に「余白が出来たら、自分の思い、抱負などを書き、出来るだけ書き込むことが重要だ。」と点数が上がるための手法をそれとなく教えていました。

ある時、夕食後の貴重な時間に、またまた、少しお酒が入った状態ではあるものの(同じく、少し顔が赤い程度で、判断力は決して衰えていない状態です)、手際よく、かつ、じっくりと学生の書いた答案用紙100人分を採点していると、その中に次のような書き込みを見たのです。

 「先生、頼みます。1年、留年してしまいました。これ以上留年は出来ないので、必ず単位をください。C判定でもいいです。これ以上留年すると親が悲しむので、お願いします。」 まったく、この学生は他力本願的だ。でも、と、ここで再び考えました。この学生の将来を考えると、親御さんの気持ちを考えると、いやいや、大学と言う格式を考えると・・・。

そして、結果は、『この学生は、自分を主張する勇気がある。』という事で、座布団を1枚加え、C判定とし最低点での合格としました。再度、繰り返し説明しますが、決してお酒が入っているせいではありません。ふたたび、あしからず。

 

<反省>

1 学生の目線で優しく、質問しやすい雰囲気づくり、自分の意見を主張できる雰囲気づくりを、やや、目指しすぎたようです。先生は『威厳』を持つことも、また、大切であることがわかりました。特に『、ハート・マークでのお願いぃ~。』、には、鼻の下を長くしないことの重要性を再認識しました。


 

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 第8話 中国・大連漫遊記

大連へは大同大学の関係で訪問することになりました。東北財経大学、大連理工科大学の先生が、毎年、学生を連れて北九州市立大学の学生と交流を兼ねて「調査・研究報告会」に参加するのです。この交流には大同大学も参加します。私は毎年、この「調査・研究報告会」に学生に随行して参加するのです。その時、研究報告会でなく、懇親会の席で懇意になった東北財経大学の先生(女性)と話がまとまり、大連へ訪問することになったのです。懇意になった先生は日本人の先生、つまり日本の女性です。大学では日本語を教えるとともに環境に関する研究をしておられるようです。私は大連の東北財経大学での講演をお引受けすることとなりました。
 北九州から帰り、しばらくして、大連の先生と訪問日程、講演の内容などをメールで打ち合わせをしていると、横にいた女房が・・・・・。

お母さん:「私も行きたいっ。」

 

図―1 東北財経大学の正門前にて

 

お父さん;「えっ~!本当?」(一応、困ったなぁ~。という顔をして)「わかっているかねぇ。向こうでは中国語を話すんだぞーっ。大丈夫か?」(私も中国語を話せませんが、ちょっと脅かしの気持ちで言いました。)

お母さん:「謝謝(シェ、シェ)は言えるわよ。」

お父さん:「しょうがないなあ~。電話でお願いしてみるよ。」

お母さん;「はい。」(ややニコッとして、シッカリ ウナズク。)

 

数日後、丁度、運よく(?)、大連の先生から電話がありました。

大連の先生;「もしもし、坂部さんですか。大連の日程は、3泊4日でよろしいでしょうか。第1日目は大連に到着後、午後から大学で講演をお願いします。2日目は旅順への視察、第3日目は大連日本語研究会での講演と懇親会、第4日目は帰国です。」

お父さん;「はい、OKですよ、先生にお任せします。」

大連の先生;「私の教える、女子大生が大連の町をご案内したいというのですがよろしいでしょうか。」

お父さん;(やや、ニタニタ顔で・・・)「いいですよ、先生にお任せします。」

お父さん;(やや言いづらい気持ちで・・・)「「いやー、実は、こんなこと言ってよいのか、女房が、一緒に大連へ連れてって~、と言うんですよ。弱っているのですが、いかがでしょうか?」

大連の先生;「よろしいですよ。奥様も、専門分野の健康について、大学でお話しください。学生が喜びますよ。」

お父さん;(えっ~!いいのかな。先生が気を使っているのではないかなぁ~、と思いつつ)「本当ですか、無理を言って申し訳ありません。有難うございます。」

と言う訳で、一緒に行くことになりました。その日から女房はルンルン気分。講義の準備にてんやわんや。パワーポイントの作成は・・・・、もちろん私です。お手伝いと言うよりほとんど私が作成しました。

 

いよいよ、旅立ちの当日です。中国東方航空でセントレア(中部新国際空港)を飛び立ち、おおよそ2時間で大連国際空港です。大連国際空港では、JTBの係の人が待っていました。空港からホテルまでの案内を旅行者にお願いしましたので、安心です。JTBの自動車で20分、大連の街のほぼ中央に位置する『ラマダホテル』に到着しました。ここまでは順調、順調。ホテルもきれいで清潔。これも順調、順調。

予定どおり、東北財経大学の学生さんがロビーで待っていました。そして、タクシーで大学まで案内してもらい、すぐ講演に入ります。

 もう一度、図―1の写真を見てください。この楽しそうな女房の顔、セントレアの免税店の袋を持って、東北財経大学の入り口正門前で記念撮影です。つまり、レアというのでしょうか、あまり皆さんが観光地として行かなく、しかも、日本の近代史に関係が深い大連に旅ができたことと、日本でいえば、一橋大学レベルの優秀な大学(大連理工科大学の先生がおっしゃっていました)である東北財経大学で講演ができるという、二重の喜びでウキウキしています。

 講演では私が50分ほど、「日本人の自然とのかかわり」と言う、公害と言う切り口でなく、非常に気を使った自然を切り口としたテーマで講演をしました。そして、私の講演が終わると、いよいよ、女房先生が30分ほどの講演です。題名は「日本人の健康管理」です。特に、日本では成人病予防に関心があることを説明します。そして、成人病は若いころから気を付けましょうと学生たちに説明しています。

 

図―2 東北財経大学での女房先生の講演風景

 

そして、いよいよ、質問の時間です。この場合やはり女子学生の方が元気が良いのです。どこの国でも女性は強いのです。私の女房も例外なく・・・・。

女子学生A:「坂部先生にご質問します。日本人の女性が健康に関して気を使っている日常生活は何ですか?」

女房先生:「カクカク、シカジカ」

女子学生B:「日本では、共稼ぎは出来るのでしょうか。どのような状況ですか?」

女房先生:「カクカク、シカジカ」

男子学生C:「日本の企業に就職したいのですが、日本での生活で注意しなければならないことは何ですか?」

女房先生:「カクカク、シカジカ」

 

時間が経つにつれて、「順調」ではなくなり始めました。好調 快調 堅調どころか、雲行きが怪しいという状態です。大連に到着してほんの6時間ほどでこのありさまです。前途多難、これは参った、参った。

質問時間では、ほとんど、いや全てが女房への質問でした。そして質問時間が終わっても、みんな女房を取り囲み、意見交換。私は静かにパワーポイントの機械から電源を切ったり、使用した資料の片づけ、忘れ物がないかチェックなど一人淋しく、帰る支度をしています。(目に見えるようでしょう。)

そして、主だった学生と一緒に学生寮へ移動です。講義棟から出て、研究棟を横切り、教員宿舎を通り抜け、やっと学生宿舎です。本当に緑の多い、自然豊かな広々とした大学キャンパスです。さて、学生宿舎へ入り、食堂のような場所へ入りました(学生が自炊できるような構造になっている食堂です)。図―3を見てください。そこでは楽しい食事会の始まりです。学生は日本語専攻の学生達ですので、『日本語が聞きたい』、『日本語を話したい』、と言う学生ばかりです。ここでも、やっぱり、女子学生ばかりです。もちろん、話の中心は、女房先生でした。当然ですが、ここでも、私は初めて食べる本当の中国料理の何種類かを珍しく順に一人でムシャ、ムシャ、ムシャ。みんなの話に入ることのできるのは、時々訳も分からず相槌を打つ時だけでした。

 

図―3 東北財経大学の学生と学生寮で食事会。学生の出身地のユニークな食べ物がいっぱい。

 

翌日、積極性のある女子学生2人に大連の街を案内していただきました。旧満州国の表玄関であり、敗戦による日本への引揚者が悲惨な面持ちで通過した大連は、大和ホテル、大連駅など昔日本人が建てた大正時代の面影を残すきれい

な落ち着いたビルと街並みがみられます。そして、西の方に発展した新市街地は高層マンションが林立し、その中央に「星海広場」と言う中国建国記念公園があります。その広さは大変なもので、横断するのに歩いて30分ほどあります。広場の南は海岸で船着き場の様になっており、ここから大洋へ漕ぎ出すというイメージがありました。その中央には図ー4にもありますように、様々な模様が刻まれた高さ15メートルほどの大きなポールが建っていました。

図―4 大連市内 星海広場にて

 

さて、図―5を見てください。女房と女子学生は、昨日より、さらに親密になっています。お父さんは、3人が歩く、約10メートル後方を一人淋しく付いて行くという構図になっていました。それでも、約半日をかけて新しい大連と歴史のある大連を案内していただきました。それはそれでよかった。しかし・・・・・・。

お父さんの独り言:「お母さんばっかり…。うーん・・・。連れて来るんじゃなかった。」

 

図―5 完全に意気投合した状態

 

反省1:女房のお願いはよく考えて、それからおもむろに返事をしましょう。いきなり、何とかしようと思ってはいけません。安易な答えはいけません。

反省2:『女性は、とにかく、地球上のすべての女性は、本来度胸があって、何事にも瞬時に順応する動物である。』、と言うことを再確認しました。

反省3:それにしても、『軒を貸して、母屋を取られる。』とはこのことだとつくづく思いました。東北財経大学でも、大連の街でも、淋しかったこと。泣きたくなるほど・・・。

 

それでは、皆様、ごきげんよう、さようなら。

     妻をめとらば才たけて、みめ美しく情けある、とは全く関係ない男より。

 

大連での驚き

<その1>

 大連では、お茶を飲むという習慣はありません。白湯(さゆ)が出てくるのです。大学でも、寄宿舎でも白湯です。大連の先生に聞きましたら、寒くてお茶は栽培できません。したがって、白湯を飲むのです、と言うお話でした。

<その2>

 タクシーは相乗りOKです。女房と2人でタクシーに乗りましたが、途中で助手席に見知らぬ中国人が乗り込んできて、タクシー運転手さんと中国語で話しながら出発しました。その中国人は途中で降り、私たちは無事ホテルに着きましたが、心配で、心配で…。

 翌日、大連の先生に聞きましたら、「いつまでも、空車を待つより、相乗りの方がタクシーに早く乗れるので、合理的です。」と言うお話でした。

<その3>

 日本ではご飯が主食ですが、なんと、大連では餃子(ぎょうざ)が主食のようです。大皿に山盛りで5元(1元は15円ですから75円です)と言う値段です。5人前ほどの多さでした。びっくりでした。

<その4>

 大学生は非常にハングリーです。ほとんどの学生が寮生活です。しかも6人部屋で、その中で喧嘩したり、議論したり、合意したりと、人間が出来上がっていくのだそうです。お正月には実家まで18時間も汽車に乗って帰るそうです。ある学生は30時間以上も汽車に乗り継いで行くと言うことでした。それも立ち席です。デッキと言うこともあるそうです。本当にハングリーです。私たちの講演も真剣なまなざしで聴いていました。言い忘れましたが、ちなみに、中国の大学は基本的には単科大学です。

    

    ★ まだまだたくさんありますが、本日はここまでとします。

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第7話 プータンより愛をこめて ーブータン漫遊記ー
 
  私たち夫婦は、おおよそ結婚40周年になります。このたび、ブータンに赴任している息子と日本に住んでいる次男の息子が40周年を祝って私たちに『ブータンへの旅』を計画し、資金を全額提供していただきました。40周年はルビー婚式というのだそうです。息子たちは、『金婚式の50周年になるとお父さんもお母さんもヘナヘナになって旅行に行けなくなる恐れがある。』ので、2人で検討した結果、40周年にしたということです。
 おみやげの購入資金まで提供してもらうほど、気を使ってくれましたが、「ヘナヘナ」という心配には、「むっ」、とするやら、「涙が出る」やら、何となく複雑な思いでしたが、「老いては子に従え」ということで了解しました。それではブータン漫遊記をお話します。
 第1章 旅の準備
 名古屋からブータンへは、まず、「タイ・エアライン」でセントレアから5時間ほどでタイのスワンナプーム空港へ飛び、一泊して早朝4時テイク・オフの「ロイヤル・ブータン・エアライン」でブータンのパロ空港へ飛ぶのです。飛行時間は約3時間です。この時期である3月から4月はちょうどブータンの各地で「ツェチュ(お祭り)」が開かれており、世界中の観光客が集まるのです。

      
       プナカのゾン(県庁と寺院が一つになっている昔の要塞

息子から、「ブータンでは公衆トイレのない場所が多いので気を付けてよ。」というメールが入っていました。
 お母さん:「えっ。気を付けてよと言われても、どのように気を付ければよいの?」
 お父さん:「トイレのない観光地、これは大変だね。」
 お母さん:「どうしようかねぇ。困ったわ。」
 お父さん:「サルバDパンツ、はどうかね。」
 お母さん:「私はいやだわ、まだ、そんなもの、身に着ける年齢じゃないし・・・・。」
お父さん:「しかしよく考えたら、ツェチュ(お祭り)では、見学の場所取りが大変で、一度場所をとったら5時間ほどは離れなれないということだよ。」
 そうです。場所を離れると他の人が座ってしまうのです。この様なわけで、結論から申しますと、紙パンツをはいて行けばなんとかなるのではということに女房と意見が一致しました。ところで、「紙パンツ」の正式名はいわゆる、単なる「紙おむつ」です。
あしからず。

     
      パロのツェチュの一場面(紙パンツをはいて必死にシャッターを押した)
 
  さっそく10枚入りのものを購入して、試着しました。紙ですので暖かく、「トイレに行きたい。」という気持ちも薄らいで、姿かたちも『ヒップアップ』になり、腰からお尻にかけて、若く見えるようです。さっそく旅行カバンに入れました。女房は、「お父さん、一度、漏れないかどうか試したらどうですか。」と、盛んに言うのです。しかし、ここは品よく、そのチェックはしませんでした。
 ということで、不自由な生活を送っている単身赴任の我が豚児のために、インスタントみそ汁、カットわかめ、半生うどん、だしパックなど、『日本の味』をいっぱい買い込み、持っていくことにしました。
 
 第2章 パロから首都ティンプーへ
 パロの町は標高2,500メートルです。空港はS字型の谷底にありました。飛行機の主翼が山にぶつかるのではないかという大接近をしながら、右へ、左へ旋回し、飛んでる翼のすぐ近くで、ヒト影、牛の姿、ヒマラヤ杉が右から左へ飛んでいく様子はスルリ、いやスリル満点です。手に汗握るとはこのことでして、やっとのことで無事滑走路の中央へ着陸しました(アぁ~怖かった)。どうも怪しい。管制塔がない、小さな木造の空港ビルディングがチョコンとあるのみでした。そうです。この空港へ舞い降りるのはパイロットの目で確認しながら着陸する、いわゆる、『有視界飛行』なのです。狭い谷に3,000メートルの滑走路は驚異的です。欠航はしばしばあります。いうなれば、着陸は天候とパイロットの腕次第というところです


      
      ブータン パロ空港へ到着(後方はヒマラヤへ繋がる山脈)
 
 タイまで迎えに来た豚児と女房、そして私の3人は空港ビル(お寺の本堂のような雰囲気です。)で入管手続きです。するとそこはすでに「ゴ」という、私たちが昔来ていた、綿の入ったハンテン(三河弁でドテラと言いますが・・・。)を着ている入国審査官がいました。「ゴ」はブータンの制服なのです。審査官の机も白木の木製です。ここはブータンという意識がより強くなりました。

      
      パロ空港にて、入国審査(ビザを取得していないと入国できない)
 
空港の外はというと、駐車場がありその向こうはすでに山肌が迫っています。商店街はありません。比較的広い駐車場があり20台ほどの車があるのみでした。
 空港ビルの外に出ると40歳くらいと思しき「ゴ」を着た人が、ニコニコして近づいてきました。豚児と何か英語でおしゃべりしています。どうやら、予約したタクシーの運転手さんです。
 お父さん:「へぇ~。運転手さんでも英語がペラペラなんだ。」
 お母さん:「特別に英語のできる運転手さんを予約したんじゃないですかね。」
 運転手のライさんは駐車場へタクシーを取りに行きました。ネパール系の人です。
しばらくして、「TAXI」と書いた看板を屋根に付けた軽自動車が私たちの前に現れました。そうです。この国ではすべてのタクシーは軽自動車なのです。そして、中国の大連で経験した、『相乗りOK』だそうです。
大きい荷物は後のドアーに入れ、もう一つは後部座席の私と女房の間に置き、私と女房が二人で抱きかかえ、首都ティンプーまでの日本で言えば国道1号に匹敵する幹線道路を走ります。走りますが、「悪路」に悪戦苦闘です。ちなみに、「悪路」の構造ですが、自動車が通る片道1車線つまり、往復2車線の幅のみ舗装されています。両サイドは背の低い牧草のような草が少し生えています。そこでは、数頭の牛が自由に草を食んでいます。しばらく走るとヤギもいました。そしてまたまたしばらく行くと家畜化したヤクもいました。男の人が後ろ手にムチを持っています。国道1号に牛やヤギ、ヤクという光景は、ブータン特有の農家の家々を背景に、「のどか」そのものです。
豚児は助手席で、再び運転手さんと英語で話をしています。そして1時間ほど、ブータン特有の農家の家、棚田、ヒマラヤ山脈から続いている険しい山肌を見ながら、ティンプーへ進みました。
 

 第3章 ブータンの教育・病院
 ブータンの子供はみんなニコニコしています。カメラを向けると、ポーズをとります。目が合うと『ハロー』とあいさつします。日本人にそっくりな顔立ちが、親しみをより強くします。登校する男の子たちは全て『ゴ』を学生服として着ています。女の子は『キラ』というこれまた、ブータンの制服を着ています。キラは1枚の大きな布を巻きつけるようにして着込むのだそうです(着衣する現場は見ていません)。近づいてみると、綺麗な刺しゅうを施した、見るからに高価な布です。そのキラを着た若い女性が、そのまま地面にペッタリ座っているのです。汚れる、刺しゅうの糸が切れる、勿体ないと心配しながら地面にペッタリ・ペタッと付いている腰のあたりに、「勿体ないなぁ~。」という視線を置き、数秒後、ハッ、と我に返り、おじさんの全く動かしていなかった目線の位置に反省するばかりでした。


           
           パロのツェチュで、制服の「キラ」を着た子供たちと女房

         
         パロのツェチュで、制服の「ゴ」を着た子供たちと女房
    
病院では軒先にある受付に10人ほどが並んでいました。軒先の5人くらいが家のひさしで陰になり、あとの人は全て太陽が当たる野外という状態です。でも静かに並んでいます。それほど繁盛している様子もなく、静かな雰囲気です。この様な情景が毎日見られました。

    
      病院の外来受付に並ぶブータンの人々

 ブータンでは、教育費と医療費が無料です。初等教育から国語はゾンカ語という国の言葉で習いますが、算数、理科、社会、体育など他の全ての授業は英語による授業です。それで子供たちは人懐っこく「ハロー。」というのでした。お店の店員、レストランのウエイトレスからタクシーの運転手までみーんな、英語が通じるのです。
なぜ、英語による授業かというと、国語である「ゾンカ語」はブータンの西の地方の言葉です。その他の地方はネパール語や種々の民族語を話しており、こちらの人はゾンカ語が話せないのです。という訳で、国語以外の授業は英語に統一しているのです。教育は6歳から6年間、日本と同じ初等教育を受けます。18歳までが中等教育です。授業料は全て無料です。その結果、ブータン人はかなり教育レベルの高い国民になっています。
 参考ですが、隣国のインドからカースト制度を嫌ってブータンで仕事をしているインド人が多くいます。インドは教育費が「無料」ではありませんので、教育を受けていないインド人がブータンへ来て働く場合は、多くの場合、工事現場の労働者などの賃金の低い仕事に就いているということでした。



 第4章 ブータンの産業、外貨獲得策の切手製造

     
        第5代ワンチュク国王夫妻が写った切手シート

  ブータンの現在の外貨獲得策は、観光と水力発電です。観光目的でブータンへの入国はビザが必要です。ビサを申請するとブータン国は1日250ドルの観光料金を請求します。例えば、3泊4日ですと1,000ドル用意しなければ入国できません。しかし、ホテル、マイクロバスが指定され主な観光地を案内していただけます。したがって、頭ボサボサ、ヒッチハイク的、無銭旅行の一人旅は出来ません。そのため、年齢の若い観光客はいません。すべてマイクロバスで観光地から観光地へ移動するので、街中では観光客と会うことも、ほとんどありません。私は、豚児の親ということで特別にビサの取得が出来ました。ブータンへ赴任している人の配偶者、子供、親は特別にビサの取得が出来て250ドルを払うことなく入国出来るのです(ほんとに、我が豚児の御蔭です)。そして、街中を気ままに散策できました。とは言うものの、街は谷底に広がっているため坂が多く、2,500~3,000mの高地ですから、少し進むと息切れがして、何度も、何度も小休止してしまいます(決して歳のせいではありません)。
 水力発電はヒマラヤ山脈からほとばしる豊富な水で小さな発電所をいくつも建設し、発電します。そしてインドなどへ売電するのです。


       
       首都ティンプーの遠望 (お経を書いた旗(経文旗:ダルシン)がたなびく)
 
 十数年前まで、ブータンは鎖国状態でした。観光で人を入国させないのです。水力発電の技術もない時代、ブータンは切手製造で外貨を稼いでいたのです。その名残でしょうか、切手博物館が首都ティンプーの中央郵便局内に設置されていました。世界中の切手を製造していた歴史が分りました。
 私も、日本に関係する切手を買いました。また、「今ここで、オリジナル切手シートを製造します。」と言う案内板がありました。もちろん、悔しいが、我が豚児が看板を読んで教えてくれました。そのオリジナル切手シートの完成品はこの章の最初に掲げた写真のとおりです。第5代ワンチュク国王とそのお妃の写真が載った切手シートですので、霊験アラタカに、上位に位置する皇室のために、第4章の冒頭に掲げたのです。よーく見てください。
 
 日本に帰ってから、わが事務所を訪問する人々に、この切手シートをお見せすると、「ほほえましい、いい切手ですねぇ~。国王夫妻がカジュアルに帽子をかぶっていますねぇ~。」と言って、切手をジロジロ見ます。すると、突然、「なぁ~んだ。このシート、切手の部分は坂部ご夫妻のスナップ写真じゃありませんか。」となってしまいます。実は、オリジナル切手シートは、切手の部分にデジカメで撮った写真を乗せてくれるのです。私たち2人は、その場でカメラに収まりその場で切手を作成していただきました。所要時間は約10分でした(実際はプリンターが不調で、翌日、出来上がりでした)。
 私の事務所に訪問する人に、この切手シートをお見せますと、ほとんどの人が、一瞬、『帽子をかぶり、リラックスしたワンチュク国王とそのお妃』と見ます。そして、私が、「よく見てくださいよ。」と言うと、ジーッと見て、不思議そうに首をかしげ、おでこにしわを寄せて、目を寄せてじっくり見て、しばらくすると、やっと、私たちであることがわかるのです。そして、「なぁ~んだ。」と言いつつも、
 A氏:「老眼が進んでいるので、見間違えました。」
 B氏:「暗い場所で見ているので、見間違えました。」
 C嬢:「二人が国王と同じように左右並んでいるので、ごまかされました。」
 とか、何とか言うのです。『国王とお妃そっくり、身のこなし方から品格までも、間違いなく、国王ご夫妻と見えました。』と言う人は、一人としていませんでした。全く1人も・・・。さらには、こんなこともおっしゃいました。
 D夫人:「この切手、ホンモノですか?」
 
 第5章 野菜市場にて
 首都ティンプーには、『王政百周年記念市場』という、名前を聞いただけで『凄い』という市場がありました。土曜日と日曜日だけ開かれる市場です。早速、我が豚児に案内してもらって市場見学をしました。商品として並んでいるのは、小粒なジャガイモ、チンチクリン(三河弁でして、小さくて胴長短足のような感じを意味します)なアスパラガス、再利用のペットボトルに入ったチーズミルク(牛乳を振ってチーズを作った残りの牛乳です)、一日中しゃぶっていても溶けて無くならない干しチーズ(噛んだ場合は必ず歯が欠けるほど固いチーズ)、インドから輸入した表面に潮を吹いている干し小魚などです。しかし、市場をくまなく歩いて、気が付いたのですが、日本の野菜と同じものがかなりあるのです。カボチャ、赤玉ねぎ、キャベツ、トマト、にんにく、キュウリなどです。
 その訳はというと、1960年代、日本の人の専門家である西岡京治氏が長きにわたって農業指導を行ってきたのです。日本から種子を持ち込み、商品化できる野菜の栽培を指導したようです。このため、昔からブータンは日本に対して非常に尊敬の念を持っています。つまり、親日的です。


      
      王政100年記念市場の情景(日本の指導で豊かな農産物が並んでいる)

 

市場は賑やかで、様々な人々がいます。飲食店を経営しているとみられるおばさん。家族で買い物をしている親子連れ、ブータンのお坊さんまでいるのです。お店の人はおばさんがほとんどですが、買っても買わなくても『ニコニコ』しています。息子が英語で「これいくら?」と言って、それきり買わなくても『ニコニコ』、本当に気持ちが良いのです。私の経験ですが、お土産屋さんに入って、品物を見て、結局買わなくても、お店のおばさんは『ニコニコ』して、サンキューと言いました。ブータンは本当に良いところです。

また、ブータンでは『殺生』は厳禁です。豚児のジャイカ・ブータン事務所に「ハエ」が入ってきても誰一人、ハエたたきでハエを殺さないという話を聞きました。軽く叩いて気絶させ、外へ放り投げるのだそうです。市場で売っている魚も同じです。特に『サカナ』は神様のお使いをする生き物でして、川での釣りは出来ません。法律で「魚釣り禁止」と決まっているようです。そのため、魚は、インドから、干し魚として輸入されているのです。殺すのはいけないが食べるのはOKという都合の良い解釈をしています。ブータンらしさが見えています。我が豚児は、チンチクリンのアスパラガスを買いました。30本ほどの束で30ニュルタム(45)でした。

そして、秤(ハカリ)ですが、野菜が小さいことに反して、どんぶり勘定のような大まかなメモリのハカリがデンと店の中央に座っていたのが滑稽でした。

第6章    プナカのゾンと寺院

 ブータンの主な都市には必ず『ゾン』という、日本でいう県庁と寺院が合体した建物があります。行政と宗教の中心なのです。ゾンとは以前、『要塞』という機能を持った建物で、谷全体を見渡せる場所に建てられています。

 

国王の結婚式が執り行われたプナカのゾンにて

 


 ゾンに入るときは必ず、帽子を脱ぎ、霊験アラタカな気持ちで門をくぐります。中に入ると中庭が2つあり、入ってすぐの庭には、庭の四方に廊下があり、県庁の各課が並んでいます。土木課、教育課、衛生課などの名前が引き戸の上に英語で書いてあります。奥の中庭へ進むと、数人のお坊さんがゆったりと歩いており、奥には奈良の大仏さんのような大きな仏像が安置されています。
これが『ゾン』の大まかな構造です。一般人も入れますが、ティンプーのゾンは午後5時以降でなければ入れないのです。今回、第5代ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が、昨年(2011年)秋に結婚式を挙げたプナカという街のゾンを訪ねました。
朝7時に、ティンプーを、例の軽自動車タクシーで出発して例の悪路国道をパロとは逆方向へ、東へ、東へと、ひた走ります、1時間ほど走ると検問所がありました。ブータンでは県境を越えるときは必ず通行許可証を提示するのです。例えば、愛知県から岐阜県へ行くときに、木曽川の橋の真ん中に踏み切りの遮断機のようなものがあり、許可書を見せてOKならば通過できる、という仕組みなのです。検問所の横には露店が並んでいます。そこでは皆さん小休止して、リンゴ、干しチーズなどを買いお休みします。
再び軽のタクシーで揺られ、揺られて悪戦苦闘、その時、私の携帯電話が鳴りました。
 お父さん:「もしもし、坂部です。」
友人A氏:「もしもし、お久しぶりです、友人Aでーす。来週、空いていますか?年度も改まったので、みんなと飲み会をやろうと思ってまーす。いつもの駅前で、いつがいいですかーッ?」
お父さん:「もしもし、今ブータンにいます。ごめん。来週もブータンです。」
友人A氏:「もしもし、え~っ。ブータン? ブータンの何処?」
お父さん:「自動車の中で~す。悪路で悪戦苦闘していま~す。


     
     県境での検問中に休憩をする観光客

友人A氏は私の状況を聞き出すため、しばらくの時間、ネホリ・ハホリ聞くのです。その結果、今回の旅行で、NTTからの電話料金は通常の倍である2万円を優に超した請求となってしまいました。どうも、友達の通話料金は彼の携帯電話から日本のNTTまでの少量の料金でして、私の方は、日本のNTTからブータンの電話局とブータンの電話局から私の携帯電話までの高額な電話料金のようです。この状況は国際電話は全て、電話を掛けても、受信しても料金支払義務者の義務範囲は同じだそうです。 
 さて、軽タクシーはどんどん走り、その1時間後に、標高3150mのドチュ・ラ峠に到着です。標高2,000mほどのティンプーから一気に3,000mを超える高さまで進むの
は、本当に体に良くないです。足はフラフラ、息切れはする、「酸素がほしい。酸素がほしい。」という心境です。天気の良い日は、ヒマラヤ山脈が綺麗に見える峠ですが、今回はモヤが出てよく見えなかった。残念でした。
再び、軽タクシーはどんどん走り、その後3時間で、目的地のプナカに到着です。標高は1,300mです。ちょっと亜熱帯系の気候でして、バナナの木も植えられていました。ここは、さすがに、国王が結婚式場に選んだゾンだけあります。おとぎの国に来たような、自然に囲まれた静けさと堂々としたゾンの風格、本当に、1日かけて、ここまで来てよかったという思いでした。言うに言えない感動でした。

 
      
      プナカ郊外の「世にも恐ろしい吊り橋」
 
 その後、プナカの町はずれの吊り橋を渡る体験をしました。長さが100mを超す吊り橋です。水面まで最も低いところで20~30m、吊り橋でも吊っているのではありません。こちらの岸と向こうの岸を4本の太い針金(ワイヤー)で渡し、金網(カナアミ)をかけて歩けるようにしているだけです。4本ワイヤーの綱渡りです。恐る恐るわたると、向こう岸には、日用品を売る小さな雑貨店がありました。原色でいかにも食紅をいっぱい入れたジュースを買い、冷や汗をかいた分、美味しく飲みました。
 プナカの最後の訪問地は「チミ・ラカン」でした。ラカンとは寺院という意味です。広大な棚田の広がる村落を見下ろす場所に、こじんまりと建っている寺院です。細かい字でお経を書いた旗(経文旗:ダルシン)がたなびき、遠くはヒマラヤ山脈へと続く山々がそびえ、棚田が広がり、時空を超えた趣がありました。

 第7章 豚児のブータン生活
 豚児は、首都ティンプーのほぼ中心部に住んでいました。下宿は狭い一人部屋だろうと思い、遠慮しながら息子の下宿に泊まることになりました。
ところが、なんと、息子の下宿は『外務大臣公邸』なのでした。ビックリ仰天、これどうなってるの?という驚きでした。息子は、外務大臣を「おおやさん」と言っていました。正門(一つしかありませんが)の左右入口には自動小銃を持った警察官なのか、軍人なのか2人が常時、門番をしています。

 
     
     ブータンのコンビニ『エイト・イレブン』ほとんどの食材、日用品雑貨が買える

その生活ですが、大変な状況です。まず、水道水はいったん沸騰させなければいけません。原虫がいるのです。ブータンの人は平気だそうですが、免疫力が養われていない我々は飲むとすぐ下痢です。沸騰させて、その冷めたお湯を、活性炭ろ過します。
お父さん:「それでは、お風呂はどうするの?」
豚児:「口をふさいで、顔もゴシゴシ洗うことなく、洗剤でしっかり流してよ。」
お父さん:「シャワーは?」
豚児:「シャワーも口をふさいで、呼吸をせず、一気に洗いなさい。」
何だかお風呂に入った気がしませんでした。
豚児:「歯磨きはミネラル・ウォータで行いなさい。飲み水はホット・ウォータでなければいけません。食器洗いは一応、水道水でいいのですが、よく乾かさないと原虫が生きているので、注意して・・・。」
などコマゴマと注意を受けました。(ああ~、疲れた。)
 
 第8章 ブータンの街と食事
息子は、仕事で毎日出勤です。私たちは2人取り残されています。外務大臣公邸の正面玄関から街へ出るときは、兵隊さんに、にっこり笑顔を作り、「SANPO、SANPO」と言って門を出ます。そして2人で街を歩きながら、織物博物館の見学、コンビニをのぞくなどして、カメラのシャッターを押し続けました。坂道の多いティンプーです。急いで歩くと息切れがします。ゆっくり、ゆっくりと街の散策をします。会う人会う人みんなニコニコして挨拶をします。カメラを向けると、ニコニコしてポーズをとります。子供だけでなく、大人も同じようにポーズをとります。ブータンの人から話しかけることはありませんが、こちらがニコッとすると、大人も子供も、どんな人も、間違いなく、ニコッとします。
子供たちは「ヘイー。ハロー。」と言って、手を振ります。ブータン人に雑じって、インド人、ネパール人が多くいます。アラブ系の人もいます。でも怖くはありません。みな静かに歩いています。「ゴ」を着ていないブータンの男性、「キラ」を着ていないブータンの女性も見かけました。少しずつ旧来の文化が変化していく姿が見られました。
 食事は2人だけではできません。メニューは読めてもどんな料理なのか皆目わかりません。ということで、12時を過ぎると豚児が昼休み時間に私たちと合流して昼食です。料理は辛子とチーズ、ヨーグルトを基本にした味付けでした。辛さを我慢すれば美味しいものです。ほうとうのような太いうどん(汁は辛い)、インディカ米のピラフ、カレーの汁、シュウマイ風のもの、結構食べられます。


     
     インディカ米のピラフ、シュウマイとラーメン風ブータン料理

  しかし、軽自動車のタクシーでティンプーから少し離れると、ピラフの上にクレープを天婦羅のように揚げたようなものが載っている料理(名前は知らない)、骨付き干し肉(多分マトンと思う)、強烈なカレー(辛くて大変でした)など初体験の料理ばかりです。でも、一応食べる事ができました。私は美味しいと思いましたが、女房はちょっと悪戦苦闘していました。

第9章  おわりに
 まだまだお話ししたいことは山ほどありますが、残念ながら、永久にお話が続きそうですのでここらで終わります。この続きは、坂部環境技術事務所でブータンのお茶を飲みながらお話しすることと致します。安城近くへお越しの節は、ぜひ坂部環境技術事務所へお立ち寄りください。お待ち致しております。

      
      パロのツェチュのクライマックス『曼荼羅のご開帳』(午前3時より日の出まで)
 
 ブータンは、本当に良いところです。自然豊かで、人々の笑顔が親しみを増します。遠くに見えるヒマラヤ山脈から続く峰々の残雪、幾重にも折り重なったような棚田、急峻な山のふもとにある猫の額ほどの棚田、県庁と寺院が合体した『ゾン』、そして、極め付きは、3月から4月にかけて各地で繰り広げられる『ツェチュ(お祭り)』です。ぜひ皆様も、ブータンへの旅をお勧めします。
 なお、他にもたくさんの写真を撮ってきました。「もっと見る。」、をご希望の方は、写真集『ブータン編』をご覧あれ!
 
                                            おわり   
                           それではごきげんよう。さようなら。
                           ブータンより愛をこめて、坂部孝夫拝
 
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第6話 歯医者さん

― むかし通った歯医者さんと、いま通っている歯医者さん -

 私は歯が弱いのです。昔から歯に自信のない私は、定期的に歯医者さんへ通っていました。公務員の頃、仕事が終わると、家路に急ぐところですが、月に1回の頻度で歯医者さん通いです。

 現在は、坂部環境技術事務所で仕事の合間を縫って、歯医者さんに通っています。やはり月一回の頻度です。この歯医者さんとお付き合いを始めて4年目になります。それでは、以前お世話になった歯医者さんとどういう理由で決別したか、そして、今通っている歯医者さんを、どのような理由で、今まで長く付き合ってきたかをお話しします。もちろん、技術的な問題があったわけではありません。2人の歯医者さんの名誉のために申しますが、両者とも技術は優れています。

 

第一話 むかし通った歯医者さん

以前通っていた歯医者さんは、慎重にも慎重を期して、定期的にレントゲン写真を撮るのです。それは、私がまだ、若き50歳の公務員時代のことでした。

 

先生:「それでは、写真を撮ります。レントゲン室へ入ってください。」

私(すなおに):「はい。」

歯科衛生士(スレンダー(slender)系の若い女性):「はい、こちらへどうぞ。」

(案内される場所は、いつものレントゲン室です。面積で言うと、2m×2mの

コジンマリした部屋です。)

歯科衛生士:「ここにアゴを乗せてください。肩は、力を入れないで・・・。」

私(緊張しながら):「はい。」

  (狭い部屋に2人だけです。なんとなくいい雰囲気です。歯科衛生士が私の両肩を触って(正しくは持って)、正確な位置に動かします。うん、うん、いい雰囲気。)

歯科衛生士:「はい。そのまま、動かないでくださいね。写しますよ。」

私(ますます良い雰囲気に思わず、ニッコリとして・・・・):「わかりました。」

  (確か、数秒の時間が過ぎたあと・・・・。)

歯科衛生士:「あっ、すみません。入れ歯を取ってください。」

  (私は突然のことに、何のことかわからず、頭の中が真っ白くなりました。 そして、おもむろに・・。)

私:「入れ歯、ありません。」

歯科衛生士:「あっ。失礼しました。」

  (いきなり、雰囲気は真っ逆さまにトーンダウン。気まずい沈黙の後、歯科衛生士は部屋から出て行き、ジーッという『レントゲン写真機の動く音』が聞こえるばかりでした。)

 

 本当に、おこれてきちゃう。私が総入れ歯でもしているとでも思っているのでしょうか。その日は、一日中、「私もそんな年に思われてしまったのか。」、いやいや、「若いのに入れ歯とはなんだ。」、というシュンとした気持ちと、ムッとした気持ちが交互に私の心臓にダメージを与えるのでした。しばらく、奈落の底に落とされた雰囲気になってしまい、立ち直るのに数日必要でした。

 これが、私の「決別の理由」です。その後は、しばらく歯医者さんへ行く歯の治療はオロソカになってしまいました。そして第二話へ続きます。

 

第二話 いま通っている歯医者さん

でもやはり、歯に自信がない私です。どこか良い歯医者さんはないかなぁ…。と思いながら、近所の人に聞きました。そしたら、「この歯医者さんがいいですよ、技術も新しいし・・、エコですよ。」と紹介していただきました。

 

エコですよ? 何だかよくわからないままに、さっそく、その歯医者さんへ行きました。下の写真を見てください。歯医者さんの全景です。左の玄関を入ると待合室、その奥が診察室です。受付を済ませ、「週刊現代」を読んでいると・・。

受付嬢:「坂部さん。中へどうぞ・・・。」

私(再び緊張して):「はい。」

  入って行くと、純白の診察台が3台あります。その1台に座ると、すぐに『ヨダレ掛け』をしていただき、グーンという音とともに診察台が倒れ、私も倒れて寝る格好になりました。すると天井には青い空と白い流れる雲が見えるじゃありませんか。そうです天窓があるのです。

雲は左から右に流れています。寝ている姿勢はいつも不安ですが、安心感や開放感のある診察台が大変快いのです。自然光を利用した「エコ」な設計です。そうか、「エコな歯医者さんなのだ。」と思いました。

 

歯医者さん:「どうしましたか。」

私:「歯の定期検査と必要な治療をお願いします。」

 

3台の診察台の真上にはそれぞれ3つの天窓がありました(屋根の右下)。

 

という訳で、その後、毎月、歯の定期検査と必要な治療を受けています。歯周病で、歯石がたまりやすい体質なのでしょうか、毎回、ビーン、ビーンという治療の音を聞きながら、時々目を開け、青い空と流れる白い雲を見ています。

 

 歯医者さんといろいろ話していると、いろんなエコを実践していることがわかりました。私は治療を受けているので、モゴモゴと言葉を発したり、うなずいたりの連続で、しっかりと話が出来ない場合が多いのですが、歯医者さんはそれには一向に構わずお話をします。話の内容は、かなり「エコ」です。例えば、下の写真を見てください。歯医者さん一家は電気自動車に乗っています。駐車中はいつも充電しています。そして一度乗せてもらいました。グーンと力強い走りで、乗り心地も快適でした。

 電気自動車をマイカーにしている。

 

次は、薪(まき)ストーブの紹介です。歯医者さんの家には、大広間の真ん中に暖炉があります。薪(まき)を使用した暖房です。安城市が市営公園の樹木や街路樹を剪定(せんてい)する時に出る、剪定枝(せんていし)を市のリサイクルセンターからいただいてきて、暖炉で燃やすのです。遠赤外線が強く、部屋の中はいつまでも暖かいそうです。

屋根には薪(まき)ストーブの煙突と軒先には燃料の薪

 

今後は、風力発電を取り付けたいと言っていました。簡易なものであれば簡単に設置できます。私からは、風力発電で起こした電気は、玄関灯、駐車場の防犯灯などで使用したらいかがでしょうかとご提案を申し上げました。

いずれにしても、「エコ」に関心を持った歯医者さんです。私は、『地球にやさしい歯医者さん』という、ウリで行けばさらに商売繁盛するのではないかというご提案もしました。

 

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第5話 トンチンカン先生の秘密蔵書 


 女房はいつも言うのです。
女房:「本は、重くて、邪魔で、高価で、お父さんが読んだ後は誰も読まないでしょう。そろそろ、本の収集を卒業したらどうですか。」
私:「本は、知識の栄養だよ。人生を豊かにするんだ。」
女房:「お父さん、すでに体重は70キログラム、お腹の周りは90センチでしょ。もうこれ以上、栄養は必要ないでしょう。」
(女房は、「栄養」=「メタボ」と短絡的に脳の回線が出来上がっているのです。それとも、知識のところが聞こえなく、老人性難聴でしょうか?)
私:「知識の素、教養をにじみ出す会話の栄養素だよ。」

女房が何と言っても、やっぱり、私は、本を読むことが好きです、いや、好きでした。過去形で表現するというのも、最近は、机に向かって読んでいると腰が痛くなる。寝そべって読んでいると長時間、本を持ち上げて腕が痛くなる。ロッキングチェアーでかっこよく読んでいると首が痛くなる。など読書による腰痛、筋肉痛で、2~3日は何もする気が起こらないのです。という訳で、最近は、読むより見る方向へシフトし始めました。つまり『百読は一見に如かず。』なのであります。それでは、私の秘密蔵書を順にご紹介します。
なお、以下、ご紹介する本の数々を、実際、手に取って、触ってみたいと思われる人は、是非、坂部環境技術事務所をご訪問下さい。コーヒー付きで読むことが出来ます。出版社に敬意を払うため、ちょっとだけ見て、その本を購入されることをお勧めします。必ずや、これらの秘蔵書は、あなたの座右の友になります。

♪♪♪♪秘密蔵書の紹介♪♪♪♪

<その1:なんだこりゃ昆虫図鑑>

小学館の学習百科事典『珍虫と奇虫』(小学館 1,300円)

 世の中には本当に不思議な生き物がいるものです。特に昆虫は不思議です。現在知られている生物種に限れば半分以上は昆虫であるといいます。そして、現在、種類の登録がされていない「未記載種」も含めると100万種を越えるといわれています。
私は、ある日、本屋さんで何気なく子供の百科事典のコーナーを見ていると、不思議な本がありました。それが、下の写真の本です。コノハムシが表紙に大きく載っています。「隠れることが身を守る。」の代表選手です。確かにジャングルの中で一番数の多いものは「木の葉」です。葉っぱに擬態することで生きながらえて来た昆虫なのです。この本には、熱帯アジアのジャングルに緑色、褐色、赤色など20種類ほどのコノハムシが生息していることが知られていると書かれていました。
 コノハムシの様に、隠れることばかりでなく、自ら花に化けて蜜を吸いに来る昆虫を捕まえる「ハナカマキリ」、「食べてもおいしくないぞー。」と身体の色をマズソウな色で意思表示している「シュイロバッタ」、木の枝や竹に化けている「ナナフシ」、古代エジプト人が「太陽神のケペラの化身だ。」と勝手に思い込んだ「フンコロガシ(糞むし)」、金属製品のような「ハンマーカメノコムシ」、ハチの姿に似せた「ハチモドキキリギリス」など、数えきれないほどの変わった昆虫が紹介されており、何のためにこのような形になったのかわからない昆虫も多く紹介されている、本当に楽しい昆虫図鑑です。

 
私の秘密蔵書第1号「珍虫と奇虫」の表紙 


その中でも極め付けの虫は、なぜこんな恰好をしているのか不思議な「パジャマクサヒバリ」の幼虫(下の写真)です。首の所は襟なのでしょうか、縦縞模様、胴体は横縞模様、そして、念入りにズボンの部分の足は再び縦縞模様です。ジーッと見ていると本当に、見ている人を馬鹿にしているような滑稽さがあります。クサヒバリは漢字で『草雲雀』と書き、コオロギのことです。とにかく、何でパジャマを着ているのか不思議です。

 
 パジャマクサヒバリ(ボルネオ島 体長10mm)


 第2の極めつけは、「ヨツコブツノゼミ」です(下の写真)。ツノゼミは、名前のごとくセミの仲間です。そして、背中に不思議なツノを持っています。飾りのためなのか、何なのか、「パンパカパーン」と突然、舞台に飛び出して来たような虫です。目も左右に離れており、キョトンとした顔、頭が爆発したように派手なツノ。精一杯頑張っている、なんともかわいい昆虫です。

 
 ヨツコブツノゼミ(ブラジル 体長5mm)


<その2:なんだこりゃ料理本>
『楽しい昆虫料理』(ビジネス社 1,600円)

 今度は、昆虫の『料理』に関する本です。本来、ゲテモノ好きな私です。蜂の子、バッタの甘露煮、ザザ虫の缶詰、ホヤのビン詰と皆さんが、「オェーッ。」と感じる食べ物が好きなのです。皆さん、是非、これらの食品を食べてみてください。触感と言い、味と言い、香りまで何とも言えない美味しさが漂ってきます。
ある時、毎週日曜日に掲載される新聞の読書欄に紹介されている本の紹介記事を見ていました。すると、食欲をそそるこの本が紹介されているのではないですか。紹介者は某有名私立大学教授さんです。紹介者もさることながら、「すべて試食済み、感動するかあきれるかで、あなたの人生が変わります。」という解説です。私は、すぐに「ヤフー・ショッピング」で注文しました。カードで支払い、宅急便で配送で申し込みました。この本、売れ行きが悪いため在庫が多いのか(失礼)、数日で私の手元に届きました。
 

 
 私の秘密蔵書第2号「楽しい昆虫料理」の表紙


本を開くと、まず、おいしそうなカラー写真入りの口絵があります。『ナメクジの酢みそ和え』、『子持ちカマキリの南蛮漬け』、『紅ガラスズメの磯辺揚げ』など、名前を聞いただけでも美味しそうです。
紹介されている料理は、和食が『カイコのふきみそ田楽』はじめ29種、洋風料理は『ヤゴとクレソンのサラダ・アンチョビ風味』はじめ23種、中華・韓国・エスニック料理が『かに玉風コオロギの甘酢あんかけ』はじめ20種です。それでは、代表的な料理『ナメクジの酢みそ和え』をご紹介します。下の囲みにあるように、比較的入手しやすい食材ですので、簡単に料理に挑戦できます。
ナメクジは庭や家庭菜園のジメジメした場所にいます。使用済みの植木鉢の裏側、家庭菜園のハクサイやチンゲンサイなど葉が込み合っている野菜の葉と葉のすき間を探すと必ず1匹や2匹は出てきます。収穫後水できれいに洗って、しばらく水に浮かしますと、水分を吸って大きくなります。これを食材として用います。(この部分はトンチンカン先生の経験からの記述です。)

  和風料理・夏

ナメクジの酢みそ和え
作りやすさ ★★★★   おいしさ ★★★★ 
食べやすさ ★★     入手しやすさ★★★    
▼ 材料(4人分)
▽ナメクジ 20頭  ▽わけぎ 150g  ゴーヤ 1本  ▽みそ 大さじ3   
▽砂糖 大さじ3  ▽だし汁 大さじ3  ▽練がらし 小さじ1 
▽酢 大さじ1

▼ 作り方・・・・( 省略 )本を買って読んでください。
              「楽しい昆虫料理」からの抜粋(一部編集)


 私の女房は、この本を見て料理をしてくれません。一度頼んだのですがダメでした。そのため、私はこの料理本に掲載されている料理を食べたことは一度もありません。ゲテモノ好きな私でも、さすがにこの本に載っている料理を全て食べる勇気はちょっとありません。
 ちなみに、私はこの本を読んで感動しました。



<その3>、<その4>
とこの秘密蔵書シリーズは続きます。乞う期待下さい。
それではごきげんよう。さようなら。 
 
我がホームページへアクセスする、上品な友へ 

                                  トンチンカン先生より



♪♪♪♪秘密蔵書の紹介♪♪♪♪(第2回目)

 

<その3: なんだこりゃ宗教本?>
『珍寺大道場』(イースト・プレス 1,250円)

世の中には本当に不思議な神社仏閣があるものだと思いました。この本は、日本中のちょっと、いやいや、かなり変わったお寺や神社を巡り歩いてウエブサイトで報告している人の記録集です。紹介されている神社仏閣は日本のもの32件ですが、相当ヘンテコリンなものばかりで、私もびっくりでした。この本は、毎週日曜日に、新聞に掲載される「読書欄」を読んでいたら発見したものです。「楽しい昆虫料理」という既に紹介しました本と同様、売れ行きが悪いため在庫が多いのか(失礼)、数日で私の手元に、初版本が届きました。

新聞記事には、由緒正しき寺社仏閣ではなくて、田舎の金持ちが突然改心して建立した大観音とか、世間一般からは「いかがわしい」、「怪しい」としか見られることのない、独立系の宗教(+観光)施設、著者はこのような珍寺ばかりをひたすら訪ね歩いては、バカにするでもなく、誉めすぎるでもなく、笑いを含んだフィールドワーカーの目で物件を採集する(少し略した部分、読みやすく改文した部分あり)と紹介しています。


私の秘密蔵書第3号「珍寺大道場」の表紙

1ページから読んでいくと、何と、私の坂部環境技術事務所の所在する「愛知県」の周りでも相当変わった物件があります。この本で紹介されている愛知県周辺の神社仏閣は以下の表のとおりです。自動車に乗り1時間30分以内で行けるのです。ただし、この本は2004年12月に初版本が出ていますので、今は廃寺になっているものもあるかもしれません。そこはあしからず。

 

表 日本最強の珍寺ゾーン中部編(代表的なもの5件)

番号

寺社名

本での紹介タイトル

所在地

五色園

珍妙コンクリ像の百花繚乱

愛知県日進市

桃太郎神社

ポンチな桃太郎伝説

愛知県犬山市

風天洞

大岩窟に広がるシュールな異界

愛知県豊田市

かご大仏

日本三大仏に立候補中の異色大仏

岐阜県岐阜市

大観音寺

金ぴかファンシーブッダパーク

三重県白山町

 

この中で、本を手に入れる前にすでに訪れた物件が2件ありました。それは2番と5番です。下の写真は実際家族で『桃太郎神社』を参拝した時の記念写真です。相当昔の若い時の写真です。現在、我が豚児が30歳を超えているので、多分25年ほど前の写真です。犬山市の友人宅を訪れた時、せっかくだから犬山遊園地というところへ行こうと、家族全員で行くことになりました。ちょうど桜祭りの始まる前で、ボンボリなどがセットされていました。全員で、かしわ手を打ち、『家内安全、商売繁盛』をお願いし、その参道を帰るときの写真です。よく考えると、私はこの『珍寺大道場』が出版される前から、この様な、ヘンテコリンな神社仏閣に興味を持っていたことになります。それにしても、この被写体の人物等の中で、一番、凛々しく、しっかりしているのが、桃太郎に従って鬼退治に出かけた『犬』(前列、左から2人目)ではないでしょうか。

 

25年前に一家で訪れた桃太郎神社(犬の肖像の前にて)

(犬が一番、りりしく、しっかりしている。)

 

次に訪れた珍寺は大観音寺です。私が大阪へ出張の時、特に関西国際空港の建設事務所、大阪航空局への出張はその事務所が大阪の南部に位置しているので、常に名古屋から難波までノンストップの近鉄特急に乗っていきました。特急電車の車窓の眺めは青山高原を通り過ぎるころが一番きれいです。初夏の新緑、秋深く紅葉と素晴らしい日本の四季を感じるのです。しかし、ところが、榊原温泉口という通過駅を過ぎると、一瞬だけ、いつも金ピカの観音様が新緑、紅葉の自然の景色から、頭一つ出しているのです。「何だ、これは。」、といつも思いつつ、何度も出張していたのです。

いつか、そこはしっかり確認する必要があると考えた私は、ある日曜日、自家用車で、女房と2人で榊原温泉の日帰り温泉旅行を兼ねて探検に参りました。山の頂きに胸から上を出している金ピカの観音様を目標に、車を前に進めました。しばらくすると観音様の足元に大駐車場がありました。そうです。そのお寺こそ大観音寺でした(くどいようですが、私は、桃太郎神社と同じく、この本が出版される前から探検していたのです)。

女房は車から降りた途端「なにこれ!」、と悲鳴を上げ、私もいきなり「なんじゃこりゃ!」と声を発してしまいました。カエルのオーケストラが駐車場の正面の斜面いっぱいに広がっているのです。下の写真の様にカエルが大勢で演奏しているのです。左側はフランスのルーブル美術館に収められている有名な塑像のレプリカが、等身大、もしくはその数倍の大きさでしっかり並んでいます。そして、右側には平たい屋根の家がありその奥には、例の大きな金ピカの観音様が今度は腰から上を出しているのです。まさに霊験アラタカに見えるスケールです。気持ちが超越して、なんだか楽しそうになってきました。ちなみにこの建築物の設計は、かの有名な建築家黒川紀章様なんだそうです。再び、びっくりでした。

 

大観音寺の駐車場前(私の写真が見つからず、とりあえず、本から採りました。)

(私の写真が見つかり次第、差し替えます。)

 

こんな訳でして、この本が『私の秘密蔵書第3号』になったのです。どうしてもこの本を読みたいけれど、万に一、絶版になっている場合は坂部事務所へお越しください。コーヒー付きで閲覧できます。


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第4話 外国でもトンチンカン(会話の巻

仕事で海外へ行くと、英語にあまり堪能ではないと、とんでもないトンチンカン現象を起こします。がんばって英語で話さなくても、大きな声で日本語でシャベルとなんとか通じるものです。ホテルのロビーでも、キザに英語で話さなくても、日本語で『チェックインお願いします。』と大きな声で言えば、日本語のわかるフロント係が奥から出てきます。

お金の感覚も、時差ぼけの様に、感覚がマヒします。こちらは頭の中で素早く日本円に換算することが望まれます。

ここでは、楽しく、恥ずかしいトンチンカン・バカ話を4つほどご披露します。

 

 

<シンガポールにて、その1>

このお話は、愛知県職員、いわゆる現職の時、すなわち、「飛行機の中で」という第1話の続き、シンガポールに無事到着して、数日後のお話です。

シンガポールでは、お土産物を売る人がお店の前で日本語で「1000円、1000円」と言って大きな声で客呼びをしています。『しぇんえん、しぇんえん。』と聞こえます。私の頭脳は、どうも、一度、二度と頭の中で日本語に置き換えて、日本語で理解しようとしているようです。  

丁度その日は予備日となっており、時間がありましたのでシンガポールのセントーサ島モスク寺院、ヒンズー教寺院などの観光めぐりをしました。ちょっとしたお土産物店の前で、何か面白いお土産はないかなぁ、とみんなで、店先でウロウロ、キョロキョロしていました。すると、奥の方から、店員さんらしき女性の人が手招きをしながら言うのです。

女性店員さん 「コームイン。コームイン」(かなり激しく手招きしている)

私 「あれっ。公務員と言ってるよ。何で僕たち公務員とわかるのかなぁ。」

A氏 「何か、風貌から見てわかるのでしょうかねぇ。」

B氏 「坂部さん、あなた、ネクタイしているでしょう。その辺からの判断で    しょうね。」

(3人が、キョロキョロ、モジモジしていると、その女性店員さんが、こち  らにやって来て・・・。)
女性店員さん 「コームイン。コームイン」(ニコニコして、奥へ案内するの        です。)
女性店員さん(奥に入ると、再び、)
       「しぇんえん、しぇんえん。コレ、全部しぇんえんナノヨゥ。        コレ奥様にニアウデショウ。」 「コチラモアルヨ。コーム        イン・・・ヒアー」とさらに奥へ招き入れるのです。

Aさん 「わかった。公務員じゃないですよ。カムイン、カムイン(come in        .come inですよ。」

私 「なあんだ。そうか。ネクタイだけで公務員とわかる訳がないじゃん。」B氏 「私は、その前に、店員さんが『公務員』という言葉を知っているはず    がないと思いましたよ。ワッ、ハッ、ハー・・・ッ。」

 

反省(その1):会話では、外人の言葉を日本語に近づけて、頭の中でぐるぐ        る考えてはいけません。

反省(その2):すでに「A定食、B定食」で失敗しているのに、再度失敗と        は大いに反省です。

反省(その3):B氏の裏切り者め~っ。
        (裏切り者は何処にもいるものなんですね。)

  

   注1.スズ製の小物入れです。(私のレベルでは、かなり高価な品でした。)

     注2.子供の下にある、王冠がスポッとはずれて(取れて)、指輪などを入れます。

     注3.姪っ子へのお土産と思ったのですが、何故か、女房のものになってしまいました。

写真―1 その時、シンガポールで買った小物入れ

 

 

<シンガポールにて その2>

シンガポールへ行く時の楽しみは、お土産を買うことです。そして、値切ることです。シンガポール観光案内書を読むと、「お土産物を売るお店では、値切ることが必要です。その交渉もまた、旅の楽しみにひとつです。」と書いてあります。現地ガイドさんに聞いても、「値切ると半分の値段まで下がることがあります。必ず、値切ってください。」という説明でした。

私は、常々女房殿から、値切ることが上手と言われていますし、時と場所によっては、「お父さんと一緒に行くと、すぐ値切るので、一緒に買い物に行くのが恥ずかしいわ。」とおっしゃる。それでは、シンガポールの値切りの腕まえをご披露します。

 

 シンガポールでは宝石、ネックレス、指輪などがお土産として売られています。女房殿の手前、ここはひとつ買ってやらねばと思い、あるデパートへ入りました。

女房:「これなんか、どうかしら。」

私:「う~ん。ちょっと若向きかな。」

女房:「そんなことないわ。私に似合っているんですもの。」

   (しばらくして、女房は・・・)

女房:「これもいいわ。2つ買おうかしら。」

私:「2つも買うのか。ちょっと贅沢ではないでしょうか。」

女房:「私、ネックレス、そんなに持っていないもの。いいじゃないの、たま   には・・ねっ。」

私:「なくしても、悔やまない程度のものにしなさい。それちょっと値段的に   、高価すぎるのではないかねぇ。お母さん。」

女房:「そんなこと、ないわよ。ええっつと、もっと、よい品物ないかしら。」

私:「まあ、毎月買う訳でもないし、いいよ、好きなもの買いなさい。」

 (結局、ネックレスを2つ買うことになりました。私がアドバイスしたように、無くしても、壊れても悔やまないものを2点、選びました。そして、私の出番、『値切り』を始めます。会話は、日本語と英語のちゃんぽん会話でした。)

店員さん:「30シンガポールドル。OK?」

私:「ノゥ~。20シンガポールドル、OK?」

店員:「OH~!ノゥ~。」(と言って、固まってしまいました。)

そして、しばらく、気まずい沈黙があったのち、店員さんはお店の奥へ入って行き、しばらくして、再び、出てきたその店員は多分、店長に相談した模様です。

店員:「30シンガポールドル、OK?」(やっぱり駄目です、30ドル、と   言いました。)
女房:「お父さん。お父さん、30シンガポールドルは、日本円で2,100    円ですよ。それを値切るなんて、20ドルは1,400円ですよ。」

わたし:「そうか・・・。低レベルでの戦いは、無理があったか、む~っ、残     念。」

女房:「お父さんと一緒に買い物に行くのが恥ずかしいわ。」


反省(その1):女房殿の前で、『私は、旅慣れした国際人だぞぅ。』、なん        て良いところを見せようと思うことが、そもそも無理があっ        たのです。お父さんは、まだ国際人ではありませんでした。

反省(その2):旅行ガイドブックに書いてあると言って頑張ってはいけませ        ん。

反省(その3):数万円レベルでの『値切り』は旅の楽しみの一つと言えるか        もしれないが、低レベル(低料金)での戦いは無理があっよ        うです。



 

    注1.無くしても、壊れても悔やまないものを買いました。

      注2.フックの所は、やや、やりにくい構造になっていました。

      注3.2つとも、今でも現役で活躍しています。

写真―2 シンガポールで買った例のネックレス

 

 

<カナダ バンクーバにて その3>

 愛知万博の開催の迫った時期でした。私は、愛知万博の宣伝と世界こども環境会議の誘致のため、カナダ、アメリカへの出張をしました。メンバーは愛知県から2名、2つの市から2名ずつ4名の参加で、計6名の旅です。当時は名古屋空港からの旅立ちでした。午後2時集合です。 私は当日、家からカジュアルなスタイルで出発です。市の人もおおよそカジュアルな服装でしたが、県から参加のもう一人は、午前中、重要な会議を終えてからの出発で、ネクタイとスーツという出で立ちです。

 全員集合したので、旅行社である“JTB”の係員から、それぞれ航空券をはじめとしてチケットひと揃えをいただき、旅の注意を聞きました。
JTBの人:「北アメリカ地域は、9.11のテロ事件の影響でチェックが厳      しいので注意してください。」

市の参加者A:「何か、注意することはありますか?」
JTBの人:「入国審査で、何のため来ましたか?と聞いたら、『サイト シ      ーイング(観光旅行)』と言えばいいです。いいですか。迷った      顔や態度はいけません。」
みんなで:「サイト シーイング、サイト シーイング。」(頭の中へ叩き込     みました)

 

『エアー・カナダ』で、いよいよフライト。1週間の旅立ちです。

JTBの係の人が手を振って、「行ってらっしゃい。」全員、ちょっとはしゃいで「は~ぃ。」


注1.旅行中、寄り道したボストンのにぎわいです。(もちろん美術館へ行きました。)

注2.街中では、このような大道芸人グループがたくさん演技をしていました。

   観客も、日曜日でないのに、たくさんいました。

注3.ボストンでは、大西洋産の牡蠣(カキ)を美味しいワインでいただきました。

写真―3 ボストンの街で演技する大道芸人

 

 

 日付変更線を飛び越えて、8時間のフライトで、翌日の朝にバンクーバーに到着しました。そこは大きな空港でした。飛行機を降りて、みんなが行く方向へ歩くと、入国審査官のチェックがありました。

入国審査官:「旅行の目的は?(もちろん、英語での質問でした。)」

私ともう一人の県の人、2人で声を合わせて:「サイト シーイング。」

入国審査官:「ノウー。」

あれ、JTBと話が違うなぁ。どうしてだろう、と考えていると、よくよく聞くと『ネクタイしていて、観光旅行はないでしょ。』という意味の入国審査官の発言でした。しかたがないので、空港券をはじめとするすべてのチケットを出して日本語で説明することとしました。後ろで順番に並んでいる人たちは、隣の列に移動し、どんどん行ってしまいます。

入国審査官「パス。」と言って通してくれました。(ラチが開かないので、『行け。』、という態度でした。もう、一生懸命、説明したのに・・・。)

私:「やれやれ、とんだ所で、出鼻をくじかれましたねぇ。」

県の人:「やぁ、申し訳ない。ところで次はどうすれば・・・。」

私:「この人たちに付いていけばいいじゃないですか?」

しかし、どうも様子が違います。あとの4人がいません。荷物を受け取る所へ行っても、私たちのキャリーバッグがありません。おかしいなぁ・・。

 荷物がないので、困った挙句、近くにいる安全性の高い女性空港職員(黒人)にむちゃくちゃ英語で聞きましたら、空港券を見て、あなたの荷物は、3つ向こうのラインですよ、と教えてくれました。

 そしたら、向こうに、2つのキャリーバッグが、淋しそうに、ぐるぐる回っていました。

2人:「わぁー。あった、あった。」


反省(その1):JTBの説明を絶対的なものと思ったのが間違いでした。
        『サイト シーイング』とは、姿かたちも『サイト シーイ        ング』でなければいけないのです。勉強になりました。

反省(その2):みんなが行く方へ行けば間違いない、という考えはやめまし        ょう。入国審査官に捕まっている間、東京からの便が到着し        て、日本人がわんさと移動していました。私たちはその人た        ちに付いて行ってしまったのです。
反省(その3):何かわからないことがあったら、そこの施設の女性職員に聞        くことが最も安全です。しかも、年齢の高い方の女性が安全        。(私の経験です。)

 

 

<カナダ トロントにて その4>

 旅も4日目になると、少しは自信がつくものです。バンクーバーでの失敗にもメゲズ、旅はいたって快適です。タクシーに乗ったら、頭にターバンを巻いている運転手さんです。最初はビックリしましたが、『世界は広い、何でもアリ。』と思い乗っていましたら、車内があまりにも暑いので、どのように話そうかと思っていたら、運転手さんも暑いのか、ターバンを取ってしまいました。何と、ターバンの中は、5分刈りのイガグリ頭でした。「そうか、中はこうなっているのか。」、などと変なところに感心してみたり、かなりの余裕でした。でも、失敗は重なるものです。

 カナダのトロントからアメリカのハートフォード空港(ニューヨークの近郊にある空港)へトランジットするのです。例のごとく、入国審査官がいます(トロントでは、アメリカの入国審査官がカナダへ来ており、アメリカの空港では、到着すると審査なしで外へ出られます。非常に合理的です。)6人は、自信ありげにそれぞれ審査を受けるほどの上達ぶりです。それぞれ違う列に並びました。

A君は向こうの列に並び、今まさに審査を受けようとしていました。私は、とりあえず『パス』しましたが、彼はというと、何か喋っています。なんだろうなあ。

A君は、メガネをかけて、首には自慢のソニーのデジタルカメラ、手にはガイドブックという、超日本人的な姿での審査官との対話です。

 

☆ 彼と審査官との対話を再現しますとこうなっています。

入国審査官:「オーリンパス」

A君:(なんですか、オリンパス?冗談じゃない、今回の旅行のために、わざ   わざ、無理して買ったソニーのデジタルカメラをオリンパスはないでし   ょう、と思ったのか、)

   「オゥー、ノゥー。ジス、イズ、ソニー・デジタル・カメラ!!」

入国審査官:「プリーズ」(どうぞ。)

注1.覚えていませんが多分、デトロイト空港です。

注2.12:00出発の飛行機の案内は「ツエルブ、オー、オー」と言っていました。

学校で習った英語とは格段の違いがあります。

      注3.「ツエルブ、オー、オー」と何度も放送案内しているのに、理解できず、もう少しで乗り遅れる(日本に帰れない)ところでした。

注4.海外旅行では、乗り換え(トランジット)が難しいのです。

写真―4 外国の空港にて

 

入国審査を終え、みんなと一緒になってから、このことを私たちに話すのです。
A君:「まいったなぁ~。オリンパスはないよね。カメラの頭の部分に、しっ   かりとソニーと書いてあるのに・・・。」
私:「そうだよね。あの審査官、何考えているのかねぇ~。」
B君:「それにしても、日本のカメラと言えば、キャノン、ニコンと相場は決   まっているのに、オリンパスとはねぇ~。」 (しばらくして・・。)
C君(私たちより英語に堪能な人):「オリンパスじゃなく、『フォーリンパ    ス』じゃないですか。」

A君:「へぇー。フォーリンパスですか。何だろう。」
C君:「フォーリンパスとは、出国OK,という意味ではないですか。カナダ   から、アメリカへ出国しても良い、という意味と思います。」
B君:「私は、そもそも、ソニーを知らず、オリンパスを知っているって、お   かしいと思いましたよ。」

A君と私:「大変、ご無礼を致しました。」

 
反省(その1):やっぱり、英語は難しいですね。フォーリンパス、ツエルブ        、オー、オー、などは何度も経験しなければいけないので        しょう。
反省(その2):A君と一緒になって、考えてはいけません。客観的な判求め
        られます。
反省(その3):やっぱり、どこにも裏切り者は居るのです。この裏切り者         め~。


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第3話 私のパワースポットめぐり、絵馬の巻      

 

                                      (旧版は写真集へ移動しました。)

 

 私はパワースポットめぐりが大好きです。学生のころから『朱印帖』を持って奈良、京都を巡りました。そのクセが付いてしまい、家族旅行でも、スケジュールには必ず神社仏閣巡りを入れ込んでいました。

ところが、息子が小学校低学年の頃、自家用車での家族旅行の時、とある神社の駐車場へ入ると、息子は小さな声で、「僕、こういう所は苦手なんだけどなあ・・・。自動車の中で待っている。」と言うのです。その過去のハッとした思い出にもメゲズ、私は現在でも、楽しくパワースポットめぐりを続けています。

パワースポットならば何でもOKです。神社ではカシワデをしっかり打つ、お寺さんでは手を合わせ「南無阿弥陀仏」とブツブツ(仏々)つぶやく、教会では十字架を切って「アーメン」という。すなわち、私は多神教信者なのです。なんでもござれ、みんなまとめて拝んでしまうのです。ああ、よい、よい。

 

数年前、女房と奈良のお寺巡りをしました。新薬師寺、秋篠寺、浄瑠璃寺でした。奈良は、まだまだ、西の京、奈良市内のお寺のほか、長谷寺、室生寺、聖林寺、三輪大社、安倍文殊院などを参詣しています。

女房:「お父さん、今度のお寺さんだけど、拝観料はどれくらいですかねぇ。」

私:「いつもの相場じゃないかね。500円と思うよ。」

女房:「じゃぁ、朱印はやめようね。」

私:「毎日、朱印するわけでもないし、一度きりだからね。いいんじゃないの。」
女房:「何言ってんですか。このお寺さんの参詣は3回目でしょ。前回の時も朱印をいただいたわ。」

私:(よく覚えているなぁ。どうでも良いことばかり覚えているなぁ、と女房の変なところを感心しながら。)「えっ。そうかい?(ととぼけたふりをします)」

女房:「お賽銭は、今まで御縁が10回あるようにと50円でしたが、今回は5円にしましょうね。」

私:「・・・。」(固まってしまいました。)

(反省)

その1 お寺へ行く途中にこんな会話しかできないなんて、ゴリヤクもあったもんではありません。もっと「霊験あらたか」な場所へ行く姿勢が必要でした。その後も引き続き、ジャンボ宝くじの当選は300円のみです。

その2 お寺や、お宮さんでお参りする時は、お願い事をするのではなく、神様、仏様、キリスト様の前で選手宣誓のように、「自分は・・・をします。」と誓う(チカウ)のだそうです。「これが本当のお参りです。」と、どこかの和尚さんにお話ししていただいたことがあります。願懸けとはもってのほかだそうです。何だか、和尚さんは責任逃れをしているみたい。

その3 神社仏閣へのお賽銭や、朱印、おみくじ、拝観料、お札などは、維持管理費とも思えるのですが、ここは上品に「文化協力費」として支払うと思えばいいのです。わかりましたか、女房殿。えへん。  

 

(神社仏閣へ1回訪問の「文化協力費」の例)

▼拝観料×2+おみくじ×2+朱印×1回+絵馬×1個=2,500円ナリです。

 (500×2+100×2+300+1000=2500円ナリ)

▼場合によってはお札1,000円を追加で総合計3,500です。

 

♪♪♪絵馬の紹介♪♪♪

パワースポットのお決まりは、おみくじ、朱印、絵馬、土鈴がその代表的なものですが、今回は最も霊験あらたかな「絵馬」を紹介します。私が集めた絵馬の中でも、「なかなか・・・。」というものをご紹介します。もちろん全て境内のお守りなど売っている所で購入したものです。あしからず・・・。

 

<その1:左ききの人が使う鎌の絵馬>

 

 愛知県豊田市北部、猿投グリーンロードと東海環状自動車道の交差するあたりが「猿投地区(さなげちく)」です。猿投山、猿投古窯群跡(瀬戸焼より古い窯跡)でよく知られた場所です。しかし何といっても「猿投神社」は別格です。特に絵馬がよろしい。鎌(カマ)をよく見ると、左利きの人しか使えないと思うような図柄です。一瞬、間違いではないかと思いましたが、拝殿には左利き用の鉄で作られた本物の鎌が何十本と奉納されていました。

私も左利きですし、「私の、私の彼は~(チョンチョン)左利きっきー。」という古い歌謡曲もありました。神様に一人や二人左利きがいてもいいのではないでしょうか、と微笑んでしまいました。一段と親しみがわいた猿投神社でした。

(インターネット「猿投神社」で検索)

古事記によると、まつられている神は大碓命であり、日本武尊(小碓命)の双子の兄にあたる。彼は美濃の二人の美しい少女を、景行天皇の遣いで召しだす時に、二人と結婚してしまい、別の女を仕立てて差し出したとある。史実はどうか不明だが、少なくとも記紀編者には、あまり好ましくない悪徳の皇子と解釈されていたようだ。当社には左鎌を奉納する信仰があるが、大碓命と日本武尊は双子であり、左利きであったためという。

 

<その2:マンガっぽい絵馬>


宮崎県の高千穂神社の「神楽絵馬」ちょっとマンガっぽいところが面白い。

高千穂神社は九州、宮崎県の山奥にあります。天岩戸、国見ケ丘と伝説、神話の多いところです。秋の稲刈りが終わった11月中旬から翌年2月上旬にかけて高千穂のあちこちの集落で繰り広げられる「夜神楽(よかぐら)」が夜を徹して奉納されます。この絵馬は「夜神楽」の出演者をモチーフに作成された、開運招福の立体絵馬ということです。私は女房と熊本県日田市の小鹿田焼(おんたやき)の窯元を見学してのち、ここまでやってきました。ああ、疲れた、しんどい。でも、長時間を要し、長い道のりを走破した甲斐がありました。緑は濃く、水は透きとおり、空気はおいしく高千穂という場所に来てよかったと思いました。その長時間、長い道のりですが、女房は助手席で四六時中居眠りをしていました。もう、まったく怒れちゃう。

 

<その3:かわいい夫婦?絵馬>

 

愛知県豊川市に砥鹿神社(とがじんじゃ)があります。三河一宮でして、かなり位の高い神社です。私は公務員の現職の時、豊川の水のきれいさを調べる「水質調査」を毎月1回実施していました。豊川の源流から河口まで、公用車で一日かけて川の水を採水しながら走り回るのです。その時、休憩場所としてこの神社を利用していました。気になるものはこの立体絵馬である夫婦?絵馬、そして土鈴(どれい)でした(土鈴は次回の「私のパワースポット第2弾」でお話します)。ついつい最も小さいサイズの「夫婦?絵馬」を買ってしまいました。家に飾るとかわいくて、かわいくて頭にホコリが付くたびに、花王の「クイックル・ワイパー」という汚れをからめとって離さない化学ゾウキンで頭と顔を綺麗にぬぐい、テカテカにします(頭、光ってるでしょう)。

 なぜ、夫婦?絵馬かなと思いましたところ、これは夫婦でなく「えびすさん」でした。境内には戎さんがまつられており、初えびす祭のころには、三百を超す奉納提灯が社殿を飾り、商売繁盛・家内安全を祈願する人々で終日賑わいをみせる、三河唯一の「えびす社」です。失礼しました。

 

<その4:本格的な絵馬>


 新潟県弥彦村の弥彦神社(やひこじんじゃ)の絵馬です。本格的な絵馬です。昔、お金のない人が、馬を奉納する代わりに馬の絵を描いた板を奉納したのが始まりでしたと言われています。この絵馬は本当に馬が描かれています。弥彦神社の境内はかなり広く、正面入口にはお土産物屋も数軒、旅館もホテルも数軒並んでいました。神社には200台ほど入る大駐車場もあり、後方は弥彦山がそびえて、まさに神の住む、立派な神社です。

我が豚児が遠くの大学(東北の大学、つまり東北大学ではありません)に在籍していた時、1年に1度の頻度で、女房と二人で学生生活、特に下宿のチェックに行きました。愛知県西尾市から遠くの大学までは、おおよそ700Kmでした。自家用車で女房と二人の旅です。その折、途中で寄り道した場所が、霊験アラタカな弥彦神社でした。「息子がしっかり勉強していますように。」と願懸けをして、いよいよ息子の下宿部屋へ入りますと、そこには大学の教科書は1冊もなく、マンガ本がズラーッと横3列に並んでいるばかりでした。(他力本願ではだめですねぇ。)

(インターネット「絵馬」で検索)

奈良時代の『続日本紀』には、神の乗り物としての馬、神馬(しんめ、じんめ)を奉納していたことが記されている。しかし、馬は高価でなかなか献納できず、また、献納された寺社の側でも馬の世話をするのが大変である。そのため、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、平安時代から板に描いた馬の絵で代えられるようになった。

さらに、室町時代になると馬だけでなく様々な絵が描かれるようになった。初期の作として、例えばを使いとする稲荷神社では狐の絵が描かれている所もある。

 

<その5:おたふくの美人絵馬>


長野県長野市の戸隠神社は、高速道路で野尻湖近くの信濃インターから入りました。12月下旬でしたので、雪中行軍のようで、峠では雪の山、雪の積もった木々、雪の笹原、見るもの全てが「白」でした。怖かった・・・。目的は神社へのお参りもさることながら、戸隠そばを食べたいと思ったからです。いわゆる「田舎そば」でした。美味しくいただいた後、戸隠神社へ参拝です。駐車場は雪が積もり、解けた水でビショビショです。車のドアを開けるといきなり10cmほどの積雪です。私は、この様な事を十分予測して、登山靴で行きました。(えへん。)

 戸隠神社の絵馬はお多福さんで、馬ではありません。「馬面(ウマヅラ)」という意味かな?よく考えてもわかりませんでしたので、ついに戸隠神社の社務所に電話してしまいました。すると意外や意外、天鈿女命(あめのうづめのみこと)さんだそうです。そうです、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩屋(あめのいわや)へお隠れになった時、ドアを開けるアイデアを出した神さんが戸隠神社の神さん(中社に祭られている)で、その前で愉快に踊った神様が天鈿女命です。それにあやかって、デザインされたのがこの絵馬ということでした。ちなみに、天鈿女命さんは奥社、中社、宝光社、九頭龍社と並んで5つあるうちの「火の御子社(ひのみこしゃ)」に祭られております。

また、天岩屋の入り口をふさいでいた天岩戸(ドア)を開けた時、思いっきり下界に放り投げたところ、日本の真ん中に落ち、戸隠山が出来たという伝説もあります。戸を隠したのかな?隠したなら名前を付けるとばれちゃうのではないでしょうか???・・・。(いずれにしても、たいへん、勉強になりました。)

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 第2話 タイの病院にて

外国で病気になると大変なことになることがわかりました。言葉は通じない、言葉はわからない、「頭が痛い」とか、「おなかが痛い」、「熱がある」など基本的な病気の言葉が出てこないのです。

私は、タイの自動車工場でビオトープの設計・施工管理を請け負いました。企画打合わせから完成まで、合計8回ほどのタイへの旅でしたが一度だけ病気になりました。
 タイへ何度も渡航した先輩諸氏からは、「タイでは食中毒に注意するように。」、と次のような注意事項を頂きました。

 

<タイでの心得>

1 レストランでも、ホテルでも生水は飲まない。必ずペットボトルの水を飲みなさい。

2 生野菜、くだものも注意しなさい。汚れた水で洗っている場合があります。

3 80バース(1バースはおおよそ4円ですから、320円)以下の値段のランチ(食事)は注文しない。安いお店はその分、危険が伴います。

4 屋台で食事はしない。屋台では食器はバケツの水で洗い、何度も使い回しをします。

 

 

それでは、まず、私のタイでの1日をご紹介します。朝食はホテルのバイキング。できるだけ野菜は食べず、水は飲まず、パンにジャムを塗り、牛乳をコップ飲みし、そしてコーンスープで腹ごしらえです。ホテルの部屋の冷蔵庫にあるペットボトルを1本持ち出し、ロビーで待ちます。朝7時になると、建設業者の車がホテルに迎えに来ます。埃っぽく、座席が土でザラザラした感じの自動車に乗り、2時間かけて、ビオトープ建設現場へ向かいます。

現場ではしばらく仕事をして、お昼になります。今度はタイ人の運転手がレストランに案内します。下の2枚の写真でもお分かりと思いますが、信じられないレストランです。そして、再び午後3時ごろまで仕事をして、また2時間かけてホテルへ帰ります。到着時間はおおよそ午後5時です。仕事仲間の日本人と食事をするまでの間、タイ・マッサージに行きます。2時間で400バース約1,600円です。マッサージをしない時は街へ出てお店を覗きながらお土産を買います。午後7時ごろからシンガービールで乾杯し、食事になります。そして午後9時ごろホテルへ帰り、あすの7時までお休みです。

一般的に観光旅行といえば、きれいなホテル、きれいなレストランとお決まりです。しかし、私の旅は観光旅行ではありません。れっきとした仕事です。部屋が狭いビジネスホテル、食堂は地元のタイ人が利用する、日本でいえば一膳飯屋のようなところです。

    それでは病院にお世話になったお話をします。

ある日、いつものように午前7時、ロビーに集合して仕事に出かけました。36℃という暑さの中でビオトープの設計書と現場の工事状況を見比べ、修正工事の打ち合わせです。2時間ほど暑さの中を歩きヘトヘトでした。お昼になりましたので、例のごとく写真のレストランへ行きました。何を食べてよいのやら、何が食べられるのやら、皆目わからないので、注文は運転手さんにお任せしました。厨房では無精ひげの料理人がフライパンを上手に動かして何か炒めものを作っています。炒め物ならば食中毒はないな。ペットボトルの水は持って来ているし・・・・。

注.1 青いTシャツは料理人、白いTシャツはウエイター

注.2 右後方に私達が食べるライスが準備されている

.3 手前はライスを乗せる皿(汚い布で拭かれた後、積み上げてある)

注.4 左後方はカマドで、ここでフライパンを使い料理された。その後方は隣の塀

注.5 どこにも壁はなく、キッチンとの仕切りもなく、オープンなレストラン

注.6 画面右側へ行くと食事をするテーブルが並んでいる。

写真―1 田舎のレストラン(とても衛生的とは思えません)

しかし怪しいな、ご飯の皿はあまりきれいな布で覆ってありません。まあいいか、それほど汚れているものではないし、フライパンで炒めているし・・・・。と思い、スプーンをティッシュで拭き(写真―2)、炒め物から手をつけました。辛くて辛くて、頭のテッペンからドーンと火山噴火を起こすほどでした。でも、これしか食べるものがありません。ペットボトルの水をコップに移し少しづつ飲み、辛さを抑えてどうにか食べ終えました。

 

 注1 アルミ製のすぐ曲がりそうな、スプーンとフォークで食べます。
 注2.その前にスプーンとフォークはティッシュでゴシゴシと拭きます(ティッシュはトイレットペーパーみ    たいで、中側から引き出します)。
 注3.おかずはみんなで突っつきます。

  写真―2 レストランのテーブルでの食事風景(正に当日)


午後からまた暑い中で仕事です。すると、午後2時過ぎから、お腹がゴロゴロと騒ぎ始めました。ホテルへ帰ると下痢が激しくなり、正露丸を飲んでもおさまりません。その後、辛抱しながら食事もせずに寝てしまいました。

    病院にて

 翌日は、何ともならず、同僚に携帯電話で連絡し、病院へ連れて行ってもらいました。受付窓口は日本語が分かる女性職員(多分日本人)、診療も日本語が分かるお医者さん(タイ人)、そして、診察の結果、食中毒という診断です。脱水症状でしたので点滴をすることになりました。

 ここからが問題です。看護士の人は日本語がまったくと言っていいほど、だめでした。多分20才前ぐらいの若い女性のタイ人の看護士さんは、言葉は通じませんが、いつもニコニコして対応してくれました。とにかく身振り手振りで会話します。ベットへ寝なさい、右腕を出しなさいなどおおよそ内容が分かりました。なかなか良い雰囲気だなあ・・。いつもニコニコしているし・・・。ベッドを離れる時は「バイ バイ」、なんちゃって私に合図するし…。

 点滴が始まり少し落ち着き始めた時のことです。点滴の効果でしょうか、トイレに行きたくなりました。ここからがさらに問題でした。

トイレに行きたいので、呼び出しボタンを押しました。すると例の看護師さんがやってきました。いつものニコニコ顔です。私は身振り手振りで「おしっこ…。」と訴えても、ニコニコしているだけです。ついに、おしりの方を指さし、「おしっこ・・。」と言ったら、看護士さんはニコニコして、「ウンチいらない。」というのでした。どうも、検便をしてほしいと訴えていると勘違いしているようです。まったくわからない人だなあと必死に身振り手振りで訴えました。そうして、もう一度おしりの前の方を指さし「おしっこ・・・。」というと、若い看護士さんはびっくりして、看護士のチーフのところへ飛んで行ってしまいました。なぜかわからずキョトンとしていると、しばらくして、年配のおばさん看護士さんが来て、日本語で「ドウ・シマシタカ。」(今でもこの言葉の抑揚は鮮明に覚えています)というのです。私の「おしっこ。」という言葉にすぐ反応してトイレに連れて行ってもらいました。

ああ、やれやれ・・・・。危機一髪でした

          注1 発行していただいた坂部孝夫の診察券(表側)

              注2 何かわからないけど、TAKAO SAKABE だけは判った。

              注3 海外保険に加入して出発したので費用は一切“タダ”でした。

             注4 帰国後に地元医院で再診しましたが、やはり”タダ“でした。

写真-3 病院の診察券(1回使用したのみ)

(反省)

その1・・・郷土料理や名前の知らない料理を食べるのはやめましょう。

その2・・・若い女性(看護師さん)と2人だけで仲良く・・・、と思ってはいけない。

その3・・・身振り手振りは限界がありました。タイ語は覚えるべきでした。(タイでは

英語は通じないのです)

その4・・・お腹をこわしたとき、日本のくすり(正露丸など)は全然効果ありません。

         注1 やはりみんなでおかずを突っつきます
            注2 右側の人は現地採用の運転手さn
            注3 テーブル上の左後方、4種類の調味料は、
               ①魚醤(魚を原料とした醤油)
               ②ラー油(無茶苦茶辛い)
               ③からしの粉末(まずまずの辛さ)
               ④砂糖(信じられないが運転手さんはご飯にかけていた)
            注4 私は手前に座り、ご飯とうどんらしきものを主食としました

写真―3 レストランのテーブルでの食事風景

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 第1話 飛行機の中で

 初めての海外出張でした。中部新国際空港建設のプロジェクトチームのメンバーである私は深夜便も飛ぶと云う、シンガポールのチャンギー国際空港への環境視察をすることになりました。とりあえず私が団長、愛知県企画部航空対策局職員、関係市の職員、関係団体の人から成る混成視察団です。 市からは部長さん、環境係長さんの2名、関係団体は経済界から3名、そして私の職場である航空対策局から3名です。部長さんが突出して年齢が高いので団長である私が面倒をみることとなりました。

9時、名古屋空港集合、シンガポール・エアラインでのフライトは午前10時です。若い連中は前の方の席、部長さんと私は2人で後方の席でした。私たちの席の後方には「郵便友の会」のオバチャン連中が40名ほどです。部長さんが窓側、私が真ん中、通路側は旅慣れたジーパンのどこかの見知らぬ、お兄ちゃん(やや、ブスーッ、としている)です。

いよいよ離陸、勢いよく出発し、セントレア建設予定地上空をかすめて紀伊半島沖に向かいます。

 私 「部長さん、下に見えるのが空港建設予定地です。」
部長さん 「そうだね、よく見えるよ。ここに海上空港を作ると景色もぐっと変わるでしょうな。」
私 「部長さん、私、海外は初めてです。よろしくお願いします。」

部長さん 「僕は、台湾、韓国、グアムなど行きました。よろしく。」(実は、任せなさいと言わんばかりの態度に見えました)

(そこへ、中国系超美人の添乗員が通りかかります。部長さんは、すかさず・・・)

部長さん 「プリーズ、ビアー?」

超美人添乗員 「オーケイ、ビアー」

私 「部長さんすごいですね、ビアーとはビールほしいということですか?」

部長さん 「坂部さんもビアーをいただきなさいよ。」

というわけで、私と部長さんは缶ビールに舌鼓をうっていました。

 飛行機は、九州から沖縄沖を順調に飛行しています。飛行機のエンジンの振動とうなり音が快く感じています。窓から見る眺めというと、海が青く、雲も湧き、まさに旅は前途洋々、順風漫歩の様相を呈していました。

 

フライトは沖縄沖から台湾沖へと進んでいます。お待ちかねの機内食の時間がきました。後方の席から順に食事のメニュー表が配られました。英語なのかフランス語なのかわかりません

私 「部長さん、これ何と書いてありますかね。」

部長さん 「メニューは2つだね。どちらか選ぶんだ。」

(後ろの方で、添乗員が、「えい、びい?」と尋ねています。郵便友の会のオバチャン連中は、「うんうん。」と首を縦にうなづく人、「ハイ。」という人、黙ってニコッとするだけの人ばかりです。中国系超美人添乗員は適当に機内食を配っています。)

私 「部長さん、先ほどから超美人添乗員が、A,B と言ってますね。」

部長さん 「そうだね、メニューは2つの中から選ぶんだ。」

私 「そうなんだ。わかった、A定食、B定食の中から選ぶんだ。ね、部長さん。」

部長さん 「……。」(かなり考え込んでいた末)「そうだよ。わたしはB定食にするよ。」

(私たちは郵便友の会のオバチャンとは違うんだ。一緒にしてもらっては困るとい う気持ちで・・・)

私 「じゃあ、私はA定食。決まりです。」

 

写真―1 なぜかA定食は売り切れていました(愛知県庁食堂にて)

 

 

いよいよ、超美人添乗員が私たちの所へやってきました。

超美人添乗員 「えい、びい?」(と尋ねてくるや、すかさず私は答えました)

私 「A プリーズ」

超美人添乗員「??????」

 (私の発音がよくないのかなあ・・。再び)

私 「A ランチ・プリーズ」

すると、通路側に座っている、やや、ブスーッ、としていた、旅慣れたジーパンのお兄ちゃんが、遠慮がちに言うのです。 「エビフライでいいですかと言っているのではないですか。」

部長さん(いきなり) 「オーケイ、エビ、プリーズ」

私(小さな声で)「えい、びい、プリーズ」

 

(反省)

 その1・・初めての海外旅行でちょっとはしゃぎすぎたのではないか。私は、「えい、びい、プリーズ」以後、おとなしく、ややウツムキ加減でシンガポールまで、ジーパンのお兄ちゃんと隣同士で、その後4時間のフライト。身がチヂム思いでした。前途多難、天気晴朗なれど波高し、とはこのことだとつくづく思いました。

その2・・考えてみれば、社員食堂でもあるまいに、A定食、B定食はないよね。

その3・・それにしても部長さん、いきなり「オーケイ、エビ、プリーズ」はないよね。この裏切り者め・・・。

 

写真―2 憎っくきエビフライ定食(新大阪駅で買った駅弁)

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