さてさて、皆さま、私は初めて台湾という所へ行って来ました。日本に近い国ですが、まだ行ったことがありませんでした。台湾の企業から環境指導をしてほしいと依頼がありましたので、さっそく行くことを決めました。
季節はちょうど3月の中旬、日本の気候は暑い日と寒い日が交互にやってきます。しかし、台湾はもうすでに25度を超える日本でいう夏日が毎日でした。
それでは、またまた、漫遊記をどうぞ、ご覧あれ。
その1 セントレアから桃花国際空港(台北)、そして台南市へ
まず、朝9時30分、私一人でセントレアからテイクオフ。集合場所は台北『桃園国際空港』です。到着は12時15分ですが、時差が1時間あります。したがって、飛行時間は3時間45分です。
今回は、関係者4名で視察兼指導です。私を除いた3名は、それぞれ上海空港、香港空港などから集まってくる、中国人の人達です。私の飛行機は正確に到着しました。入国検査を受けて空港ロビーへは、12時45分ごろに出たのですが、肝心の集合場所には誰一人いません。携帯電話で呼び出しても応答はなく、いささか不安になってきました。
そう言えば、前回も北京空港で集合した時に上海空港から来る人と待ち合わせをしたのですが1時間30分も待たされました。そんなことから、気を大きく持ち、「まぁ、こんなもんだ。」と納得してのんびりベンチに腰かけていました。案の定、30分ほどして、2人の関係者がやってきました。しかも、ゆっくりと歩いて。
1人は通訳も兼ねた中年の男性技術者、もう一人は若い女性。なんと、大学を卒業して3年目という事です。若いなぁ~。他の1人は、空港到着が3時間後ですのでホテルで集合としました。
現地で落ち合った関係者の一人とさっそく『ツーショット』
(地下鉄『桃園空港駅』のホームにて)
まず、桃園国際空港から、台湾新幹線の駅まで地下鉄で移動します。上の写真をご覧ください。初対面の挨拶をかわして10分もたたないうちに、『ツーショット』です。
(さい先がいいなぁ~。今回は出鼻をくじかれずに済みました。)
新幹線は、桃園駅から台南駅まで、所要時間はおおよそ1時間30分です。10号車から12号車の自由席です。3人はバラバラになって乗りました。
桃園から台南までの台湾新幹線切符
①単程票とは、片道切符乗車券のことです。
②自由座車廂とは{廂はヒサシの意味}自由席車両のことです。
③10~12節とは、10~12号車のことです。
新幹線のスピードは日本でいうと「こだま」程度でして、駅が多く15分走ると止まり、20分走ると止まるという状態です。鉄路と車両は日本製、信号系統はフランス製だそうです。乗り心地は日本の新幹線と変わりはありませんでした。
台湾新幹線を背景に(台南駅にて)
午後3時ごろには、新幹線の台南駅に着きました。この駅は郊外にあり、台南市の中心部に行くにはさらにローカル電車に乗り換えて市の中心部に行くのです。ところが、駅を降りホームへ出ると、暑いのなんの、気温は27℃です。中部新国際空港(セントレア)を出る時は気温が4℃でして完全な冬の装い、つまり、モモヒキを履き、上は長袖の下着です。汗が滲んでくるというより、身体が蒸れてしまい、急速に疲労感が襲ってきたのです。ネクタイをはずし、ズボンのバンドを一つゆるめるなどして可能な限りの対応をしました。本当に散々な目にあったのでした。
ローカル電車は下の写真のように青い電車でした。乗客もほぼ全員座席に座ることが出来る程度の混みようです。10程度の駅に停車し、台南駅に着きました。そこから、タクシーでホテルまで行きます。ホテル到着は午後5時近くになりました。
新幹線台南駅から台南市内までの列車(重そうな感じでした。)
その2 台湾料理で、最高級のおもてなしを受ける
ホテルで一休みです。早速、モモヒキを脱ぎ、シャワーを浴び、日本から持って来た半そでシャツに着替えました。そして、夜の歓迎宴会に出席です。
ホテルのロビーに6時集合、歩いて10分程度の場所の台湾料理専門店へ入りました。何故か、ウエイトレスが多くいた印象があります。しかも、案外高年齢のウエイトレス(どっちかというと『としま』)で、みな白い割烹着の様なものを着ています。これが台湾料理のお店か、独特の雰囲気だなぁ~、と思っていると、さっそく鍋料理です。野菜が鍋からあふれんばかりの「てんこ盛り」に入っています。火を付け、しばらくグツグツと言う音です。この音の優しさと言い、野菜が煮えた良いかおりと言い、実にうまそうだなぁ~。中を覗きこむと「とんこつラーメン」の様な汁の色です。とんこつラーメンはしょう油ラーメンより好きです。これは行けるぞぅ~。シメシメ。
と思いきや、例の「としま」ウエイトレスさんが鍋の底から何やら怪しいものを取出し、鍋の淵に並べるのです。6人で食事ですので、それは6本ありました。
うへぇ~っ。それは、豚の足か腕の骨が2つに切断された代物です。それが下の写真です。これはグロテスク。何ともいえない感じです。
切断された豚の骨が入った鍋料理。
(経験のない味でした。味はわかんない。失礼)
通訳の人に、「これを食べるのですか?」と聞きましたところ、通訳の人は箸でその骨をつまんで私の皿の上に載せ、「はい。これをストローで飲みます。」というのです。つまり、ストローで骨の髄液をチューチュー吸うのです。
わぁー、これは大変だ、初めて味わう味でして、美味しいのか不味いのかわかりません。しっかり、目をつむって吸いました。何とも言えない味です。招待して頂いた企業の人に失礼のないよう、やっとの思いで、全て、きれいに飲みました。ところが、としまのウエイトレスのおばさんが、いきなり、ささっ、とやって来て、おもむろに鍋の汁をしゃもじ(おたま)に取り、私の皿の上にある骨の空洞に注ぐのです。「わぁー、また飲むの?」
ストローでチューチュー吸って飲みます。
(下部の関節とおぼしき周りにはゼラチン質がこびりついています。)
今度は、再び鍋の汁を注がれないよう、ゆっくり飲んだり、飲んだふりをしたり、と悪戦苦闘です。すると、通訳の人が、「骨の関節の部分のゼラチン質も食べるのですよ。美味しいですよ。」というのです。「もう騙されないぞぅ。これも多分同じ状況になるのではないか。」と思い、少しづつ遠慮がちに食しました、ほとんど残して・・・。周りの人は、食べていました。よく見ると、ゼラチン質の油で、口の周りをギラギラさせて食べているのです。参ったなぁ。
その3 いよいよ、工場視察兼指導
朝起きると、天気の良い、南国調の日差しが照りつける晴天の日でした。外国旅行では、朝早くの市街地はその国独特の習慣が垣間見えるという事で、いつも朝の散歩をします。
朝の散歩の途中にて(台南市メインストリート)
今回も、台南市の下町を1時間ほど歩きました。台湾は中国、ベトナム、タイと同様、バイクの多い町です。赤信号になると、10~20台のバイクが自動車の前に並びます。そして青信号になると一斉にバイクが走り出し、その後を自動車が走り出すのです。
路地を入ると中国の上海、南京と同じような風景が見られます。中国語は十分な知識がありませんが、台湾では何だか言葉が少し違うなぁ、中国語とも違うし・・・、と思いました。台湾南部では、福建省の人達が多く移住しているようでして、この地域では中国語、中国語と少し違う台湾語、そして福建語の3つの言語が重なっているという事で、この3か国語(?)を理解し、話せないと仕事にならないのだそうです。
ホテルから台南市の市街地を見る
そして、午前8時にホテルロビーに集合です。いよいよ仕事のはじまり、始まり~っ。まずは、台南市のサイエンスパークに設置されている排水処理施設の運転管理の指導です。サイエンスパークと言っても、いわゆる工業団地です。しかし、大規模な、きれいな工場が立ち並び、大気汚染もありません。実にきれいな工場団地です。まず、私たちは、この工業団地のお偉い方に挨拶をするため、工場団地の管理事務所へ行きます。事務所の前には野外展示物として様々な芸術品が並んでいます。下の写真は有名な彫刻家によるものと解説がありました。その他、薬缶(やかん)のようなマンモスの様な芸術作品、人がベンチで休んでいるような芸術作品などいたる所にありました。何でこんなにも多く、いたる所にあるのだろうと不思議に思いました。
管理事務所の前にある芸術作品(鼻をナデナデしてゴマをすっている。)
名刺交換をし、挨拶が終わり、現場へ向かいます。もちろん車です。この工場団地には3つの工場排水処理場があり、2か所は稼働中、1か所は建設中でして最新の設備を整えることにしています。
わたしたちは、既に稼働中の施設の運転状況を見て回りました。管理責任者は常駐しているのですが、処理施設はその能力を100%発揮していないように思われました。稼働して2~3年だそうです。安定した運転に向けてさらなる指導が求められます。
活性汚泥法による大規模な工場排水処理施設
(1日3万トンの排水を処理するそうです。)
そして、難しい話になりますが、低分子の難分解性有機物質の除去が不十分という話になりました。排水基準が相当厳しいのです。そこで、下図のような工場排水をもう一度利用する、『水のリサイクル』を提案してきました。
将来の水リサイクルを考えて、膜ろ過装置の設置を提案しました。
とは言うものの、設備が高度化すればするほど、運転管理が難しく、この工場団地で使いこなせるかが今後の課題となりました。しかし、出来るだけ排水処理設備や発生汚泥の維持管理の教育をしていくこととしました。この様に、日本では当たり前の設備でも、その導入には細心の注意が必要であることも分かりました。
この様に、台湾では毎日、工場の排水処理場の指導をしたり、責任者と意見交換をしたりと忙しい日々を過ごしました。
その4 台北からセントレアへ
4泊5日の台湾の仕事も無事に終え、今日は日本へ帰る日です。今回の旅は余裕がなく、観光地へは行けませんでした。故宮博物館も行かず、ただ、1日だけ夜に台湾マッサージに出かける程度でした。このマッサージがまた、ものすごくて、つまり、マッサージは男の人が対応するのです。私は、体育系の若い男の人に当たって、マッサージというより力強く柔軟体操をしてもらったようで、終わってから、節々が痛くて痛くて、お金を払うのがもったいないと思うほどでした。
台湾で最後に食べた台湾ラーメン風の麺
(どんぶりはプラスチック製)
帰る日の午前中も仕事でして、途中、空港への帰り道、『元祖 台湾ラーメン』のようなものを食べました。辛くて、辛くて悪戦苦闘しました。中身はラーメンというよりも、きしめん(名古屋名物のうどん)という方が当たっている様な太麺でした。そして、赤ちゃんのこぶし大ほどの大きさの大根、ニンジン、肉(何の肉かわからないが筋があり歯でかむことが大変なもの)が入っているのです。でも何とか、日本まで帰って来ました。
結局、今回の旅は、疲れた~っ、の一言でした。その後、日本の気候に慣れるまで再び風邪気味、花粉症気味になり、2週間ほど体調が回復しませんでした。気候のせいもさることながら、骨を2つに切断した鍋料理を食べたせいもあるのではないかと、現在でも思っています。
それでは、終わります。さようなら。やはり、疲れた~っ。
皆さま、来年はイノシシの年です。猪突猛進で幸せをゲットしてください。それではよいお年をお迎えください。
<追加です>
そういえば、幸先の良い、ツーショットで記念写真を撮った御嬢さんとはどうなったかと申しますと、『竜頭蛇尾』とはこのことでして、その後は特段何もなく、別れの握手もなく、日本語で「さようなら。」と言っただけで別れました。名刺交換はしたのですが、中国語でして読むことが出来ません。これだけは残念というほかありませんでした。 以上、おわり。
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さてさて、皆さま、今年もよろしくお願いいたします。実は、昨年の11月に2泊3日の日程で、一応、研修旅行と題して、スタッフ3人で北海道に行って参りました。今、話題になっている水俣病の原因である水銀の使用に関して世界条約が発効し、全面的に使用禁止となりました。いわゆる水銀条約です。日本の国も水銀に関する様々な法律がこの条約に合わせて、大きく改正されました。もう水銀はPCBと同じく完全に使用できないのです。そのため、日本で唯一、水銀を無害化処理する工場である『野村興産イトムカ鉱業所』を視察することとしました。
もう一つの研修旅行の目的は、札幌市が運営する『モエレ沼公園』です。この公園は、産業廃棄物や一般廃棄物の埋め立てが終了した広大な廃棄物処分場を自然豊かな自然公園に造成したものです。設計も有名な彫刻家、いや、総合芸術家と言いましょうかイサム・ノグチ(父は詩人の野口米次郎、母はアメリカの作家レオニー・ギルモア)によるもので、知る人ぞ知る有名な施設です。それでは、お待たせしました。いつもの珍道中をご覧あれ。
表 北海道視察旅行の旅程
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第1日目
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モエレ沼公園視察、北海道大学資料館
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第2日目
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野村興産㈱イトムカ鉱業所視察
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第3日目
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札幌、小樽の景観視察、日本銀行資料館
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第1日目 名古屋から札幌、旭川へ
まず、朝7時50分テイクオフ。セントレアから新千歳空港へのスカイマークでのフライト。格安空港券を使いました。新幹線で名古屋から東京へ行くより安い運賃でした。しかし、格安の運賃だけあって機内はやや狭く、ちょっと窮屈な感じがしましたが快晴のため、窓から見る景色は最高でした。木曽三川の河口、乗鞍岳、諏訪湖、日本海、佐渡島、鳥海山、津軽海峡と流れる景色は目を見張りました。津軽海峡を渡るときはかなり低空飛行で、白波が目の前に見えるようでした。
JR新千歳駅からは快速エアポート号で一路札幌へ、それからどの様にしてモエレ沼公園へ行くのか分からない。とにかく、JR札幌駅構内の札幌市内観光案内所のボランティアおばさんに聞くことにしました。
私「あのぅ、モエレ沼公園へ行きたいのですが。どのようにして行けばいいでしょうか。」
(時計台とか大通公園とか、すすき野のラーメン横丁など有名な観光地の問い合わせではないので、ボランティアおばさんはいつもと違う問い合わせに怪訝(ケゲン)そうな目で私たちを見た挙句、答が来ました。)
おばさん「地下鉄東豊(とうほう)線で終点の栄町まで行き、そこからタクシーですね。今、公園の紅葉がすごくきれいですよ。」
私「東豊線はどこから乗るのでしょうか?」(また怪訝そうな目)
おばさん「駅(JR札幌駅)の地下ですよ。」(何だか当たり前のような答)
何だかおかしな会話の後、東豊線に乗り、タクシーに乗りました。またしてもタクシー運転手さんと意思疎通のない会話
私「運転手さん、モエレ沼公園の中にレストランはありますか?」
運転手さん「公園事務所の中に一軒だけありますよ。」
私「ありがとうございます。2時間ほど見学して食事をしますので、その時間に迎えに来てくださいね。」
運転手さん「わかりました。携帯電話番号を教えますので電話をかけてください。よろしく。」
しかし、レストランは、かなりと言うか、相当な高級レストランでした。私の頭の中には1食1,000円未満の「一膳めし屋」的なレストランを想像していたのです。やはりここは、レストランと言わず「ちょっとした食堂はありますか?」と聞くべきでした。
最も安いランチでした。勢いでワインも飲みました。(パンは食べ放題)
入口を入ると、まず、応接セットがあり、お茶を飲みながらしばらくそこで休憩し、そこから蝶ネクタイをしたウエイターに案内されると4人掛けのテーブルには白いシーツ、メニューを見ると上からランチ3,500円、4,000円、5,000円と書いてありました。そこでしかたなく「一番上のランチをお願いします。」と言いました。つまり、一番上に書いてある、安いランチをお願いしたのです。ところが、蝶ネクタイは確認するように、「3,500円のランチでよろしいでしょうか。」と言うのです。ランクが上ではなく、一番上に書いてあるものを注文したのですが、イヤミなウエイターですよね、まったく。坂部環境技術事務所の研修旅行ですので、旅姿は工場見学ですから汚れても良い服装で来ました。レストランの従業員の人達は、私たちの服装、立居振る舞いなどを観察してたのでしょうか、私たちが場違いなところへ来たので戸惑っている様子に見えたのでしょうか、少し、不安感の様な不信感の様なものがありました。特に、奥の方に居る料理人は、この人たちお金を持っているのかなぁ~、という目つきでした。
とはいえ、さすが3,500円。品があり、美味しく頂けました。あまりの美味しさに、ワインも注文してしまい、ほろ酔い加減になったのです。
でも、食事も最後の佳境に入るころは、蝶ネクタイは優しく、「どこから来られました?」と聞くので、「名古屋からです。」と答えると、「私の出身は静岡です。」と、いつもの出身地を紹介することから始まり、少しづつ話が弾み良い雰囲気になりました。満足、満足。

モエレ山からモエレ沼公園北東を見る(中央建物は公園事務所)
その後、3,500円の食事を終え、そして、広くて、山あり谷ありの自然公園を、荷物を持って徒歩で回りました。公園面積は189ヘクタールです。そしてモエレ山は標高62メートルです。とにかく広大で標高差もあり全てを見て回ることが出来ません。そこで、まず、眺望の効く「モエレ山」に登ることにしました。つまり、公園の全体像を見たいのです。ところがアルコールが入っているのか、はたまた、身分不相応な高級ランチを食べた結果なのか、息が切れて、息が切れて、20歩あるくと20秒休むと言う誠に不名誉なリズム感で登り切りました。この様な素晴らしい景色と自然豊かな風景の下に産業廃棄物が埋まっているなんて想像もできませんでした。ちなみに埋立てられたごみの量は、273.6万トンという記録が残っています。思いもよらない出費と山登りの疲労でしたが、十分研修成果が得られました。
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<解説>
『モエレ』とは、アイヌ語の「モイレペツ」が語源と言われています。
「モイレ」は「静かな水面」・「ゆったりと流れる」、「ペツ」が「川」を意味します。 そして、モエレ沼は近くを流れる豊平川が自然河川として流れていた時代、たび重なる洪水や氾濫で出来た河跡湖と考えられています。
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その後、札幌駅に戻り、歩いて北海道大学を見学しました。北海道大学の正門で記念撮影です。『子育ての失敗を孫で取り戻す。』と言わんばかりに、孫にはこの様な大学へ入学させたいと正門に向かって手を合わせ(仏さま)、柏手を打ち(神さま)ました(つまり多神教、あるいは無宗教)。そして、北海道大学博物館を見学した後、JR札幌駅から、函館本線で特急カムイ29号 旭川行に乗りました。日は既に陰り、車内の雰囲気は『本当に北海道』と言う状況でした。車窓からは暗黒の中に家のともしびがポツリ・ポツリと見え、夜行列車の雰囲気には十分なしつらえでした。
こんな訳で、第一日目から、脱線に次ぐ脱線の漫遊記でした。札幌駅で観光案内のボランティアおばさん、タクシーの運転手、さらには、3,500円のランチと、またしても、出鼻をくじかれた感じでした。
第2日目 野村興産イトムカ鉱業所

旭川より北見の方が近い位置にあります。
朝早く、レンタカーで目的地である『野村興産イトムカ鉱業所』へ向かいます。何せ午前9時からの見学予約です。前日の天気予報では「雪、積雪15センチメートル」と報道されています。野村興産の案内書では旭川から高速道路を使い2時間という説明です。これは困った、そんなにスピードを上げて走れない。峠もあるようです。とにかく、何があっても時刻通りに着きたい。考えに考えた挙句、旭川のビジネスホテルを午前5時30分の出発としました。ホテルで朝食も取らず、市内のコンビニで菓子パンと野菜ジュースを買い、道中、車の中でムシャムシャと朝食です。
旭川から北見国道を東へ、東へ、そして石北峠を越えた所にイトムカ鉱業所はありました。スピードの出しすぎなのか、8時ちょうどについてしまいました。何か、おかしいな。9時まで、まだ1時間もあるのです。寒さの中で待つことは大変なので、一旦引き返えし、20分ほどの所にある層雲峡を視察しました。層雲峡に近づくにつれて車窓からは『民宿大雪(みんしゅく・おおゆき)』とか、『レストラン大雪(れすとらん・おおゆき)』などの看板が見えます。いくら何でも、大豪雪地帯ではないのに、いたる所に『大雪(おおゆき)』の看板です。おかしいなぁ、何で大雪なんだろうと考えていましたら、途中に『喫茶・大雪山』と言うのがありまして、さすがオオユキヤマとは読まず、ダイセツザンと読み、「なぁんだ、大雪(だいせつ)なのか。」と納得しました。
その後、9時ちょうどになりましたので、野村興産イトムカ鉱業所の門を入りました。

野村興産イトムカ鉱業所の入り口にあった。
そこにはすでの大型トレーラーが4~5台、鉱業所の開門と同時に入場する順番待ちをしています。聞きましたところ、全国から集められた水銀を含む廃棄物(蛍光管や乾電池など)はJR北海道の貨物列車で北見までコンテナで運び、それをコンテナ専用トラックに積み替えてイトムカ鉱業所まで輸送するのだそうです。

イトムカ鉱業所へ入場するコンテナ専用トラック
9時ちょうどに、私たちも、入場しました。始めの1時間は工場の概要説明と水銀鉱山の歴史などのお話しをいただき、その後工場見学です。とは言うものの、絵になる写真はあまりなく、普通の工場みたいです。唯一、水銀含有乾電池の無害化工場のみが絵になるものでした(下の写真)。

水銀含有乾電池を無害化処理する工程の入り口(乾電池を並べている)
見学コースの途中、見学者のためのサービスと言うのでしょうか、水銀が入った二重になった容器の展示がありました。そこでは、鉄製の大きな釘(クギ)がプカプカと浮いています。異様な感じです。水銀の体験実験で、私たちは分厚い手袋をしてその容器の中に手を入れることが出来るのです。水銀の比重が大きくて手が入りません。力いっぱい手を突っ込んでようやく手首まで入るのです。なかなか面白い経験をしました。あまりに力を込めたので腕が痛くなりました。
視察終了時間が近づき、12時を過ぎていましたので、鉱業所内を案内していただいた人に「ここらあたりで、食事するところはありませんか?」と聞きましたところ、「北見市の方へ少し下ったところに『つるつる温泉』があり、そこに食堂がありますので、そこを利用してください。」と言うのです。『利用してください?』何か引っかかるものがありましたので、さらに突っ込むと、「イトムカ鉱業所の水銀鉱山からの湧出温泉です。」というのです。シメ、シメと思い、そこでさらに突っ込み、「何か利用券とか、割引券など、いただけるものはありますか?」と聞きましたら、簡単に「ありません。申し訳ありません。」と言うつれない返事でした。『言ってみるもんだ。』という事が通用しませんでした。残念。

水銀鉱山から湧き出た温泉です。昼食のみ利用し、温泉には入りませんでした。
つるつる温泉はイトムカ鉱業所から15分ほど、北見の方へ下って行った左側奥にありました。食堂には思ったより多くの客がいました。お客は地元のお年寄りが中心です。私たちは、しかたなく、全員が、安くて、早く出来るものを注文することとし、結局、定価600円の生姜焼き定食を食べることにしました。昨日のモエレ沼公園でのランチと大違いです。
ところで、つるつる温泉の名前の由来ですが、湯がつるつるしていて、入浴すると肌もツルツルになるという事から来た名前だそうです。イトムカ鉱業所の人は「名前が良くないですね、何だか品が無い様でして・・・、頭が『つるつる』を連想してしまいます。」と申しておりました。残念でしたが、時間がなかったので入浴はできませんでした。
いずれにしましても、野村興産イトムカ鉱業所は見る価値がありました。
その後、レンタカーで旭川まで帰り、再び函館本線で特急ライラック36号で札幌まで帰りました。札幌ではススキノで地元料理の夕食を食べました。
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<解説>
『イトムカ』の語義は不明ですが、そのまま読めば i-tomka(それ・輝かす)とも,また i-tom-muka「それが・輝く・無加川(支流)」とも聞こえる。i-tom-utka(それが・輝く・早瀬)とも読める。鉱物が光って見えたものかと推測されています。
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第3日目 札幌、小樽、そして名古屋へ
3日目は名古屋へ帰る日です。早朝、例の時計台を見に、いや、朝6時の鐘の音(かねのネ)を聴きに行きました。午前5時40分に札幌駅前のビジネスホテルを出て、歩くこと10分で時計台前に着きました。人通りは少なく、ジョギングをする人がちらほら見えました(犬の散歩をしている人はいません)。
ちょうど6時10分前です。敷地内では警察官の様な制服を着たおじさんが竹帚(タケボウキ)で落ち葉を集めています。観光客はいません。6時になると、ガラン・ゴロン、いや、そんな音ではありません。もう少し濁った音でした。ジャラン・ジャゴンと言う濁った鐘の音です。よく言えば歴史を感じる音、悪く言えば錆びた音です。初めて聞く音でして、最大限に賞賛し、つまり、心にしみる音でした。感激して、パチ・パチ・パチ(拍手)。

早朝6時の札幌時計台(鐘の音は少し濁音が入った感じでした)
ホテルの朝食(バイキング)を頂き、今日の午前中は小樽を見学する事としました。新千歳発のフライトは16時ですので、ゆっくりとした見学です。小樽駅を降りて記念写真。そして、小樽運河をめざし、堺町通りのメインストリートを歩きます。この日は北海道ではまれな暑さです。コートを脱ぎ、汗の出ない様にゆっくり歩きます。

JR小樽駅のプラットホームで記念撮影
途中、雰囲気の落ち着いた、ちょっとレベルが高そうな『大正硝子館 宇宙(そら)』というお店に入りました。大量生産・大量販売という品ぞろえではなく、美術品の様な、レア物の様な作品が、品よく並んでいます。中に入ると、30歳ほどの美人の店員さん(容姿淡麗でややフックラ、中肉中背で少し背が高い)がニコニコして、「どうぞ、奥へ入って見てください。」と声をかけるので、ついつい奥に入って行き、美人の店員さんと2.3会話しているうちに、いつの間にか、おススメされた『ラジオ・メーター』を買ってしまいました。これは、光が当たると球体の中の四角い羽がグルグルと回るのです。ただそれだけのことですが、結果として買ってしまいました。何で買ってしまったのだろう、と反省することしきりでしたが、やはり、一言でいえば、ニコッとする女性には弱いです。この際、白状します。

『大正硝子館(宇宙)』のお店の中からショー・ウインドーを見る
(勧められて買ってしまったラジオ・メーターは中央にあります。)
美人の店員さんに今生の別れを告げ、お店を出ます。すると、今までとは全く違い、喧騒な街の賑わいです。中国人らしい人の喧しい声があちらこちらで聞こえます。その後、水天宮と言う神社の丘に登り、小樽の街を一望しました。丘を降りて寿司屋通りで美味しい寿司を食べます。やっぱりお寿司にはビールです。1時間ほどかけてランクが上から2番目の『上寿司(1.5人前)』を食べ、その後、日本銀行小樽支店跡地の金融資料館を見学です。私は1万円札の模様を焼印したお札と同じ大きさの『お札煎餅』を買いました。そして再び堺町通りへ出ます。何とか歩き通しました。万歩計はゆうに1万歩を越えていました。疲れました。

小樽で入手したパンフレットの表紙
(こんな美人は、例の人以外にはいませんでした。)
小樽では、様々な旅行案内パンフレットがありました。本当に観光に力を入れています。しかし運河の長さはそれほど長くはありません。むしろ、愛知県半田市の運河の方が長いと言われています。半田市は酢のまち、お酒のまち、新美南吉のまちと言う観光資源がいっぱいあります。しかし小樽の方が観光地として有名です。こんな切り口から考えることが出来て、小樽の視察旅行は、美人の店員さんのことも含めて、十分な研修成果が得られたと考えています。
ちなみに、ラジオ・メーターは本棚の上に淋しく置かれています。そこは薄暗い場所ですので、四角い羽は回っていません。
また、お札煎餅は、安城へ帰ってから、孫と一緒にムシャ・ムシャと食べました。孫は「お金もちになるぞぅ~。」 私は「老後の資金を蓄えるぞぅ~。」と宣言しながら・・・・。
それでは今回はこれまでとします。ごきげんよう、さようなら。
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さてさて、皆さま、私は孫の面倒を見ていますというか、孫に見てもらっているというか、つまり、大変なんです。孫は現在保育園の年長さん、来年4月からは小学一年生です。毎朝、自分の健康も兼ねて、孫を保育園へ連れて行きます。そのため、孫は非常になついているのです。でも、最近は、自我に目覚めて、主張する、拒絶する、すねる、など多彩な反応をします。孫は家族の序列も父、母、自分(孫)、ジイちゃん、弟と認識しており、自分(孫)より私(トンチンカン先生)の方が序列的に『下』と位置付けているようです。ごく最近では「もう、ジイちゃんは何も知らないんだから。」と発言するようにもなってきました。とは言うものの、可愛くて目に入れても痛くないとはこのことです。
それでは順次、トンチンカンな奮戦記をご紹介、ご紹介。
孫に連れられ、京都梅小路蒸気機関車庫見学
その1 おじいちゃん・おばあちゃんの参観日
先日、息子(坂部文孝)から以下の連絡がありました。
息子:「保育園から『おじいちゃんとおばあちゃんの参観日』開催のお知らせがあったので、参観してもらえないかなぁ。」
私:「うん、いいよ。なになに、午前中ね。了解したよ。孝樹(孫の名前)も喜ぶよね。」
私も子供の頃、何らかの都合により参観日に親が来ない時は淋しい思いをし
たものでした。これは、絶対行かなければいけない、万障繰り合わせてでも参
観しなければいけないと思ったのでした。
いよいよ、参観日の当日です。保育園の門を入ると園児たちが中庭で遊んでいます。孫はいるかなぁ、と園内を見渡すと、小さな園児が「あっ、たか君のおじいちゃん。」と言って寄ってくるのです。小さな子供が何で私を知っているのだろうかと驚いたり、感激したりでした。
そして時間が来ましたので、子供たちも、おじいちゃん、おばあちゃんたちもそれぞれの部屋へ入りました。私の孫は、「パンダ組」です。園児は30人ほどでして、おじいちゃん、おばあちゃんはその半分の15人ほどです。パンダ組の先生は男の先生でした。孫は私の顔を見るなり、ニコニコ、そしてソワソワとして、小さく手を振るのです。
孫の写真(愛知県岡崎市・岡崎東公園で恐竜の足とツーショット)
先生:(園児に向かって)「みんな並んで。」
(園児が一列になって教室の南側へ並びます。よく訓練されています。)
先生:「それでは、おじいちゃん、おばあちゃん、園児に向かうよう、一列に並んでください。並ぶ順番は決めていません。自由です。」
(私は、先生から最も遠い、一番奥に並びました。)
先生:「おじいちゃん、おばあちゃん、よくいらっしゃいました。それでは順番に、お孫さんのお名前を言ってください。奥の人からどうぞ。はい、そちらのおじいちゃん(すなわち私です)からです。」
(えっ、私が最初ですか?と思い、覚悟して、一歩前へ出て答えました。)
私:「坂部文孝(ふみたか)です。」
(実は、本当にあわてて、私の次男、すなわち孝樹くんのお父さんの名前を言ってしまったのです。孫は、私の顔を見て、「その人、誰あれ。」と言わんばかりに、キョトンとしています。私は、ハッ、と気が付き、孫の孝樹の名前を言おうとしたのですが、なかなか名前が出てきません。うっ・・、と一瞬、多分2,3秒の間があり、やっとの思いで、思い出し・・。)
私:「失礼しました、坂部孝樹です。」
と答えたのです。ボケ老人なのか、とっさの反応ができないアンポンタン老人なのか、反省することしきりでした。私に続いて、おじいちゃん、おばあちゃんが順にお孫さんの名前を言っています。私の様な赤恥をかいた人は、多分、一人もいません様でした。(残念!)
あいさつが終わった後、園児と一緒にゲームをします。道中すごろく、コマ回し、カルタ取り、着せ替え人形など2~3人のグループになって1時間ほど、一緒になって遊ぶ時間です。それが終わると、園児たちが二列に並び、歌を披露してくれるのです。おじいちゃん、おばあちゃんは園児の小さな椅子に座って、手拍子や、手でヒザをたたいてリズムを取って聞くのでした。私はと言うと、反省しきりで、歌など耳に入りませんでした。
やはり、おじいちゃん・おばあちゃんの参観日にふさわしい、『ちょっとした、でも私にとっては愕然とした意味のある失敗』でした。(反省、反省)
(幼稚園内ではプライバシーの関係もあり写真撮影禁止でした。残念)
その2 自転車乗りの練習奮戦記
ある日、可愛い孫から息子(私の次男)の携帯電話を使って電話がありました。
孫:「じぃ、じぃ。僕、自転車に乗りたい。自転車を買ってね。」
私:「へぇ~、自転車に乗りたいんかねぇ~。いいよ。今度の日曜日に買に行こうかね。」
孫:「わーぃ、わーぃ。じぃ、じぃ大好き~。パパ、じぃ、じぃが自転車を買ってくれるんだって。」
そして、その電話は、瞬時に息子に換わりました。
息子:「えっ、本当にいいんですか? 孝樹がよろこんでいるよ。有難う。」
私:「うん。いいよ。いずれ買ってあげようと思っていた所なんだ。そんなに高価なものでもないと思うし、気にしなくていいよ。」
と、携帯電話での話は終わりました。孫も、年中さんでもうすぐ6歳です。もう自転車に乗っている子供も見かけるし、自転車に乗る練習は早い方が修得が速いようだ、と自分自身に言い聞かせて、納得しました。
しかし、よく考えてみると、息子の携帯からの電話、孫との会話が終わると瞬時にして、息子に換わり、お礼の言葉・・・・。なるほど、どうも、親が、子供に言わせた可能性が非常に大きいものであります。これはやられた、と思いましたが、可愛い孫のため、やっぱり買うことになりました。
孫に買い与えた子供用自転車
次の日曜日、さっそく孫を連れて自転車屋さんに行きました。もちろん父兄同伴です。店員さんは、男の子らしい青色の自転車を推奨してくださいましたので、それを買うことにしました。衝動買いです。当時は補助輪がついていました。しかし、2つの補助輪がついていると自転車はペダルを漕ぐのに重く感じてしまい、孫はあまり進んで練習しようとしません。
そこで、自転車を購入後、3ヶ月で補助輪を取ってもらい、本格的な自転車乗りの練習をすることにしました。練習はおじいちゃんの仕事です。安城市にある『明治用水自転車道』での練習です。
私が少し屈んだ状態で自転車の後ろを持ち、一緒に走るのです。それが大変です。一番困ったことは、孫が危ないと思った時に、自分で急ブレーキを掛けるのです。私は屈んだ状態で前のめりになり、あわや、転んで、最悪の場合『骨折』してしまう所でした。
50メートル走り、休憩、50メートル走り、休憩の連続です。後ろにいる私は、手を放していないのに「手を放しているよ。」と大声で、激励することしきりです。そして、やっとハンドルを左右にゆすりながらの自転車乗りができました。まっすぐ行くにはもう少しの練習です。このまま行くと1ヶ月のちには自由に自転車が乗れる見込みだと思い、満足していました。
しかし、ついに私が参ってしまったのです。前かがみの姿勢で、自転車の後ろを持ち、50メートルを走り、休憩、50メートルを走り、休憩をする、の繰り返しを毎週日曜日に5回ほど行うのです。ついに、腰が痛くなり、当分の間、自転車のりの練習は休憩となってしまったのです。
もちろん、孫はまだ自転車を自由に乗りこなせません。
その3 マゴマゴします。
おじいちゃんの最近の関心事は、孫の動向です。とにかく、「そんな言葉、どこで覚えたのかねぇ。」と言う事ばかりです。先日も、レストランで孫と二人で昼食をしましたところ、孫は「あのぅ、すみません。」と大きな声で店員さんを呼ぶのです。中年のおばさん風のウエイトレスさんがやって来ると、孫は二つ折りになったメニューを見ながら、「お子様ランチ1つと、ハンバーグをトッピングでお願いします。」と注文をするのです。「トッピング? その言葉どこで覚えたの?」と言いたくなりました。まさか保育園ではないと思うが・・・・。

JR東海 新幹線浜松工場一般公開へ行く
(左は700系、右はドクターイエロー)
つまり、孫は日々成長し、おじいちゃんは日々、ボケとアンポンタンが激しくなり、かつ、筋力も落ちていきます。これも、時の流れと納得しています。「時の流れに身をまかせ~、です。」気張ってはいけません。

つまり、『トンチンカン先生、孫との関係性』は孫が右肩上がりで、トンチンカン先生は右肩下がりなのでした。 おわり。
それでは、次回をお楽しみに。ごきげんよう、さようなら。
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皆さま、今年初めて随筆を認(したた)めます。つまり、明けましておめでとうございます。
トンチンカン先生は平成29年も美の旅にまい進しております。まずは、平成29年初頭、1月に雪の舞う中、近畿地方は兵庫県小野市の浄土寺に安置されている『国宝 阿弥陀如来像』を拝観。そして、春には関東は東京、国立新美術館の『ミュシャ展』へ行って参りました。それでは順次、トンチンカンな美の旅へご案内、ご案内。
その1 浄土寺『国宝阿弥陀如来像』
大阪で環境に関する講演をしました。こんな年齢になっても講演依頼があることは本当に嬉しいものです。(感謝、感謝)
特に、最前列に座って、目をパッチリ開けて真剣に聴く人々には頭が下がります。その人々とは当たり前と言えば、当たり前ですが、つまり女性です。しかも若い女性です。講師のトンチンカン先生は、『いよよ華(はな)やぐ命なりけり』と、ついつい頑張ってしまうのです。「いよよ華やぐ」という文言は以下の詩が起源です。
年々にわが悲しみの深くして
いよよ華やぐ命なりけり
この詩は「芸術は爆発だ」と言った、例の芸術家岡本太郎さんのお母さんの岡本かの子さんが小説『老妓抄(ろうぎしょう)』の最後の部分で詠った詩歌です。こんなに長く生きると、悲しいことのみ多く思い出されるのですよ。しかし、その悲しみを乗り越えて、つまり、年をとれば取るほど元気に、晴れやかに、そして華やぐというものですよ、という意味の様です。私も老いてますます元気に、華やぎたいものです。
さて、こんなことを言っている場合ではありません。話は浄土寺でした。ごめんなさい。
講演が終わり、新大阪駅近くのビジネスホテルで一泊しました。翌朝、ホテルで朝食をとるや、一目散に新大阪駅からJR快速列車「西明石行き」に乗り、神戸の三宮で降りました。その後、乗り換え、阪急電車で新開地まで乗り、またまた乗換えで、神戸電鉄で三田行きに乗り、そして再び、鈴蘭台で粟生行きに乗り換え、長時間かけて小野駅という所まで行きました(ああ、しんどい)。途中、鵯越(ひよどりごえ)という駅、三木城があった三木駅など歴史に名前の出てくる駅を通過しました。数えませんでしたが後で調べましたら、私の乗った電車は30もの駅に停車したのでありました。つまり、大変な大旅行でした。電車の車窓からは山は頭に雪をかぶり、田園地帯は新開地から小野に出るまで全く無く、山を回り込んだり、開発された住宅地を眼下に見て走ります。電車に乗っている時間は2時間と少しを経過しました。下車した小野駅から、徒歩約30分で浄土寺に行くことが出来るのです。が、さすがに電車疲れで、お尻が痛くなっていましたので、タクシーで行く事にしました。浄土寺に着いたのでタクシーの運転手さんに1時間後にこの場所に来てもらうように頼み、浄土寺に入って行きました。
浄土寺 国宝浄土堂(例の国宝三尊が安置されている)
浄土寺の中心はやはり、国宝が安置されている浄土堂です。この浄土堂は建物の平面が正方形の建物で、屋根はすっきりと直線を描き、日本刀のようなソリはありません。つまりこの浄土堂の建築様式は天竺様式といい、国宝でした。そして、山門らしきものは無く、広い境内に様々なお堂、鐘楼、経蔵などが点在しています。境内には人っこ一人いない田舎のお寺という感じです。
浄土堂入口(中にアルバイトのおばさんが居た)
浄土堂の左角に入口がありました。拝観料はお1人様500円と書いてありましたので、すぐに入口とわかりました。そこを入ると、受付のアルバイトらしいおばさんから「ようこそ遠いところ来てくださいました。」とお礼の言葉がありました。おばさんは足元に火鉢を置いています。つい、つい、「火事にならない様に気を付けてね。」と言ってしまいました。おばさんは久し振りに人の姿を見るような、キョトンとした顔をしています。人の声を聞くのも久しぶりという感じです。もちろん、拝観者は私一人です。
中に入ると板の間でして、板の隙間からヒューヒューと隙間風が上昇気流となって足元を撫でます。寒いというより痛い感じでした。スリッパの備えもなく、冷たい体感をしました。足踏みをしながら、かじかんだ足を左右の足同士でこすり、温めます。すると、おばさんが、「そこにあるカセットテープを回してください。浄土寺や本尊を説明する声が出ます。」というのです。どうも、セルフサービスの様です。カシャッとスイッチを押すとかすれた声で説明が始まりました。
主な説明内容
①浄土堂は鎌倉時代に建立され、国宝に指定されている。柱の数も少ない東大寺と同じ天竺様式である。過去の大きな地震にも耐え頑丈な作りである。
②阿弥陀如来像は高さ5.3m、両脇の菩薩は高さ3.7mで鎌倉初期の名仏師快慶(かいけい)の作である。
③阿弥陀如来像は屋根裏いっぱいまでの高さで重量感がある。立像は珍しい。
④高さ5mを超す像であるが、全体では台座から地下へ3mほどの長さがあり、仏像の高さの合計は地上5.3m地下3m、合計8.3mとなって,
地震などでも転倒しない構造になっている。
カセットテープの説明が終わると、私はおばさんの所に行き、お礼をして、ついでに変な質問をしました。
私:「言っては何ですけど、この様な京都や大阪から遠く離れた田舎にこんな立派な阿弥陀如来像が安置されているのは、何か訳があるのですか?」
おばさん:「えっーと、住職さんの言われるには、鎌倉時代には、近畿地方のあちこちに8カ所ほどこの様な立派な阿弥陀さんが祀られていたようです。しかし、戦国時代になると、多くの戦乱によって、都のあたりでは多くの寺院が焼かれ多くの仏像も焼失したようです。運よく、田舎のこの地だけ戦火を免れたので、現在も安置されているのではないかと聞きましたが・・・。まぁ、戦争はいかんねぇ。」
なるほど、納得しました。小野市は播磨の国、播州の北に位置していることか
ら、北播地方(ほくばんちほう)というのだそうです。山陽道までかなりの距離があり、裏手は山々が重なって、そこを越えるとすぐ山陰地方だそうです。
浄土寺 国宝阿弥陀三尊像(3体とも国宝)
(パンフレットからのコピー)
それにしても立派な阿弥陀如来像です。感激して、浄土堂を後にしました。しかし、本当に寒さがきつく、耐えられず、足踏みしたり、日当たりのよい場所を選んで散策したりと悪戦苦闘です。帽子は下の写真のように毛糸の帽子(ネパールのシェルパ帽、これは息子のネパール土産)、そして厚手のコートを着ています。こんな寒い所へ来るんじゃなかったと冷たい風が吹くたびに反省してしまいました。
その後、そのまま今来た道を引き返すのはもったいないと思い、加古川を経由して西明石の方へ出て新幹線で名古屋へ帰ることにしました。タクシーの運転手さんには、「小野町駅までお願いします。」と声を掛けました。
万全な防寒装備で浄土寺まいり(自撮りです。)
JR加古川線の小野町駅までタクシーで行き、タクシーの運転手さんに礼をいい駅舎に入りました。暖房された待合室には、おじいさんとおばあさんがいました。『昔々ある所に』ではありません。『現在』、小野町駅におじいさんとおばあさんが居るのです。そこに掲示された時刻表を見ると、なんと加古川行の電車は50分後に来るのです。おじいさんとおばあさんはこの長い時間である50分間をどの様に過ごすのでしょうか、今、世間話をしているのですが、しばらくすると話すことも無くなるのではと心配になりました。
駅前には商店街はありません。コンビニもありません。あたりを見回すと駅舎の一画に地域の人々が経営するお店が1軒ありました。地産地消の野菜、地域の特産品が並べられており、奥に食堂があります。丁度お昼時間でしたので、それではと中に入り、メニューを見ると特産品の『田舎そば』しかありません。私は暖かいカモ肉入り蕎麦(そば)を注文し、ついでに「熱燗はありますか。」と聞きましたところ、「地域の人たちがお昼時間だけ経営する食堂です。申し訳ありませんが、お酒は販売していません。」というツレナイ返事でした。これを聞いて、寒さが一段と身に染みてきました。
50分待たされたJR加古川線 小野町駅(無人駅)
その後、暖房された待合室で過ごし、加古川まで1両編成のローカル電車に20分間乗り、そして西明石を経由して、新幹線ひかりで名古屋へ帰りました。我が家へは午後5時過ぎの到着です。あの素晴らしい国宝阿弥陀如来像だけ拝観するために朝早く起き、新大阪を8時前に出発して我が家へ帰るまで、延々10時間を要した『美の旅』でした。あぁ~、疲れた~.寒かった~。
その2 ミュシャ展への旅
ミュシャ展の紹介は、例のNHK「日曜美術館」で見ました。私はアール・ヌーヴォーの商業デザイン(グラフィックデザイン)の美しい作品しか知らなかったのです。晩年に制作し、本当のミュシャを知ることが出来る『スラヴ叙事詩』の大作20枚があるなんて全く知りませんでした。
彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターです。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注する事にしたが、おもだった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いていたミュシャに飛び込みで依頼したものだったのです。
晩年、ミュシャは故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作します。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。しかし、1939年、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体されました。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕されました。その理由は「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」というものでした。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、まさしく、それは78歳の老体には耐えられないものであり、その後ミュシャは釈放されたものの、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じたのです。
美の旅に出る前に、NHKの「日曜美術館」などにより、この様な知識を得て、観賞に向かいました。やはり、事前の予習はいいものです。
小学校、中学校の時、もっとしっかり予習をしておけばよかった、と今になって(余命いくばくもない、こんな年齢になって)反省しています。

ミュシャの出世作「ジスモンダ」
(購入したクリアファイルよりコピー)
フランス時代のミュシャの作品(アール・ヌーヴォー)
(購入したクリアファイルよりコピー)
それでは旅の流れを最初から順にお話します。出発日の数日前、ある企業さんから相談を受け、現地に出向くことになりました。その出向く日が丁度、ミュシャ展へ出かける出発日と重なってしまいました。
つまり、出発日は午前中、愛知県の東三河地方で仕事をしました。その足で、豊橋駅から新幹線ひかりで東京へ、またまたその足で、地下鉄に乗り換え、六本木まで行き、国立新美術館へ向かいます。時間は丁度午後4時でした。その日は金曜日でしたので、人ごみは少ないのですが、切符を購入するには20分ほど並びました。
そしていよいよ、ミュシャ展です。

ミュシャ展入場券(20分ほど並びました)
入口を入ると会場マップが書かれたパンフレットがあります。それを1部頂き、展示会場を巡るのです。下の図のように、『スラヴ叙事詩』20点が大きく会場を占めています。そして、最後の部屋は「撮影可能エリア」となっていました。「えっ、カメラで撮っていいの?」こんな展覧会初めてです。ウキウキした気持ちで順に観て回りました。

会場マップ(左下エリアが撮影可能エリア)
『スラヴ叙事詩』は20枚すべてが縦、約4m、横、約5mの大きな絵です。この絵が20枚も並んでいる様子には、圧倒されました。素晴らしい迫力です。とても晩年、78歳まで、情熱を傾けて20枚を描いたとは思えません。シッカリした筆使い、陰影の確かさ、全体の構図、申し分ありません。こうなったら、私も頑張らなければと思いました。『いよよ華やぐ命なりけり』です。

携帯カメラで絵画を撮る入場者達(撮影可能エリアにて)
そして、撮影可能エリアで元気よくバシャ・バシャと携帯カメラのシャッターを押し続けました。絵の大きさが半端じゃないので、絵画のすぐ前でシャターを切ると全体が撮影できず、遠くからシャッターを切ると上の写真のように携帯を構えた人物が多く入ってしまいます。やはり撮影可能エリアでは芸術的な写真が撮れないことが分かりました。(残念、残念)
撮影可能エリアでは、多くの人が携帯カメラで写真を撮っていました。この光景がまたまた面白いのです(上の写真)。つまり、みんなが同じポーズをとって、へっぴり腰で、携帯カメラを構えているのです。このままではとても芸術的な写真を撮ることが出来ないと思われます。撮った写真はどうするのでしょうか。他人ごとながら心配してしまうのでした。
その3 旅の終わりに
浄土寺では、長時間のローカル線の旅、ミュシャ展では超特急新幹線の旅でしたが、やはり、ローカル線の旅が印象に残ります。ゆっくり走る電車の車窓から初めて見る景色は何とも言えない感動です。これからは地方の美術館巡り、仏像巡りをしたくなりました。(年齢のせいなのでしょうか、ゆっくリズムが身に合ってきました。)
おわり。次回をお楽しみに。ごきげんよう、さよ
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さてさて、トンチンカン先生は、平成28年、すなわち2016年に中国は天津(てんしん)と北京(ぺきん)に仕事で行って参りました。天津は環境汚染に関するフォーラムに参加し、土壌汚染事例を紹介する講演をしてきました。北京では環境展に参加し中国の環境事情を見てきました。それでは『天津・北京の珍道中』、始まり、はじまり。
その1 天津への旅、―天津飯と天津甘栗は何処―

天津市人民政府外事弁公室への表敬訪問(前列右端がトンチンカン先生)
天津は北京の外港です。日本からも多くの企業が進出している人口約700万人の大都市です。上記の写真のように日本から総勢8人の参加です。
早朝、7時30分にセントレアに集合、そして9時25分発の飛行機で出発です。予算の都合で、韓国の仁川空港で乗換え、つまりトランジットして、天津国際空港へ向かいました。乗換えの手続きに不案内な人が多く、乗り換え時間が50分でしたので、あわててしまいました。中には乗換え場所に行かず、韓国への入国審査の方へ行ってしまった人もいて、幹事さんは大変でした。でも、何とか予定通り午後1時25分に天津国際空港に到着しました。
ホテルは、「天津水晶宮飯店」と言い、玄関ロビーにはロビーいっぱいに大きな水晶のシャンデリアが吊るされております。水晶ではなくガラスではないかと疑ってしまうほどの大きなものです。
そして、午後4時から天津市人民政府外事弁公室へ表敬訪問です(写真)。いわゆる環境部局への訪問です。天津市側は女性の副部長さんに対応していただき、通訳を通じてお互いを褒め合った言葉を交わし、オチャッパ(お茶の葉がそのまま湯呑に入っている)の入ったお茶をすすり、会談は終わりました。
20分ほどマイクロバスに乗ってホテルへ帰って一服した後、夜、天津の街へ出て、私たちだけの夕食会を開きました。せっかく天津へ来たので、『本場の天津飯』を食べるぞー、と意気込んだのですが、ショウケースにもメニューにもそれらしきものはありません。中国人の通訳の人に「天津飯を食べたいのですが。」というと、通訳の人は「卵のあんかけ丼ですね。その天津飯は日本で発明された料理です。なので、天津にはありません。」という返事でした。天津飯は日本人が日本で発明し、日本で広まった料理の様です。つまり、台湾ラーメンと一緒でした。初日の夕食で、本場の料理『天津飯』に舌鼓を打とうと意気込んでいたのですが、青森県の三内丸山遺跡の受付嬢が青森県人でなく愛知県人でした、と云う経験同様(第17話トンチンカン先生の『みちのく一人旅』を参照)、またもや出鼻をくじかれたようです。が、しかし、頑張って餃子、野菜炒めなど定番の中華料理を腹いっぱい食べました。一応、満足。
第2日目はいよいよフォーラムの開催です。初日は大気汚染対策に関するフォーラム、次の日は土壌汚染対策に関するフォーラムです。私は、化学工場の土壌汚染対策事例について発表しました。日本の企業がどれだけ苦労して土壌浄化に時間と費用を使っているか、通訳を通じて90分お話しました。特に、①住民対応が重要な事項であること、②常に公開で作業を行うこと、③専門家からの意見を聴きながら対策を進めることの必要性を強調しました。
フォーラムで発表したパワーポイントの表紙(第1ページ)
90分の発表を終え、いよいよ、質問時間に入ります。特にびっくりした質問は、「なぜ、企業が浄化費用を負担しなければいけないのか。」という質問が来ました。私は汚染者負担の原則を説明し、「汚した人が責任を持って浄化するのです。」と発言したら、会場中の中国人の人々は不思議な顔をしていました。中国では、国が税金を使って浄化対策事業を進めるようです。企業負担にすると価格に反映し、値段が上がり、売れなくなる、輸出できなくなるという理由の様です。日本とは随分異なった考えだと思いました。
その後、自由時間がありましたので、全員で天津の旧市街区を見学しました。
天津は特に有名な、誰でも知っているという観光スポットは無いようです。昔の天津は様々な国の統治下にあったようでして、100年ほど前に建てられた様々な国の建物が残っています。私たちはイタリアの人々が建てた建築物を見学に行きました。意大利风情街 (Italian Style Street)と言いまして、かなり変わった建物が並んでいます・

天津のイタリア風情街(Italian Style Street)に建つ住宅の例
ちょっと見ると、悪趣味のような建物に見えます。看板に書かれている内容を中国人の案内の人に解説していただきますと、「この家は、イタリアの商人が建てた家で、100年ほど前に建てられました。今でも人が住んでいます。」と説明がありました。なんだか、アントニオ・ガウディ(カサ・ミラ、グエル公園、未完成のサグラダ・ファミリアで世界遺産となった作品を残した、スペイン人)の作品みたいです。しかし、ガウディのような感動はありませんでした。当時の貿易商で大きな富を蓄えた、成金趣味のようにも見えました。でも、建物のいたる所にテラコッタ(素焼の塑造)の作品が張り付いており、見応えはありました。
有名なガウディ作『サグラダ・ファミリア』(教会)
注.ガウディはこの教会を建設中に交通事故で亡くなりました。
この様な住宅があちらこちらに並んでいるので、しばらく散策をしていると、鐘の音を鳴らしながら「パッカ・ポッコ、パッカ・ポッコ」と蹄の音も軽やかに、いや、軽やかではありませんが、馬車が迫ってきました。多くの観光客を乗せた重そうな荷馬車を一頭の馬が一生懸命にひいています。なんだか、馬を虐待している、パワハラのような気がしました。
荷馬車に乗っている観光客は殆どヨーロッパ人(中にはよく肥えたおばさん)の様でした。
「パッカ・ポッコ」と馬車がゆっくりと行き過ぎました。
(荷馬車が重そうで、馬がかわいそうでした。)
その後、天津鉄道駅の前を通り、やはり夕食に出かけました。特に天津ならではという中国料理はない様でしたが、ちょっと驚いたことがありました。中華料理店が入っている大きなビルのロビーで異様な光景を見てしまいました。
それは、『天津、おばさんパワー』です。30人ほどのおばさんがこれから晴れ舞台に出る直前の最後の練習、そして、最後の化粧直しをしているのです。
「おばさんダンシングチーム」はロビーいっぱいを使い、こちらでは化粧直しと衣装のタルミ直しをしています。あちらの方では、踊りの振り付けの確認をみんなでやっているのです。化粧のにおいがプンプン、やかましさは人一倍でした。
天津『おばさんダンシングチーム』の本番準備
天津市で見かけた『おばさんダンシングチーム』の底力
そんな訳でして、天津で一番印象に残ったものは『おばさんダンシングチーム』のパワーでした。
帰りに、天津みやげの『天津甘栗』を買っていこうと、空港の免税店に行きましたが、あれっ、天津甘栗はありません。中国人の通訳の人に、最後の質問、「天津甘栗はどこで売っていますか。」と尋ねましたところ、通訳さんは「天津甘栗はありません。天津郊外には大規模な栗園が多くあります。以前から天津港は日本へ栗を輸出する積み出し港でした。それで、日本人が甘栗に『天津甘栗』という名前を付けて日本で売り出したところ、爆発的に売れたのではないでしょうか。」という答えでした。またまた、大変なことを知ってしまいました。
その2 北京への旅-故宮博物館の老人票・本物の万里の長城―
北京へは初めての旅です。しかも、一人でセントレアから飛行機に乗り、中国人と空港で待ち合わせです。大変な思いをしました。朝8時にセントレアへ行き搭乗手続きを終え、出発の連絡をする人がいないので、とりあえず、息子の嫁に「今から行って来るよ。」と携帯電話で連絡しました。
そして、飛ぶこと約2時間、無事に北京空港に着きました。ここからが冷や汗の連続でした。飛行機を降りて皆さんがゆく方へ歩いて行きました。思った通り入国検査所がありました。パスポートを見せ、指紋を取り無事通過。しかし、荷物を受け取る所がありません。皆さん、電車に乗るのです。ええっ! 荷物は?皆さんが乗るから違っていてもまた戻ってくればいいや、と思いつつ、乗り込みました。駅は2つあります。国内線と国際線をつなぐ地下鉄の様な車両です。そして3つ目の駅が空港出口です。そこで降りて、皆さんに付いて行くと、荷物受取場がありました。やっとの思いで、トランクを持って北京空港のロビーに降り立ちました。
しかし、指定された待ち合わせ場所に中国人はいません。一難去って、また一難。携帯で連絡したところ、北京市内が混んでいて、約1時間後に空港に着きますという返事でした。トランクに腰を落として待つこと1時間30分、やっと中国人に会えました。タクシーでホテルへ行き、翌日環境展を見学しました。
今回の旅は、余裕を持ったスケジュールでしたので、故宮博物館と万里の長城へ行くことが出来ました。この2つの観光地への珍道中をお話します。
(1)故宮博物館
故宮博物館は天安門広場の奥にあります。北京の地下鉄に乗るときは飛行機の荷物検査と同様、荷物のX線検査があります。乗る人は全員、荷物を機械に通します。
私は、ペットボトルを持っていましたが、検査員から「ペットボトルの飲料を私の前で飲みなさい。」と言われました。しかたなく一口飲んで見せました「行ってよい。」と言われ、地下鉄のホームへ降りた次第です。
『前門』という名前の駅で降り、大きな毛主席記念堂を左に見て天安門広場へ出ました。とにかく人が多く、つまり、人が渋滞しているという感じです。
天安門広場にて
日曜日でもないのに、大変な人出です。視界に入る人々の数は、右を見ても、左を見ても、どこを見ても100人以上います。これぞ、本当の中国なのだと実感しました。
天安門広場を歩き、天安門の中に入ると故宮博物館の切符売り場があります。そこで、パスポートを見せて切符を買うのです。年齢がわかってしまい、購入した切符は『老人票』というものでした。
北京・故宮博物館入場券(老人用)
確かに大人50元のところ老人は30元なので安いのですが、ちょっとムカッとしてしまいました。「私はまだまだ、若いのだぞー。」と言いたいほど切符売りの女性は淡々と、こちらを見ずに知らんぷりして切符を窓口から出したのでした。
北京・故宮博物館の内部
故宮博物館は非常に広く、一日では回りきれないほどです。写真などの撮影は禁止されていません。大きな石仏や石版など迫力のあるものばかりです。ここでも、人だかりがすごく、一番前で見ることは出来ないほどでした。半日を要して見学しましたが、全体の半分も観られないほど、展示場、展示物が多くありました。満足、満足。
(2)万里の長城
次の日朝早く、昨日と同じように地下鉄で前門駅まで行き、そこからバスに乗って3時間余りかけて万里の長城を見学しました。
2時間ほどバスに揺られていると、遠くに万里の長城が見えてきます。「わー、すごい、万里の長城だ。」とみんなが騒ぎ出したのですが、バスガイドは「あれは、今から見学する万里の長城ではありません。お金持ちが自分のお金を出して作った偽物の万里の長城です。」という説明です。相当な大富豪で、お金に任せて万里の長城の隣に自分だけの万里の長城を建設したもののようです。日本人の感覚でしたら、何千年も風雨にさらされた万里の長城の修復に寄付するのですが・・・、ちょっと感覚が違うのでしょうね。
そして、ぴったり3時間で本物の『万里の長城』へ到着しました。
そこからロープウエイでのぼり、万里の長城を散策しました。ここでもやはり、人が渋滞しています。
万里の長城入場券(こちらは老人票ではない)
万里の長城を見学した日は、本当に良く晴れて、スモッグなどありませんでした。こんな天気はまれだという説明がありました。長く連なっている万里の長城が遠くまで見えるのです。
写真を見てください。空はどこまでも青く、遠くまで撮影することが出来ました。しかし、坂の多いこと、息が切れて大変な思いをしました。

万里の長城にて。(混雑ぶりが分かります)
万里の長城では、アスファルトで補修していたり、老人のための手すりが、万里の長城にドリルで穴をあけて設置してあります。日本では考えられないことですが、万里の長城のデコボコ床面はアスファルトで滑らかに、横の手すりは、重要な文化財にもかかわらず、穴をあけて手すりを設置するのです。

少し休憩(こんなに快晴の日はないという説明でした)
文化財に対する考え方が日本と違っていることに驚きました。
2時間ほど万里の長城で過ごした後、ロープウエイで降り、みやげ店を見て回りました。万里の長城での記念品にと孫に帽子を買いました。帽子には万里の長城の英語として「 Great Wall 」と書かれていました。孫は大変喜びました。
翌日は日本へ帰る日でした。午前中、ちょっと時間がありましたので、北京の繁華街を散策しました。百貨店には、ドラえもんやキティーちゃんの縫いぐるみが山のように積んでありました。食料品売り場には何でもあるという状態で中国の生活物資の消費はすごいと思いました。

足をバタつかせたタツノオトシゴとサソリの串物を売っていた。
(足をバタつかせて、元気よく生きている)
一方、昔ながらの露店もいくつかありました。上の写真のように、タツノオトシゴやサソリの生きたものを売っている露店(その場で焼き鳥のように焼いて、タレを付けていました。買った人は歩きながら口に運んでいます。)もあり、行き交う若者はジーンズを履き、大きなサングラスをかけています。
中国という国は、これからもどんどん変わって行くのではないかと思いました。
反省
<その1> 思い込みの激しさ(天津飯と天津甘栗)
天津では、天津飯を食べたい、天津甘栗を買いたいと思っていましたが、ダメでした。天津と名がつくものは全てその発祥が天津と思ってはいけないのです。思い込みの激しさに反省です。
<その2> 国が違えば考えも違う(自己責任)
日本のルールは外国では通用しないのです。日本では環境汚染を浄化する責任は汚染者に有りますが、中国では責任はないのです。ビックリです。
<その3> いつまでも若い?(故宮博物館、万里の長城)
古希に入ったが、体力はまだまだ、そして、気持ちは20代と思っていました。しかし、故宮博物館で渡された『老人票』はショックでした。そして、万里の長城でのアップ・ダウンの道は、やはり古希なり、と反省しました。
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実は、昨年、トンチンカン先生は40年ぶりに学会に参加しました。それは「地下水・土壌汚染とその防止対策に関する研究集会」という5つの学会の共同主催の研究集会でした。場所は九州大学です。伊都(いと)キャンパスでの開催です。伊都キャンパスは新しく大学を統合移転したばかりで、ちょっとした丘の上に10階建ての校舎が3棟大きくそびえ立ち、まるでパルテノン神殿のような異様な姿でした。その中の椎木(しいき)講堂という円形の講堂で開催されたのです。

写真―1 プログラム(入場料も含め料金は1万円でした。高い~。)
私たちの頃は、農芸化学学会での発表でしたが、最近は失礼な表現ですが、小さな学会がやたらと多く(多分、専門分野が細かくなったものと思います)、今回は5つの学会の合同開催で、そのため、『研究集会』という名前の催しでした。私は発表しませんでしたが、共同研究者の一人として参加しました。年齢も年齢ですし、恥ずかしさもあり、この研究にアドバイスした程度でありましたので、研究者として研究発表会のプログラムに名前を出していただくのは、ダメダメ絶対ダメ、と勘弁してもらいました。

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★ガレリアはオープンスペースでパネルディスカッションが開かれた。
★コンサートホールは3,000席の大ホールで研究発表が行われた。
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図―1 椎木講堂の平面図(直径は100mです)
発表は、私たちの時代とは大きく変わっていました。発表はコンサートホールで行われ、発表者は演壇に上がりそれぞれ3分ずつ発表するのです。A4用紙にカラーで作成した5~6枚の図表を用意してOHPを使ってスクリーンに大きく映し出します。質問はしません(質問時間は設定されていません)。ただ、順番に発表するだけです。午前中、広いコンサートホールで次から次へ発表するのです(昔のような分科会形式ではありません)。そして、午後から、ポスターセッションと言いまして、椎木講堂の1階ロビー(ガレリア)でB紙大の画用紙にカラーできれいに作成したポスター(図や写真を多く用いて、研究目的、方法、結果をまとめています。)が張られており、その前に全ての発表者がそれぞれの場所に立ち、様々な人からの様々な質問に答えているのです。40年前と全く違った学会発表に目を白黒してしまいました。

写真―3 九州大学伊都キャンパス案内図(右上の青い円が椎木講堂)
なんか、場違いな様子で疲れてしまいましたので、私は、発表を聴いた後、パネルディスカッションの展示をさらさらっと見て、早々にサボって、博多天神から西鉄電車に乗り、久留米市の近くの柳川という水郷で有名な観光地に行く事にしました(これは以前から、できれば観光したいと思っていました。また、途中、久留米の近くに『花畑』(はなばたけ)というかわいい名前の駅がありました)。
柳川は『城ケ島の雨』、『赤い鳥・小鳥』、『この道はいつか来た道・・』の唱歌などで知られる北原白秋の生地です。
西鉄柳川駅のすぐそばの渡船場から川下りをしました。70分の舟遊びでして、なかなか情緒がありました(前立腺がやや大きく、途中でおしっこに行きたくなりましたが…)。
写真を見ていただきたいのですが、同船した人々は、定年記念の旅行でしょうか中年の二人連れ、若いカップル、3人の家族連れでして、私だけ1人でした。意地になって一番前に座り込みました。その結果、船の前方が沈み勝ちとなり、船頭さんは櫂を漕ぐのに大変だったと思います。そして、前に乗ったせいか、写真うつりが良かったのでやや満足しています。

写真―4 柳川の川下り(一番前に座っている)
少し空模様が悪く、時々雨粒が落ちてきましたが、船頭さんの案内とこの地域の民謡の歌声、舟のきしむ音に心が和み良い雰囲気でした。
そして、終点の船着き場で船から降りると目の前に古民家の様な食堂がありました。そこは、有名なうなぎ料理店です。入口を入ると、例の定年記念らしきご夫婦が居ました。どうも東北弁らしい訛りのある話し声です(後でわかったのですが山形県酒田市の方でした)。私は奥の席に座り、メニューを見ましたところ、柳川名物うなぎの重箱(うな重)、松・竹・梅とあります。これほど遠くの柳川へはなかなか来られないだろうと思い、そして、女房がいないので、松を注文しても梅ランク2人分の値段より安いと瞬時に計算し、大きな声でランクの最上級「松」を注文してしまいました。周りで『松』を食べている人が一人も居なかった分、やはりおいしかったのです。満足、満足。お腹をさすりながら、爪楊枝を加えてお店を出ました。
運河沿いにしばらく行くと北原白秋記念館がありました。私はかなり暇でしたので長い時間をかけてじっくり見学しました。記念館の事務員の人が、「しっかり見ていただき有難うございました。」とお礼の言葉をかけていただきました。しっかり見た結果、北原白秋は2回の離婚と3回の結婚をしていることが分かりました。1回だけで、2回目への自信、度胸、若さ、その他もろもろの勇気のない私にはうらやましいかぎりでした。不謹慎な・・・亡き女房に怒られそうです。
その後、 帰りには、ひたすら孫のため、博多ラーメン、長崎カステラなどを土産に買い、家路へと帰りました。
事務所へ帰り、研究集会でいただいた資料を整理していますが、学会より柳川の記憶の方がほぼ90%を占めていたので、資料整理できない状況で、今もって、資料はそのままに机の隅でほこりをかぶっています。研究集会の事務局の方々、大変申し訳ありません。
(以上)
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引き続き、さてさて、皆さんもご存じのとおり、トンチンカン先生は、ここ数年来、急速に『美』について強く考えるようになってしまいました。ここ1年間の実績ですが、昨年の秋には東京での『春画展』を皮切りに、今年の春には瀬戸内海に浮かぶ直島と豊島への『美を求めて』の一人旅。そして、初夏には、新緑の『みちのく一人旅』、また、9月には江戸東京博物館で開催された『妖怪展』を観てきました。
今思えば、60歳以降の第2の人生では、仕事の途中で様々な美と接する機会があったのです。例えば、タイの『タイシルク』の美しいテーブルクロス、中国の『南京雲錦織』の美しい壁飾り、そして、ブータンでは鬼や動物などの『仮面』と『曼荼羅図(仏画)』、など東南アジアの美しく、しかも、可愛い民芸品にのめり込んでいたのです。ただ、観ていて、蒐集(しゅうしゅう)するばかりで、なんとなく腑に落ちないと言うか、納得いかない部分があったのです。
そして、ついに、トンチンカン先生は『芸術の創造』に挑戦したのです。
ブータンの仮面(祭りではこの仮面を付け道化師役として踊る)
1 石材をいただきました。
ちょうど、数年前、石材店を営んでいました女房の実の兄が商売をやめることとなり、「欲しい石材があったら持って行っていいよ。」という電話連絡が入りました。どうしてだろうと思っていましたら、「店の在庫は処分するけど、産業廃棄物として処分するので処理経費が掛かる。」そうです。そこで、欲しいものは全部持って行ってほしいとの連絡です。
それではという事で、私の自家用車(当時はトヨタカローラ1200ccでした)で名古屋の中心部にある石材店に行き、いただけるものは全て頂いて来ました。と言っても自家用車です。重たい石を運ぶためには不完全な自動車でしたので、前の座席の足元に、後部座席の左右に均等にと積載し、エンジン音も重くやっとの思いで自宅まで運びました(実は3往復ほどしました)。
しかし、当時は何に使うかも考えず、やみ雲に運んだので、庭の隅で山積みとなったのでした。でも、よく見るとなかなか質の良い石のように見え、高価ではないかと思い始めました。我田引水。
2 石の活用について思案顔のトンチンカン先生
そこで、トンチンカン先生は頂いた石をどうしようか、と毎日、毎日思案していました。石は一辺が20センチメートルほどの正方形に切った『鉄平石』です。これを自家用車で30枚ほど頂き、運んできたのです。とりあえず、庭に碁盤の目のように、市松模様のように並べてみました。下の図が『市松模様』です。黒い部分が鉄平石で、白の部分は土です。始めはきれいだなぁ・・、と感心していましたが、日に日に白い部分から雑草が生えだし、そして、雨が降る度に、土が侵食されて段差ができ、歩くとつまづいてしまうのです。あぁ~、これはダメだと反省し、撤去し、再び庭の隅に山積みとなったわけであります。

図―1 代表的な市松模様
一方、一辺が10センチメートルほどの御影石は50枚ほど頂いて来ました。
こちらの方は、全く使い道に見当がつきません。市松模様では御影石の白っぽさから、映えない。しばらくそのままにしておくと汚れが目立ち、汚い御影石となり果ててしまいました。つまり、相当、使い勝手が悪いのです。これも思案の挙句、鉄平石と一緒に庭の隅に保管することとなりました。
3 芸術の創造に向けて
私は、初めにも申した通り、美術にのめり込んでいます。綺麗な絵だけでなく、額から飛び出した部屋全体が芸術というもの、屋外展示物など、目からウロコの芸術鑑賞をしています。そして、この芸術鑑賞と鉄平石・御影石が、私の頭の中で、ぐるぐる回り、かき混ぜられて、うまくコラボレーションしたのです。その結論はつまり、『芸術の創造』でした。
ちょうど、我が狭い、猫のヒタイ程度の庭でガレージの設置工事をしていましたので、その建築屋さんに、庭の低くなっているところを指で示しながら「山土を、この少し庭の低くなった部分に入れてもらえませんでしょうか。」とお願いしたところ、二つ返事で了解をいただきました。
ある日、坂部環境技術事務所の仕事を終えて帰ってみますと低い庭の部分に土が入れてありました。低いところを平たんにするのではなく、なんと小山になっているのではありませんか。
数日間、そのままにしておきましたが、ある日、夕刻、縁側で、一人でお酒をチビリチビリとやっていると、その小山は、白く、粒子も砂状になって、粒径もほぼ同じ状態になっているのです。それからしばらく、じーっ・・と眺めていると石川啄木の詩が思い浮かんできました。「海は荒海、向こうは佐渡よ、」ではありません。
ここで説明。私は子供の頃、家の棚に並んでいました日本文学全集を見て、『石川啄木』を『石川豚木(ぶたき)』と読んでいたことを思い出しました。失礼。
つまり、詩集『一握に砂』の中にある、『初恋』という詩があることを思い出したのです。
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砂山の砂に 砂に腹這い
初恋のいたみを
遠くおもい出ずる日
初恋のいたみを
遠く 遠く あ~ あ~
おもい出ずる日
石川啄木 作詞 越谷達之助 作曲
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こんな年になって、初恋もあったものではありません。すでに、遠く、遠く、相当に遠くです。そして、庭のこの部分を砂山にして、例の石を芸術的に配置することを思いついたのでした。
翌日、どのような構図にするか、考えて、考えて、ほんの1時間後、ついに構想がまとまり、さっそく創作に入ったのです。そして、作業すること1時間。石の配置を微調整した後に完成したものが下の写真です。この写真は私の家の縁側から見たアングルです。ブロック塀とフェンスの向こう側は、トナリの渡辺さんっち、です。つまり、なんと、あの有名な『借景』という技術もしっかり取り入れているのです。

トンチンカン先生の作品(名前はまだない。)
5 題名は如何にしようか。
作品の題名を考えなくてはいけません。『初恋』? トンデモナイそんな年でもない、今は古希(こき)、古来より稀(まれ)なケースの70歳です。「老いらくの恋」なんて揶揄されそうです。これはダメだ。
少し解説します。写真を見てください。使用している、左上の青い自然石は愛知県山間部をドライブしていた時に耕作放棄地の畦道で拾ったもの、中央の赤い自然石は天竜川の上流部の支流(河川名は知らない)で拾ったもの、右下の壺(ツボ)は愛知県の常滑市内で多くみられる常滑焼の窯元で梅干しを作る道具としての壺ですが不良品として処分される瞬前のものをタダで頂いて来たもの、真ん中のサザンカの木は10年ほど昔、お隣さんから、実が落ちて芽が出てきた小さな苗木をいただいたものなのです。もちろん四角い御影石は義兄の石材店からタダで頂いて来たものです。三角の鉄平石も同じです。
そうだ、題名は『リサイクルの輝き』にしよう。でもなぁ~、ちょっと、アートというには名前がイマイチです。
しかし、まあいいや、我が芸術の創造の成果は、とりあえず『リサイクルの輝き』としておきましょう。という事で、仮の名としました。
6 反 省
完成してから、毎日、毎日庭を見ています。砂山の砂に腹這うことが出来ないほどの猫の額ほどの広さですが、毎日、毎日、お酒をチビリ、チビリやりながら、夜遅くまで縁側から見ています。満足。満足。
しかし、砂山をジーッと見ていると何か、モコモコとしている部分がありました。庭へ出て、竹ヘラを使って調べてみると猫が糞をした跡です。掘って見るとありました、ありました。その後も、何度となくありました。もう、怒れちゃう。
また、ある雨の上がった朝、再びジーッと見ていると雑草の芽が一面に出ています。さっそく草取りです。親指と人差し指を使って1本ずつ、1本ずつ丁寧に抜くのです。もう、疲れちゃう。
つまり、芸術を創作した時の状態に保つことは大変な作業であることを思い知らされました。
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さてさて、皆さんもご存じのとおり、トンチンカン先生は、東京での「春画展」の出会い以来、『美』について強く、さらに強く考えるようになってしまいました。春には瀬戸内海に浮かぶ直島と豊島への『美を求めて』の一人旅。そして、最近では、NHKの番組「日曜美術館」を毎回予約録画して気に入ったものを何度も見る状態になってしまいました。
ある時、録画したものの中に、青森県の2つの美術館の紹介番組があり、これを見た途端、「これは一度観る価値があり、いや、必要がある。」と思ってしまいました。本当に、外部からの圧力により、こうなってしまいました、ということです。
そして、今回、『みちのく一人旅』、となった次第です。それでは、『みちのく一人旅』珍道中をご覧あれ。
<第1日目> いざ新青森へ、そして青森県立美術館へ
午前6時に我が家を出発しました。名鉄桜町前駅から名鉄に乗り、名古屋から新幹線のぞみで東京へ。そして、例のごとく一度トイレに行き、次は東北新幹線『はやぶさ』で一路、新青森駅へ向かいました。指定席はほぼ満員です。
乗り過ごしたら北海道まで行ってしまいますので、かなりの緊張感を持ち、眠らないように新青森駅まで乗りました。新青森で降りる人は相当居ましたが、まだ半分ほどの乗客が乗っています。
1 三内丸山遺跡にて
新青森駅へ降り、タクシー乗り場でタクシーの運転手さんに「青森県立美術館へお願いします。」というと、「時間があるのでしたら、お隣の『三内丸山遺跡』を見学してから美術館へ行った方がいいですよ。コインロッカーも美術館は100円ですが、三内丸山遺跡の方はタダですから。」というのです。それではという事で三内丸山遺跡を先に見学することとしました。(タクシー料金は三内丸山遺跡が美術館の手前にあることから低料金でした。)

三内丸山遺跡の資料館(この後方に広大な遺跡群があるのです)
入口を入ると青森県人らしい、ニコニコした優しそうな、りんごの様な若い女性が受付のカウンターにいましたので、ついその青森県人らしい素朴な笑顔の女性に「愛知県から来ました。」といいましたところ、その女性は「私は豊田市出身です。」というのです。なあんだ、愛知県人かといきなり反省し、「なぜ青森に就職しているのですか。」と聞いてみると、「訳ありです。」と即答があり、簡単にフェイントをかけられました。どうも、出鼻をくじかれた様子。
とは言うものの、気が合ったのか「シャッターを押しましょう。」と言って、貸衣装の『縄文衣装』を着せていただき、縄文土器の前で写真に納まりました。
そして、元気に野球場2つほど、いやもっと広い、広大な遺跡を2時間ほどかけて見学しました。

縄文衣装を身に付けて、豊田市出身の受付嬢にシャッターを押してもらう
中学生の社会科授業では「縄文時代は、人々は狩りをして生活をしており、獲物を追って移住生活をしていた。」と先生が絶対に間違いないという態度で説明した様子を昨日のように思い出します。中学生の私は、イノシシやシカを追って野山を駆け回る光景を浮かべたものです。しかし、三内丸山遺跡は縄文時代の人々ですが、1500年も長い期間定住し、魚(ホンザメ、ブリなど)やノウサギ、ムササビなどを獲って生活していました。そして、栗やクルミの木を植え、つまり植樹をして実を収穫するという「栽培生活」をしていたようです。中学生時代の先生は私たちに間違ったことを教えていたことになります。縄文時代をひとくくりにしてはいけないのです。地域の自然的条件に合わせ多様な生活をしていたようです。
『多様性』という言葉が重要なキーワードでした。目からウロコの感動を得ました。
2 青森県立美術館にて
三内丸山遺跡に荷物を預けたまま、隣の青森県立美術館まで200mほどの散歩道の様な細い砂利道を歩いて行きました。
丁度、『棟方志功特別展』を開催しておりました。版画の技術で女性の丸みのある頬の曲線、鼻筋のピシッとした直線、そして色彩、素晴らしい技術で私たちを魅了します。
棟方志功『弁財天妃の柵』(300円で購入したクリアファイルからのコピー)
でも私は、NHK番組「日曜美術館」で予習したとおり、美術館が所蔵しているシャガールの舞台背景を観ることが大きな目的の一つでした。シャガールは1942年、亡命先のアメリカでバレエ「アレコ」の舞台装飾に取り組み、全4幕からなるバレエの背景画を作成し、その内、3幕を青森県立美術館が収蔵しているのです。その大きさといえば、展示室がバレーボールやバスケットボール2面ほどの広さ、高さも体育館の様な高さです。その展示室の3面にその絵は壁面いっぱいに展示してありました(3枚の絵はいずれも大きさは縦10m、横15mです)。私は椅子に座って長い間観賞していました。こんなことを言っては申し訳ないですが、観客はほとんどいません。管内は少し冷え冷えとしており、思わず、「ハックション。」とやってしまいました。すると、館内に大きく響き渡り、「うわん~うわん~」とこだましているようでした。これはまずいと、周りを見渡しても誰もいません。ほっと安心しました。それにしても、大迫力の背景画でした。
次に、第2の目的『あおもり犬』です。地元青森県弘前市出身の画家・彫刻家奈良美智(ならよしとも)によって建築と一体化した作品 (コミッションワーク) です。屋外に設けられた高さ8.5mの犬の像です。純白で、ややうつむき加減の『あおもり犬』は何となく淋しそうでした。逆光でしたのでうまく写真に収められず。様々な角度で観ていました。
奈良美智「あおもり犬」一般的なアングルです。(ガラス越しの逆光)
そして、室外に出て再度様々なアングルで観ていました。とにかく時間はたっぷりありましたので、あちらから、こちらからと観ていると、なんと可愛い『あおもり犬』を発見しました。つまり『あおもり犬』の鼻の真下から仰ぎ見た、下の写真の姿です。『あおもり犬』は笑っているのです。
物は、様々な角度で観ると様々な姿を現します。ものの見方によってこんなにも違うのかと感心しました。三内丸山遺跡といい、青森県立美術館といい大変勉強になりました。感謝、感謝、来てよかった。

笑っているような『あおもり犬』(鼻の下あたりから仰ぎ見て撮影)
<第2日目> レンタカーで十和田市現代美術館へ
2日目は、トヨタレンタカーでプリウスをレンタルして目的地を巡回することにしました。
まず青森市内から、八甲田山麓を目指します。途中、強酸性の湯、千人風呂で有名な酸ヶ湯温泉でトイレ休憩しました。そしてまたまた走り、蔦温泉に到着です。
1 蔦(つた)温泉にて
この温泉は過去2回も宿泊した思い出の場所です。大町桂月が逗留したことでも有名です。入泉料800円を払い、長い廊下を進み、突き当りの男湯へ入ると、私一人です。こんなところで心臓麻痺や脳溢血でも起こしたら大変ですと思いながら静かな雰囲気でゆったりと湯船に浸かりました。温泉は湯船の下から湧き出ているのです。時々温泉のガスが下から「ポコッ、ポコッ」と小さな音を出して浮き上がってくるのです。湯船の中でオナラみたいに見えました。決して私ではありません。泉質は緊張感のある透明な湯で、やや高い温度でした。少し長く湯に浸かっていたので、湯疲れをしてしまいました。それにしても、湯船、洗い場、壁、天井の梁など周りは全てヒノキで工作してあり、旅情豊かな温泉でした。

蔦温泉正面玄関、右が温泉、左が宿泊施設です
湯疲れしたので、玄関前の木製ベンチで腰を下ろして、しばしの間、ブナ林を通り抜けて来たそよ風に当たりながら新緑を堪能しました。
それから再び、レンタカーを運転して、(予定時間を過ぎているため)猛スピードで十和田市現代美術館を目指しました。
2 十和田市現代美術館にて
十和田市現代美術館は市役所、保健所などが並ぶ官庁街に有りました。国の出向機関の統廃合などで空き地が目立つようになった市の中心にある官庁街を活性化することを目的に、何か人が集まる施設を作りたいという思いから計画されたようです。そこは、官庁街通り全体を美術館と見立て、多くのアート作品が屋外展示されていました。

十和田市近代美術館のエントランスロビーにて(右が入口、左に受付がある)
まず、現代美術館に行きました。『現代』という名前のとおり、入り口の床面は様々な蛍光色で原色の線で出来上がっています。受付の人から「この床も芸術作品です。作品名は「ゾボップ(Zobop)」で作者はジム・ランビー(イギリス)です。」と説明がありました。写真撮影はここまでで、これから先は撮影禁止ですので紹介できないのが残念ですが、光あり、音あり、映像ありで、私たちが考える額縁におさまった絵ではないのです。特に感心したのが「スタンディング・ウーマン(立っているおばあさん)」ロン・ミュエク(オーストラリア)です。高さ4メートル近くあるこの女性像は、見る者を圧倒する迫力でたたずんでいます。憂いを含んだ風情はあまりにもリアルで、大きすぎるサイズとのずれが、奇妙な感覚を覚えさせました。
とにかくのんびりした一人旅ですので、長い時間をかけて隅々まで美術館を観て回りました。そして外へ出ると、何やら若い女性が野外展示物のフラワー・ホースの前で写真を撮ろうとしています。自分のカメラを旅行カバンに立て掛け自分を写そうとしています。「シャッターを押しましょうか。」と声をかけると、ニコニコして「お願いします。」と明るい返事です。やはり一人旅はいいなぁ~、と思いつつ、アングルを変えて数回シャッターを押しました。そして、私も撮ってもらいました。なかなかいい雰囲気です。以下、主な会話の状況です。
私 :「私は愛知県から来ました。」
女性:「私は福島です。」
私 :「交通手段はどうですか。時間がかかりましたでしょうね。」
女性:「東北新幹線の八戸で降り、ここまでバスでした。これから八戸に戻り、今日中に青森に行きます。明日は青森県立美術館です。」
私 :「私は昨日、青森県立美術館を観てきました、良かったですよ。三内丸山遺跡もいいです。今日はこの後、奥入瀬、十和田湖を走り、大湯ストーンサークルを見て、弘前経由で青森へ帰ります。レンタカーです。」
女性:(乗せてもらいたいような気持で、目をパッチリあけて)「そうですか、奥入瀬はまだ行ったことはありません。いいですねぇ。」
私 :(ここはちょっと我慢して)「それでは気を付けて旅を続けて下さい。さようなら。」
と言って別れました。

「フラワー・ホース」チェ・ジョンファ(韓国)の前にて、福島の女性にシャッターを押してもいました。
本当は一緒にドライブをしたいところですが、そこは『おじさんの控えめさ』グーッと我慢しました。何かあると困ってしまうのです。例えば、新聞記事に『自称コンサルタント会社社長、みちのくでご乱心』とか、『これぞ老害、みちのくでセクハラ』なんて記事が出たら大変です。技術士の資格、行政書士の資格など全てはく奪、または返上となりかねません。『男はつらいよ』と泣く泣く一人旅をつづけました。

屋外展示物 ファット・ハウス(デブの家)
若い女性と今生の別れをしたのち、野外展示物の『ファット・ハウス』を観ました。この作品は見た目には非常にユーモラスなものですが、説明では、「太るという生物としての仕組みを、機械や建物に重ねることで、『私たちの当たり前』を裏切ります。通常、家は太ることはありません。生活の基準となる価値や常識が、非常に曖昧なものであることを、私たちに教えてくれているようです。」と書いてありました。「価値や常識は自分が(勝手に)作ったもので、決して他人に当てはめることが出来ないものである。」という実感がしてきました。またしても、目からウロコの十和田市現代美術館でした。
3 大湯ストーンサークルにて
その後、一人で運転して、奥入瀬渓谷、十和田湖畔を走りました。奥入瀬渓谷は昔の賑わいはありませんでした。登山装備の老夫婦や女性同士のグループばかりです。十和田湖も、観光船が淋しげに係留されていました。ホテルの人に聞きましたら、「最近は海外旅行ばかりで、青森には来ていただけないのです。」という返事でした。淋しい限りです。
十和田湖畔を抜けて発荷峠を越え秋田県に入りました。2時間ほどのドライブで大湯環状列石(ストーンサークル)に到着です。大小の川原石が円形、楕円形などに組み合わされた不思議な遺跡です。石の配置が夏至の日没方向を向いているなど、この時代にすでに天文学的な知識があったようです。やはり縄文時代の遺跡でして、祈りと祭の道具や数字を意識したもの、女性の姿をしたものなど、発掘されたものは展示室にいっぱい手が届く近さで展示されています。
大湯環状列石と一緒に(福島の女性とツーショットのつもりで)
『大湯ストーンサークル館』に入ると、非正規社員の様な、とっくに定年を過ぎた様なおばさんが、「300円です。」と言い、入場券と施設案内のリーフレットを渡してくれました。やはり見物人は私一人でした。縄文土器、矢じりなどの出土品をゆっくり見ました。縄文時代独特の火焔型土器がたくさん並べられ、非常に迫力のあるものでした。その後、野外のストーンサークルを見て回りました。そして帰ってくると、そのおばさんは、「もう一度入っていただいていいですよ」、という内容の東北弁で私に話しかけてくるのですが、何せ東北のど真ん中、イントネーションも独特な東北弁でよく意味が分からなかったのでした。私が展示品の写真を撮ってもいいですかと言いますと、「はい。」と言い、そして屋外へ誘導され、ストーンサークルの前まで来てシャターを押していただきました。お互い意味が十分伝わらない中での結果、上の様な写真になったのです。
その後、東北自動車道碇ヶ関から、弘前を経由して青森に帰りました。途中自動車を運転しながら見た『岩木山』の姿は、山すそから頂上まで雲一つなく、夕日を背景に灰色のシルエットが素晴らしく綺麗で、荘厳で素晴らしかったのを覚えています。まさに堂々とした『津軽富士』でした。サービスエリアでの休憩時に写真を撮ろうと思ったのですが木々に邪魔をされ、良い写真を撮ることができなかったことが残念でした。
<第3日目> 青森から東京へ
3日目は、いよいよ青森ともお別れです。新青森から新幹線に乗り、お昼に上野駅に降り立ちました。夕刻、息子一家と食事をするのです(もちろんお代は私持ち)。時間がありましたので、国立西洋美術館で開催されているカラヴァッジョ展を観ることにしました。入場券を買うのに長蛇の列、館内に入ってもまじかに見ることが出来ないほどの混雑ぶりです。青森で風邪を拾ってきたのか、はたまた、都会の空気が汚れているのか、思わず「ハックション。」とやってしまいました。もちろん、全く、館内に響き渡り、こだますることはありませんでした。ただ、館内にいる数人の人からいやな目線が飛んできたのです。クシャミの犯人は私ではないという素振りで、次の展示物に移動しました。
カラヴァッジョ展のリーフレット
青森とは全く違う環境の中で一生懸命観て回ったので疲れがドッと出てきました。やはり、美の観賞は静かな雰囲気がいいなぁ、とブツブツ言いながら美術館を後にしました。そして、夜は孫と息子夫婦で楽しい食事会をしました。そして翌日は孫にお祭りで着る可愛い浴衣を買ってやり家路につきました。
今回の旅はNHK「日曜美術館」で紹介された言葉『頭で考えることはやめて、心と体で感じるアートの旅』そのものでした。本当に充実した『みちのく一人旅』でした。満足、満足。感謝、感謝。
<数日後、西尾にて>
旅は楽しいものでしたが、やはり疲れます。私は2ヵ月前に健康状態を確認するための血液検査をしてもらいました。その結果を聞くためにいつもの開業医(医師は高校時代の同級生です)の所へ行き、体調の不具合があるか診察していただき、そして血液検査の結果を説明してもらいました。
医者:「血液検査の結果は全項目にわたって『異常なし』です。つまり、正常値範囲内という事だね。さかべ君、この状態で規則正しい生活をしてね。薬はいつもの痛風の薬と軽い高血圧を抑える薬を処方するよ、いつもと同じ内容だから、続けてね。」
私 :「有難うございます。いたって健康に留意した生活を送っている結果と思うよ。先日も、青森県へ一人旅をしてきました。」
(そして、診察室で次の患者を気にしなく、『みちのく一人旅』の話を延々5分超、話しました。)
私 :「あとは、ボケ防止が大切だね、オレオレ詐欺など会わない様にしないといけないねぇ。」
医者:「オレオレ詐欺だけでなく、結婚詐欺にも会わないように気を付けなきゃ、だめだよ。」
私 :「結婚詐欺は、大丈夫。血の気は多くないよ。」
医者:「え~っと、赤血球の数は・・・・。」
とまあ、こんなトンチンカンな会話をして、診察室を出ました。三内丸山
遺跡の豊田市出身の受付嬢の話、十和田市現代美術館でカメラのシャッターを押した福島の女性の話は、全くしなかったはずですが・・・。友人の医者は、私があまりにもウキウキと旅の話をしたので、私のニコニコ顔と鼻の下の長さを見てその様な発言をしたのではないかと考えました。どうも私は、根が正直ですので、つい顔に出てしまうのです。大いに反省しなければなりません。
(終わり)
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早春の直島と豊島の漫遊記
さてさて、皆さんもご存じのとおり、1月の直島訪問漫遊記では全ての美術館が休館でした。したがって、どの美術館もそのアートを観たことがありません。帰りの連絡船に乗り、島を離れる時に港に向かって「必ず来るからなぁ~。待ってろよ~。」と口ずさんだのです。

玉野・直島・豊島の位置関係
そして、今回、直島(なおしま)の再訪となりました。直島だけではもったいないと、隣の豊島(てしま)も訪問することにしました。豊島は産業廃棄物の不法投棄事件で有名な島です。この現場も訪問することとしました。
<第1日目> 直島訪問
午前7時にJR岡山駅に降り立ちました。そして、例のごとくローカル線で宇野駅まで行きます。今度こそと思い、慎重にフェリー乗り場まで歩くと、いたる所に変わったものが目に付きました。まずは宇野駅の外壁が純白に変わり、その白い壁に電柱みたいものが黒いペンキで何本も描かれています。少し行くと今度は自転車が6台ほど吊り下げられています。そして、もっと目についたものは外人さんがやたらに多いのです。「YOUは何しに日本へ。」というテレビ番組を見ているようです。彼らは私と同じフェリーに乗るのです。直島とはこんなに世界的に有名なんだ、と思いながら直島の宮浦港へ降り立ちました。
すると、今度は学生の集団が30人ほど、先生と思われる人から説明を受けているのです。なんか怪しいと思いつつ乗船切符売り場を見ると、なんと『瀬戸内国際芸術祭2016(セトウチ・トリエンナーレ2016)』というポスターが貼ってあります。会期は3月20日~4月17日とあります。またしても事前調査不足で、開会2日前の訪問です。でも、宇野駅の外壁がアートになっており、外国人も学生も多いのです。やはり会期中は混むので考えたのでしょうか、かなりの人でした。
直島の町営バスは満員で、雨も少し降っています。最悪の日となりましたが、頑張って美術館を目指すことにしました。
まずは、地中美術館です。少々お値段が高いのですが、見ごたえのある美術館でした。この美術館では、『アートとは従来の額縁に入った絵のようなものでなく、部屋全体も含めてアート』なのですアートスペースともいう部屋はいくつもあり、部屋ごとに違った内容です。おじさんにはついていけない世界のようでしたが、長い時間その部屋で瞑想していると何だかわかるような気持になってきました。そこのところが、また不思議でした。
地中美術館の入場券(2,060円でした)
しかし、雨が降って来て天井のないアートスペースではレインコートを着ての観賞でした。
その後、雨の中をレインコートにリックサック姿で2つの美術館を巡り、野外展示物を観ました。途中、海岸にほど近いところに『文化大浴場』という変わった名前の野外展示物がありました。人種を越え、年代を越え、国を越え、様々な人が寄り集う場という意味だそうです。文化大浴場(時々、文化大革命と言い間違いをしてしまいます)では、戦争もなく、いがみ合いもなく、いじめもなく、心も落ち着き、みんなと仲良くお風呂に入る、裸の付き合いができるというものでしょうか。全景を見ると本当に様々な人(石)が様々な姿で憩う場所のように見えました。
題名:文化大浴場
(中央の四角い部分は湯船(露天風呂)、石は中国の太湖の湖底産。
私はもちろん入浴しませんでした。)
最後に、例の草間彌生のカボチャを見ながら帰ることにしました。しかし、雨の中せっかく来たので記念写真を撮ろうと思いましたところ、5人の女子学生と遭遇し、小さな声で、「シャッターを押してもらえませんでしょうか。」とお願いしたところ、快く引き受けていただきました。

再びカボチャの前で(レインコート・傘・リックサック姿)
(5人の女子学生に見られながらの雨の中でのポーズです。)
<第2日目> 豊島訪問
一度、岡山へ帰り安いビジネスホテルで泊まりました。そして再度宇野港から今度は豊島行きの船に乗り、いよいよ豊島入りです。
ここでお話ししますが、連絡船の出航の時やJR電車の発車時にはほとんど必ずという程、『瀬戸の花嫁』のメロディーが鳴り響くのです。始めは情緒豊かでいい感じでしたが、旅の終わりごろには鳴り響くというイメージで、どこでも『瀬戸は日暮れて、夕波小波 あなたの島へお嫁に行くの』、『瀬戸は日暮れて、夕波小波 あなたの島へお嫁に行くの』と小柳ルミ子だらけでした。
豊島(てしま)行きの連絡船(手前は岡山県警察の巡視艇)
豊島の家浦港に午前9時に着くと、さっそく豊島に1台しかないタクシーで産業廃棄物不法投棄現場を視察しました。タクシーの運転手さんに「午後から美術館巡りをしたいので、タクシーの予約は出来ますか。」、と聞きましたら、「午後は予約が入っており対応できません。レンタサイクルで巡ってください。」というツレナイ返事でした。しかたなく、簡単に視察を終えて、足早にレンタサイクルショップへ行きました。そこにはまだレンタルの自転車が10台ほどあり、ほっとしました。お店の人は簡単に自転車の使用方法と、『心臓音のアーカイブ』まで45分、帰りに『豊島美術館』まで15分、そして『豊島横尾館』まで35分ですという説明に、不安な心を抱きつつも、いずれにしても頑張ると心に決めました。何せこの様な長距離自転車運転は高校生、大学生以来のことです。荷物はできるだけ軽くするため預けました。いざ、出発~。
心も軽く、レンタサイクルで豊島一周
(1日乗り放題で1,000円 アシスト自転車です)
自転車で出発すると、いきなり登り坂です。アシスト自転車といえどもお尻を上げてヨイショ・ヨイショとペダルを漕ぎます。足に力を、そして腕にも力を込めて峠まで到着しました。すると、前方に棚田、豊島美術館のオワンを伏せた型の建物が見えます。今度はブレーキをコントロールして時速40キロメートル以上と思われるスピードで下ります。集落を抜けてしばらく行くと『心臓音のアーカイブに』到着しました。

心臓音のアーカイブの内部(真っ暗な部屋)
(絵葉書よりコピー)
そこには、受付の女性が一人ポツンと居ます。私以外お客はいません。入場料を払い、ちょっとした説明を受け、左側の扉を入るとそこは真っ暗な部屋で真ん中に裸電球が点滅しています。低音の心臓音に合わせて、灯ったり点いたりしています。(すみません。灯ったり消えたりです。)低音は体に響き、本当に心臓の音が迫って来るようでした。これも芸術かと思いながらしばらくその部屋で佇んでいましたが、あまりの低音で、私の心拍数に近い周波数で、「ドドッ、ドドッ」と響くので、私の体の下の方から、「ぷっ。」と短く出てしまいました。次に入ってくる人に申し訳なく思いながら心臓音のアーカイブの部屋を出ました。受付の女性が「ありがとうございました。」といいましたので、「どういたしまして。」と返事をして退散しました。
冷や汗をかきながら、再びアシスト自転車に乗り豊島美術館を目指します。途中、バスケットボールのゴールがいっぱい並んだ『勝者はいないマルチバスケット』(野外展示物)を見学し、置いてあったボールでゴールを目指して投げたのですが、ゴールが6つもあるのに一つも入りませんでした。やはり『勝者はいない』でした。
勝者はいないマルチバスケット(豊島にて)
再び、アシスト自転車で坂を上り、豊島美術館を目指します。棚田を見ながらヨイショ・ヨイショとペダルをこぎ、やっとの思いで豊島美術館に付きました。この美術館はちょっと変わった美術館です。入場料を払う受付の建物があり、そこから両際に雑草が生え、ゆるく右にカーブした小道を進むと、アートスペースという所に付きました。そこでは靴を脱ぎ、ビニールの靴下をはくのです。そして中に入ると何もありません.真っ白なドーム(ドームは直径100mの球体の上部をナイフで薄く切ったような、低い天井の円型の建物です。)の中に人々が静かに立っていたり、しゃがんでいるのです。絵もありません、彫刻もありません。ただのスペースです。天井は2か所、大きく穴が開いており、そこから清々しい風が入り、青空、遠くの山並みが見えるだけです。何だこれはと思ってはいけないのです。生と死を体験する場だそうです。しんみりとした雰囲気の中、話し声は聞こえません。10人ほどの人々は様々な方向を向いて静かにたたずんでいるのです。これも芸術かと思いながら私もしばらくそのスペースに佇んでいました。結局、心臓のアーカイブといい豊島美術館のアートスペースといい、私にはよくわからない世界でした。
再び、再びアシスト自転車に乗り家浦港目指して帰りました。途中、豊島横尾館を訪ねました。この美術館は旧家を改造したもので、庭石は赤くペンキで塗ってあり、滝は黄金色に塗り込められています。中に入ると床はガラス張りで庭の池が床の下を這っているのです。トイレも上下・左右・前後ともステンレスのピカピカ鏡、納屋では天井と床がピカピカの2枚のステンレスで、天井は高く宇宙へとつながり、下は奈落の底までつながっているようです。足を踏み込むのが怖い感じです。変な感じです。
変わった体験をしながら、冷や汗をかきながら帰りの船に乗り込みました。
帰りのフェリー(豊島家浦港にて)
芸術とは、四角い額縁の中でなく、周囲全体が芸術で、音響もあり、光もありです。新しい芸術です。『瀬戸内国際芸術祭(瀬戸内トリエンナーレ)』のオープン2日前でしたが様々な作品との出会いがあり、新たな気持ちになって帰りました。豊島の家浦港を離れる時に港に向かって「トリエンナーレ開催中には、必ず来るからなぁ~。待ってろよ~。」と再び口ずさんだのです。
しかし、数日後、胸のあたりが痛くて、痛くてたまりません。芸術に感激したのではないはずですが・・・。自転車のせいとすれば、足が痛いはずですが、胸です。ペダルをキックするとき相当な腕の力の助けをもらっていたのでしょうか、いずれにしましても、全治1週間の筋肉痛でした。
追加説明:足が痛くない理由は、孫と一緒に毎週遊園地へ行き『サイクルモノレール』に乗り、私がペダルを漕いでいたことによるものと思われます。この結果、相当に足が鍛えられていたと考えられます。
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<その1> 冬の直島漫遊記
瀬戸内海には、直島(なおしま)という有名な美術館のある島があります。皆さん、もうご存知かもしれませんが、島全体が美術館のようでして、一度は行きたいと思っていました。ちょうど1月15日に北九州で仕事がありまして、その帰りに寄ることとしました。
その帰りですが、博多を午前7時の新幹線に乗り岡山駅に降り立ち、JRローカル列車2両編成の児島行きに乗って途中、茶屋町という駅で乗り換え宇野まで行きました。ローカル列車内には多分美術館へ行くと思われる女子大生の様な人が10~15人ほど乗っています。シメシメ、うまくいけば一緒に美術館巡りが・・・、と思い、気もそぞろです。宇野駅構内の観光案内所で直島の観光案内を聞き、パンフレットをもらいました。60歳ほどの叔母さんでした
宇高連絡船フェリーの自動車乗り入れ口
が明るくていい不雰囲気です。彼女いわく「1日では到底全ての美術館は回れませんよ。」というのですが、とにかく島へ渡ってみようという事にしました。宇野駅から200mほど歩き、宇野港から宇高連絡船に乗り、直島まで20分の船旅です。なんだか先ほどの女学生はいません。乗船客も少ない状況で嫌な感じがしました。まあ、1月の寒い時期だからでしょうと思い、まあいいや、女学生なんて居なくても、とのんびり船窓から瀬戸内海を見ていました。
そして、直島の宮之浦港へ着岸しフェリーを降りたところ、港の切符売り場のお姉さんから、「今日は全館休館です。」という説明がありました。
安藤忠雄設計の地中美術館入り口にて
壁のペンキ塗り、庭の樹木の剪定、芝の手入れなど全ての修復・修繕をこの時期に『メンテナンス休館』として一斉に実施するのだそうです。その他は1年中無休だそうです。
なんだこれは、と思ってもあとの祭り、とりあえず行ってみよう、と島内循環バスに乗りましたら、同じような60歳代のおじさんがバスの運転手さんに「どこか見るところはありませんか。」と聞いているのです。そして2人とも

草間彌生制作のカボチャの前で
終点まで行き、そこから歩いて美術館の屋外展示物を見ることにしました。その人は奈良に住んでいる人でして、私と同じくリタイア―人生を送っています。優しそうな、メガネをかけた知的な雰囲気、やややせ気味、つまり、私によく似ているところから好感が持てました。意気投合して、靴音高く、いや軽く、手はつながなかったのですが、3時間余りの屋外展示物鑑賞をしながらの楽しいハイキングでした。
叔父さんと別れたあと、直島から再びフェリーに乗って宇野港へ、その足で宇野駅の観光案内所に立ち寄り「全館休館でしたよ。」といったら、「あらまぁ~、知らなかったわ。勤務は12月末以来でしたので申し訳ありません。」と恐縮して何度も何度も頭を下げていました。つまり、この人はパートのおばさんで、情報不足の結果でした。あまりにも恐縮しているので、しかたなく、観光案内所で売っている土産物のうち、廃線となった玉野市電(チンチン電車)のレールを輪切りにした『文鎮』を買ってあげました。パートの叔母さんの顔

レールの輪切り文鎮、1000円でしたが、重かった。
がたちまちニコニコと明るくなりました。しかし、帰りの荷物の重いことには辟易しました。情に流されるとロクなことはありません、でした。
つまり、『せっかく、新幹線、ローカル列車、フェリーと乗り継ぎ、寒い中、やっとの思いで来たのに、美術館は閉館。そして帰りは重い荷物と悪戦苦闘・・・。』ということでした。
以上。
<その2>老いては子に従え 春画展
11月の終わりに、東京で環境に関する講演をすることになりました。せっかく東京へ行くので、息子に会う、いや、可愛い孫に会うため前日から東京に入りました。夜は孫と息子夫婦で食事会。もちろん、御代は私が払います。
(食事会の場で)
私:「明日の講演は午後2時からだけど、午前中、どこか素晴らしい美術館はないかねぇ、イベントでもいいんだが・・・。」
息子:「今、永青文庫で『春画展』を開催しているから観るといいよ。」
私:「えっ。ロンドンで初めて開催されたということは新聞で読んだことはあるが・・・、東京で開催されているのか・・・。(感無量の様子)」
息子:「そうだよ。日本でも東京だけで開催するようで、巡回はしないという事だよ。僕も観てきた。よかったよ。」
息子に春画展を見なさいと言われるとは思いませんでした。親の権威も台無し、でも興味もあるし、息子の手前、『すぐ行く。』とは言いにくいし・・・、と少し考えた振りをして、「じゃあ、行ってみるか。」と生返事の雰囲気をかもし出してしっかり返事をしました。つまり、この場合、『老いては子に従え』という諺に救われた思いがしたのでした。
(翌日:春画展を観に行った日)
朝、早くから目が覚めてしまいました。開館の少し前に到着すればよいと考え、逆算してビジネスホテルを出て、山手線目白駅で降り、学習院大学を右に見て20分ほど歩くと、例の永青文庫がありました。予定通りオープン10分前に付きました。すると、すでに大勢の人が並んでいます。大変な賑わいです。会場の中は満員で、気の弱い私は後ろの方から背伸びして観ました。前の方には、4~5人のおばさん連中や2~3人の女子学生の連中が、ペチャクチャとおしゃべりをして観賞しています。なかなか次の展示物へ移動しようとしません。女性はグループで観賞に来ているのですが、一方、男どもは一人で来ているケースが多く、むっつりして観賞しています。(私もその一人ですが・・・)
春画展で購入したカタログ(写真集です)
こんな情景で、ついつい春画のそこばっかり気になるのですが、金粉の屏風に描かれているもの、背景が四季の花々で飾られているものなど見ごたえがあり、アートとして十分に味わうことが出来たのでした。結局、シッカリ2時間をかけて観ました。息子に感謝。
春画というものにすっかり虜にされてしまい、その後、『春画を旅する』という本を買って勉強しました。まず平安時代から始まった春画は、高貴なお人の占有的な所持品で、肉筆画です。絵の中の男子は烏帽子(えぼし)をかぶり、女子は十二単(じゅうにひとえ)の姿です。
戦国時代になると、大名の御姫様の嫁入り道具の一つとなります。また、武将の兜をしまう箱の底に春画を入れておくと勝ち戦になるなど縁起を担ぐものとなり、やはり権力者のものでした。しかし、江戸時代になると、浮世絵が世に出て、春画も大量印刷の技術に乗り一般庶民のものとなります。有名な浮世絵師も盛んに春画を書いていて、江戸の文化となりました。つまり、春画を知らずに江戸文化を語れないという事です。その頃から、春画にまつわる『川柳』も出来ました。その一例は以下の通りです。
◎ バカ夫婦 春画をまねて 手をくじき
◎ 無理をして 春画をまねて 筋ちがえ
春画を旅する(山本ゆかり著)
この様に、みんなが身近に感じる文化となったのです。しかし、江戸時代が終わり、明治の世の中になると、外国人にこんなものを見せては日本の恥という事で、明治政府は、春画の禁止令を出したのです。そして、春画は地下深く眠ることになったのです。
そして今、この春画が再評価されているのです。 以上。
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1 はじめに
トンチンカン先生はすでに60代の後半に差し掛かっています。この先、どの様な生活をしていくか、思案のしどころです。
年(とし)、どしに我が悲しみの深くして、いよよ華やぐ、命なりけり
と、かの有名な岡本かの子先生(芸術家岡本太郎さんの母)が老妓抄(ろうぎしょう)の最後の部分で申しておりました。私も、いよよ華やぎたいと奮励努力をしていますが、男はつらいよの寅さんのように、高望みが過ぎて失敗の連続です。
そこで、私の生きがいの一つである孫についてお話をします。こんなにも孫に力と愛情を注ぎこんでよいものかと思ってしまうのですが、『子育ての失敗を孫で取り戻す。』を、大目標に日夜、子育て、いや、孫育てをしているのです。今回はトンチンカン先生の孫との付き合いの失敗談、照れ隠し談、『マゴマゴ物語』を紹介します。
2 孫とお嫁さんの優しい会話
私はしばしば、孫とお嫁さんを車に乗せて水族館やさかな広場、JRの沿線で貨物列車や電車を見ます(1時間ほども)。そして、安城の堀内公園でこども汽車に乗り、滑り台を滑り、ブランコに乗り、芝生の丘を駆け登り、池で亀や鯉に餌をやります。つまり、子供には、何でも体験をさせなければなりません。環境が子供を育てるのです。
環境が子供を育てるとは、より良い環境で子供を育てることです。子供にとって非常に重要なことなのです、という意味なのです。昔、自分の子供を育てるために孟子の母は3度住まいを変わったのです(孟母三遷の教え)。これを息子のお嫁さんに教えています。子供には様々な経験をさせ、子供の質問には正直に何でも答え、そして、手を抜かないことを・・・・。まさに、環境が人を造るのであります。
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【孟母三遷の教え(もうぼさんせんのおしえ)】
〔「列女伝」から。孟子の母が,はじめ墓所の近くに住んでいたところ,孟子が葬式のまねをして遊ぶので市中に引っ越した。今度は商売のまね(ちんどん屋さんのまね、と中学生の時、先生から教えられた)をするので学校のそばに引っ越した。すると礼儀作法をまねたのでそこに居を定めたという故事〕
教育には環境からの感化が大きいという教え。三遷の教え。
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その夜は、家庭料理を家族全員で作りました。息子のお嫁さんは、私の家の台所でよく働きます。そして食器洗いも上手です。しかし、孫がまつわり付いて思うように台所仕事ができません。お嫁さんは孫と話をしながら、両手は洗いものをしています。私は、その日の昼に孫を堀内公園へ連れて行きましたので疲れてしまい、居間でテレビを見ながらウトウトしています。実際は、寝たふりをして聞き耳を立てているのです。お嫁さんは、実によく子供と会話している。どこでも連れて行き、なんでもこたえている。まさに『孟母三遷の教え』、よく、やっている。まずまず良い環境になっている。3歳になった孫は将来有望ではないかと私一人で満足しています。
その時です、お嫁さんと孫が台所で何か対話をしています。
孫:「これ、なあに?」
嫁:「じじぃの『入れ歯』。」と、間髪入れず、すぐ回答しました。(私は、「孟母三遷の教えが行き届いている。」 と一瞬思った。)
孫:「へぇ・・・、『入れ歯』ってなあに?」
嫁:「じじぃに聞いておいで。」と、私に答を振るのです。(この部分はいけない対応だ、問題を正面からとらえて答えていない。孟母三遷の教えではない。ちょっと嫁に苦言を奏しなければ・・・。)
そんなことより、入れ歯を台所の流しにコップに水を入れて、置いたままだった自分に気が付き、しまったと思いましたが、後の祭り。
孫:「じじぃ、『入れ歯』ってなあに?」
そこで、じじぃは説明するより、実演する方が3歳の子供には理解が速いのではと考え、台所から、私の入れ歯を持ってきて、「たか君、これはねぇ。この様に使うのだよ。」と言い、入れ歯をはめるところを、孫の顔から15センチの至近距離で演じました。
孫:「じじぃ、すご~い。」
これで、この対話は終了しました。環境が子供を育てる行為(入れ歯をはめる)をしたことにより、孫はしっかり理解したと思います。嫁は、何ごとが起こったのか瞬時に理解できない状況でした。じじぃがあまりにも想定外の行動をしたからなのでしょう。
それにしても、入れ歯の置き場所を忘れてしまうなんて『認知症直前』です。昔のことはよく覚えているが、ちょっと前のことはすっかり忘れてしまうのです。
3 『良薬は口に苦しの巻』(薬の効用は如何か)
60歳を超えると、特に65歳を超えると様々な持病と向き合うことになります。私は毎日大量の薬を飲むことになってしまいました。以下説明します。
①痛風(32歳の発病から、ずーっと毎日2錠、ザイロリックという薬を飲んでいます)②軽い高血圧(7年前から軽い高血圧症の薬2種類を1錠づつを飲んでいます。これは、私の母方の遺伝でしょうか、叔母さん、叔父さんとも脳溢血、クモ膜下出血で亡くなっています)、
③左足ひざ内側のしびれ(脊髄の下から3番目の骨が左足へ伸びる神経を圧迫し
ている。原因は加齢ですと医者は簡単に言いました。そして、治りませんとも言いました。)
④最後に、美と健康の妙薬であるプロポリス顆粒剤を一袋、そしてビタミン剤1錠
その結果、朝は10種類の薬を飲む毎日です。毎週土曜日から息子一家が泊りにやってきます。そして、私が薬を飲む様子に関心を持った孫がやって来て、

写真―1 毎日、これだけの薬を食後に飲みます。
薬は、孫が私の口の中に入れます
孫:「じじぃ、これなあに?」
私:「薬と言って、大人になったら飲むものだよ。」
孫:「僕がやる(口の中に入れてやる)。」
というのです。仕方なしに、1錠ずつ孫に手渡しし、私が大きく口を開けて、薬を入れてもらうのです。入れた薬は、すぐさま舌の下へ隠し、次の薬を入れてもらいます。錠剤を全て口に入れ終わると、
私:「たか君、薬はどこへ行ったのでしょう。」
孫:「もう飲んだ(飲み込んだ)でしょう?」と言います。
私:「ほんとかな?」
そう言うと、私は、おもむろに、舌の下に隠した錠剤9つ全てを舌の上に戻し、大きく口を開けます。そして、孫に口の中を見せます。
私:「どーだ。」
孫:「じじぃ、すご~い。」
バカなことをやっている、「じじぃと孫」でした。それにしても、現代の薬は『良薬は口に苦し』ではなく、『良薬は孫と会話できる』でした。
3 『パンダとコアラ 珍獣の巻』(思い込みの激しさ、照れ隠し。)
孫は、外出から帰ると必ず手を洗う習慣を身に付けています。これは幼稚園で毎日行われる手洗いの習慣付け(訓練)の賜物です。自宅へ帰っても、坂部環境技術事務所へ来ても、私の西尾の家に来ても必ず手を洗います。しかも、石鹸で洗うのです。
ある日、家族全員で坂部環境技術事務所へ来ました。息子夫婦は2人で事務所のパソコンのちょっとした修繕を行うことになりました。その間、私は孫のお守りをすることになったのです。
事務所の前では様々な野菜が育っていて、孫には絶好の遊び場です。孫は、私の家庭菜園を手伝うといって野菜の葉を千切り、まだ大きくなってないピーマンを収穫してしまい、そして、最後に土を触り始めました。ダンゴ虫を集め、コオロギを捕まえるのです。その結果、手は土で汚れ、石鹸で手を洗うことになりましたが、孫はダンゴ虫に夢中で手を洗うどころではない様子です。
事務所の手洗いには、孫用のためにと『コアラの形をした固型石鹸』が洗面台の右隅に置いてあります。いつまで経っても、手を洗いに来ないので、ついに、私はじじぃの威厳を持って叫んでしまいました。
私:「早く、パンダの石鹸で手を洗いなさい。それでないと家に入れないよ。」
孫が、その叫びに、へぇ~、と顔だけで振り返り、のっそりと立ち上がりました。反応が遅いなぁ~。早く来ないかとやや、イライラ気味の私に向かって、私をなだめるような優しい声でいうのです。
孫:「じじぃ。パンダじゃないよ、コアラだよ。」
3歳の孫に間違いを指摘され、それも、なだめるような、さとすような優しい声で言うのでした。
私はその状況に大いにあわてるじじぃでした。『珍獣、イコール、パンダ』という脳細胞の神経伝達系が単純系として確立されていて、融通が利かない『認知症直前』症状に、がっくり。3歳になったばかりの孫からの強烈な、そして優しいイントネーションで指摘を受け、全く照れ隠しで赤面するばかりでした。
写真―2 トレイにのった『コアラの形をした固型石鹸』
(かなり使いこなし、顔が消えている)
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中国への旅は、環境技術指導という仕事の旅でした。しかし、仕事の旅でも、一応、予備日というものがあり、その日は1日中観光をして楽しみます。それでは最近出張しました中国旅行のお話しをします。
セントレアから旅立ってものの2時間と少しで上海の浦東(プートン)空港へ降り立ちます。空港はやや薄暗いという印象です。しかし大勢の人たちでごった返し活気がありました。その後、例の中国新幹線で南京へ移動します。空港から上海中心部までは渋滞、その後はそれほどでもない渋滞で上海の新幹線駅『虹橋駅』に着きました。上海の郊外に国内線用と思われる空港と隣接して設置されています。それから約2時間の旅で南京につきました。南京の中心部には玄武湖という大きな湖があり、その下を自動車専用トンネルが掘られており、ひっきりなしに自動車が貫通しています。やることが大きい。さすが中国と思いました。
写真―1 空気が汚れているので日中でも薄暗い上海の中心部
その日の歓迎会は有名なバイチュウというアルコール分47度のお酒と上海料理です。ツアーでないので本当の上海料理でして、味は日本人に合わせていなく、非常に辛い、砂糖がいっぱい使ってある様子、醤油の色が濃いなど、日本で食べる中華料理とたいへんな違いです。食材は日本とよく似ていますが料理の仕方、盛り付けの方法が全く違うのです。例えば、ニワトリの頭を真正面から左右2つに切ったものが左右対称に鏡で写したように真っ白な皿の上に載っている料理が出てきました(眼は薄目を開けていました)。載っているのはこれだけのみです。私は驚きのあまりニワトリの目と合ってしまい、かなり怖かったのでした。(怖いので写真は省略します。)
次に運ばれてきた料理は直径20センチメートルほどのナベが運ばれてきました、例の回転テーブルの上に載せられました。蓋を外したのち、順に時計回りに回しながら、みんなが箸で中のものを少しずつ取り出して食べます。何か鶏のから揚げかなと思っていましたが、なんとニワトリの足(足首から先の部分)が『あんかけ風から揚げ』になっている料理です。肉もほとんどついてなく4本ある指の部分が足首の部分から切られている『あんかけ風から揚げ』です。何だこれと思いながら箸で1つナベから取り出しました。隣にいる中国人が「これは美味しいです。宮廷では鳥の足をこの様に食べます。ニワトリの体の部分は捨てます。人民に分け与えることもあります。」と説明していただきました。へ~っ。鳥の胸肉、もも肉の方がよっぽど美味しいのに、この部分を捨てちゃうなんて信じられない、と思いながら、足を口に運ぶ(ニワトリの足のあんかけ風から揚げを私の口に運ぶ)と、これが意外や意外、想定外に、かなり美味しいのでした。足の裏側、鳥が立っている時に土と接触する部分は『肉球』という部分(犬や猫などは丸い球体になっている部分)でして、コリコリとした食感、味も良く浸みていて美味しかったのです。私は、再びターンテーブルを回し、ナベから左の足を2つ取り出し、コリコリ、ムシャムシャと美味しく食べました。
ちなみに、以前、中国大連の繁華街で中国料理のレストランへ入った時のことです。何気なく写した写真の中に、食堂入口に陳列してある食品サンプルを写した写真がありました。その値段は48元(現在、1元は10円として、480円)で、ニワトリ一匹の38元より、足の方が10元ほど高価でした。
写真―2 ニワトリは左の本体(手前が顔部分)より右の足首の方が10元高価です。
次に運ばれてきた料理は、木製の料理台(花台の様なもの)に豚の右側の顔半分が横になり寝ているように載っています。むろん、産毛がない、ヒゲもなく、ほとんど白骨化したもので、相当大きなブタです。その顔の上に載っている肉片を箸で一枚ずつ取り、食べる料理です。硬さや歯触りはチャーシュー(煮豚)のようですが、やや白っぽく塩味が基本のものでした。食べていると徐々にブーチャンの歯が見えるところまで来ました。「ウヘッ~。もうこれ以上食べられない。しかし冷静に大皿にのっかっているブーチャンの歯を見ると虫歯は1本もなくきれいな歯でした。変なところに感心している自分にはっと気が付き、場違いな空想をしてしまったと下を向いてしまいました。
写真―3 歯の部分が見える豚肉の料理、右下はニワトリの足料理
この様な訳でして、南京では酔っていなければ箸が進まない料理ばかりでした。翌日は南京で企業の人への相談・指導を行いましたが、中国人は「お金が一億元と20ヘクタールの土地があるが何か環境に関する良い(もうかる)仕事はないか。」というような雲をつかむような相談が多く、大変な相談時間でした。それにしても、漢民族は華僑といって海外へ進出するだけあって『なかなかやるなぁ~・・・。』と思いました。相談は水質汚濁防止から、廃棄物リサイクル、土壌汚染まで多義にわたっていました。その日も上海料理でした。
翌日は、列車で南京から徐州へ行きました。300Kmを2時間30分の旅です。南京を出発して10分もしないうちに、長江(旧名:揚子江)を渡ります。水面から50m以上の高さもある鉄橋を10両連結以上の長い列車が通過するのです。眼下に長江を航行する大型船を目にして、あまりにも大きな船舶の航行に感激しました。長江の河口からおおよそ700Km(蛇行しているので東京・大阪間程の距離)も上流で大型船が行き来しているのです。(写真を撮ったのですが、空気が汚れており、大きな船がボヤケてしまいました。)
長江を渡ると景色は一変します。今まで水田が続く南の国の様子でしたが、今度は、内陸部特有の小麦畑が続きます。春小麦の畑でして、芽を吹いたコムギが地平線まで緑のストライプ模様のようにズーッと続きます。一方、車窓からは川の中州で牛を洗っている老人とその横に孫と子牛が遊んでいる光景が飛び込んできます。またしばらく進むと集落の小さな広場なのでしょうか、道端でしょうか、昼間からたむろしている大人たち(男性)が何やら小さな木箱(机として用いている様子)を取り囲んでいる光景も車窓へ飛び込んできました。トランプまたは花札をやっているのかなと思いました。この様に内陸部へ行くと上海とは全く違った光景が見られました。
写真―4 南京駅で徐州行き列車を待つ人々
途中で、長州発北京行きの急行列車と駅ですれ違いました。2日ほどかけて北京までゆくのだそうです。窓の手すりには、ペットボトルや食べ物がいっぱい置いてあり、満員列車でした。中国人は力強い、ハングリー精神が旺盛などの形容詞がよく似合っていると思いました。
徐州は「麦と兵隊」という軍歌をよく父がお酒に酔うと仲間と歌っていましたので、徐州駅に降り立ったときは感激しました。「徐州 徐州と人馬は進む、徐州居良いか、住みよいか しゃれた文句に 振り替えりゃ、お国なまりのおけさ節、髭がほほ笑む 麦畑」と我ながらついつい口ずさみ、日本の兵隊はここまで歩いて来たのかと感無量でした。隊長、歩兵など上下の隔たりなく同士が心を一つにする(隊長のひげがほほ笑む)光景が、徐州駅と車窓から見た麦畑などと重なりました。
ところで、徐州駅は、人がいっぱいでした。切符を手に入れるため、駅前広場に並んで座っているのです。その列の長さ100mほど、その数、何百人、右を見ても、左を見ても、私の視界の中には必ず150人以上の中国人がいる(目に入る)という状態でした。服装も人民服のようなほこりっぽいような服装で、何日もお風呂に入っていないような感じの人びとばかりでした。本当に日本では見られない光景でした。しかし、ビジネス関係の人でしょうか、きれいにしている人もいましたが、それほど多くはいませんでした。

写真―5 徐州駅の正面(空気が汚れているため、霞んで見える)
思えば遠くまで来たもんだ、という歌のセリフ通り、身体は骨の芯までクタクタ、ニワトリや豚の顔を思い出し精神もクタクタ、それ以上に胃は重く大変でした。
その後上海へ帰り、上海の森ビル(100階建てで、当時は世界一高いビルという事でした)に昇ったり、女房へのおみやげを買ったりして、予備日の1日を観光気分で過ごしました。
とまあ、大変な中でも楽しく、得難い経験の旅をしてきましたが、寄る年並みには勝てず、ついに、帰国後はちょっと上海料理とバイチュウで胃腸の調子が悪くなり、病院へ行きました。ニワトリと豚の顔にうなされた訳ではありませんが、ちょっとひどい状況で、点滴注射のため、1週間ほど病院へ通いました。
その後、中国からは、ビジネスチャンスがあるので再度来てほしいという日本の進出企業からの様々なメールが来ておりますが、上海料理には勝てず、バイチュウには、ナオサラ勝てず、今度こそ、ニワトリと豚の顔にうなされると思い、今のところ、渡航を渋っている状況です。
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♪♪♪♪秘密蔵書の紹介♪♪♪♪(第2回目)
前回お話ししました『第5話 トンチンカン先生の秘密蔵書』のお話は好評でした。特に宗教本の中の25年前の我が家の記念写真、『桃太郎神社への参拝』(犬が一番、りりしく、しっかりしている。)が非常に好評でした。そこで、さらにそれらしい本を求めて、本屋さんをウロウロし、また、インターネットの「ショッピング―CD DVD 本」の部分に目を凝らし、毎週日曜日の新聞読書欄を見て、足掛け2年。とうとう、何冊かの珍本を購入することができました。それでは、この2年間の成果をご披露いたしましょう。
なお、私の立ち位置から見て『珍本』でして、一般の読者からは決して珍本ではないと思いますので、誤解のないようにお願い致します。
<その4:なんだこりゃ日本語辞典?>
小学館の「日本語オノマトペ辞典」(小学館 6,300円)
「オノマトペ」とはなんだろうと思いました。オノマトペ(仏:onomatopee)とは、擬声語を意味するフランス語です。物事の声や音・様子・動作・感情などを簡略的に表し、情景をより感情的に表現させることの出来る手段として用いられており、我々の生活は数限りないオノマトペを利用することによって成り立っています、と解説にありました。
特に日本語はオノマトペの種類が多く(この辞典では4,500語を収録)、その重要性は高いと言われております。また、同じ形態素 (特に2音節のもの) を繰り返す、スヤスヤ、チョイチョイ、ボツボツ、スヤスヤなどの「畳語」オノマトペが多いのも特徴的であります。擬声語とは、擬音語と擬態語の総称のことなのです。

写真1 オノマトペ辞典の箱と開いた状態のオノマトペ辞典
中を覗いてみると、なかなかなものです。4,500語と余りにも多いので、アイウエオ、カキクケコの中から、面白いものを10例挙げます。

表―1 オノマトペの例示(あ行とか行のみ記載しました)
いずれに致しましても、面白い表現があるものだと思い感心しました。それにしても、衝動買いでもあるまいに、4,500円と思い込んで、レジで6,300円と言われ、びっくり、実は4,500語を収録したというところを、4,500円と読んでしまった、慌て者だったのです。それにしても、どうしてこんな本を、6,300円も出して買ってしまったのか、大いに反省しています。そしてこの本の重いこと、紙質も厚く、本屋さんから自宅までの持ち運びに苦労しました。
現在は、我が本棚の真ん中に鎮座しているにもかかわらず、本を開く機会がごくごく少ない状態です。しかし、一度、このオノマトペ辞典を開くと、面白さに、ついつい、ニコニコして時間の経つのも忘れてしまうのです。
<その5:なんだこりゃ昭和の写真集?>
農文協の「昭和の暮らしで写真回想法①」(農文協 3,200円)
1 表紙を見て、中をチラッと見て、衝動買い
大きな本屋さんで、「昭和の暮らし」、「写真集」というキーワードを見てすぐ手に取りました。それは『子どもと暮らし』というタイトルで、昭和時代の子供の情景が生き生きと表現されたモノトーンの写真集です。表紙を見ますと、家庭での散髪風景、私も子供の頃は家で散髪をしたものです。あまり切れ味のよくない『バリカン』で母が頭を刈るのです。「いてて、いてて。」と言ってわめいた記憶があります。下の写真は紙芝居屋さんです。当時、私たちの街にも自転車の後方の荷台に紙芝居のセットと水あめを載せて紙芝居屋さんがやってきました。私の母は学校の先生でしたので、この様な紙芝居屋さんには一線を引いていたようでして、私に紙芝居屋さんの水あめを買うお金を絶対渡しませんでした。そのため、私は常に後ろの方で「ただ見」(料金を払うことなく紙芝居を見ること)ばかりしていました。

写真2 「昭和の暮らしで写真回想法」の表紙
2 本を開くと写真がいっぱい
本を開くと、懐かしい写真がいっぱいです。これは良い本を買ったと心もち、満足、満足とニタニタ(オノマトペ:声を立てないで、気味わるく笑い続けるさま)。
県営住宅でしょうか。同じような家が並んでいます(写真3)。その手前を妊婦さんとその子供、犬が散歩をしています。妊婦さんは運動しなければならないと言って、いつも以上にトイレの掃除をさせられた、という話も聞いたことがあります。私が住んでいた家から少し西に行くとこの様な県営住宅の様な家々が並んだところがありました。家の人々は洗濯物を干したり、子供をおぶって近所の子供、自分の子供、分け隔てなく遊びを教えていました。夕方になると、裸電球がつき、ご飯の支度をするお母さんの姿、夕飯のカレーライスの臭い、魚を焼く臭いなどが、ぷーんとしてきました。ラジオの前(テレビではありません)では、家に帰って寝そべって、新聞を読んでいるお父さんの姿が見られ、本当になつかしいものです。
写真3 県営住宅らしい前の堤防を散歩する妊婦さんと子供、犬。
次の写真(写真4)は、腕白小僧の姿です。なつかしい子供の遊び、はなたれ小僧の『また、勝っちゃったー。』と少し照れくさそうな勝ち誇った笑顔。手にはメンコをいっぱい抱えて勝負の後のご満悦。私は、メンコが上手ではありませんでした。いつも負けてばかりで家の押し入れにあった大量のメンコ(多分、兄が幼いころ集めたものらしいのです)を少しづつ使い、そして負ける度に、少しづつ無くしていきました。

写真4 はなたれ小僧のメンコ遊び
そして、庭で行水をしている写真5、この様な情景は子供の頃でも、見たことはありません。私の時代のもっと前ではないかと思います。私の子供の頃は、銭湯へ行く人が半分、家庭にお風呂がある人が半分という状況でした。私は父が家庭大工で作ったお風呂がありましたので、銭湯へは行かずに済みました。

写真5 庭での行水風景、鶏が放し飼いにされている。
3 あれれ! 写真の中に数字が・・・・・。
この様にじっくり見ていると、不思議なことに気づきました。写真の中に、何か数字が打ってあります。例えば、「写真5」の行水の写真ですと、お母さんには①、行水をしている子供には②、鶏には③と④、見ている子供には⑤とあるのです。これはいったい何の本だろうかと、1ページ目の『はじめに』を読んだところ、この本は写真回想法による治療を実践するために使用する本であることが分かりました。結論から言いますと、つまり、『認知症』になった人が、病気がより軽くなったり、場合によっては回復したりするよう、昔の写真を見せ、介護人とおしゃべりをする本でして、認知症患者に対する治療法の一つで、要するに、そのためにこの本が関係施設に販売され、活用されるのです。
こんな本、本屋さんの一般図書の棚に並べるなんて、間違って購入するではありませんか。実際、私自身、あわて者なのか、間違ったけど・・・・。読んでいるうちに、何だか私も認知症になってしまいそうな気持ちになってしまいました。やはり、衝動買い(あわて買い)は慎まなければならないことを改めて、確認しました。
4 補 足
先日のある日曜日に我が家でこの回想法の本を読みながら、静かに庭を眺めている時でした、遠くから、一字一句を読み上げるような、ゆっくりした声の西尾市の防災放送が聞こえてきました。
<放 送>
(ピンポン、パンポゥ~ン、という『音さ』による前奏の後に)
「西尾市広報よりお知らせします。(2~3秒、間をおいて) 西尾警察署からの行方不明者のお知らせを致します。(再び、2~3秒、間をおいて) 本日午前9時ごろ、〇〇町の73歳の男性が行方不明になっています。(再び、2~3秒、間をおいて) 行方不明者は丸がり、背は普通、やや痩せた体格です。(再び、2~3秒、間をおいて) 行方不明者は、白いTシャツにチェック模様のズボンをはいております。(再び、2~3秒、間をおいて) 心当たりの方は、西尾警察署までご連絡ください。」、 「繰り返し、西尾市広報よりお知らせします。(以下、同じなので、省略します)。」
2回ほど繰り返し放送されてから、「ピンポン、パンポゥ~ン」、と再び、『音さ』の音で終了しました。
ええっ。私の年齢とさして違わないではありませんか。そして、○○町も私の家から目と鼻の先です。私は、やはり、この回想法の本を買った意味が十分あると認識し、しっかり最後まで読むことと意を決し、元に戻って、1ページ目から一字一句、のがさず読み始めたのでありました。
<その6:なんだこりゃ江戸マンガ本?>
小学館の「江戸マンガ①芋地獄」(小学館 1,100円)
私は毎週日曜日の新聞読書欄を必ず読んでいます。文芸書や写真集など興味をそそる本の紹介がされています。7月のある日曜日に新聞読書欄を読んでいましたら、『江戸マンガ①』という本の紹介がありました。今度こそは衝動買いしてはならないと、しっかり記事を読みました。
『江戸マンガ①』は江戸から明治初期にかけて出版された絵入り娯楽本の草双紙のうち『黄表紙』と呼ばれた作品群を基に作られた本だそうです。全体がマンガ絵ですとの説明、監修者が外人のアダム・カバット氏という事で、外人から見た江戸の面白さを紹介するものです。これは面白そうと思い、やはり衝動買いをしてしまいました。

写真6 「江戸マンガ 芋地獄」の表紙
アダム・カバット(Adam Kabat)氏は、アメリカ人の日本文学研究者です。武蔵大学の正真正銘の大学教授でして、専門分野は近世・近代日本文学(幻想文学)、日本の妖怪だそうです。日本の文化を研究している人はドナルド・キーン氏、ロバート・キャンベル氏くらいしか知りませんでしたが、小泉八雲から始まった日本文化の研究は、現在、40人ほどの外国人が研究に没頭しているという事です。 日本文化の研究ではやはり、江戸時代の研究が面白く、特に、お化け、妖怪ものに人気があるようです。

写真7 芋地獄の内容(一部):芋を天秤バカリにかけて、
罪の重さを測っている所
この本の内容は吹き出しを新たに作ったり、古文的な表現を現代日本語風に直すなどきめ細かな配慮がされており、読み易くなっています。順に読んでいくと、なかなか面白く、何とも言えぬ滑稽さがあります。「ゆるさ」や「キモかわいさ」があり、日本文化の真骨頂ではないか、という解説がありました。この本は、江戸マンガ①ですので、この次の『江戸マンガ②』も、絶対、購入しようと決意しました。
<反省>
その1 やはり衝動買いは慎むべきと思いました。買って手に入るや、いきなり読み始め、面白いなぁ、と一度読んだだけで次の面白本に飛びついて行く状態です。一度だけの読書ではもったいない。何か使い道はあるか思案中のトンチンカン先生でした。
その2 読書の後、私の中で何か教養めいた言動があるかと思いきや、全くありません。教養としての読書感がないので読んだ気がしないのです。後味が良くありません。でも、読んでいる途中、笑っている瞬間はストレス解消という状態でしたので、『まぁいいか。』という事になりました。
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トンチンカン先生は、仕事で様々な国を訪れています。ツアーではありません。本当に仕事です。そのためか、変わった光景に出くわし、びっくりしたり、笑ったりしてしまいます。今回は各国の街を散策した時の面白看板などをご紹介します。一人で噴き出したり、一人でなるほど思ったり、こんなのアリィ~? と思ったりしながら一人旅をしています、これからも一人旅を続けます。
ご連絡が遅れましたが、女房は1年半前、すい臓がん、肝臓への転移で他界しました。
<その1 A-COOPではないですか?(ブータン編 その1)>
幸せの国ブータンは、観光で行くと、観光税がアメリカ・ドルで、1日1000ドル必要です。その代り、ホテルが指定、マイクロバスで観光地を周遊してくれます。従いまして、リックで頭がボサボサの無銭旅行者はまず間違いなく入国が出来ないのです。私は、我が豚児の勤務先がジャイカ・ブータン事務所でしたので、豚児の実の親という事で40ドルの入国税でブータンに入れました。そして、タクシーを使い、あるいは徒歩で既定の観光地以外の場所へも行けたのです。特にティンプーというブータンの首都(日本で言えば東京ですが、人口はわずか15万人です)を隅から隅まで散策することができました。
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参考:ブータンのタクシーは全て軽自動車です。そして、料金メータはありません、運転手さんのサジ加減で料金が決まるのです。
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写真―1 『B-COOP』の正面入り口
そしたら、写真ー1のような「B-COOP」という看板がありました。A-COOPの間違いではないでしょうか。とにかく変わっていましたのでシャッターをガシャ。
息子が住んでいるアパートに帰って、息子に詳しく聞きましたところ、ブータンの農業省が日本のA-COOPのにぎわいを見て、「この販売方法は大いによろしい、我が国もこの制度を取り入れるべきだ。」、という事でそのノウハウを取り入れたのですが、A-COOPではあまりにも同じだから、『 A 』でなく、『 B 』にしようと決めたようです。しかし、よくよく考えて、名前の『パクリ』はよろしくない、という事で、ABCの「B」ではなく、ブータン(BHUTAN)の「B」という事にしようとなったようです。
B-COOPの店内に入ると、レジはなく、商品は高原ハチミツ、ヤク(牛類)の乳から作ったビン入りチーズ、ビニールに約200gづつ入った豆類(ハナマメのような感じの豆でした)、牛乳(一応、冷蔵庫に入っています。)、卵(これは冷蔵庫に入っていません)、ハーブ茶など10種類程度で店員は女性2人男性1人の計3人です。このシステムはまだ始まったばかりのようですので、これから期待できそうです。

写真―2 高原ハチミツ(左)、ヤクのチーズ(右)、ハーブティ―(下)
何度撮影してもチーズの容器がゆがんで見えました。その原因は、
ラベルが斜めにのり付けされていたからです。でも、ヤクの姿は
まっすぐです。
私は、ハーブティー(サフラン入り)、高原ハチミツ、ヤク(牛の仲間)の乳から作ったチーズを買いました。チーズは非常に臭いがきつく、チーズ党の人しか食べられないものでした。しかし、私は無理して美味しく食べました。
どの商品も、不思議ですが、1個約120ニュルタム(1ニュルタムは1.6円程度)とほぼ同じ値段(日本円で約200円弱)でしたので、日本に比べたら特段に安いので、それぞれの商品を5個づつ買いました。
<その2 セブンイレブンではないですか?(ブータン編 その2)>
我が豚児の嫁さんが、「ヨーグルトとパンを買いに行きますので、一緒に行きますか。」
というので、お店をのぞくことが大好きな私です。二つ返事でOKしました。嫁さんは孫と二人で手をつなぎ、前を歩いています。私はカメラを首にぶら下げて、街の中の面白い光景、変わった光景を探すため、シャッターチャンスを逃がすまいと、キョロキョロしながら3歩~5歩ほど遅れて歩いて行きます。今日はなかなか良い光景がないなぁ~、と思いながら歩いていますが、なんせ、標高3000メートルのブータンのこと10分も歩くと、呼吸が苦しく、足は進まず、ハーハー、ゼーゼーとなります。決して歳のせいではありません。観光客は皆この様になるのです。
写真―3 『8-ELEVEN』の正面入り口
やっとの思いで、日用雑貨店とコンビニが合体したようなお店に到着です。看板を見たら、『なんだこれ?』となってしまいました。写真ー3を見てください。何と、『8ELEVEN(エイト・イレブン)』なのです。これは、完全に「パクリ」です。驚きました。中に入ると、雑貨、玩具、飲み物、乾物、お米、唐辛子の1Kg入りパック、飲料など様々な品物が所狭しと並んでいます。
写真―4 店内に所狭しと陳列されていた毒々しい飲料。飲む気が薄らいでしまいます。
嫁さんは、冷蔵庫の中を覗いています。牛乳、チーズ、ヨーグルトなどが入っています。やっぱり、卵は入っていません。B-COOPと同じように、古紙で作った卵ケース(1ケース20個入り)が7段ほど積んでありました。卵が割れないかなぁ~、腐らないかなぁ~、と心配してしまいました。

写真―5 ドラえもんのお菓子も売っていました。(著作権など関係ない様子)
<その3 「老婆を娶(めと)って嬉しいな!」って、マジ?>
中国の大連に行ったときです。私と女房が泊まるホテルでは、ちょうど結婚式が執り行われていました。ロビーでは、新婚さんの友人たちが次々に記念写真を撮り合っていました。この光景は日本と変わりません。私も女房も、気持ちが爽やかになり、いい雰囲気でした。私はこの光景を、真横から見るアングルで写真を撮りました。外に目をやると、やはり親友らしき人々が、今から出発する新婚旅行のための自動車を取り囲み、なにやら騒いでいました。「ちょっと見て来るわ。」と言い、女房は外へ出ていきました。そして帰ってくると、「ナンバープレートに何か貼ってあるわ、何かしら。」というのです。どれどれ、と言いながら見に行くと、写真―6のようにナンバープレートの上に漫画を描いたプレートがくくりつけられているではありませんか。道路交通法、道路運送車両法違反ではないでしょうかと思いましたが、ここは中国、そのようなことはないのではと思い直しました。
写真―6 新婚旅行のための自動車(正面より)
それにしても、なにが書いてあるのだろうと、近づいて、マジマシと見ますと、写真ー7のように新婚さんの間に漢字が書かれており、読んで見ると、「ええっ。」、『老婆』という漢字は読めます。『娶る(めとる)』という漢字も、何とか思い出し、思い出し、読めました。最後の右側が読めません。まさか、「老婆をめとって悲しいな。」ではあるまいに、と思いました。

写真ー7 ナンバーの上に張られたプレート(老婆をめとって嬉しいな)
翌日、親しい長期にわたって中国に在住している日本人の人に聞きましたら、「嬉しいという意味ですよ。」と教えていただき、さらに「老婆とは花嫁さんという意味ですよ。」とも教えていただきました。結局、「老婆をめとって悲しいな、ではなく、お嫁さんをもらってうれしいな。」という意味であることがわかりました。それにしても、老婆が花嫁さんとは、驚きと共に、噴き出してしまいました。外国では、日本の常識で判断してはいけないことがつくずくわかりました。
翌年、工場緑化の指導で、中国は広州へ出張しました。その帰り、空港でお土産を買おうとお店に入りましたところ、『老婆饅頭』と言うものがいっぱい並べられ、化粧の厚い若い女性店員がニコニコして、「お土産買ってください。どうぞ。」と日本語で客引きをしています(私が日本人だとよくわかったなぁ、と一応、感心)。「老婆饅頭なんて、マズそうな名前だなぁ~、どんなものだろう。」とブツブツ言いながらマジマジと見ていると、その時、大連の『老婆をめとって嬉しいな。』を思い出しました。花嫁さん饅頭だったのです。そして若い女性店員さんに「これ下さい。」と日本語で言い、あまりに愛想が良かったので、衝動的に5箱も買ってしまいました。
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参考:実は、4箱買うと、1箱おまけでした。この様な、おまけシステムはタイやシンガポール、中国など東南アジア地域ではよくあるシステムです。
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中身は、中国の結婚式にもよく出される月餅饅頭の様なものでした。いずれにしましても、甘く、美味しかった。やや厚化粧のニコニコと愛想の良い若い女性店員に勧められてよかった。
<その4 『大娘』って、お相撲さんの小錦みたい?>
中国の江蘇省へ環境技術支援として出張した時のことです。上海駅(虹橋駅)の待合室、蘇州の駅前、南京の街なかなど、いたる所に、「大娘・水餃子(オオムスメ・ミズギョウザ)」の看板がありました。写真ー8は上海の駅の中です。

写真―8 大娘・水餃子のお店の正面
お店の中に入ってみると、特段大きな餃子ではないし、みんな美味しそうに食べています。日本の餃子と色合い、形とも、そんなに違うものではありませんでした。私も食べようと思いましたが、なんせ、中国に到着したばかりで、1万円札しか持っていなく、毛沢東の肖像が印刷された「元」のお金は持っていませんでした。そのため、『大娘・水餃子』を食べることができませんでした。残念。
中国人の通訳の人に聞きましたら、「オオムスメとは、『田舎のお母さん』という意味ですよ。」そして、「全体を読むと、田舎のお母さんの味がする餃子という意味です。」という返事でした。なるほど、看板の中央、大娘と水餃子の間に、メガネをかけたお母さんの笑顔があります。なるほど、田舎のお母さんね、と感心しました。いずれにしても、大娘はびっくりでした。
<その5 番外編>
まだまだ、面白い看板、お店の様子、販売している品々があります。どうしても紹介したいものだけ5点を紹介してこのシリーズは終わります。
それでは、皆さん、ごきげんよう、さようなら。

写真―9 マッサージ店の看板(中国 上海にて)
なんとか、マッサージと読めるところが面白いですね。「ツ」も左に寄っており、
横書きの物を忠実に縦書きにしようとした心意気が伝わります。

写真―10 マクドナルドのお店(中国 南京にて)
マクドナルドを中国語で書くとこの様に「麦当労」となるのです。そのほか、「股券(またけん)」は宝くじ、「5折(5せつ)」は50%引きだそうです。なんとなく面白いですね。
写真―11 露店の風景(中国 蘇州の朝市)
買い物客の後方にある大きな麩の様なものは、「豚の表皮の天ぷらだそうです。何に使うかと聞きましたら、スープなど中国料理の「だし汁」を取るのだそうです。手前の棒状のものはパンの天ぷらです。

写真―12 露店の風景(タイのアユタヤ付近)
タイの気温は35度を超えています。この様な場所で「ナマ」のつくね、イカ団子、ボイルしたエビやイカを並べています。注文するとその場で焼いていただけます。私は当然ですが、食中毒が心配で食べませんでした。それにしても、右上にある「コカコーラ」は中身がボトルの肩までで、日本の様に首まで入っていませんでした。本物かしらと首をひねりました。
写真―13 海水浴場の風景(タイ ブーケット付近)
海水浴場で、浮き輪のレンタル。自動車のタイヤを再利用したものですが、全てに『ドラえもん』の顔がペンキで描かれていました。やはり、ここでも、著作権など関係ない様子。しばらく見ていましたが、どうも、あまりレンタルされていない様子でした。
トンチンカン先生、喜びのサイン・コサイン・タンジェントカーブ
―ベストティーチャー賞の受賞―
1 はじめに
私は毎年4月から7月までの前期に、大学で教鞭をとっています。その講義は文学部教育学科、工学部土木学科、工学部都市環境デザイン学科と受講する学生は多種多様です。講義時間は第1限の9時から始まるもの、お昼の1時から始まるもの(第3限)とあります。どこの大学の授業でも、9時からの授業では、欠席者及び遅刻者が多いのです。お昼からの授業では、血の巡りが頭から消化器官の方へシフトし、爆睡(ばくすい)する者が多いのです。でも、坂部先生は頑張って授業を行っています。
大同大学でのことです。私は環境政策論という、見るからに、聞くからに難しい授業を受け持っています。難しそうな授業ですので受講者数も10数人と少ないのですが、この様な授業に限って、ムラムラ・ムラと力(ちから)が入ります。ちなみに、逆に、100人レベルの授業の場合は講演をしているようで、双方向のコミュニケーションがないので、ともすると授業が上滑りしてしまうのです。
授業回数は4月の第2週から7月の最終の週までで15回です。そして、最後の授業では、学生による授業の評価をアンケートで受けるのです。アンケートは学生が記名するのでかなり信頼度の高いものです。そして、その内容は、①先生はこの授業に対して熱意を持ってやっていましたか(先生のやる気度)、②シラバス通りの授業でしたか(先生の計画性の有無)、③あなたは授業中いねむりをしましたか(つまり、先生の授業内容のつまらなさ度)、④先生の声の大きさや話し方はどうでしたか(先生の元気度)、⑤この事業は知的興味、関心を呼び起こしましたか(先生の知識の豊富さ度)、⑥板書、パワーポイントなどのプレゼンテーションはどうでしたか(先生の表現力度)、などで、それぞれの内容について5段階評価をするのです。この日ばかりは先生は冷や汗タラタラなのです。
2 嫌な予感
ある日、授業が終わって非常勤講師控室へ帰ると、教務職員の人と一瞬ですが目が合ってしまいました。私はちょっとお辞儀をして、すんなりすり抜けようとしたところ・・・・。
教務職員の人:「坂部先生、学科長が学科長室でお待ちです。すぐに行ってください。」
坂部先生:「はい、わかりました。」
「はい。」、と言ったものの、いつもの教務職員の人の言葉の抑揚が少し上ずっていることが鮮明にわかりました。『これは何かあるぞ。』と一瞬思い、頭の中で、思いがグルグル。何だろう、嫌な予感がするなぁ・・・。 思えば、非常勤講師は、愛知県を退職してから毎年、ズーッとやっており、思い起こせば、かれこれ5年もやっている。授業内容もワンパターンになりつつあるようだし、授業内容のリニューアル化もこのところ、ややサボり気味だし、いよいよ、年貢の納め時か、『男は引き際が大切だ。』などと思いを巡らせていると・・・・。
教務職員の人:「坂部先生、学科長室は3階です。」
もう、わかっているよと言いたげに、しぶしぶ、重い足で、ウツムキ加減、そして、いよいよ、学科長室のドアをノック、そしてドアを開けると、いきなり、例の学科長教授さんが私を見て・・・。
3 突然の受賞
学科長:「坂部先生、おめでとうございます。」
何言っているのだろう、この学科長教授先生。 私は今非常に落ち込んでいるのです。おめでとうなんてトンデモナイ。来年から授業ができない。若い学生から毎週、毎週『オーラ』をもらって、元気を出しているのに・・・・。来年からは『単なる、おじさん』になってしまう・・・。どうしよう、どうしよう・・・・。
学科長:「坂部先生に、ベストティーチャー賞を授与することになりました。本学のために本当にご尽力いただき有難うございます。」
坂部先生:「えっ、何でしょうか。」
それ、何? 私に? イグ・ノーベル賞※のような、イグ・ベスト・ティーチャー賞ではないだろうかと一瞬、疑い、そして、なんでぇ~、と思いました。そして生唾を、ごっくん。
学科長:「大同大学では、学科ごとに毎年度、素晴らしい講義を行っていただいた先生を1名、『ベストティ-チャー』として表彰する制度がありまして、本年度は坂部先生に決まりました。誠におめでとうございます。」
その後、徐々に現実に戻りつつ、恐れ多くもこのような賞をいただくなんて、申し訳ないという思いが募ってきたのです。
いずれにしても、賞をいただくことが理解できるまでの、おおよそ15分間は、私の気持ちは、ぐぐっと曇り、そして足取りも重く、目も焦点が合わないほど落ち込んでいました。それが、3階へ上り、ドアをノックした途端、なんだか知らないが、本当に賞を頂けるのかしらという過渡期的な心の動きを経て、うれしさに変わったのです。心が不安定なまま落ち込んでその後グ・グーッと晴れの心になりました。うれしさ2倍なのです。
その心の動きを時系列的にグラフで表すともっとよく理解できると思います。つまり、下の図ー1の様になります。縦軸にうれしさ(θ;シータ) 、横軸に時間(t)を取ります。一般的にはうれしさが+1(θ=+1)としますと、通常状態からうれしくなるとその差が+1-0=+1ですが、今回のように一度落ち込んで-1となり、その後スーツと明るくなり+1のこころになると、その差が+1-(-1)=+1+1=2、答θ=2という事になるのです。つまり、うれしさ2倍なのです。そしてその心は、結局、この様な曲線、サイン・カーブになるのです。

図―1 嬉しさのサイン・カーブ
学科長の説明では、このベストティーチャー賞の選考は、毎年度全ての授業をピックアップし、授業ごとに行う、学生による授業評価アンケートの結果を重点に、数人に絞り込みを行い、教授会で最終決定をするのだそうです。
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※ イグノーベル賞とは
イグノーベル賞 (イグノーベルしょう、英: Ig Nobel Prize) とは、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞です。1991年に創設されました。
「イグノーベル(Ig Nobel [ignoubél])」とは、ノーベル賞の創設者ノーベル
(Nobel [noubél] ) に、否定を表す接頭辞的にIgを加え、英語の形容詞 ignoble [ignóubl]「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」にかけた造語ということです。
日本人の受賞者の例として①医学賞、資生堂横浜研究所、『足の悪臭の原因となる化学物質の解明』に対して。②心理学賞、慶應義塾大学、『ピカソとモネの絵画を見分けられるようにハトを訓練し、成功したこと』に対して。③医学賞、帝京大学、『心臓移植をしたマウスにオペラの「椿姫」を聴かせたところ、モーツァルトなどの音楽を聴かせたマウスよりも拒絶反応が抑えられ生存期間が延びたという研究』に対して。④生物学賞、北里大学『パンダのふんから取り出した菌を使って生ごみの大幅な減量に成功した功績』に対してなど多数あります。
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4 受賞の秘密(私なりに考えたこと)
それにしてもなぜ私が・・・、と思いました。特に学生にゴマをすったわけでもありませんし、学生の成績に座布団を敷き、点数を良くしたわけでもないし、と思いつつ、私の授業内容と授業に対する学生の授業評価アンケート結果を見てびっくりしました。学生からの評価が比較的良いのです。
私の授業は、毎回、例のごとくパワーポイントを使用し、その映像は字数を少なくして、写真、グラフを多用しています。これは、私の前職である愛知県環境部から最新の環境情報を画像やグラフとしていただき、作成しています。そして、授業の最後の10分間を「今日の授業に関する小論文提出」として、毎回授業の中で『これだけは覚えてほしい項目』を小論文のテーマとして板書きに書き、次の授業(来週)までにこのレポート、つまり『小論文』を提出する宿題を出しています。
学生には、「小論文は、就職試験や採用試験に必ず出題されるものです。採用する側では、この小論文を読んで就職試験や採用試験の受験を認めるかどうかを決めるのです。つまり、どれほど知識や技能があっても入口の小論文でつまづいたらどうしようもないのです。すなわち、門前払いの道具としての小論文なのです。」
そして、「今日から15回の授業で、小論文の書き方を訓練しながら、環境のことを勉強していきます。小論文の原稿用紙は私の自家製のものです。コピーしたり、ダウンロードできません。自分の手で、受験していると思って書くのです。」と言いますと、学生はしっかり反応してくれるのです。
論文ですから『私の意見』がなければ良い点数はあげられません。並の意見でも低得点です。学生たちは奇抜なアイデアを持って論文を書くのです。(添削しながらじっくり読むと、本当に面白い意見があります。若いっていいなあと思います。)
この様に、環境に関する最新の情報を与え、小論文を書く力を養い自分の意見をしっかり言える訓練を行いました。この結果が『ベストティーチャー賞』なのかもしれません。

図―2 涙の出た、受賞記念品(何故か、賞状は有りませんでした。)
5 記念品の中身の使い方
記念品は『全国百貨店共通商品券』です。頂いたときはかなり厚さがあり、これは、もしかすると・・・・、と思いました。が、しかし、その内容は常識の範囲内と思われる量でした。でも満足、満足、大変満足です。
早速、百貨店へ行き、品定めをしましたが、今のところ、特に買いたいものがあるわけでもないので、結局は、デパ地下で、孫のために、肉まん、餃子、シュウマイ、を買ってしまいました。その後はポテトサラダ、チーズ、コロッケなどデパ地下での使用が1年ほど続きました。今思えば、記念となる万年筆などを買うべきであったと後悔の念を強く感じましたが、後の祭り、常に孫には弱く、マゴマゴしてしまう坂部先生なのです。
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はじめに
坂部環境技術事務所の仕事はいわゆる『コンサルタント業』です。環境に関するコンサルを請け負うのが本来の筋ですが、コンサルタント業は、アドバイス業、どんな悩み事でも受けたまわります。なんでもござれ、即刻応需、つまり、『何でも屋』なのです。依頼される仕事は、まさに千差万別、何でも来い、皆出て来い・来い・来い、です。
坂部環境技術事務所は、一応、環境に関する各種届け出の支援、産業廃棄物処理業者のコンプライアンス支援、大学での環境に関する講義などが主な業務です。そして、皆さまのおかげで、『開設5周年』を過ぎました。そこで、今まで請け負いました非常に難しかった例をご紹介して、坂部環境技術事務所の『実力発揮』と『冷や汗かいた』の一部を紹介します。以下ご覧あれ。
<参考> 坂部事務所の主な業務
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番号
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業 務 内 容
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1
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環境関連法規の届出支援
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2
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環境コンサルタント
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3
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大学教育研究
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4
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ビオトープ企画、設計等
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5
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審議会委員、審査員等
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6
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その他環境に関連した事項
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第1話 騒音の原因は誰だ!(実力発揮編)
ある日、A社社長さんから電話がありました。
A社社長:「わが社の工場騒音が基準を超えているので、防音壁を作りたいのですが・・・、どのようなものを作ればよいのか、建設費はどれほどか相談に乗ってほしいのですが・・・。」
坂部:「工場の音の発生源や工場全体のレイアウトを頭に入れたいので、一度訪問します。」
A社社長:「お願いします。わが社の担当者にご指導お願いします。」
という訳でして、A社B工場を訪問しました。工場の周りを歩いてみると、周りは田園地帯、近くにベッド数50床ほどの病院、人が実際生活している住居は工場からおおよそ200メートル離れていました。そして、西北側には200メートルほど離れ、東側には100メートルほど離れて大きな幹線道路が走っていました。それは高架構造でして、4車線の高規格道路です。この自動車音もかなりなものでした。そして、幹線道路が見えなくなる場所へ移動すると騒音は少なくなり、再びその道路の見渡せる場所に来ると騒音は大きくなるのです。「ははぁ~。これが原因だな。」と直感しました。そして、簡易な騒音測定を行い、自動車音が工場の外壁に反射して、その音が騒音の測定値を高くしていることを確認しました。
後日、社長さんにこのことを説明するため訪問しました。すると、社長さんは、いきなり言うのです。
A社社長:「ご苦労様でした。それで、どれぐらいの大きさの防音壁が必要でしょうか。5,000万円ほど用意しなければいけないでしょうか。大きな防音壁を作るとなると製品の積み込み作業のし易さにも影響しますしなぁ。結果はどうでしたか?」
坂部:「しっかり測定しなければなりませんが、多分、防音壁の設置は必要ありません。5,000万円は用意しなくても済みそうです。」
A社社長:「何ですって。実は、親会社から国で決められている規制基準を守らないと仕事を回さないといっているし、市役所環境課からは改善勧告をいただいているし、ISO14001の審査では毎回指摘されているという状況なんですよ。そんなことできるんですか? できるとなれば、こんな有難い話はないです。」
坂部:「騒音の測定に影響しているものは、多分、道路の自動車音が工場の外壁に反射して、その音を騒音計が拾っていると思います。したがって、音の発生源は、ほぼ間違いなく道路から来ているものがほとんどだと思います。つまり、測定目的でない音を拾っているのです。ちなみに、このような自動車音など関係ない音を暗騒音(あんそうおん)と言います。」
A社社長:「なんだか、意味が分かりませんが、どうすればよいのでしょう。」
坂部:「これは、工場が一切の設備を止める長期休暇の期間中に測定することが必要です。その時の音のレベルが工場の操業時と同じ音のレベルならば、この音は工場以外から飛んできている暗騒音と考えられます。」
A社社長:「何だかわかりませんが、とにかく、わかりました。坂部環境技術事務所にお任せします。」
坂部:「それでは、お盆の長期休暇の期間中に測定しましょう。その結果をもって今後の方針を考えることにしましょう。」
A社社長:「よろしくお願いします。あぁ~、とりあえず、助かった。」
という訳で、夏の炎天下で騒音測定です。測定時間は以下の通りです。
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番号
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測定開始時間
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測定時のコメント
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1
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午前6時
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早朝の野鳥の声で頻繁に測定の中断
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2
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午後2時
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もっとも暑い時間帯で測定者に熱中症の兆候あり。セミの鳴き声で測定の中断
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3
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午後7時
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ヤブ蚊の襲来で悪戦苦闘
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4
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午後10時
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眠気との戦い
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注. 騒音測定は工場周囲4か所と幹線道路に近い2か所、合計6か所
夏の炎天下で、鳥は鳴く、セミは鳴く、ヤブ蚊に刺される、のど渇く、熱中症の兆候でフラフラになりながらの測定です。測定時間は一回当たり約1時間です。騒音測定のほか、風向・風速、気温、湿度など音に影響を与える項目の測定、そして、道路に面した測定場所は、自動車走行量、大型車走行量(のちに大型車混入率を計算します)の測定などかなりレベルの高い測定をしました。そして、結果は予想通りでした。満足。満足。
下の表を見てください。工場からの騒音よりも高い暗騒音の数値が出ているケースもありました。つまり、高架になっている道路からの自動車音は工場の壁に当たり、反射して、あたかも工場から出ている騒音のように聞こえるのです。
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表―6 A株式会社B工場の敷地境界における通常時騒音と暗騒音の測定結果
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朝
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昼
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夕
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夜間
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備考
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① 工場北側(北に幹線道路)
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52
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54
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49
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49
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暗騒音
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55
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47
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50
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48
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② 工場東側(東に幹線道路)
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54
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65
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64
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48
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暗騒音
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54
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54
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50
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53
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③ 工場東南側
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51
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49
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51
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48
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暗騒音
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51
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50
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49
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52
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④ 工場の西南側
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52
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51
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51
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51
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暗騒音
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52
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52
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49
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52
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⑤ 工場の西北側(西北に幹線道路)
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46
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44
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46
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44
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暗騒音
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52
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45
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52
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47
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⑥ 場東側(三叉路上)
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63
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64
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64
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47
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暗騒音
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57
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54
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51
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52
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規制基準
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55
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60
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55
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50
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注1. 操業時の測定日;2009年(平成21年)11月
注2. 暗騒音は、過去2回の測定のうち高い方の値を表示した(2回とも長期お盆休みに実施)
注3. 赤色は暗騒音として測定した測定結果がすでに環境基準を超えたものを示す。
注4. 水色は操業時の測定結果より、休業時の測定結果が高い測定結果であったものを示す。
注5. 黄色は規制基準値を示す。
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<結 果>
これらのデータを持って、市役所環境課を訪問し、その原因は主に自動車騒音であり、工場の長期操業停止時においても、同じ騒音レベルであったと説明しました。市役所は了解し、坂部環境技術事務所が作成した『騒音に関する報告書』を受け取っていただきました。そしてその結果をもって、親会社へ報告しました。ISO14001の定期検査の時にも説明し、問題ないという結論をいただきました。
最後に、市との公害防止協定についても、協定値は変更しないものの、市は今後、一切、騒音測定結果については意見を言わないこととなりました。
<今回のポイント>
①
暑い日に測定することは大変でした。セミの鳴き声、野鳥の鳴き声、そしてヤブ蚊に悩まされました。今後は秋の涼しい時期を選ぶべきとして、計画しています。
②
測定した数値がすべて工場から発生する騒音と思い込んではいけないのです。測定しようと思っている音以外の雑音は『暗騒音(あんそうおん)』といい、測定データから削除しても良いのです。たとえば、今回問題になった自動車音の反射音、野鳥・セミの鳴き声、木の葉のサラサラ音、犬の鳴き声、高圧電線(鉄塔)の風切音など、暗騒音は私たちの身の回りにいっぱいあるのです。
③
音はよく反射するものです。例えば、空高く飛んでいる飛行機の音がよく雲に反射して低いゴロゴロとした音として聞こえます。ビルの谷間にいる場合、音の来る方向ばかり見ていると飛行機の飛んでいる姿は見つかりません。ビルに反射していると考えて音の方向を見極めると必ず飛行機が見つかるのです。
④
音に対して十分な知識を持つことは大切であると思いました。音は一般に苦手な物理の領域ですので、最初から敬遠してしまうのです。ましてや、中小企業の方々には難解な数式で音の伝わり方、防音の方法を検討するのでなおさらです。坂部環境技術事務所に相談することが必要です。
第2話 元公務員でしょう。(冷や汗かいた編)
ある日、C社の社長さんから電話がありました。
C社社長:「ちょっと、お願いがあるのですが・・・。」
坂部;「何でしょうか、できる事なら何でもいたします。」
C社社長:「私は、相撲の○○部屋の中部地区後援会長をしているんだが、後援会規約が無いので、素晴らしい規約を作ってもらえないかねぇ。」
坂部:「ええっ、後援会規約ですか?」
C社社長:「いいじゃありませんか、坂部さんは元公務員でしょう。この辺りは得意な分野じゃありませんか?」
(私とこの事務所は、環境技術事務所なんだけどなぁ~、と思いつつも、
ここで断ったら、以後仕事がもらえない、と思い、勢いで『わかりました。』と言っちゃいました。)
さてさて、困ったぞ。『素晴らしい規約』、OKはしたものの、どのような規約にするのか見当が付きませんでした。兎にも角にも、後援会というものに関係したことがありません。
わかりました、といった手前、後には引けません。とにかく、インターネットで「後援会 規約」と打ち、検索しました。芸能人の後援会(ファンクラブ)、流行歌手の後援会、国会議員の後援会、伝統芸能の後援会など、後援会と名の付くものを片っ端から調べました。そして、お相撲の後援会規約らしくて、ハンドリングの良いものを選びました。それは、即ち、『ど演歌流行歌手の後援会規約』でした。
その特徴は下表の通りです。
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①
後援会の総会は開催しない。
②
後援会の決議は理事会が行い、その結果を後援会会員に、はがきやメールで伝える。伝える回数は年に1回程度のケースが多い。
③
流行歌手がご当地に巡回公演で来るときは、この地域の後援会会員に知らせるとともに、チケットの斡旋をする。
④
ご当地に巡回公演で来るときは、公演の最終日に、後援会主催の立食パーティーを開催する。パーティーでは、子供たちにも参加してもらえるようにゲームやくじ引きも行う。
⑤
後援会費は、年額2000円から1万円の低料金で、『会員の増加が第一』を目指している。
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という訳で、上記5つの特徴を織り交ぜて、お相撲の○○部屋の後援会規約を作成しました。なんだか変な気持ちですけど、この規約はどうも、今でも生きているようです。
