さてさて、皆さま、私は初めて台湾という所へ行って来ました。日本に近い国ですが、まだ行ったことがありませんでした。台湾の企業から環境指導をしてほしいと依頼がありましたので、さっそく行くことを決めました。
季節はちょうど3月の中旬、日本の気候は暑い日と寒い日が交互にやってきます。しかし、台湾はもうすでに25度を超える日本でいう夏日が毎日でした。
それでは、またまた、漫遊記をどうぞ、ご覧あれ。
その1 セントレアから桃花国際空港(台北)、そして台南市へ
まず、朝9時30分、私一人でセントレアからテイクオフ。集合場所は台北『桃園国際空港』です。到着は12時15分ですが、時差が1時間あります。したがって、飛行時間は3時間45分です。
今回は、関係者4名で視察兼指導です。私を除いた3名は、それぞれ上海空港、香港空港などから集まってくる、中国人の人達です。私の飛行機は正確に到着しました。入国検査を受けて空港ロビーへは、12時45分ごろに出たのですが、肝心の集合場所には誰一人いません。携帯電話で呼び出しても応答はなく、いささか不安になってきました。
そう言えば、前回も北京空港で集合した時に上海空港から来る人と待ち合わせをしたのですが1時間30分も待たされました。そんなことから、気を大きく持ち、「まぁ、こんなもんだ。」と納得してのんびりベンチに腰かけていました。案の定、30分ほどして、2人の関係者がやってきました。しかも、ゆっくりと歩いて。
1人は通訳も兼ねた中年の男性技術者、もう一人は若い女性。なんと、大学を卒業して3年目という事です。若いなぁ~。他の1人は、空港到着が3時間後ですのでホテルで集合としました。
現地で落ち合った関係者の一人とさっそく『ツーショット』
(地下鉄『桃園空港駅』のホームにて)
まず、桃園国際空港から、台湾新幹線の駅まで地下鉄で移動します。上の写真をご覧ください。初対面の挨拶をかわして10分もたたないうちに、『ツーショット』です。
(さい先がいいなぁ~。今回は出鼻をくじかれずに済みました。)
新幹線は、桃園駅から台南駅まで、所要時間はおおよそ1時間30分です。10号車から12号車の自由席です。3人はバラバラになって乗りました。
桃園から台南までの台湾新幹線切符
①単程票とは、片道切符乗車券のことです。
②自由座車廂とは{廂はヒサシの意味}自由席車両のことです。
③10~12節とは、10~12号車のことです。
新幹線のスピードは日本でいうと「こだま」程度でして、駅が多く15分走ると止まり、20分走ると止まるという状態です。鉄路と車両は日本製、信号系統はフランス製だそうです。乗り心地は日本の新幹線と変わりはありませんでした。
台湾新幹線を背景に(台南駅にて)
午後3時ごろには、新幹線の台南駅に着きました。この駅は郊外にあり、台南市の中心部に行くにはさらにローカル電車に乗り換えて市の中心部に行くのです。ところが、駅を降りホームへ出ると、暑いのなんの、気温は27℃です。中部新国際空港(セントレア)を出る時は気温が4℃でして完全な冬の装い、つまり、モモヒキを履き、上は長袖の下着です。汗が滲んでくるというより、身体が蒸れてしまい、急速に疲労感が襲ってきたのです。ネクタイをはずし、ズボンのバンドを一つゆるめるなどして可能な限りの対応をしました。本当に散々な目にあったのでした。
ローカル電車は下の写真のように青い電車でした。乗客もほぼ全員座席に座ることが出来る程度の混みようです。10程度の駅に停車し、台南駅に着きました。そこから、タクシーでホテルまで行きます。ホテル到着は午後5時近くになりました。
新幹線台南駅から台南市内までの列車(重そうな感じでした。)
その2 台湾料理で、最高級のおもてなしを受ける
ホテルで一休みです。早速、モモヒキを脱ぎ、シャワーを浴び、日本から持って来た半そでシャツに着替えました。そして、夜の歓迎宴会に出席です。
ホテルのロビーに6時集合、歩いて10分程度の場所の台湾料理専門店へ入りました。何故か、ウエイトレスが多くいた印象があります。しかも、案外高年齢のウエイトレス(どっちかというと『としま』)で、みな白い割烹着の様なものを着ています。これが台湾料理のお店か、独特の雰囲気だなぁ~、と思っていると、さっそく鍋料理です。野菜が鍋からあふれんばかりの「てんこ盛り」に入っています。火を付け、しばらくグツグツと言う音です。この音の優しさと言い、野菜が煮えた良いかおりと言い、実にうまそうだなぁ~。中を覗きこむと「とんこつラーメン」の様な汁の色です。とんこつラーメンはしょう油ラーメンより好きです。これは行けるぞぅ~。シメシメ。
と思いきや、例の「としま」ウエイトレスさんが鍋の底から何やら怪しいものを取出し、鍋の淵に並べるのです。6人で食事ですので、それは6本ありました。
うへぇ~っ。それは、豚の足か腕の骨が2つに切断された代物です。それが下の写真です。これはグロテスク。何ともいえない感じです。
切断された豚の骨が入った鍋料理。
(経験のない味でした。味はわかんない。失礼)
通訳の人に、「これを食べるのですか?」と聞きましたところ、通訳の人は箸でその骨をつまんで私の皿の上に載せ、「はい。これをストローで飲みます。」というのです。つまり、ストローで骨の髄液をチューチュー吸うのです。
わぁー、これは大変だ、初めて味わう味でして、美味しいのか不味いのかわかりません。しっかり、目をつむって吸いました。何とも言えない味です。招待して頂いた企業の人に失礼のないよう、やっとの思いで、全て、きれいに飲みました。ところが、としまのウエイトレスのおばさんが、いきなり、ささっ、とやって来て、おもむろに鍋の汁をしゃもじ(おたま)に取り、私の皿の上にある骨の空洞に注ぐのです。「わぁー、また飲むの?」
ストローでチューチュー吸って飲みます。
(下部の関節とおぼしき周りにはゼラチン質がこびりついています。)
今度は、再び鍋の汁を注がれないよう、ゆっくり飲んだり、飲んだふりをしたり、と悪戦苦闘です。すると、通訳の人が、「骨の関節の部分のゼラチン質も食べるのですよ。美味しいですよ。」というのです。「もう騙されないぞぅ。これも多分同じ状況になるのではないか。」と思い、少しづつ遠慮がちに食しました、ほとんど残して・・・。周りの人は、食べていました。よく見ると、ゼラチン質の油で、口の周りをギラギラさせて食べているのです。参ったなぁ。
その3 いよいよ、工場視察兼指導
朝起きると、天気の良い、南国調の日差しが照りつける晴天の日でした。外国旅行では、朝早くの市街地はその国独特の習慣が垣間見えるという事で、いつも朝の散歩をします。
朝の散歩の途中にて(台南市メインストリート)
今回も、台南市の下町を1時間ほど歩きました。台湾は中国、ベトナム、タイと同様、バイクの多い町です。赤信号になると、10~20台のバイクが自動車の前に並びます。そして青信号になると一斉にバイクが走り出し、その後を自動車が走り出すのです。
路地を入ると中国の上海、南京と同じような風景が見られます。中国語は十分な知識がありませんが、台湾では何だか言葉が少し違うなぁ、中国語とも違うし・・・、と思いました。台湾南部では、福建省の人達が多く移住しているようでして、この地域では中国語、中国語と少し違う台湾語、そして福建語の3つの言語が重なっているという事で、この3か国語(?)を理解し、話せないと仕事にならないのだそうです。
ホテルから台南市の市街地を見る
そして、午前8時にホテルロビーに集合です。いよいよ仕事のはじまり、始まり~っ。まずは、台南市のサイエンスパークに設置されている排水処理施設の運転管理の指導です。サイエンスパークと言っても、いわゆる工業団地です。しかし、大規模な、きれいな工場が立ち並び、大気汚染もありません。実にきれいな工場団地です。まず、私たちは、この工業団地のお偉い方に挨拶をするため、工場団地の管理事務所へ行きます。事務所の前には野外展示物として様々な芸術品が並んでいます。下の写真は有名な彫刻家によるものと解説がありました。その他、薬缶(やかん)のようなマンモスの様な芸術作品、人がベンチで休んでいるような芸術作品などいたる所にありました。何でこんなにも多く、いたる所にあるのだろうと不思議に思いました。
管理事務所の前にある芸術作品(鼻をナデナデしてゴマをすっている。)
名刺交換をし、挨拶が終わり、現場へ向かいます。もちろん車です。この工場団地には3つの工場排水処理場があり、2か所は稼働中、1か所は建設中でして最新の設備を整えることにしています。
わたしたちは、既に稼働中の施設の運転状況を見て回りました。管理責任者は常駐しているのですが、処理施設はその能力を100%発揮していないように思われました。稼働して2~3年だそうです。安定した運転に向けてさらなる指導が求められます。
活性汚泥法による大規模な工場排水処理施設
(1日3万トンの排水を処理するそうです。)
そして、難しい話になりますが、低分子の難分解性有機物質の除去が不十分という話になりました。排水基準が相当厳しいのです。そこで、下図のような工場排水をもう一度利用する、『水のリサイクル』を提案してきました。
将来の水リサイクルを考えて、膜ろ過装置の設置を提案しました。
とは言うものの、設備が高度化すればするほど、運転管理が難しく、この工場団地で使いこなせるかが今後の課題となりました。しかし、出来るだけ排水処理設備や発生汚泥の維持管理の教育をしていくこととしました。この様に、日本では当たり前の設備でも、その導入には細心の注意が必要であることも分かりました。
この様に、台湾では毎日、工場の排水処理場の指導をしたり、責任者と意見交換をしたりと忙しい日々を過ごしました。
その4 台北からセントレアへ
4泊5日の台湾の仕事も無事に終え、今日は日本へ帰る日です。今回の旅は余裕がなく、観光地へは行けませんでした。故宮博物館も行かず、ただ、1日だけ夜に台湾マッサージに出かける程度でした。このマッサージがまた、ものすごくて、つまり、マッサージは男の人が対応するのです。私は、体育系の若い男の人に当たって、マッサージというより力強く柔軟体操をしてもらったようで、終わってから、節々が痛くて痛くて、お金を払うのがもったいないと思うほどでした。
台湾で最後に食べた台湾ラーメン風の麺
(どんぶりはプラスチック製)
帰る日の午前中も仕事でして、途中、空港への帰り道、『元祖 台湾ラーメン』のようなものを食べました。辛くて、辛くて悪戦苦闘しました。中身はラーメンというよりも、きしめん(名古屋名物のうどん)という方が当たっている様な太麺でした。そして、赤ちゃんのこぶし大ほどの大きさの大根、ニンジン、肉(何の肉かわからないが筋があり歯でかむことが大変なもの)が入っているのです。でも何とか、日本まで帰って来ました。
結局、今回の旅は、疲れた~っ、の一言でした。その後、日本の気候に慣れるまで再び風邪気味、花粉症気味になり、2週間ほど体調が回復しませんでした。気候のせいもさることながら、骨を2つに切断した鍋料理を食べたせいもあるのではないかと、現在でも思っています。
それでは、終わります。さようなら。やはり、疲れた~っ。
皆さま、来年はイノシシの年です。猪突猛進で幸せをゲットしてください。それではよいお年をお迎えください。
<追加です>
そういえば、幸先の良い、ツーショットで記念写真を撮った御嬢さんとはどうなったかと申しますと、『竜頭蛇尾』とはこのことでして、その後は特段何もなく、別れの握手もなく、日本語で「さようなら。」と言っただけで別れました。名刺交換はしたのですが、中国語でして読むことが出来ません。これだけは残念というほかありませんでした。 以上、おわり。
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さてさて、皆さま、今年もよろしくお願いいたします。実は、昨年の11月に2泊3日の日程で、一応、研修旅行と題して、スタッフ3人で北海道に行って参りました。今、話題になっている水俣病の原因である水銀の使用に関して世界条約が発効し、全面的に使用禁止となりました。いわゆる水銀条約です。日本の国も水銀に関する様々な法律がこの条約に合わせて、大きく改正されました。もう水銀はPCBと同じく完全に使用できないのです。そのため、日本で唯一、水銀を無害化処理する工場である『野村興産イトムカ鉱業所』を視察することとしました。
もう一つの研修旅行の目的は、札幌市が運営する『モエレ沼公園』です。この公園は、産業廃棄物や一般廃棄物の埋め立てが終了した広大な廃棄物処分場を自然豊かな自然公園に造成したものです。設計も有名な彫刻家、いや、総合芸術家と言いましょうかイサム・ノグチ(父は詩人の野口米次郎、母はアメリカの作家レオニー・ギルモア)によるもので、知る人ぞ知る有名な施設です。それでは、お待たせしました。いつもの珍道中をご覧あれ。
表 北海道視察旅行の旅程
第1日目
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モエレ沼公園視察、北海道大学資料館
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第2日目
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野村興産㈱イトムカ鉱業所視察
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第3日目
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札幌、小樽の景観視察、日本銀行資料館
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第1日目 名古屋から札幌、旭川へ
まず、朝7時50分テイクオフ。セントレアから新千歳空港へのスカイマークでのフライト。格安空港券を使いました。新幹線で名古屋から東京へ行くより安い運賃でした。しかし、格安の運賃だけあって機内はやや狭く、ちょっと窮屈な感じがしましたが快晴のため、窓から見る景色は最高でした。木曽三川の河口、乗鞍岳、諏訪湖、日本海、佐渡島、鳥海山、津軽海峡と流れる景色は目を見張りました。津軽海峡を渡るときはかなり低空飛行で、白波が目の前に見えるようでした。
JR新千歳駅からは快速エアポート号で一路札幌へ、それからどの様にしてモエレ沼公園へ行くのか分からない。とにかく、JR札幌駅構内の札幌市内観光案内所のボランティアおばさんに聞くことにしました。
私「あのぅ、モエレ沼公園へ行きたいのですが。どのようにして行けばいいでしょうか。」
(時計台とか大通公園とか、すすき野のラーメン横丁など有名な観光地の問い合わせではないので、ボランティアおばさんはいつもと違う問い合わせに怪訝(ケゲン)そうな目で私たちを見た挙句、答が来ました。)
おばさん「地下鉄東豊(とうほう)線で終点の栄町まで行き、そこからタクシーですね。今、公園の紅葉がすごくきれいですよ。」
私「東豊線はどこから乗るのでしょうか?」(また怪訝そうな目)
おばさん「駅(JR札幌駅)の地下ですよ。」(何だか当たり前のような答)
何だかおかしな会話の後、東豊線に乗り、タクシーに乗りました。またしてもタクシー運転手さんと意思疎通のない会話
私「運転手さん、モエレ沼公園の中にレストランはありますか?」
運転手さん「公園事務所の中に一軒だけありますよ。」
私「ありがとうございます。2時間ほど見学して食事をしますので、その時間に迎えに来てくださいね。」
運転手さん「わかりました。携帯電話番号を教えますので電話をかけてください。よろしく。」
しかし、レストランは、かなりと言うか、相当な高級レストランでした。私の頭の中には1食1,000円未満の「一膳めし屋」的なレストランを想像していたのです。やはりここは、レストランと言わず「ちょっとした食堂はありますか?」と聞くべきでした。
最も安いランチでした。勢いでワインも飲みました。(パンは食べ放題)
入口を入ると、まず、応接セットがあり、お茶を飲みながらしばらくそこで休憩し、そこから蝶ネクタイをしたウエイターに案内されると4人掛けのテーブルには白いシーツ、メニューを見ると上からランチ3,500円、4,000円、5,000円と書いてありました。そこでしかたなく「一番上のランチをお願いします。」と言いました。つまり、一番上に書いてある、安いランチをお願いしたのです。ところが、蝶ネクタイは確認するように、「3,500円のランチでよろしいでしょうか。」と言うのです。ランクが上ではなく、一番上に書いてあるものを注文したのですが、イヤミなウエイターですよね、まったく。坂部環境技術事務所の研修旅行ですので、旅姿は工場見学ですから汚れても良い服装で来ました。レストランの従業員の人達は、私たちの服装、立居振る舞いなどを観察してたのでしょうか、私たちが場違いなところへ来たので戸惑っている様子に見えたのでしょうか、少し、不安感の様な不信感の様なものがありました。特に、奥の方に居る料理人は、この人たちお金を持っているのかなぁ~、という目つきでした。
とはいえ、さすが3,500円。品があり、美味しく頂けました。あまりの美味しさに、ワインも注文してしまい、ほろ酔い加減になったのです。
でも、食事も最後の佳境に入るころは、蝶ネクタイは優しく、「どこから来られました?」と聞くので、「名古屋からです。」と答えると、「私の出身は静岡です。」と、いつもの出身地を紹介することから始まり、少しづつ話が弾み良い雰囲気になりました。満足、満足。

モエレ山からモエレ沼公園北東を見る(中央建物は公園事務所)
その後、3,500円の食事を終え、そして、広くて、山あり谷ありの自然公園を、荷物を持って徒歩で回りました。公園面積は189ヘクタールです。そしてモエレ山は標高62メートルです。とにかく広大で標高差もあり全てを見て回ることが出来ません。そこで、まず、眺望の効く「モエレ山」に登ることにしました。つまり、公園の全体像を見たいのです。ところがアルコールが入っているのか、はたまた、身分不相応な高級ランチを食べた結果なのか、息が切れて、息が切れて、20歩あるくと20秒休むと言う誠に不名誉なリズム感で登り切りました。この様な素晴らしい景色と自然豊かな風景の下に産業廃棄物が埋まっているなんて想像もできませんでした。ちなみに埋立てられたごみの量は、273.6万トンという記録が残っています。思いもよらない出費と山登りの疲労でしたが、十分研修成果が得られました。
<解説>
『モエレ』とは、アイヌ語の「モイレペツ」が語源と言われています。
「モイレ」は「静かな水面」・「ゆったりと流れる」、「ペツ」が「川」を意味します。 そして、モエレ沼は近くを流れる豊平川が自然河川として流れていた時代、たび重なる洪水や氾濫で出来た河跡湖と考えられています。
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その後、札幌駅に戻り、歩いて北海道大学を見学しました。北海道大学の正門で記念撮影です。『子育ての失敗を孫で取り戻す。』と言わんばかりに、孫にはこの様な大学へ入学させたいと正門に向かって手を合わせ(仏さま)、柏手を打ち(神さま)ました(つまり多神教、あるいは無宗教)。そして、北海道大学博物館を見学した後、JR札幌駅から、函館本線で特急カムイ29号 旭川行に乗りました。日は既に陰り、車内の雰囲気は『本当に北海道』と言う状況でした。車窓からは暗黒の中に家のともしびがポツリ・ポツリと見え、夜行列車の雰囲気には十分なしつらえでした。
こんな訳で、第一日目から、脱線に次ぐ脱線の漫遊記でした。札幌駅で観光案内のボランティアおばさん、タクシーの運転手、さらには、3,500円のランチと、またしても、出鼻をくじかれた感じでした。
第2日目 野村興産イトムカ鉱業所

旭川より北見の方が近い位置にあります。
朝早く、レンタカーで目的地である『野村興産イトムカ鉱業所』へ向かいます。何せ午前9時からの見学予約です。前日の天気予報では「雪、積雪15センチメートル」と報道されています。野村興産の案内書では旭川から高速道路を使い2時間という説明です。これは困った、そんなにスピードを上げて走れない。峠もあるようです。とにかく、何があっても時刻通りに着きたい。考えに考えた挙句、旭川のビジネスホテルを午前5時30分の出発としました。ホテルで朝食も取らず、市内のコンビニで菓子パンと野菜ジュースを買い、道中、車の中でムシャムシャと朝食です。
旭川から北見国道を東へ、東へ、そして石北峠を越えた所にイトムカ鉱業所はありました。スピードの出しすぎなのか、8時ちょうどについてしまいました。何か、おかしいな。9時まで、まだ1時間もあるのです。寒さの中で待つことは大変なので、一旦引き返えし、20分ほどの所にある層雲峡を視察しました。層雲峡に近づくにつれて車窓からは『民宿大雪(みんしゅく・おおゆき)』とか、『レストラン大雪(れすとらん・おおゆき)』などの看板が見えます。いくら何でも、大豪雪地帯ではないのに、いたる所に『大雪(おおゆき)』の看板です。おかしいなぁ、何で大雪なんだろうと考えていましたら、途中に『喫茶・大雪山』と言うのがありまして、さすがオオユキヤマとは読まず、ダイセツザンと読み、「なぁんだ、大雪(だいせつ)なのか。」と納得しました。
その後、9時ちょうどになりましたので、野村興産イトムカ鉱業所の門を入りました。

野村興産イトムカ鉱業所の入り口にあった。
そこにはすでの大型トレーラーが4~5台、鉱業所の開門と同時に入場する順番待ちをしています。聞きましたところ、全国から集められた水銀を含む廃棄物(蛍光管や乾電池など)はJR北海道の貨物列車で北見までコンテナで運び、それをコンテナ専用トラックに積み替えてイトムカ鉱業所まで輸送するのだそうです。

イトムカ鉱業所へ入場するコンテナ専用トラック
9時ちょうどに、私たちも、入場しました。始めの1時間は工場の概要説明と水銀鉱山の歴史などのお話しをいただき、その後工場見学です。とは言うものの、絵になる写真はあまりなく、普通の工場みたいです。唯一、水銀含有乾電池の無害化工場のみが絵になるものでした(下の写真)。

水銀含有乾電池を無害化処理する工程の入り口(乾電池を並べている)
見学コースの途中、見学者のためのサービスと言うのでしょうか、水銀が入った二重になった容器の展示がありました。そこでは、鉄製の大きな釘(クギ)がプカプカと浮いています。異様な感じです。水銀の体験実験で、私たちは分厚い手袋をしてその容器の中に手を入れることが出来るのです。水銀の比重が大きくて手が入りません。力いっぱい手を突っ込んでようやく手首まで入るのです。なかなか面白い経験をしました。あまりに力を込めたので腕が痛くなりました。
視察終了時間が近づき、12時を過ぎていましたので、鉱業所内を案内していただいた人に「ここらあたりで、食事するところはありませんか?」と聞きましたところ、「北見市の方へ少し下ったところに『つるつる温泉』があり、そこに食堂がありますので、そこを利用してください。」と言うのです。『利用してください?』何か引っかかるものがありましたので、さらに突っ込むと、「イトムカ鉱業所の水銀鉱山からの湧出温泉です。」というのです。シメ、シメと思い、そこでさらに突っ込み、「何か利用券とか、割引券など、いただけるものはありますか?」と聞きましたら、簡単に「ありません。申し訳ありません。」と言うつれない返事でした。『言ってみるもんだ。』という事が通用しませんでした。残念。

水銀鉱山から湧き出た温泉です。昼食のみ利用し、温泉には入りませんでした。
つるつる温泉はイトムカ鉱業所から15分ほど、北見の方へ下って行った左側奥にありました。食堂には思ったより多くの客がいました。お客は地元のお年寄りが中心です。私たちは、しかたなく、全員が、安くて、早く出来るものを注文することとし、結局、定価600円の生姜焼き定食を食べることにしました。昨日のモエレ沼公園でのランチと大違いです。
ところで、つるつる温泉の名前の由来ですが、湯がつるつるしていて、入浴すると肌もツルツルになるという事から来た名前だそうです。イトムカ鉱業所の人は「名前が良くないですね、何だか品が無い様でして・・・、頭が『つるつる』を連想してしまいます。」と申しておりました。残念でしたが、時間がなかったので入浴はできませんでした。
いずれにしましても、野村興産イトムカ鉱業所は見る価値がありました。
その後、レンタカーで旭川まで帰り、再び函館本線で特急ライラック36号で札幌まで帰りました。札幌ではススキノで地元料理の夕食を食べました。
<解説>
『イトムカ』の語義は不明ですが、そのまま読めば i-tomka(それ・輝かす)とも,また i-tom-muka「それが・輝く・無加川(支流)」とも聞こえる。i-tom-utka(それが・輝く・早瀬)とも読める。鉱物が光って見えたものかと推測されています。
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第3日目 札幌、小樽、そして名古屋へ
3日目は名古屋へ帰る日です。早朝、例の時計台を見に、いや、朝6時の鐘の音(かねのネ)を聴きに行きました。午前5時40分に札幌駅前のビジネスホテルを出て、歩くこと10分で時計台前に着きました。人通りは少なく、ジョギングをする人がちらほら見えました(犬の散歩をしている人はいません)。
ちょうど6時10分前です。敷地内では警察官の様な制服を着たおじさんが竹帚(タケボウキ)で落ち葉を集めています。観光客はいません。6時になると、ガラン・ゴロン、いや、そんな音ではありません。もう少し濁った音でした。ジャラン・ジャゴンと言う濁った鐘の音です。よく言えば歴史を感じる音、悪く言えば錆びた音です。初めて聞く音でして、最大限に賞賛し、つまり、心にしみる音でした。感激して、パチ・パチ・パチ(拍手)。

早朝6時の札幌時計台(鐘の音は少し濁音が入った感じでした)
ホテルの朝食(バイキング)を頂き、今日の午前中は小樽を見学する事としました。新千歳発のフライトは16時ですので、ゆっくりとした見学です。小樽駅を降りて記念写真。そして、小樽運河をめざし、堺町通りのメインストリートを歩きます。この日は北海道ではまれな暑さです。コートを脱ぎ、汗の出ない様にゆっくり歩きます。

JR小樽駅のプラットホームで記念撮影
途中、雰囲気の落ち着いた、ちょっとレベルが高そうな『大正硝子館 宇宙(そら)』というお店に入りました。大量生産・大量販売という品ぞろえではなく、美術品の様な、レア物の様な作品が、品よく並んでいます。中に入ると、30歳ほどの美人の店員さん(容姿淡麗でややフックラ、中肉中背で少し背が高い)がニコニコして、「どうぞ、奥へ入って見てください。」と声をかけるので、ついつい奥に入って行き、美人の店員さんと2.3会話しているうちに、いつの間にか、おススメされた『ラジオ・メーター』を買ってしまいました。これは、光が当たると球体の中の四角い羽がグルグルと回るのです。ただそれだけのことですが、結果として買ってしまいました。何で買ってしまったのだろう、と反省することしきりでしたが、やはり、一言でいえば、ニコッとする女性には弱いです。この際、白状します。

『大正硝子館(宇宙)』のお店の中からショー・ウインドーを見る
(勧められて買ってしまったラジオ・メーターは中央にあります。)
美人の店員さんに今生の別れを告げ、お店を出ます。すると、今までとは全く違い、喧騒な街の賑わいです。中国人らしい人の喧しい声があちらこちらで聞こえます。その後、水天宮と言う神社の丘に登り、小樽の街を一望しました。丘を降りて寿司屋通りで美味しい寿司を食べます。やっぱりお寿司にはビールです。1時間ほどかけてランクが上から2番目の『上寿司(1.5人前)』を食べ、その後、日本銀行小樽支店跡地の金融資料館を見学です。私は1万円札の模様を焼印したお札と同じ大きさの『お札煎餅』を買いました。そして再び堺町通りへ出ます。何とか歩き通しました。万歩計はゆうに1万歩を越えていました。疲れました。

小樽で入手したパンフレットの表紙
(こんな美人は、例の人以外にはいませんでした。)
小樽では、様々な旅行案内パンフレットがありました。本当に観光に力を入れています。しかし運河の長さはそれほど長くはありません。むしろ、愛知県半田市の運河の方が長いと言われています。半田市は酢のまち、お酒のまち、新美南吉のまちと言う観光資源がいっぱいあります。しかし小樽の方が観光地として有名です。こんな切り口から考えることが出来て、小樽の視察旅行は、美人の店員さんのことも含めて、十分な研修成果が得られたと考えています。
ちなみに、ラジオ・メーターは本棚の上に淋しく置かれています。そこは薄暗い場所ですので、四角い羽は回っていません。
また、お札煎餅は、安城へ帰ってから、孫と一緒にムシャ・ムシャと食べました。孫は「お金もちになるぞぅ~。」 私は「老後の資金を蓄えるぞぅ~。」と宣言しながら・・・・。
それでは今回はこれまでとします。ごきげんよう、さようなら。
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さてさて、皆さま、私は孫の面倒を見ていますというか、孫に見てもらっているというか、つまり、大変なんです。孫は現在保育園の年長さん、来年4月からは小学一年生です。毎朝、自分の健康も兼ねて、孫を保育園へ連れて行きます。そのため、孫は非常になついているのです。でも、最近は、自我に目覚めて、主張する、拒絶する、すねる、など多彩な反応をします。孫は家族の序列も父、母、自分(孫)、ジイちゃん、弟と認識しており、自分(孫)より私(トンチンカン先生)の方が序列的に『下』と位置付けているようです。ごく最近では「もう、ジイちゃんは何も知らないんだから。」と発言するようにもなってきました。とは言うものの、可愛くて目に入れても痛くないとはこのことです。
それでは順次、トンチンカンな奮戦記をご紹介、ご紹介。
孫に連れられ、京都梅小路蒸気機関車庫見学
その1 おじいちゃん・おばあちゃんの参観日
先日、息子(坂部文孝)から以下の連絡がありました。
息子:「保育園から『おじいちゃんとおばあちゃんの参観日』開催のお知らせがあったので、参観してもらえないかなぁ。」
私:「うん、いいよ。なになに、午前中ね。了解したよ。孝樹(孫の名前)も喜ぶよね。」
私も子供の頃、何らかの都合により参観日に親が来ない時は淋しい思いをし
たものでした。これは、絶対行かなければいけない、万障繰り合わせてでも参
観しなければいけないと思ったのでした。
いよいよ、参観日の当日です。保育園の門を入ると園児たちが中庭で遊んでいます。孫はいるかなぁ、と園内を見渡すと、小さな園児が「あっ、たか君のおじいちゃん。」と言って寄ってくるのです。小さな子供が何で私を知っているのだろうかと驚いたり、感激したりでした。
そして時間が来ましたので、子供たちも、おじいちゃん、おばあちゃんたちもそれぞれの部屋へ入りました。私の孫は、「パンダ組」です。園児は30人ほどでして、おじいちゃん、おばあちゃんはその半分の15人ほどです。パンダ組の先生は男の先生でした。孫は私の顔を見るなり、ニコニコ、そしてソワソワとして、小さく手を振るのです。
孫の写真(愛知県岡崎市・岡崎東公園で恐竜の足とツーショット)
先生:(園児に向かって)「みんな並んで。」
(園児が一列になって教室の南側へ並びます。よく訓練されています。)
先生:「それでは、おじいちゃん、おばあちゃん、園児に向かうよう、一列に並んでください。並ぶ順番は決めていません。自由です。」
(私は、先生から最も遠い、一番奥に並びました。)
先生:「おじいちゃん、おばあちゃん、よくいらっしゃいました。それでは順番に、お孫さんのお名前を言ってください。奥の人からどうぞ。はい、そちらのおじいちゃん(すなわち私です)からです。」
(えっ、私が最初ですか?と思い、覚悟して、一歩前へ出て答えました。)
私:「坂部文孝(ふみたか)です。」
(実は、本当にあわてて、私の次男、すなわち孝樹くんのお父さんの名前を言ってしまったのです。孫は、私の顔を見て、「その人、誰あれ。」と言わんばかりに、キョトンとしています。私は、ハッ、と気が付き、孫の孝樹の名前を言おうとしたのですが、なかなか名前が出てきません。うっ・・、と一瞬、多分2,3秒の間があり、やっとの思いで、思い出し・・。)
私:「失礼しました、坂部孝樹です。」
と答えたのです。ボケ老人なのか、とっさの反応ができないアンポンタン老人なのか、反省することしきりでした。私に続いて、おじいちゃん、おばあちゃんが順にお孫さんの名前を言っています。私の様な赤恥をかいた人は、多分、一人もいません様でした。(残念!)
あいさつが終わった後、園児と一緒にゲームをします。道中すごろく、コマ回し、カルタ取り、着せ替え人形など2~3人のグループになって1時間ほど、一緒になって遊ぶ時間です。それが終わると、園児たちが二列に並び、歌を披露してくれるのです。おじいちゃん、おばあちゃんは園児の小さな椅子に座って、手拍子や、手でヒザをたたいてリズムを取って聞くのでした。私はと言うと、反省しきりで、歌など耳に入りませんでした。
やはり、おじいちゃん・おばあちゃんの参観日にふさわしい、『ちょっとした、でも私にとっては愕然とした意味のある失敗』でした。(反省、反省)
(幼稚園内ではプライバシーの関係もあり写真撮影禁止でした。残念)
その2 自転車乗りの練習奮戦記
ある日、可愛い孫から息子(私の次男)の携帯電話を使って電話がありました。
孫:「じぃ、じぃ。僕、自転車に乗りたい。自転車を買ってね。」
私:「へぇ~、自転車に乗りたいんかねぇ~。いいよ。今度の日曜日に買に行こうかね。」
孫:「わーぃ、わーぃ。じぃ、じぃ大好き~。パパ、じぃ、じぃが自転車を買ってくれるんだって。」
そして、その電話は、瞬時に息子に換わりました。
息子:「えっ、本当にいいんですか? 孝樹がよろこんでいるよ。有難う。」
私:「うん。いいよ。いずれ買ってあげようと思っていた所なんだ。そんなに高価なものでもないと思うし、気にしなくていいよ。」
と、携帯電話での話は終わりました。孫も、年中さんでもうすぐ6歳です。もう自転車に乗っている子供も見かけるし、自転車に乗る練習は早い方が修得が速いようだ、と自分自身に言い聞かせて、納得しました。
しかし、よく考えてみると、息子の携帯からの電話、孫との会話が終わると瞬時にして、息子に換わり、お礼の言葉・・・・。なるほど、どうも、親が、子供に言わせた可能性が非常に大きいものであります。これはやられた、と思いましたが、可愛い孫のため、やっぱり買うことになりました。
孫に買い与えた子供用自転車
次の日曜日、さっそく孫を連れて自転車屋さんに行きました。もちろん父兄同伴です。店員さんは、男の子らしい青色の自転車を推奨してくださいましたので、それを買うことにしました。衝動買いです。当時は補助輪がついていました。しかし、2つの補助輪がついていると自転車はペダルを漕ぐのに重く感じてしまい、孫はあまり進んで練習しようとしません。
そこで、自転車を購入後、3ヶ月で補助輪を取ってもらい、本格的な自転車乗りの練習をすることにしました。練習はおじいちゃんの仕事です。安城市にある『明治用水自転車道』での練習です。
私が少し屈んだ状態で自転車の後ろを持ち、一緒に走るのです。それが大変です。一番困ったことは、孫が危ないと思った時に、自分で急ブレーキを掛けるのです。私は屈んだ状態で前のめりになり、あわや、転んで、最悪の場合『骨折』してしまう所でした。
50メートル走り、休憩、50メートル走り、休憩の連続です。後ろにいる私は、手を放していないのに「手を放しているよ。」と大声で、激励することしきりです。そして、やっとハンドルを左右にゆすりながらの自転車乗りができました。まっすぐ行くにはもう少しの練習です。このまま行くと1ヶ月のちには自由に自転車が乗れる見込みだと思い、満足していました。
しかし、ついに私が参ってしまったのです。前かがみの姿勢で、自転車の後ろを持ち、50メートルを走り、休憩、50メートルを走り、休憩をする、の繰り返しを毎週日曜日に5回ほど行うのです。ついに、腰が痛くなり、当分の間、自転車のりの練習は休憩となってしまったのです。
もちろん、孫はまだ自転車を自由に乗りこなせません。
その3 マゴマゴします。
おじいちゃんの最近の関心事は、孫の動向です。とにかく、「そんな言葉、どこで覚えたのかねぇ。」と言う事ばかりです。先日も、レストランで孫と二人で昼食をしましたところ、孫は「あのぅ、すみません。」と大きな声で店員さんを呼ぶのです。中年のおばさん風のウエイトレスさんがやって来ると、孫は二つ折りになったメニューを見ながら、「お子様ランチ1つと、ハンバーグをトッピングでお願いします。」と注文をするのです。「トッピング? その言葉どこで覚えたの?」と言いたくなりました。まさか保育園ではないと思うが・・・・。

JR東海 新幹線浜松工場一般公開へ行く
(左は700系、右はドクターイエロー)
つまり、孫は日々成長し、おじいちゃんは日々、ボケとアンポンタンが激しくなり、かつ、筋力も落ちていきます。これも、時の流れと納得しています。「時の流れに身をまかせ~、です。」気張ってはいけません。

つまり、『トンチンカン先生、孫との関係性』は孫が右肩上がりで、トンチンカン先生は右肩下がりなのでした。 おわり。
それでは、次回をお楽しみに。ごきげんよう、さようなら。
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皆さま、今年初めて随筆を認(したた)めます。つまり、明けましておめでとうございます。
トンチンカン先生は平成29年も美の旅にまい進しております。まずは、平成29年初頭、1月に雪の舞う中、近畿地方は兵庫県小野市の浄土寺に安置されている『国宝 阿弥陀如来像』を拝観。そして、春には関東は東京、国立新美術館の『ミュシャ展』へ行って参りました。それでは順次、トンチンカンな美の旅へご案内、ご案内。
その1 浄土寺『国宝阿弥陀如来像』
大阪で環境に関する講演をしました。こんな年齢になっても講演依頼があることは本当に嬉しいものです。(感謝、感謝)
特に、最前列に座って、目をパッチリ開けて真剣に聴く人々には頭が下がります。その人々とは当たり前と言えば、当たり前ですが、つまり女性です。しかも若い女性です。講師のトンチンカン先生は、『いよよ華(はな)やぐ命なりけり』と、ついつい頑張ってしまうのです。「いよよ華やぐ」という文言は以下の詩が起源です。
年々にわが悲しみの深くして
いよよ華やぐ命なりけり
この詩は「芸術は爆発だ」と言った、例の芸術家岡本太郎さんのお母さんの岡本かの子さんが小説『老妓抄(ろうぎしょう)』の最後の部分で詠った詩歌です。こんなに長く生きると、悲しいことのみ多く思い出されるのですよ。しかし、その悲しみを乗り越えて、つまり、年をとれば取るほど元気に、晴れやかに、そして華やぐというものですよ、という意味の様です。私も老いてますます元気に、華やぎたいものです。
さて、こんなことを言っている場合ではありません。話は浄土寺でした。ごめんなさい。
講演が終わり、新大阪駅近くのビジネスホテルで一泊しました。翌朝、ホテルで朝食をとるや、一目散に新大阪駅からJR快速列車「西明石行き」に乗り、神戸の三宮で降りました。その後、乗り換え、阪急電車で新開地まで乗り、またまた乗換えで、神戸電鉄で三田行きに乗り、そして再び、鈴蘭台で粟生行きに乗り換え、長時間かけて小野駅という所まで行きました(ああ、しんどい)。途中、鵯越(ひよどりごえ)という駅、三木城があった三木駅など歴史に名前の出てくる駅を通過しました。数えませんでしたが後で調べましたら、私の乗った電車は30もの駅に停車したのでありました。つまり、大変な大旅行でした。電車の車窓からは山は頭に雪をかぶり、田園地帯は新開地から小野に出るまで全く無く、山を回り込んだり、開発された住宅地を眼下に見て走ります。電車に乗っている時間は2時間と少しを経過しました。下車した小野駅から、徒歩約30分で浄土寺に行くことが出来るのです。が、さすがに電車疲れで、お尻が痛くなっていましたので、タクシーで行く事にしました。浄土寺に着いたのでタクシーの運転手さんに1時間後にこの場所に来てもらうように頼み、浄土寺に入って行きました。
浄土寺 国宝浄土堂(例の国宝三尊が安置されている)
浄土寺の中心はやはり、国宝が安置されている浄土堂です。この浄土堂は建物の平面が正方形の建物で、屋根はすっきりと直線を描き、日本刀のようなソリはありません。つまりこの浄土堂の建築様式は天竺様式といい、国宝でした。そして、山門らしきものは無く、広い境内に様々なお堂、鐘楼、経蔵などが点在しています。境内には人っこ一人いない田舎のお寺という感じです。
浄土堂入口(中にアルバイトのおばさんが居た)
浄土堂の左角に入口がありました。拝観料はお1人様500円と書いてありましたので、すぐに入口とわかりました。そこを入ると、受付のアルバイトらしいおばさんから「ようこそ遠いところ来てくださいました。」とお礼の言葉がありました。おばさんは足元に火鉢を置いています。つい、つい、「火事にならない様に気を付けてね。」と言ってしまいました。おばさんは久し振りに人の姿を見るような、キョトンとした顔をしています。人の声を聞くのも久しぶりという感じです。もちろん、拝観者は私一人です。
中に入ると板の間でして、板の隙間からヒューヒューと隙間風が上昇気流となって足元を撫でます。寒いというより痛い感じでした。スリッパの備えもなく、冷たい体感をしました。足踏みをしながら、かじかんだ足を左右の足同士でこすり、温めます。すると、おばさんが、「そこにあるカセットテープを回してください。浄土寺や本尊を説明する声が出ます。」というのです。どうも、セルフサービスの様です。カシャッとスイッチを押すとかすれた声で説明が始まりました。
主な説明内容
①浄土堂は鎌倉時代に建立され、国宝に指定されている。柱の数も少ない東大寺と同じ天竺様式である。過去の大きな地震にも耐え頑丈な作りである。
②阿弥陀如来像は高さ5.3m、両脇の菩薩は高さ3.7mで鎌倉初期の名仏師快慶(かいけい)の作である。
③阿弥陀如来像は屋根裏いっぱいまでの高さで重量感がある。立像は珍しい。
④高さ5mを超す像であるが、全体では台座から地下へ3mほどの長さがあり、仏像の高さの合計は地上5.3m地下3m、合計8.3mとなって,
地震などでも転倒しない構造になっている。
カセットテープの説明が終わると、私はおばさんの所に行き、お礼をして、ついでに変な質問をしました。
私:「言っては何ですけど、この様な京都や大阪から遠く離れた田舎にこんな立派な阿弥陀如来像が安置されているのは、何か訳があるのですか?」
おばさん:「えっーと、住職さんの言われるには、鎌倉時代には、近畿地方のあちこちに8カ所ほどこの様な立派な阿弥陀さんが祀られていたようです。しかし、戦国時代になると、多くの戦乱によって、都のあたりでは多くの寺院が焼かれ多くの仏像も焼失したようです。運よく、田舎のこの地だけ戦火を免れたので、現在も安置されているのではないかと聞きましたが・・・。まぁ、戦争はいかんねぇ。」
なるほど、納得しました。小野市は播磨の国、播州の北に位置していることか
ら、北播地方(ほくばんちほう)というのだそうです。山陽道までかなりの距離があり、裏手は山々が重なって、そこを越えるとすぐ山陰地方だそうです。
浄土寺 国宝阿弥陀三尊像(3体とも国宝)
(パンフレットからのコピー)
それにしても立派な阿弥陀如来像です。感激して、浄土堂を後にしました。しかし、本当に寒さがきつく、耐えられず、足踏みしたり、日当たりのよい場所を選んで散策したりと悪戦苦闘です。帽子は下の写真のように毛糸の帽子(ネパールのシェルパ帽、これは息子のネパール土産)、そして厚手のコートを着ています。こんな寒い所へ来るんじゃなかったと冷たい風が吹くたびに反省してしまいました。
その後、そのまま今来た道を引き返すのはもったいないと思い、加古川を経由して西明石の方へ出て新幹線で名古屋へ帰ることにしました。タクシーの運転手さんには、「小野町駅までお願いします。」と声を掛けました。
万全な防寒装備で浄土寺まいり(自撮りです。)
JR加古川線の小野町駅までタクシーで行き、タクシーの運転手さんに礼をいい駅舎に入りました。暖房された待合室には、おじいさんとおばあさんがいました。『昔々ある所に』ではありません。『現在』、小野町駅におじいさんとおばあさんが居るのです。そこに掲示された時刻表を見ると、なんと加古川行の電車は50分後に来るのです。おじいさんとおばあさんはこの長い時間である50分間をどの様に過ごすのでしょうか、今、世間話をしているのですが、しばらくすると話すことも無くなるのではと心配になりました。
駅前には商店街はありません。コンビニもありません。あたりを見回すと駅舎の一画に地域の人々が経営するお店が1軒ありました。地産地消の野菜、地域の特産品が並べられており、奥に食堂があります。丁度お昼時間でしたので、それではと中に入り、メニューを見ると特産品の『田舎そば』しかありません。私は暖かいカモ肉入り蕎麦(そば)を注文し、ついでに「熱燗はありますか。」と聞きましたところ、「地域の人たちがお昼時間だけ経営する食堂です。申し訳ありませんが、お酒は販売していません。」というツレナイ返事でした。これを聞いて、寒さが一段と身に染みてきました。
50分待たされたJR加古川線 小野町駅(無人駅)
その後、暖房された待合室で過ごし、加古川まで1両編成のローカル電車に20分間乗り、そして西明石を経由して、新幹線ひかりで名古屋へ帰りました。我が家へは午後5時過ぎの到着です。あの素晴らしい国宝阿弥陀如来像だけ拝観するために朝早く起き、新大阪を8時前に出発して我が家へ帰るまで、延々10時間を要した『美の旅』でした。あぁ~、疲れた~.寒かった~。
その2 ミュシャ展への旅
ミュシャ展の紹介は、例のNHK「日曜美術館」で見ました。私はアール・ヌーヴォーの商業デザイン(グラフィックデザイン)の美しい作品しか知らなかったのです。晩年に制作し、本当のミュシャを知ることが出来る『スラヴ叙事詩』の大作20枚があるなんて全く知りませんでした。
彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターです。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注する事にしたが、おもだった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いていたミュシャに飛び込みで依頼したものだったのです。
晩年、ミュシャは故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作します。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。しかし、1939年、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体されました。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕されました。その理由は「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」というものでした。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、まさしく、それは78歳の老体には耐えられないものであり、その後ミュシャは釈放されたものの、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じたのです。
美の旅に出る前に、NHKの「日曜美術館」などにより、この様な知識を得て、観賞に向かいました。やはり、事前の予習はいいものです。
小学校、中学校の時、もっとしっかり予習をしておけばよかった、と今になって(余命いくばくもない、こんな年齢になって)反省しています。

ミュシャの出世作「ジスモンダ」
(購入したクリアファイルよりコピー)
フランス時代のミュシャの作品(アール・ヌーヴォー)
(購入したクリアファイルよりコピー)
それでは旅の流れを最初から順にお話します。出発日の数日前、ある企業さんから相談を受け、現地に出向くことになりました。その出向く日が丁度、ミュシャ展へ出かける出発日と重なってしまいました。
つまり、出発日は午前中、愛知県の東三河地方で仕事をしました。その足で、豊橋駅から新幹線ひかりで東京へ、またまたその足で、地下鉄に乗り換え、六本木まで行き、国立新美術館へ向かいます。時間は丁度午後4時でした。その日は金曜日でしたので、人ごみは少ないのですが、切符を購入するには20分ほど並びました。
そしていよいよ、ミュシャ展です。

ミュシャ展入場券(20分ほど並びました)
入口を入ると会場マップが書かれたパンフレットがあります。それを1部頂き、展示会場を巡るのです。下の図のように、『スラヴ叙事詩』20点が大きく会場を占めています。そして、最後の部屋は「撮影可能エリア」となっていました。「えっ、カメラで撮っていいの?」こんな展覧会初めてです。ウキウキした気持ちで順に観て回りました。

会場マップ(左下エリアが撮影可能エリア)
『スラヴ叙事詩』は20枚すべてが縦、約4m、横、約5mの大きな絵です。この絵が20枚も並んでいる様子には、圧倒されました。素晴らしい迫力です。とても晩年、78歳まで、情熱を傾けて20枚を描いたとは思えません。シッカリした筆使い、陰影の確かさ、全体の構図、申し分ありません。こうなったら、私も頑張らなければと思いました。『いよよ華やぐ命なりけり』です。

携帯カメラで絵画を撮る入場者達(撮影可能エリアにて)
そして、撮影可能エリアで元気よくバシャ・バシャと携帯カメラのシャッターを押し続けました。絵の大きさが半端じゃないので、絵画のすぐ前でシャターを切ると全体が撮影できず、遠くからシャッターを切ると上の写真のように携帯を構えた人物が多く入ってしまいます。やはり撮影可能エリアでは芸術的な写真が撮れないことが分かりました。(残念、残念)
撮影可能エリアでは、多くの人が携帯カメラで写真を撮っていました。この光景がまたまた面白いのです(上の写真)。つまり、みんなが同じポーズをとって、へっぴり腰で、携帯カメラを構えているのです。このままではとても芸術的な写真を撮ることが出来ないと思われます。撮った写真はどうするのでしょうか。他人ごとながら心配してしまうのでした。
その3 旅の終わりに
浄土寺では、長時間のローカル線の旅、ミュシャ展では超特急新幹線の旅でしたが、やはり、ローカル線の旅が印象に残ります。ゆっくり走る電車の車窓から初めて見る景色は何とも言えない感動です。これからは地方の美術館巡り、仏像巡りをしたくなりました。(年齢のせいなのでしょうか、ゆっくリズムが身に合ってきました。)
おわり。次回をお楽しみに。ごきげんよう、さよ
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さてさて、トンチンカン先生は、平成28年、すなわち2016年に中国は天津(てんしん)と北京(ぺきん)に仕事で行って参りました。天津は環境汚染に関するフォーラムに参加し、土壌汚染事例を紹介する講演をしてきました。北京では環境展に参加し中国の環境事情を見てきました。それでは『天津・北京の珍道中』、始まり、はじまり。
その1 天津への旅、―天津飯と天津甘栗は何処―

天津市人民政府外事弁公室への表敬訪問(前列右端がトンチンカン先生)
天津は北京の外港です。日本からも多くの企業が進出している人口約700万人の大都市です。上記の写真のように日本から総勢8人の参加です。
早朝、7時30分にセントレアに集合、そして9時25分発の飛行機で出発です。予算の都合で、韓国の仁川空港で乗換え、つまりトランジットして、天津国際空港へ向かいました。乗換えの手続きに不案内な人が多く、乗り換え時間が50分でしたので、あわててしまいました。中には乗換え場所に行かず、韓国への入国審査の方へ行ってしまった人もいて、幹事さんは大変でした。でも、何とか予定通り午後1時25分に天津国際空港に到着しました。
ホテルは、「天津水晶宮飯店」と言い、玄関ロビーにはロビーいっぱいに大きな水晶のシャンデリアが吊るされております。水晶ではなくガラスではないかと疑ってしまうほどの大きなものです。
そして、午後4時から天津市人民政府外事弁公室へ表敬訪問です(写真)。いわゆる環境部局への訪問です。天津市側は女性の副部長さんに対応していただき、通訳を通じてお互いを褒め合った言葉を交わし、オチャッパ(お茶の葉がそのまま湯呑に入っている)の入ったお茶をすすり、会談は終わりました。
20分ほどマイクロバスに乗ってホテルへ帰って一服した後、夜、天津の街へ出て、私たちだけの夕食会を開きました。せっかく天津へ来たので、『本場の天津飯』を食べるぞー、と意気込んだのですが、ショウケースにもメニューにもそれらしきものはありません。中国人の通訳の人に「天津飯を食べたいのですが。」というと、通訳の人は「卵のあんかけ丼ですね。その天津飯は日本で発明された料理です。なので、天津にはありません。」という返事でした。天津飯は日本人が日本で発明し、日本で広まった料理の様です。つまり、台湾ラーメンと一緒でした。初日の夕食で、本場の料理『天津飯』に舌鼓を打とうと意気込んでいたのですが、青森県の三内丸山遺跡の受付嬢が青森県人でなく愛知県人でした、と云う経験同様(第17話トンチンカン先生の『みちのく一人旅』を参照)、またもや出鼻をくじかれたようです。が、しかし、頑張って餃子、野菜炒めなど定番の中華料理を腹いっぱい食べました。一応、満足。
第2日目はいよいよフォーラムの開催です。初日は大気汚染対策に関するフォーラム、次の日は土壌汚染対策に関するフォーラムです。私は、化学工場の土壌汚染対策事例について発表しました。日本の企業がどれだけ苦労して土壌浄化に時間と費用を使っているか、通訳を通じて90分お話しました。特に、①住民対応が重要な事項であること、②常に公開で作業を行うこと、③専門家からの意見を聴きながら対策を進めることの必要性を強調しました。
フォーラムで発表したパワーポイントの表紙(第1ページ)
90分の発表を終え、いよいよ、質問時間に入ります。特にびっくりした質問は、「なぜ、企業が浄化費用を負担しなければいけないのか。」という質問が来ました。私は汚染者負担の原則を説明し、「汚した人が責任を持って浄化するのです。」と発言したら、会場中の中国人の人々は不思議な顔をしていました。中国では、国が税金を使って浄化対策事業を進めるようです。企業負担にすると価格に反映し、値段が上がり、売れなくなる、輸出できなくなるという理由の様です。日本とは随分異なった考えだと思いました。
その後、自由時間がありましたので、全員で天津の旧市街区を見学しました。
天津は特に有名な、誰でも知っているという観光スポットは無いようです。昔の天津は様々な国の統治下にあったようでして、100年ほど前に建てられた様々な国の建物が残っています。私たちはイタリアの人々が建てた建築物を見学に行きました。意大利风情街 (Italian Style Street)と言いまして、かなり変わった建物が並んでいます・

天津のイタリア風情街(Italian Style Street)に建つ住宅の例
ちょっと見ると、悪趣味のような建物に見えます。看板に書かれている内容を中国人の案内の人に解説していただきますと、「この家は、イタリアの商人が建てた家で、100年ほど前に建てられました。今でも人が住んでいます。」と説明がありました。なんだか、アントニオ・ガウディ(カサ・ミラ、グエル公園、未完成のサグラダ・ファミリアで世界遺産となった作品を残した、スペイン人)の作品みたいです。しかし、ガウディのような感動はありませんでした。当時の貿易商で大きな富を蓄えた、成金趣味のようにも見えました。でも、建物のいたる所にテラコッタ(素焼の塑造)の作品が張り付いており、見応えはありました。
有名なガウディ作『サグラダ・ファミリア』(教会)
注.ガウディはこの教会を建設中に交通事故で亡くなりました。
この様な住宅があちらこちらに並んでいるので、しばらく散策をしていると、鐘の音を鳴らしながら「パッカ・ポッコ、パッカ・ポッコ」と蹄の音も軽やかに、いや、軽やかではありませんが、馬車が迫ってきました。多くの観光客を乗せた重そうな荷馬車を一頭の馬が一生懸命にひいています。なんだか、馬を虐待している、パワハラのような気がしました。
荷馬車に乗っている観光客は殆どヨーロッパ人(中にはよく肥えたおばさん)の様でした。
「パッカ・ポッコ」と馬車がゆっくりと行き過ぎました。
(荷馬車が重そうで、馬がかわいそうでした。)
その後、天津鉄道駅の前を通り、やはり夕食に出かけました。特に天津ならではという中国料理はない様でしたが、ちょっと驚いたことがありました。中華料理店が入っている大きなビルのロビーで異様な光景を見てしまいました。
それは、『天津、おばさんパワー』です。30人ほどのおばさんがこれから晴れ舞台に出る直前の最後の練習、そして、最後の化粧直しをしているのです。
「おばさんダンシングチーム」はロビーいっぱいを使い、こちらでは化粧直しと衣装のタルミ直しをしています。あちらの方では、踊りの振り付けの確認をみんなでやっているのです。化粧のにおいがプンプン、やかましさは人一倍でした。
天津『おばさんダンシングチーム』の本番準備
天津市で見かけた『おばさんダンシングチーム』の底力
そんな訳でして、天津で一番印象に残ったものは『おばさんダンシングチーム』のパワーでした。
帰りに、天津みやげの『天津甘栗』を買っていこうと、空港の免税店に行きましたが、あれっ、天津甘栗はありません。中国人の通訳の人に、最後の質問、「天津甘栗はどこで売っていますか。」と尋ねましたところ、通訳さんは「天津甘栗はありません。天津郊外には大規模な栗園が多くあります。以前から天津港は日本へ栗を輸出する積み出し港でした。それで、日本人が甘栗に『天津甘栗』という名前を付けて日本で売り出したところ、爆発的に売れたのではないでしょうか。」という答えでした。またまた、大変なことを知ってしまいました。
その2 北京への旅-故宮博物館の老人票・本物の万里の長城―
北京へは初めての旅です。しかも、一人でセントレアから飛行機に乗り、中国人と空港で待ち合わせです。大変な思いをしました。朝8時にセントレアへ行き搭乗手続きを終え、出発の連絡をする人がいないので、とりあえず、息子の嫁に「今から行って来るよ。」と携帯電話で連絡しました。
そして、飛ぶこと約2時間、無事に北京空港に着きました。ここからが冷や汗の連続でした。飛行機を降りて皆さんがゆく方へ歩いて行きました。思った通り入国検査所がありました。パスポートを見せ、指紋を取り無事通過。しかし、荷物を受け取る所がありません。皆さん、電車に乗るのです。ええっ! 荷物は?皆さんが乗るから違っていてもまた戻ってくればいいや、と思いつつ、乗り込みました。駅は2つあります。国内線と国際線をつなぐ地下鉄の様な車両です。そして3つ目の駅が空港出口です。そこで降りて、皆さんに付いて行くと、荷物受取場がありました。やっとの思いで、トランクを持って北京空港のロビーに降り立ちました。
しかし、指定された待ち合わせ場所に中国人はいません。一難去って、また一難。携帯で連絡したところ、北京市内が混んでいて、約1時間後に空港に着きますという返事でした。トランクに腰を落として待つこと1時間30分、やっと中国人に会えました。タクシーでホテルへ行き、翌日環境展を見学しました。
今回の旅は、余裕を持ったスケジュールでしたので、故宮博物館と万里の長城へ行くことが出来ました。この2つの観光地への珍道中をお話します。
(1)故宮博物館
故宮博物館は天安門広場の奥にあります。北京の地下鉄に乗るときは飛行機の荷物検査と同様、荷物のX線検査があります。乗る人は全員、荷物を機械に通します。
私は、ペットボトルを持っていましたが、検査員から「ペットボトルの飲料を私の前で飲みなさい。」と言われました。しかたなく一口飲んで見せました「行ってよい。」と言われ、地下鉄のホームへ降りた次第です。
『前門』という名前の駅で降り、大きな毛主席記念堂を左に見て天安門広場へ出ました。とにかく人が多く、つまり、人が渋滞しているという感じです。
天安門広場にて
日曜日でもないのに、大変な人出です。視界に入る人々の数は、右を見ても、左を見ても、どこを見ても100人以上います。これぞ、本当の中国なのだと実感しました。
天安門広場を歩き、天安門の中に入ると故宮博物館の切符売り場があります。そこで、パスポートを見せて切符を買うのです。年齢がわかってしまい、購入した切符は『老人票』というものでした。
北京・故宮博物館入場券(老人用)
確かに大人50元のところ老人は30元なので安いのですが、ちょっとムカッとしてしまいました。「私はまだまだ、若いのだぞー。」と言いたいほど切符売りの女性は淡々と、こちらを見ずに知らんぷりして切符を窓口から出したのでした。
北京・故宮博物館の内部
故宮博物館は非常に広く、一日では回りきれないほどです。写真などの撮影は禁止されていません。大きな石仏や石版など迫力のあるものばかりです。ここでも、人だかりがすごく、一番前で見ることは出来ないほどでした。半日を要して見学しましたが、全体の半分も観られないほど、展示場、展示物が多くありました。満足、満足。
(2)万里の長城
次の日朝早く、昨日と同じように地下鉄で前門駅まで行き、そこからバスに乗って3時間余りかけて万里の長城を見学しました。
2時間ほどバスに揺られていると、遠くに万里の長城が見えてきます。「わー、すごい、万里の長城だ。」とみんなが騒ぎ出したのですが、バスガイドは「あれは、今から見学する万里の長城ではありません。お金持ちが自分のお金を出して作った偽物の万里の長城です。」という説明です。相当な大富豪で、お金に任せて万里の長城の隣に自分だけの万里の長城を建設したもののようです。日本人の感覚でしたら、何千年も風雨にさらされた万里の長城の修復に寄付するのですが・・・、ちょっと感覚が違うのでしょうね。
そして、ぴったり3時間で本物の『万里の長城』へ到着しました。
そこからロープウエイでのぼり、万里の長城を散策しました。ここでもやはり、人が渋滞しています。
万里の長城入場券(こちらは老人票ではない)
万里の長城を見学した日は、本当に良く晴れて、スモッグなどありませんでした。こんな天気はまれだという説明がありました。長く連なっている万里の長城が遠くまで見えるのです。
写真を見てください。空はどこまでも青く、遠くまで撮影することが出来ました。しかし、坂の多いこと、息が切れて大変な思いをしました。

万里の長城にて。(混雑ぶりが分かります)
万里の長城では、アスファルトで補修していたり、老人のための手すりが、万里の長城にドリルで穴をあけて設置してあります。日本では考えられないことですが、万里の長城のデコボコ床面はアスファルトで滑らかに、横の手すりは、重要な文化財にもかかわらず、穴をあけて手すりを設置するのです。

少し休憩(こんなに快晴の日はないという説明でした)
文化財に対する考え方が日本と違っていることに驚きました。
2時間ほど万里の長城で過ごした後、ロープウエイで降り、みやげ店を見て回りました。万里の長城での記念品にと孫に帽子を買いました。帽子には万里の長城の英語として「 Great Wall 」と書かれていました。孫は大変喜びました。
翌日は日本へ帰る日でした。午前中、ちょっと時間がありましたので、北京の繁華街を散策しました。百貨店には、ドラえもんやキティーちゃんの縫いぐるみが山のように積んでありました。食料品売り場には何でもあるという状態で中国の生活物資の消費はすごいと思いました。

足をバタつかせたタツノオトシゴとサソリの串物を売っていた。
(足をバタつかせて、元気よく生きている)
一方、昔ながらの露店もいくつかありました。上の写真のように、タツノオトシゴやサソリの生きたものを売っている露店(その場で焼き鳥のように焼いて、タレを付けていました。買った人は歩きながら口に運んでいます。)もあり、行き交う若者はジーンズを履き、大きなサングラスをかけています。
中国という国は、これからもどんどん変わって行くのではないかと思いました。
反省
<その1> 思い込みの激しさ(天津飯と天津甘栗)
天津では、天津飯を食べたい、天津甘栗を買いたいと思っていましたが、ダメでした。天津と名がつくものは全てその発祥が天津と思ってはいけないのです。思い込みの激しさに反省です。
<その2> 国が違えば考えも違う(自己責任)
日本のルールは外国では通用しないのです。日本では環境汚染を浄化する責任は汚染者に有りますが、中国では責任はないのです。ビックリです。
<その3> いつまでも若い?(故宮博物館、万里の長城)
古希に入ったが、体力はまだまだ、そして、気持ちは20代と思っていました。しかし、故宮博物館で渡された『老人票』はショックでした。そして、万里の長城でのアップ・ダウンの道は、やはり古希なり、と反省しました。
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実は、昨年、トンチンカン先生は40年ぶりに学会に参加しました。それは「地下水・土壌汚染とその防止対策に関する研究集会」という5つの学会の共同主催の研究集会でした。場所は九州大学です。伊都(いと)キャンパスでの開催です。伊都キャンパスは新しく大学を統合移転したばかりで、ちょっとした丘の上に10階建ての校舎が3棟大きくそびえ立ち、まるでパルテノン神殿のような異様な姿でした。その中の椎木(しいき)講堂という円形の講堂で開催されたのです。
