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坂部孝夫のトンチンカン先生

はじめに
 人生も60年以上やっていると、『今までの人生、本当にアホな経験の積み重ねであったことよ。』と思い出し笑い・・・。自分だけ笑っていては、世間さまに申し訳ない。ここはひとつ、ご披露し、世の中に苦笑いの渦を作ってみようと考えた。以下、ばかばかしいお話を順にご披露すると行きましょう。
 先日、新聞を読んでいたら、「笑いは免疫力を高める、という説もありますから、健康のためにも、笑える読書はいいですね。」とありました。このトンチンカン先生のお話は、基本的に真実に基づいていますが、読者の皆様により面白くご理解いただけるよう少しばかり編集した部分があります。ご承諾ください。
 読みながら ワッ ハッ ハー 。読んでからワッ ハッ ハー。各自、自分流で笑っていただきたく思います 。
 
 それでは、はじまり、はじまり・・・・・。 

                                 2011年春 坂部 孝夫

                                     

講義中に悩むトンチンカン先生(大阪での講義にて)


         
第1話 飛行機の中で 第2話 タイの病院にて
第3話 私のパワースポット巡り 第4話 外国でもトンチンカン(会話の巻
第5話 トンチンカン先生の秘密蔵書  第6話 歯医者さん
第7話 ブータンより愛をこめて 第8話 中国・大連漫遊記
第9話 トンチンカン先生の『お仕事奮戦記』 第10話 トンチンカン先生喜びのサイン・コサイン・タンジェントカーブ
第11話 『何だろう、この看板』の話 第12話 トンチンカン先生の秘密蔵書(その後)
第13話 
 トンチンカン先生、上海・南京・徐州の旅
第14話
 トンチンカン先生、の『マゴマゴ(孫々)物語
第15話  トンチンカン先生の『芸術との出会い』 二 題 第16話
 トンチンカン先生の『直島再訪』
第17話
 トンチンカン先生の『みちのく一人旅
  
第18話
 トンチンカン先生『芸術の創造』へ
 
第19話 トンチンカン先生、 
     『学会発表に参加する』の旅
第20話
 トンチンカン先生、天津、北京へ行く
 
第21話 トンチンカン先生、今年も美の旅へ 第22話
トンチンカン先生、孫との関係性について
第23話 トンチンカン先生の『北の旅人』
第24話
 トンチンカン先生、台湾へ行くの巻
第25話 平成最後の旅路 第26話
トンチンカン先生からアンポンタン老人へ
第27話
 トンチカン先生、場違いなところへ

第28話 トンチンカン先生のコロナで
          引きこもり読書歴
第29話
 トンチンカン先生 難攻不落の姫路城へ

第30話
『アンポンタン老人、恐竜と出会う。』の巻
第31話
 アンポンタン老人、再び難攻不落の
         『今度は彦根城へ』の巻

第32話
『アンポンタン老人、
       ミュージアムを訪ねる』の巻
第33話
『元気なアンポンタン老人、
        リニア新幹線に乗る』の巻

第34話




 第33話 『元気なアンポンタン老人リニア新幹線に乗る。』の巻


私事ですが、実は、2023年1月の寒い中、いつものように、例の息子一家で一泊温泉旅行をしてきました。
今回の旅行目的は、まず、①リニア新幹線が開通するまで元気でいるか心配なので、冥土の土産に一回乗りたい②大学の3年後輩である望月君が静岡市のど真ん中で静岡天満宮の宮司として勤めているので、孫にも学問の上達をお願いしたい。③NHK大河ドラマの「どうする家康」で脚光を浴びた家康のお墓「久能山東照宮」を50年振りに見たい。そして、④今、旬の石垣イチゴを孫と一緒に食べたいと言う、多彩な目的でありました。

<第1日目>
朝7時に家を出て、豊田市の上郷サービスエリアのスマートICからは入り、いきなり上郷サービスエリアのコンビニで孫たちの朝食を買い、新東名高速道路経由で一路富士山山麓へ直行です。天気が良く、富士山には雲ひとつない美しさでした。


新東名高速道から見た当日午前中の富士山

 



午前10時30分にはすでに「山梨県立リニア見学センター」に到着しました。入場料は大人420円、子供200円です。今回もシニア料金の設定はありませんでした。「リニア新幹線が開通する頃には団塊世代のシニア族は既にこの世に居ないだろうから、シニア族を引き寄せるシニア料金を特別に設定することもないだろう。」と考えてのことかとヒガンでしまいました。
 この日は、試験走行を行っており、15分に1回程度の頻度でリニア実験車両が見学センターの見学ラウンジの前を超スピードで走り抜けます。やはり開通までには元気でいられないかもしれないと思い、孫と3人でリニア新幹線に乗りました(注.1)下の写真をご覧ください。




施設見学記念撮影場所にて、孫と一緒にリニア新幹線に乗車しました。

 



館内はリニアモーターの仕組み、超伝導の実験見学等、子供達が喜ぶ展示や仕掛けが多く有りました。特に見学ラウンジでは超スピードで走る様子が間近に見られスリル満点でした。この時の走行音が大変なものでして、環境を専門とする私としては、この問題解決が大きな課題になるのではと思いました(エヘン)。



山梨リニア実験線を走るLO系実験車両

 


でも、子供達は一瞬に走り去るリニアモーターカーを見て驚いて大騒ぎでした。見学するには、大変見応えのある良い施設でした。
その後、都留市、富士吉田市内(注.2)を通り抜け富士五湖の周りをドライブし、朝霧高原を通って本日の宿、国民宿舎(注.3)へ到着です。



夕日に映える「赤富士」(宿舎の窓から)



温泉は富士山の湧き水で湧かした湯でした。透明で柔らかい泉質です。食事は夕食、朝食共にバイキング料理で、孫たちは例の如く好きな物ばかり皿にのせて食べています。


 <第2日目>
 翌朝、宿舎の窓から見る富士山もまた綺麗でした。刻々と明るくなります。
   「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 
       少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。(枕草子)
 という境地でしょうか、満足、満足(下の写真)。



朝日に輝く富士山(宿舎の窓から)

 


 バイキングの朝食を済ませ、静岡天満宮へ急ぎます(注.4)。宮司の望月君は、受験シーズンの今が最も稼ぎ時というのか、本殿から出てきません。奥の方で祝詞(のりと)を上げるうなる声、霊験アラタカな雰囲気がいっぱいでした。「さすが望月君。生物化学研究室に在籍しただけある。」と感心しました。関係ないか、全く・・・。
 忙しいので長くお邪魔をせず、望月宮司とは本殿の脇で立ち話を少しして別れました。


静岡天満宮の前にて孫たちと記念写真

 


 その後、久能山の下でイチゴ狩りを楽しみ、日本平からロープウェイで久能山東照宮へお参りし、隈研吾が設計した「日本平夢テラス」に登り、富士山に最後の別れをして無事に西尾へ帰りました。


日本平夢テラス(日本平ロープウェイ乗り場の近くにあります。)

 


 というのはウソでして、帰りの東名高速道路で走行中、スピード違反でパトカーに捕まりました(注.5)。77才の後期高齢者が高速道路で速度違反。捕まえた方もびっくりと思います。私は捕まってから文句をたらたら、たらたら、「ひとさし指で押印を。」と言うので、「印鑑を持っている。」と憮然と言ったり、「寒いからパトカーの中に入ってください。」と言うので、「寒くない。」と言ったり、「速度違反、間違いないですね。」とパトカーの中の速度測定表示を示すので、「計量法による検定を受けている計測器かね?」と言ったり、「ゴールド免許所有者を捕まえるなんて、大いに不満だ。」と言ったり、「環境技術事務所は何処の所属ですか。」と言うので、「私が社長だ。」と大きな声で言い(本当は「代表」)、警察官は「失礼しました。」と答えるなど、警察官を相当困らせ、違反金からおつりが来るのではないかと言うほどの嫌みを言って、最後は、気持ちがスッキリしました。77才、喜寿でスピード違反。やっぱり元気なアンポンタン老人かな? 皆さまも、スピード違反にはくれぐれもお気をつけください。
 それでは、みなさん、ごきげんよう。さようなら。


 


注.1 リニア新幹線に乗車したい場合は、いきなり行ってもダメです。乗れません。
    乗車希望を応募用紙に書き、投函します。対象者は中学生以上で、応募者数が
    多い場合は抽選で決定されます。約3ヶ月後に抽選結果が届き、リニア新幹線
    に乗車できるのです。今回は記念撮影用のリニア新幹線に乗りました。
 注.2 富士吉田市内では、「吉田うどん」が有名です。市内には50軒ほどのお店
     があるようです。家族で食べました。太麺で、きしめんよりさらに太く、甲
     州名物「ほうとう」のような姿と味で美味しかった。。
 注.3 宿舎は「国民休暇村 富士」です。田貫湖の岸辺にあり、真正面に雄大な
     富士山と田貫湖が見えます。早朝、湖畔を散策すると野鳥が水面を泳いでい
     ます。静かな光景でした。。
 注.4 静岡天満宮は駿府城の前、そして静岡県庁の前に位置していました。周りが
     高層ビルばかりで、静岡天満宮はビルに埋もれているようでした。その部分
     だけ、狭いけど緑の杜となっていました。社殿は周りのビル群に合わせたの
     か、コンクリート製でした。。
 注.5 スピード違反は、制限速度100キロのところ、116キロ、つまり16キロ
     オーバーで捕まりました。愛知県に入ったら途端に捕まったのです。捕まる前
     に、なにわナンバー、京都ナンバーの車が追い越していったので120キロ
     まではOKだ!と思い走っていました。夕暮れ時でして、後方からコッソリ追
     跡してくるパトカーを確認でしませんでした。残念。





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 第32話 『アンポンタン老人 ミュージアムを訪ねる』の巻


さてさて、新型コロナのまん延拡大、第7波、そしてインフルエンザと一緒になった第8波が気になるところです。
 この様な中、再び息子一家と今度は「日帰り温泉」の旅をしてきました。今回の旅は、日帰りですので愛知県の北隣り、つまり、岐阜県への旅です。岐阜県土岐市(ときし)にある「バーデンパークSOGI(土岐市温泉活用型健康増進施設:さすが、お役所が考えた名称)」です。公共施設ですので、入泉料は大人600円、子供は300円と安価でした。しかし、シニア料金はありませんでした。 それでは,いつものように、始まりぃ~。始まりぃ~。

 でも、この温泉に行く前に、数年前、毎週日曜日午後8時から放映されている、「NHK日曜美術館」で紹介されました、多治見市笠原町にある「モザイク タイル ミュージアム」を訪ねました。



モザイク タイル ミュージアム全景
(2人の子供がいるところが入口です)

 



この建物は4階建てでして、建築家の藤森照信氏が設計・デザインをしたものです。上の写真にある一番低い、子供がいる所が入口です。この建物は、山を削って陶土(タイルや瀬戸物の原料となる土)を採取している場所(採掘場)をイメージして作った建物です。つまり、山が半分切り取られている(削られている)のです。中に入ると様々なタイル製品が陳列されており、懐かしい昭和20~30年代の雰囲気が出ています。私の家にもあった表面をタイルで覆った、かまど、お風呂がありました。本当に懐かしいです。 まず、1階で受付け。と、その前に、いつもの手の消毒をアルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。
 入場料金を払います。大人310円、高校生以下は無料でした。多治見市の運営ですので料金は安く、係の人も多くがボランティアの人達です。本当に親切でした。そのためか、平均年齢も少し低く見えました。その中で、一番若いボランティアの人(推定年齢は50才過ぎ)に「館内の写真撮影はいいですか?」と聞きましたら、にっこりして「写真撮影はOKです。」でした。しかし、こだわりますが、シニア料金はありませんでした。
 1階には、ミュージアム・ショップがあります。冷蔵庫のトビラにピタッと付けるマグネット、タイルの鍋敷き、そして極めつきは、小さなタイルの詰め込み販売です。細かなタイル、花びらや葉の形をしたタイルなどなど、『タイル詰め放題』のコーナー。コップ1杯550円です。550円で買って、何に使うのかな? おはじき?それとも壁に貼るのかな。不思議なものを売っていると感じました。でも、私たちがお店にいる20分程度の間、詰め込んで買っている人は,一人としていませんでした。やっぱり。



ミュージアム・ショップのタイル詰め放題コーナー
(孫2人は、買う・買わないで悩んでいる。)

 



その他、陳列し、販売している品は、常連のクリアーファイル、多治見市特産の陶器(織部、黄瀬戸、志野などの雑器(日常使用する陶器)),イヤリング、ブローチなどの装飾品、そして文鎮などが並べてあります。私は,文鎮を買いました。一個200円でした。
 そして、一気に直線の大階段を4階まで登ります(「上り」と言うより「登り」という雰囲気です)。老人にはつらい登りでした。手すりを持って,よいしょ。よいしょ。いつものように孫が腰を押してくれます。有難いことです。優しすぎて,この厳しい世の中を渡っていけるのかという心配もありましたが、感謝、感謝です。
 4階に着くと、そこは「絵タイル」の世界でした。定番の富士山が多く飾り付けてあり,その中でも、くちびるを赤くした、マリリンモンローの絵タイル(左側の奥、薄く映っている)が目にとまります。その他、動物、三保の松原、江戸城、平安貴族の景色を眺める姿など様々な絵タイルが飾られていました。



銭湯の壁に貼る富士山、動物、日本の景色などの絵タイル
(左下はタイルで作られた「トイレ」です。「使用できません。」とありました。)

 


マリリンモンローの絵タイルなどもありました。

 


家庭用のお風呂(湯舟)と洗い場

 


タイルで作った「かまど」(母がここでご飯や惣菜を作っていたことを思い出します。)

 


次に、3階は,様々なタイルが陳列してあります。幾何学模様、西洋的な唐草模様、日本独特の格子模様など様々です。そして、その奥に、タイルが出来るまで(製造工程)やタイルの歴史を紹介したビデオ上映コーナーがありました。私はそこで足腰の疲れをとるため,約15分間、ビデオの画面が『終り』と映し出されるまで,一人で見ていました。
 2階は,台所やお風呂場を再現したコーナーです。昔の姿そのままに再現されており、こんなにも様々な所にタイルが使用されていたのかと感心しました。
 パンフレットによると、大正3年に始まったタイル産業は戦後の高度成長期の好景気と建築ブームで一気にその需要が高まり、最盛期には,全国の生産量の86%をこの地で生産していた様です(経済産業省工業統計表による。)。今では、抗菌・消臭作用を実現したタイルも生産されているようで、ミュージアムの周りには多くのタイル製造工場が並んでいました。
 ミュージアムを見学して町の中を歩くと,びっくりです。様々なタイルで出来たものが町中に設置されています。本当にタイルの町です。その例を挙げます。
笠原市民センターには、タイルで出来た「看板」がありました。触ってみましたが,ほんとにタイルで出来た看板でした。わざわざ,タイルで製作する必要というか、メリットはあるのかと思うのですが・・・・。
 またある所では、ごみステーション(ごみ集積場所)がタイルで作成されていました。タイルで囲まれている空間を見ると,銭湯の湯舟のように見えてしまい、入りたくなります。「そこまでやるかぁ~。」という感じです。その他、公園のベンチ、橋の欄干の一部分、水飲み場、家の塀など,町中の至る所がタイルでした。


タイルで作成された看板(小学5年の孫と一緒に)




タイルで作成された,道路際にあるごみステーション(お風呂みたい)

 


その後、日帰り温泉である『バーデンパークSOGI(土岐市温泉活用型健康増進施設)』でゆっくり体を休め、近くの『おばあちゃんの道の駅』(観覧車ほどの大きな水車がグルグル回っていることで有名)へ寄り、お土産を買って帰りました。面白く、楽しかった一日でした。


孫と一緒にモザイク タイル ミュージアムの前にて
孫は、「背は伸びるが、成績は伸びない。」という状況です。

 


それでは皆さん、異常気象で暑かったり、寒かったりですが、お元気でお過ごしください。ごきげんよう。さようなら。また、書きます。




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 第31話 アンポンタン老人、再び難攻不落の『今度は彦根城へ』の巻


私事ですが、実は、2022年の早春の3連休に、またまたオミクロン第6波の直前にもかかわらず、例の息子一家で一泊温泉旅行をしてきました。
今回の旅日記は、前回ご報告しました『第30話 アンポンタン老人、恐竜と出会う』の続きです。
 前回、第1日目は福井県に鎮座する霊験アラタカな永平寺を参拝後、福井県立恐竜博物館を見学し、国民宿舎で『越前ガニ』を、私の取り分(つまり、家族内の力関係の結果)として、足2本だけ食べて第1日目は終わりました。それではその続きをお話しします。
それでは、いつものように、始まりーぃ。始まりーぃ。


 第2日目は琵琶湖周遊の旅です。朝8時30分、一泊した国民宿舎を出発。福井の広い平野を東南へと突き進みます。天気が良いこともあり、日光で雪が溶け、一斉に田畑から面的にモヤモヤと霧、(いや、水蒸気とも言うべきか)が立ち昇る光景を見て、その神秘さに感動しました。九頭竜川の河口に広がる福井平野は結構広いと感じ、さすが、福井藩主、越前松平家の豊かさを物語っています。JR福井駅の恐竜像を見学後、北陸自動車道へ入ると左に大きな伊吹山が雪を冠して堂々とそびえ立っています。右は賤ヶ岳(しずがたけ)、姉川(あねがわ)の古戦場、そして、その奥には、広いベタ波の静かな琵琶湖です。この地域は琵琶湖の北、湖北地方といいます。



伊吹山の雄姿(車窓から)

 

 参考:この地方は『湖北地方』といいまして、十一面観音菩薩の宝庫です。
    京の都から白山への「山岳信仰」の道中のため、十一面観音菩薩が
    多くの寺院に奉納されています。
    私は、渡岸寺や石道寺の十一面観音菩薩を何度となく拝観しました。




まず、「長浜城へ登城。」と計画していましたが、お城公園へ入る駐車場を捜していたところ、満車という看板ばかりです。困ったなぁ~と、徐行運転で駐車場を捜していたところ、ちょうど道路脇に「長浜鉄道文化館」という小さな案内標識がありました。「アレレ。行ってみようか。孫も喜ぶし・・・。」ということになりました。いつもの通り、今回も、すぐさま瞬間的に旅の目的を変更するという、かなり優柔不断な旅です。
 こちらの方は駐車場が混んでいなく、すんなり駐車出来ました。入口で入場券を買おうと思いましたが、係の人はいません。「すみません。」、「ごめんください。」などと声をかけましたら、私たちの居ることを察したのか、奥からボランティア的風貌で、やや太り気味の、どちらかというと愛嬌のない中年女性の人が出てきました。その人はおもむろに、どっこいしょと言ったか言わないか、受付窓口に座り、そして、私たちに入場券を渡す前に切符をもぎり、半券だけ渡してくれました。合理的ではあるが、何か変な気持ちです。前回お話しした『福井県立恐竜博物館』でのややこしい対応に比べ、思い切り合理的でした。満足、満足?
 この文化館は、北陸本線の建設に向けて、多くの人々が期待をしていたことが分ります。明治時代、関西地方からアジア大陸へ行くのは福井県の敦賀港から船で行くのが最も短距離と言うことで、東海道線の米原を出発点とし、長浜を通り、北へ進む北陸本線の建設が急がれていたようです。明治政府の伊藤博文等、有名人の書による「石碑」が幾つも展示してありました。



日本で一番古い駅舎だそうです。

 



館内には本物の蒸気機関車(D51)、電気機関車(ED701)が鎮座しています。孫たちは運転台に上り「次は安城~、安城~。」と言ったり、「次は東京~、東京~。」と言って遊んでいました。かなり満足した様子です。



展示されていた蒸気機関車D51と電気機関車ED701

 


そしていよいよ、『彦根城登城』です。長浜鉄道文化館を見学後、長浜城は当然ですが、パスして、湖畔を走る道路に沿って移動し、30分程度で彦根市街へ到着です。小高い丘の上にそびえる彦根城は、3階建ての天守閣で国宝です。駐車場の確保に時間がかかるほど、人混みがすごく、とてもオミクロン感染拡大中とは思えない光景でした。小高い丘のふもとに入口があり、入城料金は、大人 800円、小・中学生 200円です。やはり、シニア料金はありませんでした。残念。姫路城と同じで、全国のお城管理者が結託(goo辞書:示し合わせてぐるになること)しているのではないかと勝手に思ってしまいました。でも、頑張って登城する事にしました。いつものように、手の消毒をアルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。
入城門をくぐり、城内へ入るといきなりダラダラと長い坂道です。これは大変、入口に用意されていた、「ご自由にお使いください。」とある竹の杖が目に止まり、すぐに借りることとしました。それも2本。両手に1本ずつ持って悪戦苦闘の登城です。優しい孫は率先して私の腰のあたりを押してくれるのです。やはり、姫路城と同じく老人には『難攻不落の天守閣』です。孫の親切にうれしい (^v^) やら、淋しいやら。



彦根城で、孫たちとヒコニャンと記念撮影(登城する前です)
私は杖2本で悪戦苦闘の登城

 


彦根城は3階建てです。「天守閣の入口に入れば、後は階段を登るだけだ。頑張ろう。3階なんて姫路城のことを思えば、スイスイ。」と思いました。
 でも、登城前の『だらだら坂』の影響で、既に息切れがしています。内部は恐竜博物館と同じ程の薄暗い様子にびっくりです。やはり築何百年だけあり、柱や床は黒光りです(手垢かもしれないけど・・・)。しばらくすると目が慣れてきました。
 いよいよ階段の前に来て,さらにびっくりです。階段なのか梯子段なのか、その傾斜は、正に60度を超えているのではないかと思うほど急です。階段の高さは8~10段程度、それほどでもないので助かりました。孫たちはドンドン進みます。私は両手に階段の手すりを持ち進みます。


天守閣内の急勾配の階段
(1階から3階まで全て同じ勾配)

 


やっとの事で登城成功。西の方面に見える琵琶湖は水面が薄いブルー色でキラキラ輝き、遠くに福井県境の山並みが雪を被り薄い青色のシルエットで、これも綺麗に見えました。登城して良かった。井伊直弼もこの景色を見たのかと思い、感無量でした。再び、孫に感謝、感謝。
 帰りは再び,急な階段を降ります。再び両手で階段の手すりをもって,孫に腕を取られて降ります。やはり、老人には『難攻不落だ!!』と確信した次第です。


彦根城天守閣から見たブルー色の琵琶湖と連山のシルエット

 


その後、売店で「おみくじ」を引きました。おみくじの「仕掛け」は人形の『巫女さん』が神社の中に入っておみくじをお盆の上に載せて持ってくるという機械仕掛けです。200円を入れたら,巫女さんは神社のトビラをあけて、お盆の上におみくじを載せて帰ってくるのですが、お盆には載っていませんでした。「おかしいなあ~。ハズレではないと思うけど?」、そして売店の人にそのことを告げるとお店の人は、「あれぇ~、これで3回目ですぅ~。」と言いながら、電源を入れ直すと、ガチャガチャと言う大きな音と共に機械は簡単に正常に動き始めました。再び『巫女さん』が動き出し、間違いなく、おみくじをお盆に載せて持ってきました。おみくじは『小吉』です。孫は二人とも『小吉』でした。そう言えば、今までどこの神社へ行って「おみくじ」を引いても、凶、大凶を引いたことはありません。いつも大吉か吉、小吉です。逆に凶を引くと『大当たり、夢かなう。』なのかもしれません、とへそ曲がりなことを考えてしまいました。

 以前、私が子供の頃、父親に連れられて名古屋へ行った時、ヤマガラという鳥が,父からもらった、確か10円玉を鳥に渡すと,それをくわえ、お賽銭箱に入れ、鈴を鳴らし、おみくじを神社から加えて持ってくる芸を見た記憶がありました。ネットで調べたらその画像がありました。でも今は鳥獣保護法でヤマガラを飼育できないと言うことで、この様なおみくじはない様です。
 いろんなことを思い出しつつ、再び2本の杖をつきながら、彦根城を後にしました。

 次回は愛知県の犬山城に孫たちを連れて行こうと思っています。挑戦する気持ちがジワジワと高まってきました。「まだまだ、若いぞぅ~。」

 それでは、みなさんさようなら。次回のお話しをお楽しみに。
                『ウォー・ガォー。』そして、『ニン・ニン。』




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 第30話 『アンポンタン老人、恐竜と出会う。』の巻


私事ですが、実は、2022年の早春の3連休に、またまたオミクロン第6波の直前にもかかわらず、例の息子一家で一泊温泉旅行をしてきました。つまり、年数回の家族旅行は徐々に恒常化しているのであります。
 今回の旅程は、まず、福井県吉田郡永平寺町にある霊験アラタカな禅の道場、道元禅師が開いた曹洞宗大本山である、いわゆる『永平寺』を参拝し、その後以前より度重なる厳しい孫からの要望により、『福井県立恐竜博物館』へ行きました。そして、JR福井駅前のロータリーに設置されている『動く恐竜』3匹(3体でしょうか。)も見てきました。
 JR福井駅前の3匹の恐竜は今回の旅で最も印象深いものでした。3匹は首と手、そして尻尾の動きに合わせて、『ウォー、ガォー』などと相当大きな鳴き声を発します。24時間鳴いていると夜間にはかなりの騒音苦情があるのではないかと心配しましたが、恐竜の説明が書かれた看板の説明文の最後の部分に小さく、「恐竜は午前8時から夜9時まで鳴きます。」とありました。取りあえず、深夜は安心、安心。
 でも、このロータリーに設置された動き、かつ、鳴く恐竜はすごいインパクトです。誰が計画し、建設したのか、「よくも、まあ、こんな予算が付いたものだ。」と、びっくり仰天しました。





JR福井駅前ロータリーの恐竜(後方はJR福井駅のビル)
『ウォー、ガォー』と鳴きながら手と首と尾が動きます。

 

その後、琵琶湖湖畔の長浜、彦根を訪ねたのですが、話が長くなりますので、この部分は次回の第31話でお楽しみください・・・。


話は変わりますが、ちなみに、現在のところ、3回目のワクチンの接種はしていないものの、一家全員、感染していません。それでは、いつものように、始まりーぃ。始まりーぃ。

 例のごとく、朝8時に安城を出発し、東名高速、北陸自動車道を走り、約3時間半で、永平寺に着きました.残雪がそこら中に高く積まれている寒い中、拝観料大人500円、子供200円(シニア料金はありません)を払って寺の中へ入ると空気も冷たい、床板も冷たい、長い階段の多い構造です。山の斜面に配置された永平寺は修行のお寺らしく、座禅をする部屋、経を習い修行する部屋、大食堂など様々な部屋があります。



入口にあった「永平寺全景」の看板(前後の渡り廊下は全て長い階段です。)

 


永平寺に着くと、階段を走る様に登る孫たちに比べ、私は例の如く、手すりをつかんでよいしょ、よいしょ、と登ります。とにかく長い階段。地獄の階段です(老人には難攻不落の永平寺!)。一通り本堂などを拝観し、その都度お賽銭を投げ入れ、何を願掛けすることもなく4~5箇所の賽銭箱のある所を回りました。拝観料と同じ程度の金額を納めました。
 そのうち、階段の登り降りに飽きたのか、孫たちは「恐竜は、まだ~?」と言うばかりでした。孫たちにはこの様な場所は単調で、寒くて、お土産屋もないので、暇で仕方ありません。1時間ほどの拝観の後、次の目的地である、『福井県立恐竜博物館』に向いました。



永平寺の長い階段を登る孫たち

 


車で30分ほど行くと、福井県立恐竜博物館に到着です。でもその前にお昼の腹ごしらえです。地元の名物を食べるには、孫たちも美味しく食べられるものが良いので、何かないかなぁ~と考えた挙げ句、孫たちも食べられる簡単なもの、つまり、結局、全国チェーンである「CoCo壱番屋」のカレーにしました。私は、アサリたっぷりカレーのチーズトッピング、1カラでした。


恐竜博物館前にて記念撮影

 


いよいよ、博物館です。五人分の入場券を購入し、いざ入ります・・・。 でもその前にいつもの手の消毒を・・・。アルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。アルコール消毒の道具は恐竜と一緒にシュッ、シュッ、本当に面白い。


▼恐竜付き手のアルコール消毒器        ▼シニアの割引券あり   

 


そして、入場券を係りの人に渡すと、「年齢確認をします。」と言うのです。見れば分るとおり、優に70才を超えた姿です。でも、よほど若く20才代に見えたのでしょうか「確認します。」と繰り返すのです。確認する自動車免許証は車の中です。ポケットの中を探ると、その中から私のパスポートのカラーコピーがありました。係りの人に見せると「確認できました。どうぞ。」・・・大変な入場でした。出鼻をくじかれた思いでした。20才に見られてうれしいやら、確認するものを探す面倒やら、つまり、老人になるとは、これほど大変なものでした。
 博物館は3階建て、一部吹き抜けで、館内はやや薄暗く、大きな声でも反射しない工夫がしてありました。『ウォー、ガォー』と鳴きながら動く恐竜がそこら中にあり、子ども達は大喜びです。本物の恐竜の骨の化石は欠けた部分もなく、レプリカも入れると、何十頭ときれいに展示してあり、圧巻です。大人も子どもも興味深く見ていました。


博物館の内部、撮影自由でした。

 


全て本物の恐竜化石ではありませんが、展示されている恐竜の内10体は本物であり、そして、そのうち5体は福井県で発見された新種の恐竜化石と言う説明がありました。それは、羽毛がある恐竜、全長10mの草食恐竜等で、フクイサウルスなど、「フクイ」と名付けられている恐竜でした。


恐竜の化石の展示状況。(展示されている内、10体は本物なのです。)

 


2時間近く見学して、その日は国民宿舎で越前ガニを酒のつまみに酔いしれました。ここまで来たら越前ガニを、と、清水の舞台から飛び降りたつもりで・・・・。あまりの高価なので大人3人で1杯予約しました。その結果、私の取り分は足2本のみでした。


一家全員で、寄って集って(たかって)食べた『越前ガニ』の一杯

 


翌日、例のJR福井駅前で動く恐竜を見ること30分、そして、琵琶湖湖畔に向いました。天気が良いこともあり、日光で雪が溶け、一斉に田畑から面的にモヤモヤと霧が立ち昇る光景を見て、その神秘さに感動しました。
 北陸道は雪の中でした。左に伊吹山を見ながら、右に賤ヶ岳(しずがたけ)、姉川(あねがわ)の古戦場を見ながら一路琵琶湖湖畔の長浜へ向かいます。
 孫たちのためにJR長浜駅に隣接した、本物の蒸気機関車や、北陸線建設に関わる資料等が展示されている『長浜鉄道文化館』を見学させ、いよいよ『難攻不落の彦根城』を目指します。
 以後、次回をお楽しみに。それでは皆さん、ごきげんようさようなら。『ウォー、ガォー』





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 第29話 トンチンカン先生 『難攻不落の姫路城へ』の巻


私事ですが、実は、この新型コロナウイルス感染拡大の中、息子一家に連れられて、関西圏の西の外れ、つまり、近畿地方のど真ん中を突っ込んで通り抜け、姫路市にある姫路城へ観光をしてきました。現在のところ、一家全員感染していません。それでは、いつものように、始まりーぃ。始まりーぃ。


1 いざ、 姫路城へ

メンバーはいつもの息子夫婦、孫2人、そして私です。車でJR三河安城駅まで行き、近くのパーキングに車を預けました。1泊2日の短い旅ですので荷物も少なめ、服装も簡単なもの、いつもの仕事用カバンで旅支度です。 ただし,新型コロナウイルス感染対策として、厳重なマスク着装、施設へ入るごとに手の消毒と検温をしました。
朝8時50分、新幹線三河安城駅を出発、名古屋でのぞみ広島行きに乗り換えました。混雑は見られなく、比較的席の空いている様子から、感染の心配はほとんどないものと確信して、一路姫路へと「出発・進行!!」 新緑の緑の香りをいっぱい含んだ木々が車窓から見えます。幸先の良い出発です。いつもの『出鼻をくじかれる』こともありませんでした。
JR.姫路駅に降りると、駅の正面に姫路城、きれいな漆喰(しっくい)の白さに感動しました。観光客もそれなりに居まして、観光地の賑わいのようなものが感じられます。それでは、歩いてお城まで・・・・、と思ったものの、5歳の孫を始め5人でぞろぞろと歩くのも大変、それではと言うことでタクシーに乗るという、いきなりオオチャクでナマケモノ的な旅となりました。タクシーは子供が2人ですので、一台で5人乗れまして、OKでした。
 さて、姫路城へ着くと、見上げるほどの大きさに圧倒されました。5階建ての天守閣まで行けるか否かの不安が頭をよぎります。ここで息子一家と別れて、天守閣の下の広場にあるベンチで待っていようか・・・、とも考えましたが、ここは家長、最年長者の威厳もあり、何が何でも天守閣の頂上へと上ることを決心しました。外観は5層の天守閣です。まあ、行くところまで行こうかと入場券を購入し、いざ天守閣へ・・・。その前に、手の消毒をアルコールでシュッ、シュッ。そしてオデコで体温をチェック・チェック。すべて順調です。




白鷺城、すなわち姫路城の勇姿(坂部撮影:間違いありません)

 



2 年寄りには難攻不落な姫路城の天守閣

「白鷺城(しらさぎじょう)」の愛称で親しまれている姫路城は、日本一高い入城料金(1,000円)だそうです。次に高い入城料金は沖縄県の首里城で820円だそうです(今は焼失して入城できません。残念)。でも、姫路城にはシニア料金の制度はありませんでした。残念、残念。このシニア料金制度がないとは、年寄りには向かない登城なのか、暗に年寄りはお断りと言う意味なのか、と不安はさらに募るのでした。  登城券を入り口の女性に渡し、その後左へ曲がり、少し坂を登ると、敵が来ると城内から鉄砲を撃ったり弓を引く、三角や四角、丸形の窓(硝子はありません)があり、それを見ながら進みます。孫たちは、その穴のような窓から頭と首をしっかり出して城下の景色を見ています。頭の大きさと同じ程度の窓ですので,しっかりハマってしまいそうで心配です。



穴のような窓から城下を見下ろす二人の孫

 


 そして、ダラダラした坂をしばらく行くと、天守閣の入り口に到着。入り口の係りの人に「お城は何階建てですか?」と聞きましたら、「6階建てです。」と言うのです。確か、外観から見ると5階建てでしたが・・・・。でも、頑張って6階まで上る決意をしたのです。

各階ごとに、ガラスケースに入った展示物がありました。古い書き物(達筆につき、全く読めませんでした。)、刀、兜(かぶと)など、ゆっくり見ながら上の階へ、そして上の階へと進みます。しかし4階に着くころには、足がフラフラ、どうも膝に来ている状態で、少し休んでいると、孫が5階から戻ってきて、「じいちゃん、手。」というのです。手を引っ張ってくれるのです。うれしいやら淋しいやらの境地で、ニコニコとしましたが、顔面がなんとなく引きつっているようでした。
「牛に引かれて善光寺参り」と言う格言(?)の様に、「孫に引かれて,天守閣へ」と言う境地です。6階の最上階には男性の係りの人がいました。再び係りの人に天守閣の標高を聞きましたら、「海抜90メートル、目の前の広場から40メートルの高さです。」という答です。眺望はすこぶる良いのです。手を引いてくれた孫に感謝、感謝。しかし、6階まで一気に階段で登ったことは十何年ぶりです。そして、下りの階段も両手を使って、ゆっくりと、ゆっくりと下り、大変な思いをしました。階段も急でして、シニア料金の制度なし。「老人には難攻不落の姫路城の天守閣」と確認した次第であります。



やっと登った天守閣6階の混み具合(やや疲れ気味)

 



6階最上階から姫路市内と広場を眺望

 


3 『ニン・ニン』

天守閣から降りて、しばらくお城の中をぐるぐる回り、その帰る途中で、職員の人なのか、ボランティアの人なのか、忍者姿の人がいました。様々なパフォーマンスで観光客を楽しませています。私の孫は忍者が珍しいのか、『ニン・ニン。』と言って,忍者姿の人に近づいていきます。そして、黒い頭巾(ずきん)の中の顔をのぞき込むと、忍者はいきなり「、えいっ。」と孫を脅すので,びっくりして、「わぁーっ。」と叫んで逃げていきます。しかし、最後は忍者とツーショットで記念写真を撮ることになりました。それが下の写真です。




『ニン・ニン』と言って手を合わす孫と忍者のツーショット

 


その後、密を避けるため,芝生の真ん中で,コンビニで買った,おにぎりとサンドイッチを食べ,ジュースを飲み、再びJR姫路駅に帰り、宿泊先である倉敷へと新幹線に乗り込みました。

姫路城は本当に迫力のある城です。まず、JR姫路駅の改札を出ると,駅のロータリーから,遠く、正面に天守閣の全体像が見えます。堂々としているその姿は戦国時代を生き抜いた勇姿であり、そのインパクトはすごいです。

皆さまも是非、コロナに負けず、姫路城への登城をお勧めします。
それでは、皆さん、ごきげんよう、さようなら。ニン・ニン。






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 第28話 トンチンカン先生のコロナで引きこもり読書歴


さてさて、皆さまいかがお過ごしでしょうか.新型コロナウイルスの感染拡大で、通常の生活が出来ないと言うご不満でいっぱいのこととご推察申し上げます。
 私も同じでありまして、すなわち、休日には家の中に巣ごもりする結果となり、日だまりの南側の部屋で、「読み出しても眠くならない本」を購入して読むことにしました。そこで、今まで読んだ本の紹介をします。興味がおありの方は、是非ご購入いただき、笑いを誘ってください。それでは、はじまりぃ~。はじまりぃ~。

その1 幻のアフリカ納豆を追え!(1900円)
     高野秀行著(新潮社)


納豆(なっとう)は日本独自の食べ物と思っている人が多いと思いますが、実は世界中にあるのです。以前、同じく高野秀行氏の著書『謎のアジア納豆 そして帰ってきた<日本納豆>』を読んで、ベトナムからラオス、インド北部、ブータンまで、様々な納豆が作られ、食べていると言う紹介がありました。納豆は納豆菌ですが、それが稲わらに付着しているだけでなく、世界中のほとんどの植物の葉に納豆菌はあると説明がありました。ハイビスカスやバナナ、パパイヤの葉で包んだ納豆などびっくりする種類があるのです。納豆は、調味料という役割があったようです。世界中の海岸地域では、魚を原料にして魚醤(ギョシュ)という醤油を作り、日本では鰹節などを作ります.そして昆布を代表とする海藻も『だし』として用いますが、内陸部では主に、納豆菌で作った納豆という調味料を使っているようです。姿は日本の納豆だけでなく、天日干しして「せんべい」の形にしたもの、また、だんご状に丸め、「ラグビーのボール」の形のもの、これらを長期保存できるようにしたものなど様々です。
 今回読みました、『幻のアフリカ納豆を追え!』の中で面白かった部分は、いや、びっくりした部分は、「納豆の原料である豆を煮るため、圧力鍋がないので、普通の鍋で煮るのですが、フタの周りに『牛糞』を詰めて鍋の中の圧力を高める工夫をしている。」と言う部分でした.本当にびっくりです.思えば、アフリカの住居はその壁が牛糞で出来ているという話を聞いたことがあるので、少しだけ納得しました。是非、手に取ってお読みください。牛糞を手に取ってではありません。『本を』であります。目からウロコの世界です。どうぞ。



   

 



その2 一度見たら忘れられない奇跡の建物(1800円)
     発行 エムディエヌコーポレーション((株)インプレス)


 まるで秘密基地のような建物、巨大な生き物にも見えるデザイン、きらびやかなライトアップや外装素材に包まれた外観など、建物そのものがアートです。異彩を放つ世界の名建築、いや、私の芸術に対するセンスからしますと、迷建築としか目に映らないものばかりです。ちなみに、この本の中には、日本国内に設置されている建築物はありませんでした。でも、日本の建築家による外国での建築物は1件だけありました。伊東豊雄氏による『中国の台中国家歌劇院(巨大な劇場)』を2016年に設計・建設したものです。

   

 



その3 その他

その他にも紹介したい本がありますが、その代表として6冊ばかりご紹介します。私は今まで多くの小説、解説本などを読んできましたが、年齢には勝てず目がショボ・ショボとなり、目が疲れるので、出来ることなら写真集を、と思いながら、最近では、図表、写真などを多く掲載した本を購入しています。①は辺境研究家の高野秀行と明治大学教授清水克行との対話形式の本です.世の中にはこんな国があるのか、本当に日本の室町時代の混沌とした世界だと驚きでした。②は詩的で情緒豊かな、きれいな写真集です。アイヌ文化をもっと理解しなければと思いました。③は変わった昆虫とその変わった生態写真がいっぱいで楽しい本です。④はホッピーと言うノンアルコールビールみたいな東京でしか飲めない清涼飲料水(実際は0.8%アルコール含有です)のお話しです。ホッピーは一般的には『焼酎割り』に使用して飲みます。私も一度飲みましたが、飲み方(焼酎とホッピーの調合割合)が間違っていたのか、すっかり酔ってしまいました。⑤は地球上にもこんな場所があるなんて驚きの写真集です。⑥は日本人が設計した世界の美しい建築物55の作品集です。本当にこんな建築物を日本人が設計したのか、驚きです。表紙の写真を4つ載せました。 是非ご購入し、読んでください。
それではまた次回まで。ごきげんよう。さようなら。

① 世界の辺境とハードボイルド室町時代
   清水克行・高野秀行(対談) (集英社インターナショナル)
② アイヌの祈り 写真 堀内昭彦 ((株)求龍堂)
③ ときめき昆虫学 メレ山メレ子((株)イーストプレス)
④ ホッピー文化論 遠藤哲夫 (ハーベスト社)
⑤ 絶対に行けない世界の非公開区域99 ダニエルスミス 
            (日経ナショナルジオグラフィックス社)
⑥ 日本人建築家が建てた、海外の美しい建築
   編著:バイインターナショナル ((株)バイインターナショナル)

  

 

  

 




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 第27話 トンチカン先生、場違いなところへ


さてさて、私は、既に70歳を超え、遂にと申しますか、当然と申しますか、残りわずか1年で「後期高齢者」の仲間入りをする時がやって来ました。でも、精神的には20歳代の血気盛んな青年を標榜しております。そして、「年寄りの冷や水」、「老いては子に、そして、孫に従え」、という格言に正面から反発し、「正月は冥土の道の一里塚、正月なんてちっともお目出度くない」、とヘソを曲げたり、時には「美術館、博物館巡り」や「自分を知るための社会学入門」〔中央公論新社 本体1500円〕、という本を読み、一方では「ゆる妖怪カタログ」〔河出書房新社 本体1600円〕と言う訳の分らない本を見てと、一応、素直に、そして無手勝流に興味を持ちながら、トンチンカン、かつアンポンタンな毎日を送っています。それでは、いつものように始まり、始まり~っ。


最近読んだ本、見た本の紹介(表紙の部分)

 



 昨年、とあることから、(『ふとしたことから』の方が正しい表現かも知れません)東北大学の先生から、東北大学が主催する「プロフェッション教育研究会第二回大会」に参加していただき、研究発表をしてほしいと依頼がありました。


教育研究会のお誘いの案内状の「はじめの言葉」

 


何で? とっくに70歳を過ぎた、この私が・・・? と思ったのですが、どうも、その原因は中国の大連市にある東北財経大学での環境に関する講演や同じく中国の天津市で開催された環境フォーラムの事例研究発表、国内では、北九州市立大学での環境問題研究会参加、名古屋市内の大同大学など2~3の大学で、環境に関する講義をしていたので、誰かが紹介し、お呼びがあったのではないかと言うことの様です。



2009年 大同工業大学(現:大同大学)の『大学案内』、教員紹介のページより
『約10年前、ニコニコと笑顔で写真におさまる』

 


スケジュールは東京羽田空港に集合し、第1・2日目に長野県にある関西電力の黒部第4ダムを見学するバスツアーコースが入っていましたが、それは時間の関係で参加出来ませんでした。第3日目の研究発表会の方はなんだか分らないうちに承諾してしまいました。つまり、発表に当たっての注意書きを読みますと、『発表は英語又は日本語』とありましたので、私は日本語が話せますので、何とかなると、かなり安心して承諾したのでした。
 ところが、当日、東北大学の講義室である会場に行きますと、外国人の多いことにまずはびっくり。私の発表は5番目です。そうしたら、ほとんど全ての発表者は英語で発表するのです。アメリカ人も、中国人も、アフリカ系の人もみんな私から見ると流ちょうな英語で、堂々とした態度で発表していました。さらにびっくりしました。
 発表内容を聞くのですが、英語なのでさっぱり分りません。発表が終わり、皆さんが感動して拍手や笑い顔をすると、私は周囲をキョロキョロと見て、1~2秒後に、音の出ない軽い拍手をして、ニコニコと笑顔をするのです。大変な目にあいました。でも頑張って、最後まで理解した『ふり』をし続けました。あ~ぁ、疲れた。本当に『場違い』な所へ来てしまったと言う感じです。



私が発表したパワーポイントの第1面

 


ちなみに、私の発表内容は、愛知県の組織である「あいち資源循環推進センター」のコーディネーターを仰せつかっているので、このセンターが主催している、環境に貢献している企業や教育システムを表彰する「愛知環境賞」の事例(高等学校、小学校の環境教育実践の受賞事例)を発表しました。

 発表が終わった後は懇親会です。わぁー、やだなぁー、英語はほとんど話せない。外国人は、アメリカ人、インド人、中国人、インドネシア人、アフリカ地域の人など様々です。75%以上は外国人です。そしていよいよ懇親会が始まりました。
 すると皆さん、なんと、ほとんど全員が日本語で会話するのです。え~っ、何で~っ? どうして~っ? 3度目のびっくりです。しばらくして、仲良くなった中国人の発表者(男性です。)に「日本で開催される研究会ですので、なぜ日本語で発表しないのですか。」と聞きましたら、「英語で話した方が間違いないし、全ての人に通じます。この様な場ではほとんど英語で発表します。」と返事をいただきました。失礼しました。
しかし、よくも、こんな『場違いなところ』へ来てしまったものだと、反省することしきりでした。でも、懇親会の席では、多くの外国人と『日本語』でおしゃべりができ、楽しいひとときでした。

 翌日には東京にいる息子のところへ行き、かわいい孫と一緒に過ごし、変なところに迷い込み、大変な経験をした『研究会』の疲れをほぐしました。 皆様、くれぐれも、『場違いなところ』には行かない様、お気を付けください。 やれやれ。


<参考> 『ニコニコと笑顔』 について

下の記事は、日本経済新聞のコラム記事です。昔から『笑う門には福来たる』と言われている様に、笑いは免疫力を高めるようです。学生時代はトンチンカンな会話で私たちを楽しませた「ひょっこりひょうたん島」を見ていました。今は毎週日曜日午後5時30分からの、「笑点」を見ています(見られない事情がある場合は録画します)。皆さんも、常に笑顔で、毎日を楽しくお過ごしください。『作り笑い』でも十分免疫効果があり、長寿につながるようです。


令和2年3月9日発行の日本経済新聞の記事 「こころの健康学」です。

 


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 第26話 トンチンカン先生からアンポンタン老人へ


さてさて、『令和』最初のお話です。すでに70歳を超えた私ですが、何かと興味を持ちながら、つまり、首を突っ込みながら、アンポンタンな解釈で発言する、行動するなど、周りの人々から、びっくりした目つきで見られ、逆に無視されて、「なんでだろう。」と勝手に不思議がる今日この頃です。ついに、トンチンカン先生からアンポンタン老人へ遷移してしまいましたが、このたび完全にアンポンタン老人へと進化しました。それでは、いつものように始まり、始まり~。


その1 孫の夏休み自由研究の手伝い

いつも私がかわいがっている孫(孝くん、または孝樹、と呼びます)から、「じいちゃん。2年生の夏休み自由研究一緒にやろうよ。」と言うのです。私は、「何するの?」と聞くと、孫は「カブトムシの研究。」というのです。「そんな、毎日見て観察するだけでは、だめだよ。研究にならないよ。」そして、「カブトムシの解剖ならいいかも。」と言いました。といっても、私も良いアイデアがないので、孫と二人でどうしよう、どうしようと考えていました。
 そういえば、昨年の夏に、アサガオの苗を学校から持ってきた孝樹が、私の家庭菜園で育てて、種がいっぱい出来たことを思い出しました。
 それは、アサガオの苗を家で育てる子には先生が1株ずつあげます、ということでもらってきた苗ですが、結局、私が家庭菜園の午前中しっかり日の当たる一等地で育て、枯れるまで管理したアサガオから出来た種です。種は100粒を超えるほどあり、冷蔵庫の野菜室に眠っていました。


研究のために使った朝顔のたね(100粒強)

 



これで何か研究できないかと考えた挙げ句、朝顔の種をいっぱい発芽させ、どのような場所できれいに成長するかを調べることにしました(この部分は、ほとんど私の考えで、孝樹はポカンとしているばかりでした)。そのためには、植木鉢がたくさん必要だろうと思いました。そこで、昔お世話になった、『常滑焼』で有名な常滑市在住のAさんに電話相談しましたら、「植木鉢の生産業者でもう生産していない会社(多分倒産したようです)があります。その工場跡地には壊れた植木鉢がいっぱいあります。中には使えるものがあると思いますので、もらってきましょうか。このままでは、どうせ、産業廃棄物になる物でして、処分するには費用がかかります。ちょうど良いと思います。」という嬉しい返事でした。
 マグカップほどの大きさの、壊れていない植木鉢を20個いただいてきました。そしていよいよ自由研究の始まりです。



研究で使用した発芽1週間目の朝顔たち

 


(研究途上のお話しをすると長いので省略します。)


根と茎の長さを測定している孫。

 


研究の成果を模造紙2枚に書き、写真もきれいにちりばめて完成しました。孝くんは元気に、自信満々な顔つきで、2学期の始業式の執り行われる9月4日に小学校へ持って行きました。1週間後、父兄の人が参観できるよう学校の体育館に並べられ、掲示されていました。私たちの(孝樹と私の)研究結果は、なんと金賞でした。数日後、孝くんは大喜びして、私の事務所へ金賞の表彰状を見せに来ました。金賞の中から1品が学校の代表で、市の展覧会に出品されるようです。孫も、私も、絶対に出品されると確信していましたが、残念なことに出品するという連絡はなく、ある日、孝くんは研究結果を書いた模造紙を持って下校してきたのです。私は大変落胆し、そんなはずない、何かの間違いではないか、いやいや審査員である先生の理解度が足りないのではないか、と次から次へと、何故、何故、どうして出品されないのだろうかと思いを巡らし、かつ、憤慨していました。そして、ハッと気づいて、あっ、いけない。孫の自由研究なのに、アンポンタン老人だけが独走している。その後、大いに反省する毎日でした。
 孫はというと、何も感じず、次の遊びに夢中になっているのでした。



その2 なわとびの練習

ある日、息子から、「孝樹がちっとも縄跳びが出来ないんだよ。」という話がありました。少し考えた挙げ句、「それなら、私が教えてあげるから、私の仕事が終わった午後5時頃、孝くんに事務所へ来るように言って。教えてあげるから。」と伝えました。
 翌日、縄を持ってやってきました。
私、「それでは飛んでみなさい。」
(孝樹は飛んだけど、縄が1回転もしないうちに、足に縄がひっかかり、飛べません。)
孝樹、「う~ん。絶対無理。」と言って、「おじいちゃん、やって見せてよ。」というのです。
  (孝樹の飛び方は、お尻を突き出して、前屈みになり、縄を力強く回すことなく、へたり込んでしまうのです。出来ない理由が読めました。)
私、「よ~っしゃ。見せてやるからね。見ててよ。」
  (孝くんから縄を取り上げ、模範演技を見せるべく飛びました。しかし、なぜか、1回も飛べません。)
私、「おかしいなぁ~。何故だろう。」・・・・・「あっ。わかった。縄が短いのだ。大人用の縄跳びの縄を買いに行こう。」ということになりました。
  (そして、私の車で孝くんを乗せて、スポーツ量販店に行き、大人用の縄跳びを買い求めました。)
私、「あのう、大人用の縄飛び紐ありますか。」
店員、「ここにあります。丈夫なものなら1,000円ほどしますがいかがですか?」
私、「一番丈夫なものをください。980円ですね。」
店員「あのう、あなたの靴は相当傷んでいますね。靴底がすり減っていますよ。これで縄とびは危ないです。」というのです。
孝樹、「おじいちゃん、靴、買った方がいいよ。」
私、「う~ん。じゃ、運動靴も買おう。」
店員「これなど、丈夫で、安全です。いかがですか、一度履いてみますか?」
(私はとりあえず、試着し、履き心地が良かったので、購入することにしました。そしてゆっくり値段の書いた札を見ると。)
私、「え~っ。8,000円!!」、
仕方ない。安全面も考えて、孫の手前、縄跳びの指導中、転んで骨折でもしたら全治何ヶ月の重傷、場合によっては寝たきり、そして、おじいちゃんの権威は失墜、と考えれば考えるほど負のスパイラル。結局、勇断を持って、つまり『清水の舞台から飛び降りる』つもりで購入しました。
私、「あ~ぁ。指導経費、8,980円も使ってしまった。」とブツブツ、ブツ。
その後、毎日、孝くんに縄跳びを教えました。
私、「お尻がでている。引っ込めて。」
私、「正面を見て、姿勢正しく。」
私、「腕は、体にくっつけて、縄を回すのだ。」
とスパルタ教育と模範演技を織り交ぜて、1週間。ついに、孝くんは連続50回ほど飛べるようになりました。そして、走りながらのなわとびも出来るようになりました。やれ、やれ。
 その後の私と言えば、膝が痛くなり、腕も筋肉痛でしばらく養生することとなりました。しかも多額な指導経費(練習資材)を投入して、であります。皆様も、あまり模範演技はしないようにしてくださいね。『模範演技先輩』からのご忠告です。

 そしてしばらく後、膝の痛みが続きましたので、膝のお皿が割れている、もしくは、足の骨がボキッと折れているのではないかと心配して近くの整形外科医院でレントゲンを撮ってもらいました。


整形外科医院で処方してもらった、炎症を押さえる薬と湿布薬

 


医院の医者、「膝関節はきれいですね。軟骨もしっかりあります。」
 私、「どうして痛いのでしょうかねぇ。」
 医院の医者、「急激な運動、無理な運動は避けてください。年齢ですから。少し炎症を起こしているようです。」と言うのです。
 『縄跳びの模範演技』のことは、恥ずかしくて言いませんでしたが、医院の医者は、過激な運動でこの様になったと、薄々感じているようでした。
 これからは、『過激な運動は控えます。』と私自身に宣言しました。
 そして、1週間分のお薬で痛みはほぼ解消しました。薬の効果は良く、この様な、あまり反応能力のないアンポンタン老人にも効果があるのだと感心しました。



その3 自転車乗りの練習

孫の孝樹は、もう2年生になってかなりの日数が経っているのですが、自転車に乗れません。私が機会ある毎に、日曜日の安城市役所職員駐車場で自転車乗りの練習をさせました。補助輪付きの子供自転車ですが、7歳の孝樹にはすでに小さすぎます。まず、工具箱を取り出して補助輪を取りはずします。

補助輪を外し練習した自転車

 



孝くんが自転車に乗ります。私が後ろで自転車を支え、スタートです。中腰になり一緒に走ります。孝くんは危険を感じるとすぐブレーキをかけます。私はつんのめりになり、転びそうになります。
 とまあ、こんな訳で大変な苦労をして練習をしました。孝樹はなかなか上達しません。私は息切れと、腰痛で座り込みます。
 孝くんは、「僕、もう出来ないから、大人になっても補助輪をつけて走るよ。」と言うのです。そんな馬鹿な、どう考えてもその様なことは出来ないので、更に練習を重ねることにしました。
 私は、「足でペダルをしっかり、キック、キック。」と叫びます。そして、「倒れる方へハンドルを切るのだ。」とも叫びます。
 最後は、孝くんの肩を持って、100メートルほどの直線を一緒に走るまでになりました。そしてついに自転車に乗ることが出来たのです。本当に疲れました。ヘトヘト。



悠々と自転車に乗る孫と新しい自転車

 

 

その日の夕方、息子(孝樹のお父さん)から電話がありました。「今日、職場から帰ると、孝樹が家の前で悠々と自転車に乗っているんだよ。ハンドルを右に切ったり、左に切って、もうずいぶん前から乗っている様な状態。びっくりしたよ。お父さん(私のこと)有り難う。」
 その後、あまりにも小さな自転車だったので、私が自転車に乗れるようになったご褒美として、孝樹に、かなり大き目のかっこいい自転車を買ってやりました(写真を見てください。かなり高額)。やはり、孫には甘く、その結果、当然ですが出費もかさむこととなりました。ヤレヤレ。



その4 孫のバイキング料理、初体験

夏休みに、大きなホテルに宿泊する計画を立てました。息子一家と私、総勢5名の団体旅行です。ホテルは大きく、食事は夕食、朝食とも、すべて『バイキング形式』です。宿泊する部屋のカード式の鍵を持ってホテルの食堂へ行くと、係のお姉さんに5人が座れる場所(テーブル)へ案内していただけるのです。
 食堂は大きく、テーブルは20~30もあります。天井は低いものの、体育館のようでした。正面奥には日本食コーナー、右側は洋食、左側は中華のコーナーです。所々に、正方形で9つのくぼみのある皿が積んであり、それを1枚ずつ持って好きな食べ物を自分で取り、テーブルまで持ち帰り、そこでいただくのです。
 私は、日本料理が並べられたコーナーに行き、刺身、おでん、おしたしなど純和風の食べ物をいただきテーブルに帰ってきました。
 孝くんも私の後に付いてきて、卵焼き、かまぼこ、たこ焼きなどを取り、私とともにテーブルに着きました。「いただきま~す。」といって食べ始めたのですが、孝くんは遠慮したのか、何なのか、少ない量でしたので、すぐ食べ終わってしまいました。
 「今度は自分で取りに行ってきなさい。あちらの方は中華のコーナーだから、孝くんの大好きな食べ物がいっぱいあるよ。」と私が言うと、空になった9つのくぼみのある皿を持って中華の方へ行くのです。
  (しばらくして)
 その後、私たちがビールやウーロン茶を飲みながら歓談していると、孝くんが9つのくぼんだ皿を大事そうに、こぼれないように、ゆっくりした足取りで帰って来るのが遠くに見えました。何か変だぞ、皿の中は真っ白です、中華系は赤色が目立つ料理ですが、全て白色です。近くへ来たのでよく見ると、写真の通り、肉まんが9つ載っているのです(写真は8つですが、すでに1つは口の中)。なんだ、なんだ、これは、「バイキング料理はいろいろな食べ物を少しずつ取り、テーブルで美味しくいただくんだよ。」というのですがすでに時は遅く、一番右手前のくぼみにある肉まんから食べ始めているのです。


肉まんの好きな孫がテーブルまで持ってきた、すべて肉まんの
載った9つのくぼみのある皿(1つはすでに『口の中』)

 


いくら肉まんが好きでも、こんなに食べるとは思いもよらぬ状況で、子供の考えることは、大人には想定できないものだとつくづく思いました。孝樹はすべての肉まんを一人で平らげました。この光景を見て、「驚きと呆れ」が一緒に来た思いでした。でも、楽しい夕食でした。
 そして翌日の朝食もバイキング形式です。孫は肉まんとは別の料理を食べています。朝からカレーライス、赤ショウガを除去した焼きそば、オレンジジュースなどです。あまりにも子供に似合わず大盛りです。いつも食べさせていない様に見えて、ちょっと恥ずかしい思いがしました。
 私はというと、本当は肉まんが大好きです。朝から肉まんを3つゲットしました。テーブルに帰り、早速食べ始めると、何と、肉まんではなく、アンまんでした。3つも食べると、口の中がアンコで甘ったるく、いつまでも味が残り、朝から肉まんのゲットは70歳代のおじさんには無理があると思い、反省することしきりでした。
 そう言えば、中国へ出張した時、ホテルでのバイキングは、いつも『夜は肉まん、朝はアンまん』ということを思い出したのでした。中国へは10回を超える回数、北京、南京、徐州、大連、蘇州、杭州などへ仕事で行っているのに、しっかり学習効果が発揮されていませんでした。反省、反省。
 と言う訳でして、つまり、縄跳びといい、自転車乗り、肉まんといい、孫と『き競い合う』と大変なことになると痛感しました。もっと、己を知ることを学習しなければ・・・・。

 令和最初のお話でした。孫には常に驚かされる日々です。マゴマゴしてしまいます。そして、アンポンタン老人は孫に可愛がられて、いつもニコニコの毎日を過ごしています。
 それでは、令和の時代を元気にお暮しください。人生3ケタ、100歳時代です。私も『アンポンタン老人』として、もう一働きも、二働きもする気持ちでいます。『令和の時代』、皆様の、ご健勝とご多幸を祈念致しております。
 それでは皆さん、次回のお話まで、ごきげんよう、さようなら。




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 第25話 平成最後の旅路


みなさま、暑い夏で猛暑、大きな台風の襲来 そして厳しい残暑、いかがお過ごしでしょうか。わたしは家庭菜園の管理の放棄、毎日のウォーキング、1万歩達成の返上など、毎日ダラダラしたイモムシのような生活を送っております。

さてさて、『令和』最初のお便りをお送りします。昭和、平成、令和と生きてきました私としては、大変な長生きをしたものだと感心していますが、『人生100年時代』という声を聞くと、かなり不安があります。

なぜかと問えば、昨年の春3月に行きました台湾での仕事がキツ過ぎて、具体的には、つまり、摂氏4度の日本からイキナリ摂氏27度の台湾南部での気温の中で、しかも『モモヒキ姿』で悪戦苦闘した結果、外国嫌い、それに『出不精』になってしまったのであります。今思えば、4泊5日の間、全て工場環境指導をしたのです。物見遊山はありません。延べ9工場の環境指導です。それもほとんど屋外の仕事です。公害対策の施設はおおよそ、屋外に設置され、しかも工場の裏手にありまして、直射日光を避ける設備も用意されていません。その結果、第一日目のモモヒキ姿が、後の工場環境指導の仕事まで尾を引きまして、さらに帰国後も体調不良、疲れやすい、すぐ風邪気味など大変なことになったのであります。


台湾新幹線台南駅にて(モモヒキを履いている)

 



体調が良くなったのは、夏も終わりごろでしたが、外国嫌いになり、その後は海外での仕事を断る状態です。しかし、そんなことばかり言ってはいけないと、まずは、飛行機に乗ることから体を馴染ませることとして、先日、鹿児島、宮崎へ家族旅行をしてきました。息子夫婦と孫2人と私の計5人、2泊3日の旅です。さ~って、ご覧あれ。


第1日目

セントレア(中部国際空港)からテイクオフ。観光当日は、好天に恵まれ、桜島がくっきり見えました。噴火している様子もしっかり見え、孫は、「マグマだ。マグマだ。」と言ってはしゃいでいました。私たちは、鹿児島空港からレンタカーで、特攻隊出撃基地の跡地に出来た知覧(ちらん)特攻隊平和祈念館、その後、知覧武家屋敷跡を見学しました。鹿児島と指宿の間にある知覧は静かな街並みです。


知覧の武家屋敷跡にて(目を寄せてポーズを取るヒョンキンな孫と(隔世遺伝かも))

 



その後、鹿児島市内の城山(西郷隆盛最期の地、桜島が綺麗に遠望できる丘)、九州新幹線鹿児島中央駅ホーム(孫の希望)に立ち寄り、鹿児島港からフェリーに乗って噴火している桜島の裾野に位置する桜島温泉(硫化鉄温泉)で1泊したのでした。


フェリーから見た桜島(頂上の右部分から噴煙が上がっていた)

 


  桜島温泉は小説『放浪記』で有名な小説家 林芙美子のお母さんが仲居をしていた
  温泉地です。そのホテルの前には『花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき』
  と刻まれた石碑の前に林芙美子像がありました。林芙美子は尾道に出るまでの幼
  少の時期にこのホテルに母と一緒に従業員部屋で住んでいたとのことです。


孫は小学1年生の国語の教科書で「いろいろな船」という読み物を習い、その中でフェリーの話が出ていましたので、それを思い出したのか、フェリーに乗るや、すぐさま客室へ行きソファーに寝そべり、また、デッキにあがり自動車がどんどん船に入る所を見て、売店ではソフトクリームを買い、大変喜んでいました。


第2日目

 

翌朝、夜明けとともに(年を重ねると寝起きが早いのです。) 私一人で林芙美子の石碑の周りをウォーキングしました。すると風の向きが変わったのか、急に火山灰が降って来ました。空を見上げると細かい黒い粒子がフワフワと降下しているのです。道路を走る自動車は火山灰の砂塵を巻き上げながら通り過ぎます。私たちのレンタカーも火山灰で汚れています(後に、孫は自動車の上に積もった火山灰に、意味不明な落書きをしていました)。私は肩や腕に火山灰が付着しているので時々、はたきながらウォーキングです。

火山灰を浴びるという、ちょっと変わった経験をしました。これぞ、旅の醍醐味というものでしょうか。満足、満足。

朝食後、再びフェリーで鹿児島市内へ戻り、高速道路を走り、宮崎県の鬼の洗濯板で有名な青島へ、そして鵜戸(うど)神社を参詣しました。


孫と宮崎県青島「鬼の洗濯板」にて記念写真。

 


孫はこの4月から2年生です。鵜戸神社では、誰が教えたのか、賽銭箱の前で、お賽銭を投げずに柏手を打って、頭を下げ、手を合わせた格好で「2年生になったら、運動神経がよくなりますように。勉強がよく出来ますように。」と小さな声でブツブツ言いながら手を合わせて拝んでいます。それを見た私はちょっと待てよ、と考えたあげく、孫に説教しました。「そのお願いの仕方はだめだよ。それは。他力本願の願掛けといって、自分の努力なしで神さまにお願いする方法じゃないか。神様にお願いする時は、『毎日、運動をしますので、運動神経が良くなりますように。毎日、しかり勉強しますので、頭がよくなりますように。100点取れますように。』と言って拝むのだよ。」と懇切丁寧に教えました。

お賽銭を投げず、他力本願の願掛けをする孫。



そして、霧島温泉郷で2泊目です。大きな露天風呂がいくつもあり、その中で湯船もいくつもあり、孫たちは、まるで子供用プールで遊ぶように、はしゃいでいつまでも湯に入っていました。

九州の鹿児島へ行くなら、絶対『焼酎』の飲み比べ、夕食時はボトルで注文と意気込んでいましたが、何てことない、一応、豪華夕食と言われるホテルの夕食では、ほとんどすべて食べ尽くしたのでお腹が張ってしまい、生ビール一杯で終わりました。年には勝てないですね。

ホテルの売店には焼酎がいっぱいありました。

 



第3日目

最後の日は午後の便で名古屋へ帰ります。午前中、大きな社殿を持つ霧島神宮を参拝しました。『日本発祥の地 霧島』という石碑があり、高千穂峡と同じくこの辺りは神話にあふれた神秘な場所です。なかなか良い所でした。次回は高千穂神社などへも行ってみたく思いました。


霧島神宮本殿



このような訳でして、楽しい家族旅行をさせていただき、息子一家には感謝をしています。そして、帰りの飛行機から降りて、家路に向かう間、「今度はどこに行こうかね。」と、すでに、次の計画に話が弾んでいました。

私も、もう73歳の年齢でして、老いては子に従え、そして孫に従え、の家族旅行でした。嬉しくもあり、淋しくもあり、平成最後の旅路でした。

それでは、元気にお暮しください。人生3ケタ、100歳時代です。次は『令和』の時代です。私ももう一働きをする気持ちでいます。
『令和の時代』、ご家族の皆様ともども、ご健勝とご多幸を祈念致しております。
「平成最後のお手紙。」ご笑納、ご一読頂き、有難うございました。
それでは皆さん、次回のお話まで、ごきげんよう、さようなら。また書きます。


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 第24話 トンチンカン先生、台湾へ行くの巻


さてさて、皆さま、私は初めて台湾という所へ行って来ました。日本に近い国ですが、まだ行ったことがありませんでした。台湾の企業から環境指導をしてほしいと依頼がありましたので、さっそく行くことを決めました。

季節はちょうど3月の中旬、日本の気候は暑い日と寒い日が交互にやってきます。しかし、台湾はもうすでに25度を超える日本でいう夏日が毎日でした。

それでは、またまた、漫遊記をどうぞ、ご覧あれ。


その1 セントレアから桃花国際空港(台北)、そして台南市へ

まず、朝9時30分、私一人でセントレアからテイクオフ。集合場所は台北『桃園国際空港』です。到着は12時15分ですが、時差が1時間あります。したがって、飛行時間は3時間45分です。

今回は、関係者4名で視察兼指導です。私を除いた3名は、それぞれ上海空港、香港空港などから集まってくる、中国人の人達です。私の飛行機は正確に到着しました。入国検査を受けて空港ロビーへは、12時45分ごろに出たのですが、肝心の集合場所には誰一人いません。携帯電話で呼び出しても応答はなく、いささか不安になってきました。

そう言えば、前回も北京空港で集合した時に上海空港から来る人と待ち合わせをしたのですが1時間30分も待たされました。そんなことから、気を大きく持ち、「まぁ、こんなもんだ。」と納得してのんびりベンチに腰かけていました。案の定、30分ほどして、2人の関係者がやってきました。しかも、ゆっくりと歩いて。

1人は通訳も兼ねた中年の男性技術者、もう一人は若い女性。なんと、大学を卒業して3年目という事です。若いなぁ~。他の1人は、空港到着が3時間後ですのでホテルで集合としました。

現地で落ち合った関係者の一人とさっそく『ツーショット』
(地下鉄『桃園空港駅』のホームにて)

 

まず、桃園国際空港から、台湾新幹線の駅まで地下鉄で移動します。上の写真をご覧ください。初対面の挨拶をかわして10分もたたないうちに、『ツーショット』です。

(さい先がいいなぁ~。今回は出鼻をくじかれずに済みました。)

新幹線は、桃園駅から台南駅まで、所要時間はおおよそ1時間30分です。10号車から12号車の自由席です。3人はバラバラになって乗りました。

桃園から台南までの台湾新幹線切符

 

①単程票とは、片道切符乗車券のことです。

②自由座車廂とは{廂はヒサシの意味}自由席車両のことです。

③10~12節とは、10~12号車のことです。

新幹線のスピードは日本でいうと「こだま」程度でして、駅が多く15分走ると止まり、20分走ると止まるという状態です。鉄路と車両は日本製、信号系統はフランス製だそうです。乗り心地は日本の新幹線と変わりはありませんでした。

台湾新幹線を背景に(台南駅にて)

 

午後3時ごろには、新幹線の台南駅に着きました。この駅は郊外にあり、台南市の中心部に行くにはさらにローカル電車に乗り換えて市の中心部に行くのです。ところが、駅を降りホームへ出ると、暑いのなんの、気温は27℃です。中部新国際空港(セントレア)を出る時は気温が4℃でして完全な冬の装い、つまり、モモヒキを履き、上は長袖の下着です。汗が滲んでくるというより、身体が蒸れてしまい、急速に疲労感が襲ってきたのです。ネクタイをはずし、ズボンのバンドを一つゆるめるなどして可能な限りの対応をしました。本当に散々な目にあったのでした。

ローカル電車は下の写真のように青い電車でした。乗客もほぼ全員座席に座ることが出来る程度の混みようです。10程度の駅に停車し、台南駅に着きました。そこから、タクシーでホテルまで行きます。ホテル到着は午後5時近くになりました。

新幹線台南駅から台南市内までの列車(重そうな感じでした。)

 

その2 台湾料理で、最高級のおもてなしを受ける

ホテルで一休みです。早速、モモヒキを脱ぎ、シャワーを浴び、日本から持って来た半そでシャツに着替えました。そして、夜の歓迎宴会に出席です。

ホテルのロビーに6時集合、歩いて10分程度の場所の台湾料理専門店へ入りました。何故か、ウエイトレスが多くいた印象があります。しかも、案外高年齢のウエイトレス(どっちかというと『としま』)で、みな白い割烹着の様なものを着ています。これが台湾料理のお店か、独特の雰囲気だなぁ~、と思っていると、さっそく鍋料理です。野菜が鍋からあふれんばかりの「てんこ盛り」に入っています。火を付け、しばらくグツグツと言う音です。この音の優しさと言い、野菜が煮えた良いかおりと言い、実にうまそうだなぁ~。中を覗きこむと「とんこつラーメン」の様な汁の色です。とんこつラーメンはしょう油ラーメンより好きです。これは行けるぞぅ~。シメシメ。

と思いきや、例の「としま」ウエイトレスさんが鍋の底から何やら怪しいものを取出し、鍋の淵に並べるのです。6人で食事ですので、それは6本ありました。

うへぇ~っ。それは、豚の足か腕の骨が2つに切断された代物です。それが下の写真です。これはグロテスク。何ともいえない感じです。

切断された豚の骨が入った鍋料理。
(経験のない味でした。味はわかんない。失礼)

 

通訳の人に、「これを食べるのですか?」と聞きましたところ、通訳の人は箸でその骨をつまんで私の皿の上に載せ、「はい。これをストローで飲みます。」というのです。つまり、ストローで骨の髄液をチューチュー吸うのです。

わぁー、これは大変だ、初めて味わう味でして、美味しいのか不味いのかわかりません。しっかり、目をつむって吸いました。何とも言えない味です。招待して頂いた企業の人に失礼のないよう、やっとの思いで、全て、きれいに飲みました。ところが、としまのウエイトレスのおばさんが、いきなり、ささっ、とやって来て、おもむろに鍋の汁をしゃもじ(おたま)に取り、私の皿の上にある骨の空洞に注ぐのです。「わぁー、また飲むの?」

ストローでチューチュー吸って飲みます。
(下部の関節とおぼしき周りにはゼラチン質がこびりついています。)

 

今度は、再び鍋の汁を注がれないよう、ゆっくり飲んだり、飲んだふりをしたり、と悪戦苦闘です。すると、通訳の人が、「骨の関節の部分のゼラチン質も食べるのですよ。美味しいですよ。」というのです。「もう騙されないぞぅ。これも多分同じ状況になるのではないか。」と思い、少しづつ遠慮がちに食しました、ほとんど残して・・・。周りの人は、食べていました。よく見ると、ゼラチン質の油で、口の周りをギラギラさせて食べているのです。参ったなぁ。

その3 いよいよ、工場視察兼指導

朝起きると、天気の良い、南国調の日差しが照りつける晴天の日でした。外国旅行では、朝早くの市街地はその国独特の習慣が垣間見えるという事で、いつも朝の散歩をします。

朝の散歩の途中にて(台南市メインストリート)

 

今回も、台南市の下町を1時間ほど歩きました。台湾は中国、ベトナム、タイと同様、バイクの多い町です。赤信号になると、10~20台のバイクが自動車の前に並びます。そして青信号になると一斉にバイクが走り出し、その後を自動車が走り出すのです。

路地を入ると中国の上海、南京と同じような風景が見られます。中国語は十分な知識がありませんが、台湾では何だか言葉が少し違うなぁ、中国語とも違うし・・・、と思いました。台湾南部では、福建省の人達が多く移住しているようでして、この地域では中国語、中国語と少し違う台湾語、そして福建語の3つの言語が重なっているという事で、この3か国語(?)を理解し、話せないと仕事にならないのだそうです。

ホテルから台南市の市街地を見る

 

そして、午前8時にホテルロビーに集合です。いよいよ仕事のはじまり、始まり~っ。まずは、台南市のサイエンスパークに設置されている排水処理施設の運転管理の指導です。サイエンスパークと言っても、いわゆる工業団地です。しかし、大規模な、きれいな工場が立ち並び、大気汚染もありません。実にきれいな工場団地です。まず、私たちは、この工業団地のお偉い方に挨拶をするため、工場団地の管理事務所へ行きます。事務所の前には野外展示物として様々な芸術品が並んでいます。下の写真は有名な彫刻家によるものと解説がありました。その他、薬缶(やかん)のようなマンモスの様な芸術作品、人がベンチで休んでいるような芸術作品などいたる所にありました。何でこんなにも多く、いたる所にあるのだろうと不思議に思いました。

管理事務所の前にある芸術作品(鼻をナデナデしてゴマをすっている。)

 

名刺交換をし、挨拶が終わり、現場へ向かいます。もちろん車です。この工場団地には3つの工場排水処理場があり、2か所は稼働中、1か所は建設中でして最新の設備を整えることにしています。

わたしたちは、既に稼働中の施設の運転状況を見て回りました。管理責任者は常駐しているのですが、処理施設はその能力を100%発揮していないように思われました。稼働して2~3年だそうです。安定した運転に向けてさらなる指導が求められます。

活性汚泥法による大規模な工場排水処理施設
(1日3万トンの排水を処理するそうです。)

 

そして、難しい話になりますが、低分子の難分解性有機物質の除去が不十分という話になりました。排水基準が相当厳しいのです。そこで、下図のような工場排水をもう一度利用する、『水のリサイクル』を提案してきました。

将来の水リサイクルを考えて、膜ろ過装置の設置を提案しました。

 

とは言うものの、設備が高度化すればするほど、運転管理が難しく、この工場団地で使いこなせるかが今後の課題となりました。しかし、出来るだけ排水処理設備や発生汚泥の維持管理の教育をしていくこととしました。この様に、日本では当たり前の設備でも、その導入には細心の注意が必要であることも分かりました。 この様に、台湾では毎日、工場の排水処理場の指導をしたり、責任者と意見交換をしたりと忙しい日々を過ごしました。

その4 台北からセントレアへ

4泊5日の台湾の仕事も無事に終え、今日は日本へ帰る日です。今回の旅は余裕がなく、観光地へは行けませんでした。故宮博物館も行かず、ただ、1日だけ夜に台湾マッサージに出かける程度でした。このマッサージがまた、ものすごくて、つまり、マッサージは男の人が対応するのです。私は、体育系の若い男の人に当たって、マッサージというより力強く柔軟体操をしてもらったようで、終わってから、節々が痛くて痛くて、お金を払うのがもったいないと思うほどでした。

台湾で最後に食べた台湾ラーメン風の麺
(どんぶりはプラスチック製)

 

帰る日の午前中も仕事でして、途中、空港への帰り道、『元祖 台湾ラーメン』のようなものを食べました。辛くて、辛くて悪戦苦闘しました。中身はラーメンというよりも、きしめん(名古屋名物のうどん)という方が当たっている様な太麺でした。そして、赤ちゃんのこぶし大ほどの大きさの大根、ニンジン、肉(何の肉かわからないが筋があり歯でかむことが大変なもの)が入っているのです。でも何とか、日本まで帰って来ました。

結局、今回の旅は、疲れた~っ、の一言でした。その後、日本の気候に慣れるまで再び風邪気味、花粉症気味になり、2週間ほど体調が回復しませんでした。気候のせいもさることながら、骨を2つに切断した鍋料理を食べたせいもあるのではないかと、現在でも思っています。

 それでは、終わります。さようなら。やはり、疲れた~っ。

皆さま、来年はイノシシの年です。猪突猛進で幸せをゲットしてください。それではよいお年をお迎えください。

 <追加です>

そういえば、幸先の良い、ツーショットで記念写真を撮った御嬢さんとはどうなったかと申しますと、『竜頭蛇尾』とはこのことでして、その後は特段何もなく、別れの握手もなく、日本語で「さようなら。」と言っただけで別れました。名刺交換はしたのですが、中国語でして読むことが出来ません。これだけは残念というほかありませんでした。         以上、おわり。


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 第23話 トンチンカン先生の『北の旅人』    


さてさて、皆さま、今年もよろしくお願いいたします。実は、昨年の11月に23日の日程で、一応、研修旅行と題して、スタッフ3人で北海道に行って参りました。今、話題になっている水俣病の原因である水銀の使用に関して世界条約が発効し、全面的に使用禁止となりました。いわゆる水銀条約です。日本の国も水銀に関する様々な法律がこの条約に合わせて、大きく改正されました。もう水銀はPCBと同じく完全に使用できないのです。そのため、日本で唯一、水銀を無害化処理する工場である『野村興産イトムカ鉱業所』を視察することとしました。

もう一つの研修旅行の目的は、札幌市が運営する『モエレ沼公園』です。この公園は、産業廃棄物や一般廃棄物の埋め立てが終了した広大な廃棄物処分場を自然豊かな自然公園に造成したものです。設計も有名な彫刻家、いや、総合芸術家と言いましょうかイサム・ノグチ(父は詩人の野口米次郎、母はアメリカの作家レオニー・ギルモア)によるもので、知る人ぞ知る有名な施設です。それでは、お待たせしました。いつもの珍道中をご覧あれ。

 

表 北海道視察旅行の旅程

日にち

主 な 視 察 場 所

第1日目

モエレ沼公園視察、北海道大学資料館

第2日目

野村興産㈱イトムカ鉱業所視察

第3日目

札幌、小樽の景観視察、日本銀行資料館

 

第1日目 名古屋から札幌、旭川へ

 まず、朝7時50分テイクオフ。セントレアから新千歳空港へのスカイマークでのフライト。格安空港券を使いました。新幹線で名古屋から東京へ行くより安い運賃でした。しかし、格安の運賃だけあって機内はやや狭く、ちょっと窮屈な感じがしましたが快晴のため、窓から見る景色は最高でした。木曽三川の河口、乗鞍岳、諏訪湖、日本海、佐渡島、鳥海山、津軽海峡と流れる景色は目を見張りました。津軽海峡を渡るときはかなり低空飛行で、白波が目の前に見えるようでした。

  JR新千歳駅からは快速エアポート号で一路札幌へ、それからどの様にしてモエレ沼公園へ行くのか分からない。とにかく、JR札幌駅構内の札幌市内観光案内所のボランティアおばさんに聞くことにしました。

私「あのぅ、モエレ沼公園へ行きたいのですが。どのようにして行けばいいでしょうか。」

(時計台とか大通公園とか、すすき野のラーメン横丁など有名な観光地の問い合わせではないので、ボランティアおばさんはいつもと違う問い合わせに怪訝(ケゲン)そうな目で私たちを見た挙句、答が来ました。)

おばさん「地下鉄東豊(とうほう)線で終点の栄町まで行き、そこからタクシーですね。今、公園の紅葉がすごくきれいですよ。」

私「東豊線はどこから乗るのでしょうか?」(また怪訝そうな目)

おばさん「駅(JR札幌駅)の地下ですよ。」(何だか当たり前のような答)

何だかおかしな会話の後、東豊線に乗り、タクシーに乗りました。またしてもタクシー運転手さんと意思疎通のない会話

私「運転手さん、モエレ沼公園の中にレストランはありますか?」

運転手さん「公園事務所の中に一軒だけありますよ。」

私「ありがとうございます。2時間ほど見学して食事をしますので、その時間に迎えに来てくださいね。」

運転手さん「わかりました。携帯電話番号を教えますので電話をかけてください。よろしく。」

しかし、レストランは、かなりと言うか、相当な高級レストランでした。私の頭の中には1食1,000円未満の「一膳めし屋」的なレストランを想像していたのです。やはりここは、レストランと言わず「ちょっとした食堂はありますか?」と聞くべきでした。

最も安いランチでした。勢いでワインも飲みました。(パンは食べ放題)

 

 入口を入ると、まず、応接セットがあり、お茶を飲みながらしばらくそこで休憩し、そこから蝶ネクタイをしたウエイターに案内されると4人掛けのテーブルには白いシーツ、メニューを見ると上からランチ3,500円、4,000円、5,000円と書いてありました。そこでしかたなく「一番上のランチをお願いします。」と言いました。つまり、一番上に書いてある、安いランチをお願いしたのです。ところが、蝶ネクタイは確認するように、「3,500円のランチでよろしいでしょうか。」と言うのです。ランクが上ではなく、一番上に書いてあるものを注文したのですが、イヤミなウエイターですよね、まったく。坂部環境技術事務所の研修旅行ですので、旅姿は工場見学ですから汚れても良い服装で来ました。レストランの従業員の人達は、私たちの服装、立居振る舞いなどを観察してたのでしょうか、私たちが場違いなところへ来たので戸惑っている様子に見えたのでしょうか、少し、不安感の様な不信感の様なものがありました。特に、奥の方に居る料理人は、この人たちお金を持っているのかなぁ~、という目つきでした。

とはいえ、さすが3,500円。品があり、美味しく頂けました。あまりの美味しさに、ワインも注文してしまい、ほろ酔い加減になったのです。

でも、食事も最後の佳境に入るころは、蝶ネクタイは優しく、「どこから来られました?」と聞くので、「名古屋からです。」と答えると、「私の出身は静岡です。」と、いつもの出身地を紹介することから始まり、少しづつ話が弾み良い雰囲気になりました。満足、満足。

 

モエレ山からモエレ沼公園北東を見る(中央建物は公園事務所)

 

その後、3,500円の食事を終え、そして、広くて、山あり谷ありの自然公園を、荷物を持って徒歩で回りました。公園面積は189ヘクタールです。そしてモエレ山は標高62メートルです。とにかく広大で標高差もあり全てを見て回ることが出来ません。そこで、まず、眺望の効く「モエレ山」に登ることにしました。つまり、公園の全体像を見たいのです。ところがアルコールが入っているのか、はたまた、身分不相応な高級ランチを食べた結果なのか、息が切れて、息が切れて、20歩あるくと20秒休むと言う誠に不名誉なリズム感で登り切りました。この様な素晴らしい景色と自然豊かな風景の下に産業廃棄物が埋まっているなんて想像もできませんでした。ちなみに埋立てられたごみの量は、273.6万トンという記録が残っています。思いもよらない出費と山登りの疲労でしたが、十分研修成果が得られました。

<解説>

『モエレ』とは、アイヌ語の「モイレペツ」が語源と言われています。 「モイレ」は「静かな水面」・「ゆったりと流れる」、「ペツ」が「川」を意味します。 そして、モエレ沼は近くを流れる豊平川が自然河川として流れていた時代、たび重なる洪水や氾濫で出来た河跡湖と考えられています。

 

その後、札幌駅に戻り、歩いて北海道大学を見学しました。北海道大学の正門で記念撮影です。『子育ての失敗を孫で取り戻す。』と言わんばかりに、孫にはこの様な大学へ入学させたいと正門に向かって手を合わせ(仏さま)、柏手を打ち(神さま)ました(つまり多神教、あるいは無宗教)。そして、北海道大学博物館を見学した後、JR札幌駅から、函館本線で特急カムイ29号 旭川行に乗りました。日は既に陰り、車内の雰囲気は『本当に北海道』と言う状況でした。車窓からは暗黒の中に家のともしびがポツリ・ポツリと見え、夜行列車の雰囲気には十分なしつらえでした。

こんな訳で、第一日目から、脱線に次ぐ脱線の漫遊記でした。札幌駅で観光案内のボランティアおばさん、タクシーの運転手、さらには、3,500円のランチと、またしても、出鼻をくじかれた感じでした。


 

 

第2日目 野村興産イトムカ鉱業所



  旭川より北見の方が近い位置にあります。

 

朝早く、レンタカーで目的地である『野村興産イトムカ鉱業所』へ向かいます。何せ午前9時からの見学予約です。前日の天気予報では「雪、積雪15センチメートル」と報道されています。野村興産の案内書では旭川から高速道路を使い2時間という説明です。これは困った、そんなにスピードを上げて走れない。峠もあるようです。とにかく、何があっても時刻通りに着きたい。考えに考えた挙句、旭川のビジネスホテルを午前5時30分の出発としました。ホテルで朝食も取らず、市内のコンビニで菓子パンと野菜ジュースを買い、道中、車の中でムシャムシャと朝食です。

 


旭川から北見国道を東へ、東へ、そして石北峠を越えた所にイトムカ鉱業所はありました。スピードの出しすぎなのか、8時ちょうどについてしまいました。何か、おかしいな。9時まで、まだ1時間もあるのです。寒さの中で待つことは大変なので、一旦引き返えし、20分ほどの所にある層雲峡を視察しました。層雲峡に近づくにつれて車窓からは『民宿大雪(みんしゅく・おおゆき)』とか、『レストラン大雪(れすとらん・おおゆき)』などの看板が見えます。いくら何でも、大豪雪地帯ではないのに、いたる所に『大雪(おおゆき)』の看板です。おかしいなぁ、何で大雪なんだろうと考えていましたら、途中に『喫茶・大雪山』と言うのがありまして、さすがオオユキヤマとは読まず、ダイセツザンと読み、「なぁんだ、大雪(だいせつ)なのか。」と納得しました。

 その後、9時ちょうどになりましたので、野村興産イトムカ鉱業所の門を入りました。

 

野村興産イトムカ鉱業所の入り口にあった。

 

 そこにはすでの大型トレーラーが4~5台、鉱業所の開門と同時に入場する順番待ちをしています。聞きましたところ、全国から集められた水銀を含む廃棄物(蛍光管や乾電池など)はJR北海道の貨物列車で北見までコンテナで運び、それをコンテナ専用トラックに積み替えてイトムカ鉱業所まで輸送するのだそうです。

イトムカ鉱業所へ入場するコンテナ専用トラック

  

 9時ちょうどに、私たちも、入場しました。始めの1時間は工場の概要説明と水銀鉱山の歴史などのお話しをいただき、その後工場見学です。とは言うものの、絵になる写真はあまりなく、普通の工場みたいです。唯一、水銀含有乾電池の無害化工場のみが絵になるものでした(下の写真)

 

水銀含有乾電池を無害化処理する工程の入り口(乾電池を並べている)

 

 見学コースの途中、見学者のためのサービスと言うのでしょうか、水銀が入った二重になった容器の展示がありました。そこでは、鉄製の大きな釘(クギ)がプカプカと浮いています。異様な感じです。水銀の体験実験で、私たちは分厚い手袋をしてその容器の中に手を入れることが出来るのです。水銀の比重が大きくて手が入りません。力いっぱい手を突っ込んでようやく手首まで入るのです。なかなか面白い経験をしました。あまりに力を込めたので腕が痛くなりました。

 視察終了時間が近づき、12時を過ぎていましたので、鉱業所内を案内していただいた人に「ここらあたりで、食事するところはありませんか?」と聞きましたところ、「北見市の方へ少し下ったところに『つるつる温泉』があり、そこに食堂がありますので、そこを利用してください。」と言うのです。『利用してください?』何か引っかかるものがありましたので、さらに突っ込むと、「イトムカ鉱業所の水銀鉱山からの湧出温泉です。」というのです。シメ、シメと思い、そこでさらに突っ込み、「何か利用券とか、割引券など、いただけるものはありますか?」と聞きましたら、簡単に「ありません。申し訳ありません。」と言うつれない返事でした。『言ってみるもんだ。』という事が通用しませんでした。残念。

 

水銀鉱山から湧き出た温泉です。昼食のみ利用し、温泉には入りませんでした。

 

つるつる温泉はイトムカ鉱業所から15分ほど、北見の方へ下って行った左側奥にありました。食堂には思ったより多くの客がいました。お客は地元のお年寄りが中心です。私たちは、しかたなく、全員が、安くて、早く出来るものを注文することとし、結局、定価600円の生姜焼き定食を食べることにしました。昨日のモエレ沼公園でのランチと大違いです。

ところで、つるつる温泉の名前の由来ですが、湯がつるつるしていて、入浴すると肌もツルツルになるという事から来た名前だそうです。イトムカ鉱業所の人は「名前が良くないですね、何だか品が無い様でして・・・、頭が『つるつる』を連想してしまいます。」と申しておりました。残念でしたが、時間がなかったので入浴はできませんでした。

いずれにしましても、野村興産イトムカ鉱業所は見る価値がありました。

 その後、レンタカーで旭川まで帰り、再び函館本線で特急ライラック36号で札幌まで帰りました。札幌ではススキノで地元料理の夕食を食べました。


<解説>

『イトムカ』の語義は不明ですが、そのまま読めば i-tomka(それ・輝かす)とも,また i-tom-muka「それが・輝く・無加川(支流)」とも聞こえる。i-tom-utka(それが・輝く・早瀬)とも読める。鉱物が光って見えたものかと推測されています。

 

 

第3日目 札幌、小樽、そして名古屋へ

 3日目は名古屋へ帰る日です。早朝、例の時計台を見に、いや、朝6時の鐘の音(かねのネ)を聴きに行きました。午前5時40分に札幌駅前のビジネスホテルを出て、歩くこと10分で時計台前に着きました。人通りは少なく、ジョギングをする人がちらほら見えました(犬の散歩をしている人はいません)

 ちょうど6時10分前です。敷地内では警察官の様な制服を着たおじさんが竹帚(タケボウキ)で落ち葉を集めています。観光客はいません。6時になると、ガラン・ゴロン、いや、そんな音ではありません。もう少し濁った音でした。ジャラン・ジャゴンと言う濁った鐘の音です。よく言えば歴史を感じる音、悪く言えば錆びた音です。初めて聞く音でして、最大限に賞賛し、つまり、心にしみる音でした。感激して、パチ・パチ・パチ(拍手)

 

早朝6時の札幌時計台(鐘の音は少し濁音が入った感じでした)

 

ホテルの朝食(バイキング)を頂き、今日の午前中は小樽を見学する事としました。新千歳発のフライトは16時ですので、ゆっくりとした見学です。小樽駅を降りて記念写真。そして、小樽運河をめざし、堺町通りのメインストリートを歩きます。この日は北海道ではまれな暑さです。コートを脱ぎ、汗の出ない様にゆっくり歩きます。

 

JR小樽駅のプラットホームで記念撮影

 

途中、雰囲気の落ち着いた、ちょっとレベルが高そうな『大正硝子館 宇宙(そら)』というお店に入りました。大量生産・大量販売という品ぞろえではなく、美術品の様な、レア物の様な作品が、品よく並んでいます。中に入ると、30歳ほどの美人の店員さん(容姿淡麗でややフックラ、中肉中背で少し背が高い)がニコニコして、「どうぞ、奥へ入って見てください。」と声をかけるので、ついつい奥に入って行き、美人の店員さんと2.3会話しているうちに、いつの間にか、おススメされた『ラジオ・メーター』を買ってしまいました。これは、光が当たると球体の中の四角い羽がグルグルと回るのです。ただそれだけのことですが、結果として買ってしまいました。何で買ってしまったのだろう、と反省することしきりでしたが、やはり、一言でいえば、ニコッとする女性には弱いです。この際、白状します。

『大正硝子館(宇宙)』のお店の中からショー・ウインドーを見る

(勧められて買ってしまったラジオ・メーターは中央にあります。)

 

美人の店員さんに今生の別れを告げ、お店を出ます。すると、今までとは全く違い、喧騒な街の賑わいです。中国人らしい人の喧しい声があちらこちらで聞こえます。その後、水天宮と言う神社の丘に登り、小樽の街を一望しました。丘を降りて寿司屋通りで美味しい寿司を食べます。やっぱりお寿司にはビールです。1時間ほどかけてランクが上から2番目の『上寿司(1.5人前)』を食べ、その後、日本銀行小樽支店跡地の金融資料館を見学です。私は1万円札の模様を焼印したお札と同じ大きさの『お札煎餅』を買いました。そして再び堺町通りへ出ます。何とか歩き通しました。万歩計はゆうに1万歩を越えていました。疲れました。

 

小樽で入手したパンフレットの表紙

 (こんな美人は、例の人以外にはいませんでした。)

 

小樽では、様々な旅行案内パンフレットがありました。本当に観光に力を入れています。しかし運河の長さはそれほど長くはありません。むしろ、愛知県半田市の運河の方が長いと言われています。半田市は酢のまち、お酒のまち、新美南吉のまちと言う観光資源がいっぱいあります。しかし小樽の方が観光地として有名です。こんな切り口から考えることが出来て、小樽の視察旅行は、美人の店員さんのことも含めて、十分な研修成果が得られたと考えています。

ちなみに、ラジオ・メーターは本棚の上に淋しく置かれています。そこは薄暗い場所ですので、四角い羽は回っていません。

また、お札煎餅は、安城へ帰ってから、孫と一緒にムシャ・ムシャと食べました。孫は「お金もちになるぞぅ~。」 私は「老後の資金を蓄えるぞぅ~。」と宣言しながら・・・・。

 それでは今回はこれまでとします。ごきげんよう、さようなら。


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 第22話 トンチンカン先生、孫との関係性について


さてさて、皆さま、私は孫の面倒を見ていますというか、孫に見てもらっているというか、つまり、大変なんです。孫は現在保育園の年長さん、来年4月からは小学一年生です。毎朝、自分の健康も兼ねて、孫を保育園へ連れて行きます。そのため、孫は非常になついているのです。でも、最近は、自我に目覚めて、主張する、拒絶する、すねる、など多彩な反応をします。孫は家族の序列も父、母、自分(孫)、ジイちゃん、弟と認識しており、自分(孫)より私(トンチンカン先生)の方が序列的に『下』と位置付けているようです。ごく最近では「もう、ジイちゃんは何も知らないんだから。」と発言するようにもなってきました。とは言うものの、可愛くて目に入れても痛くないとはこのことです。

それでは順次、トンチンカンな奮戦記をご紹介、ご紹介。


 孫に連れられ、京都梅小路蒸気機関車庫見学

 

その1 おじいちゃん・おばあちゃんの参観日

先日、息子(坂部文孝)から以下の連絡がありました。

息子:「保育園から『おじいちゃんとおばあちゃんの参観日』開催のお知らせがあったので、参観してもらえないかなぁ。」

私:「うん、いいよ。なになに、午前中ね。了解したよ。孝樹(孫の名前)も喜ぶよね。」

私も子供の頃、何らかの都合により参観日に親が来ない時は淋しい思いをし

たものでした。これは、絶対行かなければいけない、万障繰り合わせてでも参

観しなければいけないと思ったのでした。

いよいよ、参観日の当日です。保育園の門を入ると園児たちが中庭で遊んでいます。孫はいるかなぁ、と園内を見渡すと、小さな園児が「あっ、たか君のおじいちゃん。」と言って寄ってくるのです。小さな子供が何で私を知っているのだろうかと驚いたり、感激したりでした。

そして時間が来ましたので、子供たちも、おじいちゃん、おばあちゃんたちもそれぞれの部屋へ入りました。私の孫は、「パンダ組」です。園児は30人ほどでして、おじいちゃん、おばあちゃんはその半分の15人ほどです。パンダ組の先生は男の先生でした。孫は私の顔を見るなり、ニコニコ、そしてソワソワとして、小さく手を振るのです。

孫の写真(愛知県岡崎市・岡崎東公園で恐竜の足とツーショット)

 

先生:(園児に向かって)「みんな並んで。」

(園児が一列になって教室の南側へ並びます。よく訓練されています。)

先生:「それでは、おじいちゃん、おばあちゃん、園児に向かうよう、一列に並んでください。並ぶ順番は決めていません。自由です。」

 (私は、先生から最も遠い、一番奥に並びました。)

先生:「おじいちゃん、おばあちゃん、よくいらっしゃいました。それでは順番に、お孫さんのお名前を言ってください。奥の人からどうぞ。はい、そちらのおじいちゃん(すなわち私です)からです。」

 (えっ、私が最初ですか?と思い、覚悟して、一歩前へ出て答えました。)

私:「坂部文孝(ふみたか)です。」

 (実は、本当にあわてて、私の次男、すなわち孝樹くんのお父さんの名前を言ってしまったのです。孫は、私の顔を見て、「その人、誰あれ。」と言わんばかりに、キョトンとしています。私は、ハッ、と気が付き、孫の孝樹の名前を言おうとしたのですが、なかなか名前が出てきません。うっ・・、と一瞬、多分2,3秒の間があり、やっとの思いで、思い出し・・。)

私:「失礼しました、坂部孝樹です。」

 

と答えたのです。ボケ老人なのか、とっさの反応ができないアンポンタン老人なのか、反省することしきりでした。私に続いて、おじいちゃん、おばあちゃんが順にお孫さんの名前を言っています。私の様な赤恥をかいた人は、多分、一人もいません様でした。(残念!)

あいさつが終わった後、園児と一緒にゲームをします。道中すごろく、コマ回し、カルタ取り、着せ替え人形など23人のグループになって1時間ほど、一緒になって遊ぶ時間です。それが終わると、園児たちが二列に並び、歌を披露してくれるのです。おじいちゃん、おばあちゃんは園児の小さな椅子に座って、手拍子や、手でヒザをたたいてリズムを取って聞くのでした。私はと言うと、反省しきりで、歌など耳に入りませんでした。

 やはり、おじいちゃん・おばあちゃんの参観日にふさわしい、『ちょっとした、でも私にとっては愕然とした意味のある失敗』でした。(反省、反省)

(幼稚園内ではプライバシーの関係もあり写真撮影禁止でした。残念)

 

その2 自転車乗りの練習奮戦記

ある日、可愛い孫から息子(私の次男)の携帯電話を使って電話がありました。

孫:「じぃ、じぃ。僕、自転車に乗りたい。自転車を買ってね。」

私:「へぇ~、自転車に乗りたいんかねぇ~。いいよ。今度の日曜日に買に行こうかね。」

孫:「わーぃ、わーぃ。じぃ、じぃ大好き~。パパ、じぃ、じぃが自転車を買ってくれるんだって。」

そして、その電話は、瞬時に息子に換わりました。

息子:「えっ、本当にいいんですか? 孝樹がよろこんでいるよ。有難う。」

私:「うん。いいよ。いずれ買ってあげようと思っていた所なんだ。そんなに高価なものでもないと思うし、気にしなくていいよ。」

と、携帯電話での話は終わりました。孫も、年中さんでもうすぐ6歳です。もう自転車に乗っている子供も見かけるし、自転車に乗る練習は早い方が修得が速いようだ、と自分自身に言い聞かせて、納得しました。

しかし、よく考えてみると、息子の携帯からの電話、孫との会話が終わると瞬時にして、息子に換わり、お礼の言葉・・・・。なるほど、どうも、親が、子供に言わせた可能性が非常に大きいものであります。これはやられた、と思いましたが、可愛い孫のため、やっぱり買うことになりました。

  

孫に買い与えた子供用自転車

 

 次の日曜日、さっそく孫を連れて自転車屋さんに行きました。もちろん父兄同伴です。店員さんは、男の子らしい青色の自転車を推奨してくださいましたので、それを買うことにしました。衝動買いです。当時は補助輪がついていました。しかし、2つの補助輪がついていると自転車はペダルを漕ぐのに重く感じてしまい、孫はあまり進んで練習しようとしません。

 そこで、自転車を購入後、3ヶ月で補助輪を取ってもらい、本格的な自転車乗りの練習をすることにしました。練習はおじいちゃんの仕事です。安城市にある『明治用水自転車道』での練習です。

 私が少し屈んだ状態で自転車の後ろを持ち、一緒に走るのです。それが大変です。一番困ったことは、孫が危ないと思った時に、自分で急ブレーキを掛けるのです。私は屈んだ状態で前のめりになり、あわや、転んで、最悪の場合『骨折』してしまう所でした。

 50メートル走り、休憩、50メートル走り、休憩の連続です。後ろにいる私は、手を放していないのに「手を放しているよ。」と大声で、激励することしきりです。そして、やっとハンドルを左右にゆすりながらの自転車乗りができました。まっすぐ行くにはもう少しの練習です。このまま行くと1ヶ月のちには自由に自転車が乗れる見込みだと思い、満足していました。

 しかし、ついに私が参ってしまったのです。前かがみの姿勢で、自転車の後ろを持ち、50メートルを走り、休憩、50メートルを走り、休憩をする、の繰り返しを毎週日曜日に5回ほど行うのです。ついに、腰が痛くなり、当分の間、自転車のりの練習は休憩となってしまったのです。

 もちろん、孫はまだ自転車を自由に乗りこなせません。

 

その3 マゴマゴします。

おじいちゃんの最近の関心事は、孫の動向です。とにかく、「そんな言葉、どこで覚えたのかねぇ。」と言う事ばかりです。先日も、レストランで孫と二人で昼食をしましたところ、孫は「あのぅ、すみません。」と大きな声で店員さんを呼ぶのです。中年のおばさん風のウエイトレスさんがやって来ると、孫は二つ折りになったメニューを見ながら、「お子様ランチ1つと、ハンバーグをトッピングでお願いします。」と注文をするのです。「トッピング? その言葉どこで覚えたの?」と言いたくなりました。まさか保育園ではないと思うが・・・・。

 

 

JR東海 新幹線浜松工場一般公開へ行く

(左は700系、右はドクターイエロー)

 

つまり、孫は日々成長し、おじいちゃんは日々、ボケとアンポンタンが激しくなり、かつ、筋力も落ちていきます。これも、時の流れと納得しています。「時の流れに身をまかせ~、です。」気張ってはいけません。

つまり、『トンチンカン先生、孫との関係性』は孫が右肩上がりで、トンチンカン先生は右肩下がりなのでした。   おわり。

 それでは、次回をお楽しみに。ごきげんよう、さようなら。


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 第21話 トンチンカン先生、今年も美の旅へ


皆さま、今年初めて随筆を認(したた)めます。つまり、明けましておめでとうございます。

トンチンカン先生は平成29年も美の旅にまい進しております。まずは、平成29年初頭、1月に雪の舞う中、近畿地方は兵庫県小野市の浄土寺に安置されている『国宝 阿弥陀如来像』を拝観。そして、春には関東は東京、国立新美術館の『ミュシャ展』へ行って参りました。それでは順次、トンチンカンな美の旅へご案内、ご案内。

 

その1 浄土寺『国宝阿弥陀如来像』

大阪で環境に関する講演をしました。こんな年齢になっても講演依頼があることは本当に嬉しいものです。(感謝、感謝)

特に、最前列に座って、目をパッチリ開けて真剣に聴く人々には頭が下がります。その人々とは当たり前と言えば、当たり前ですが、つまり女性です。しかも若い女性です。講師のトンチンカン先生は、『いよよ華(はな)やぐ命なりけり』と、ついつい頑張ってしまうのです。「いよよ華やぐ」という文言は以下の詩が起源です。

 

年々にわが悲しみの深くして

        いよよ華やぐ命なりけり

 

この詩は「芸術は爆発だ」と言った、例の芸術家岡本太郎さんのお母さんの岡本かの子さんが小説『老妓抄(ろうぎしょう)』の最後の部分で詠った詩歌です。こんなに長く生きると、悲しいことのみ多く思い出されるのですよ。しかし、その悲しみを乗り越えて、つまり、年をとれば取るほど元気に、晴れやかに、そして華やぐというものですよ、という意味の様です。私も老いてますます元気に、華やぎたいものです。

さて、こんなことを言っている場合ではありません。話は浄土寺でした。ごめんなさい。

講演が終わり、新大阪駅近くのビジネスホテルで一泊しました。翌朝、ホテルで朝食をとるや、一目散に新大阪駅からJR快速列車「西明石行き」に乗り、神戸の三宮で降りました。その後、乗り換え、阪急電車で新開地まで乗り、またまた乗換えで、神戸電鉄で三田行きに乗り、そして再び、鈴蘭台で粟生行きに乗り換え、長時間かけて小野駅という所まで行きました(ああ、しんどい)。途中、鵯越(ひよどりごえ)という駅、三木城があった三木駅など歴史に名前の出てくる駅を通過しました。数えませんでしたが後で調べましたら、私の乗った電車は30もの駅に停車したのでありました。つまり、大変な大旅行でした。電車の車窓からは山は頭に雪をかぶり、田園地帯は新開地から小野に出るまで全く無く、山を回り込んだり、開発された住宅地を眼下に見て走ります。電車に乗っている時間は2時間と少しを経過しました。下車した小野駅から、徒歩約30分で浄土寺に行くことが出来るのです。が、さすがに電車疲れで、お尻が痛くなっていましたので、タクシーで行く事にしました。浄土寺に着いたのでタクシーの運転手さんに1時間後にこの場所に来てもらうように頼み、浄土寺に入って行きました。

 

浄土寺 国宝浄土堂(例の国宝三尊が安置されている)

 

浄土寺の中心はやはり、国宝が安置されている浄土堂です。この浄土堂は建物の平面が正方形の建物で、屋根はすっきりと直線を描き、日本刀のようなソリはありません。つまりこの浄土堂の建築様式は天竺様式といい、国宝でした。そして、山門らしきものは無く、広い境内に様々なお堂、鐘楼、経蔵などが点在しています。境内には人っこ一人いない田舎のお寺という感じです。

 

浄土堂入口(中にアルバイトのおばさんが居た)

 

浄土堂の左角に入口がありました。拝観料はお1人様500円と書いてありましたので、すぐに入口とわかりました。そこを入ると、受付のアルバイトらしいおばさんから「ようこそ遠いところ来てくださいました。」とお礼の言葉がありました。おばさんは足元に火鉢を置いています。つい、つい、「火事にならない様に気を付けてね。」と言ってしまいました。おばさんは久し振りに人の姿を見るような、キョトンとした顔をしています。人の声を聞くのも久しぶりという感じです。もちろん、拝観者は私一人です。

中に入ると板の間でして、板の隙間からヒューヒューと隙間風が上昇気流となって足元を撫でます。寒いというより痛い感じでした。スリッパの備えもなく、冷たい体感をしました。足踏みをしながら、かじかんだ足を左右の足同士でこすり、温めます。すると、おばさんが、「そこにあるカセットテープを回してください。浄土寺や本尊を説明する声が出ます。」というのです。どうも、セルフサービスの様です。カシャッとスイッチを押すとかすれた声で説明が始まりました。

主な説明内容

①浄土堂は鎌倉時代に建立され、国宝に指定されている。柱の数も少ない東大寺と同じ天竺様式である。過去の大きな地震にも耐え頑丈な作りである。

②阿弥陀如来像は高さ5.3m、両脇の菩薩は高さ3.7mで鎌倉初期の名仏師快慶(かいけい)の作である。

③阿弥陀如来像は屋根裏いっぱいまでの高さで重量感がある。立像は珍しい。

④高さ5mを超す像であるが、全体では台座から地下へ3mほどの長さがあり、仏像の高さの合計は地上5.3m地下3m、合計8.3mとなって,

地震などでも転倒しない構造になっている。

カセットテープの説明が終わると、私はおばさんの所に行き、お礼をして、ついでに変な質問をしました。

私:「言っては何ですけど、この様な京都や大阪から遠く離れた田舎にこんな立派な阿弥陀如来像が安置されているのは、何か訳があるのですか?」

おばさん:「えっーと、住職さんの言われるには、鎌倉時代には、近畿地方のあちこちに8カ所ほどこの様な立派な阿弥陀さんが祀られていたようです。しかし、戦国時代になると、多くの戦乱によって、都のあたりでは多くの寺院が焼かれ多くの仏像も焼失したようです。運よく、田舎のこの地だけ戦火を免れたので、現在も安置されているのではないかと聞きましたが・・・。まぁ、戦争はいかんねぇ。」

なるほど、納得しました。小野市は播磨の国、播州の北に位置していることか

ら、北播地方(ほくばんちほう)というのだそうです。山陽道までかなりの距離があり、裏手は山々が重なって、そこを越えるとすぐ山陰地方だそうです。

 

浄土寺 国宝阿弥陀三尊像(3体とも国宝)

(パンフレットからのコピー)

 

 それにしても立派な阿弥陀如来像です。感激して、浄土堂を後にしました。しかし、本当に寒さがきつく、耐えられず、足踏みしたり、日当たりのよい場所を選んで散策したりと悪戦苦闘です。帽子は下の写真のように毛糸の帽子(ネパールのシェルパ帽、これは息子のネパール土産)、そして厚手のコートを着ています。こんな寒い所へ来るんじゃなかったと冷たい風が吹くたびに反省してしまいました。

その後、そのまま今来た道を引き返すのはもったいないと思い、加古川を経由して西明石の方へ出て新幹線で名古屋へ帰ることにしました。タクシーの運転手さんには、「小野町駅までお願いします。」と声を掛けました。

万全な防寒装備で浄土寺まいり(自撮りです。)

 

JR加古川線の小野町駅までタクシーで行き、タクシーの運転手さんに礼をいい駅舎に入りました。暖房された待合室には、おじいさんとおばあさんがいました。『昔々ある所に』ではありません。『現在』、小野町駅におじいさんとおばあさんが居るのです。そこに掲示された時刻表を見ると、なんと加古川行の電車は50分後に来るのです。おじいさんとおばあさんはこの長い時間である50分間をどの様に過ごすのでしょうか、今、世間話をしているのですが、しばらくすると話すことも無くなるのではと心配になりました。

駅前には商店街はありません。コンビニもありません。あたりを見回すと駅舎の一画に地域の人々が経営するお店が1軒ありました。地産地消の野菜、地域の特産品が並べられており、奥に食堂があります。丁度お昼時間でしたので、それではと中に入り、メニューを見ると特産品の『田舎そば』しかありません。私は暖かいカモ肉入り蕎麦(そば)を注文し、ついでに「熱燗はありますか。」と聞きましたところ、「地域の人たちがお昼時間だけ経営する食堂です。申し訳ありませんが、お酒は販売していません。」というツレナイ返事でした。これを聞いて、寒さが一段と身に染みてきました。

 

50分待たされたJR加古川線 小野町駅(無人駅)

 

その後、暖房された待合室で過ごし、加古川まで1両編成のローカル電車に20分間乗り、そして西明石を経由して、新幹線ひかりで名古屋へ帰りました。我が家へは午後5時過ぎの到着です。あの素晴らしい国宝阿弥陀如来像だけ拝観するために朝早く起き、新大阪を8時前に出発して我が家へ帰るまで、延々10時間を要した『美の旅』でした。あぁ~、疲れた~.寒かった~。

 

 

その2 ミュシャ展への旅

ミュシャ展の紹介は、例のNHK「日曜美術館」で見ました。私はアール・ヌーヴォーの商業デザイン(グラフィックデザイン)の美しい作品しか知らなかったのです。晩年に制作し、本当のミュシャを知ることが出来る『スラヴ叙事詩』の大作20枚があるなんて全く知りませんでした。

彼の出世作は1895、舞台女優サラ・ベルナール芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターです。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注する事にしたが、おもだった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いていたミュシャに飛び込みで依頼したものだったのです。

晩年、ミュシャは故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作します。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。しかし、1939年、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体されました。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕されました。その理由は「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」というものでした。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、まさしく、それは78歳の老体には耐えられないものであり、その後ミュシャは釈放されたものの、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じたのです。

美の旅に出る前に、NHKの「日曜美術館」などにより、この様な知識を得て、観賞に向かいました。やはり、事前の予習はいいものです。

小学校、中学校の時、もっとしっかり予習をしておけばよかった、と今になって(余命いくばくもない、こんな年齢になって)反省しています。

 

ミュシャの出世作「ジスモンダ」

(購入したクリアファイルよりコピー)

 

 

フランス時代のミュシャの作品(アール・ヌーヴォー)

(購入したクリアファイルよりコピー)

 

 

それでは旅の流れを最初から順にお話します。出発日の数日前、ある企業さんから相談を受け、現地に出向くことになりました。その出向く日が丁度、ミュシャ展へ出かける出発日と重なってしまいました。

つまり、出発日は午前中、愛知県の東三河地方で仕事をしました。その足で、豊橋駅から新幹線ひかりで東京へ、またまたその足で、地下鉄に乗り換え、六本木まで行き、国立新美術館へ向かいます。時間は丁度午後4時でした。その日は金曜日でしたので、人ごみは少ないのですが、切符を購入するには20分ほど並びました。

そしていよいよ、ミュシャ展です。

 

ミュシャ展入場券(20分ほど並びました)

 

 入口を入ると会場マップが書かれたパンフレットがあります。それを1部頂き、展示会場を巡るのです。下の図のように、スラヴ叙事詩』20点が大きく会場を占めています。そして、最後の部屋は「撮影可能エリア」となっていました。「えっ、カメラで撮っていいの?」こんな展覧会初めてです。ウキウキした気持ちで順に観て回りました。

 

会場マップ(左下エリアが撮影可能エリア)

 

スラヴ叙事詩』は20枚すべてが縦、約4m、横、約5mの大きな絵です。この絵が20枚も並んでいる様子には、圧倒されました。素晴らしい迫力です。とても晩年、78歳まで、情熱を傾けて20枚を描いたとは思えません。シッカリした筆使い、陰影の確かさ、全体の構図、申し分ありません。こうなったら、私も頑張らなければと思いました。『いよよ華やぐ命なりけり』です。

 

携帯カメラで絵画を撮る入場者達(撮影可能エリアにて)

 

そして、撮影可能エリアで元気よくバシャ・バシャと携帯カメラのシャッターを押し続けました。絵の大きさが半端じゃないので、絵画のすぐ前でシャターを切ると全体が撮影できず、遠くからシャッターを切ると上の写真のように携帯を構えた人物が多く入ってしまいます。やはり撮影可能エリアでは芸術的な写真が撮れないことが分かりました。(残念、残念)

撮影可能エリアでは、多くの人が携帯カメラで写真を撮っていました。この光景がまたまた面白いのです(上の写真)。つまり、みんなが同じポーズをとって、へっぴり腰で、携帯カメラを構えているのです。このままではとても芸術的な写真を撮ることが出来ないと思われます。撮った写真はどうするのでしょうか。他人ごとながら心配してしまうのでした。

 

その3 旅の終わりに

浄土寺では、長時間のローカル線の旅、ミュシャ展では超特急新幹線の旅でしたが、やはり、ローカル線の旅が印象に残ります。ゆっくり走る電車の車窓から初めて見る景色は何とも言えない感動です。これからは地方の美術館巡り、仏像巡りをしたくなりました。(年齢のせいなのでしょうか、ゆっくリズムが身に合ってきました。)

 

おわり。次回をお楽しみに。ごきげんよう、さよ

 


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第20話 トンチンカン先生、天津、北京へ行く 


 さてさて、トンチンカン先生は、平成28年、すなわち2016年に中国は天津(てんしん)と北京(ぺきん)に仕事で行って参りました。天津は環境汚染に関するフォーラムに参加し、土壌汚染事例を紹介する講演をしてきました。北京では環境展に参加し中国の環境事情を見てきました。それでは『天津・北京の珍道中』、始まり、はじまり。

その1 天津への旅、―天津飯と天津甘栗は何処―

天津市人民政府外事弁公室への表敬訪問(前列右端がトンチンカン先生)

 

天津は北京の外港です。日本からも多くの企業が進出している人口約700万人の大都市です。上記の写真のように日本から総勢8人の参加です。

早朝、7時30分にセントレアに集合、そして9時25分発の飛行機で出発です。予算の都合で、韓国の仁川空港で乗換え、つまりトランジットして、天津国際空港へ向かいました。乗換えの手続きに不案内な人が多く、乗り換え時間が50分でしたので、あわててしまいました。中には乗換え場所に行かず、韓国への入国審査の方へ行ってしまった人もいて、幹事さんは大変でした。でも、何とか予定通り午後1時25分に天津国際空港に到着しました。

ホテルは、「天津水晶宮飯店」と言い、玄関ロビーにはロビーいっぱいに大きな水晶のシャンデリアが吊るされております。水晶ではなくガラスではないかと疑ってしまうほどの大きなものです。

そして、午後4時から天津市人民政府外事弁公室へ表敬訪問です(写真)。いわゆる環境部局への訪問です。天津市側は女性の副部長さんに対応していただき、通訳を通じてお互いを褒め合った言葉を交わし、オチャッパ(お茶の葉がそのまま湯呑に入っている)の入ったお茶をすすり、会談は終わりました。

20分ほどマイクロバスに乗ってホテルへ帰って一服した後、夜、天津の街へ出て、私たちだけの夕食会を開きました。せっかく天津へ来たので、『本場の天津飯』を食べるぞー、と意気込んだのですが、ショウケースにもメニューにもそれらしきものはありません。中国人の通訳の人に「天津飯を食べたいのですが。」というと、通訳の人は「卵のあんかけ丼ですね。その天津飯は日本で発明された料理です。なので、天津にはありません。」という返事でした。天津飯は日本人が日本で発明し、日本で広まった料理の様です。つまり、台湾ラーメンと一緒でした。初日の夕食で、本場の料理『天津飯』に舌鼓を打とうと意気込んでいたのですが、青森県の三内丸山遺跡の受付嬢が青森県人でなく愛知県人でした、と云う経験同様(第17話トンチンカン先生の『みちのく一人旅』を参照)、またもや出鼻をくじかれたようです。が、しかし、頑張って餃子、野菜炒めなど定番の中華料理を腹いっぱい食べました。一応、満足。

第2日目はいよいよフォーラムの開催です。初日は大気汚染対策に関するフォーラム、次の日は土壌汚染対策に関するフォーラムです。私は、化学工場の土壌汚染対策事例について発表しました。日本の企業がどれだけ苦労して土壌浄化に時間と費用を使っているか、通訳を通じて90分お話しました。特に、①住民対応が重要な事項であること、②常に公開で作業を行うこと、③専門家からの意見を聴きながら対策を進めることの必要性を強調しました。

フォーラムで発表したパワーポイントの表紙(第1ページ)

 

 90分の発表を終え、いよいよ、質問時間に入ります。特にびっくりした質問は、「なぜ、企業が浄化費用を負担しなければいけないのか。」という質問が来ました。私は汚染者負担の原則を説明し、「汚した人が責任を持って浄化するのです。」と発言したら、会場中の中国人の人々は不思議な顔をしていました。中国では、国が税金を使って浄化対策事業を進めるようです。企業負担にすると価格に反映し、値段が上がり、売れなくなる、輸出できなくなるという理由の様です。日本とは随分異なった考えだと思いました。

 その後、自由時間がありましたので、全員で天津の旧市街区を見学しました。

天津は特に有名な、誰でも知っているという観光スポットは無いようです。昔の天津は様々な国の統治下にあったようでして、100年ほど前に建てられた様々な国の建物が残っています。私たちはイタリアの人々が建てた建築物を見学に行きました。意大利情街Italian Style Street)と言いまして、かなり変わった建物が並んでいます・

天津のイタリア風情街(Italian Style Street)に建つ住宅の例

 

 ちょっと見ると、悪趣味のような建物に見えます。看板に書かれている内容を中国人の案内の人に解説していただきますと、「この家は、イタリアの商人が建てた家で、100年ほど前に建てられました。今でも人が住んでいます。」と説明がありました。なんだか、アントニオ・ガウディ(カサ・ミラ、グエル公園、未完成のサグラダ・ファミリアで世界遺産となった作品を残した、スペイン人)の作品みたいです。しかし、ガウディのような感動はありませんでした。当時の貿易商で大きな富を蓄えた、成金趣味のようにも見えました。でも、建物のいたる所にテラコッタ(素焼の塑造)の作品が張り付いており、見応えはありました。

 

有名なガウディ作『サグラダ・ファミリア』(教会)

注.ガウディはこの教会を建設中に交通事故で亡くなりました。

 

この様な住宅があちらこちらに並んでいるので、しばらく散策をしていると、鐘の音を鳴らしながら「パッカ・ポッコ、パッカ・ポッコ」と蹄の音も軽やかに、いや、軽やかではありませんが、馬車が迫ってきました。多くの観光客を乗せた重そうな荷馬車を一頭の馬が一生懸命にひいています。なんだか、馬を虐待している、パワハラのような気がしました。

 荷馬車に乗っている観光客は殆どヨーロッパ人(中にはよく肥えたおばさん)の様でした。

「パッカ・ポッコ」と馬車がゆっくりと行き過ぎました。

(荷馬車が重そうで、馬がかわいそうでした。)

 

その後、天津鉄道駅の前を通り、やはり夕食に出かけました。特に天津ならではという中国料理はない様でしたが、ちょっと驚いたことがありました。中華料理店が入っている大きなビルのロビーで異様な光景を見てしまいました。

 それは、『天津、おばさんパワー』です。30人ほどのおばさんがこれから晴れ舞台に出る直前の最後の練習、そして、最後の化粧直しをしているのです。

「おばさんダンシングチーム」はロビーいっぱいを使い、こちらでは化粧直しと衣装のタルミ直しをしています。あちらの方では、踊りの振り付けの確認をみんなでやっているのです。化粧のにおいがプンプン、やかましさは人一倍でした。

天津『おばさんダンシングチーム』の本番準備

 

天津市で見かけた『おばさんダンシングチーム』の底力

 

 そんな訳でして、天津で一番印象に残ったものは『おばさんダンシングチーム』のパワーでした。

 帰りに、天津みやげの『天津甘栗』を買っていこうと、空港の免税店に行きましたが、あれっ、天津甘栗はありません。中国人の通訳の人に、最後の質問、「天津甘栗はどこで売っていますか。」と尋ねましたところ、通訳さんは「天津甘栗はありません。天津郊外には大規模な栗園が多くあります。以前から天津港は日本へ栗を輸出する積み出し港でした。それで、日本人が甘栗に『天津甘栗』という名前を付けて日本で売り出したところ、爆発的に売れたのではないでしょうか。」という答えでした。またまた、大変なことを知ってしまいました。

 

その2 北京への旅-故宮博物館の老人票・本物の万里の長城―

 北京へは初めての旅です。しかも、一人でセントレアから飛行機に乗り、中国人と空港で待ち合わせです。大変な思いをしました。朝8時にセントレアへ行き搭乗手続きを終え、出発の連絡をする人がいないので、とりあえず、息子の嫁に「今から行って来るよ。」と携帯電話で連絡しました。

 そして、飛ぶこと約2時間、無事に北京空港に着きました。ここからが冷や汗の連続でした。飛行機を降りて皆さんがゆく方へ歩いて行きました。思った通り入国検査所がありました。パスポートを見せ、指紋を取り無事通過。しかし、荷物を受け取る所がありません。皆さん、電車に乗るのです。ええっ! 荷物は?皆さんが乗るから違っていてもまた戻ってくればいいや、と思いつつ、乗り込みました。駅は2つあります。国内線と国際線をつなぐ地下鉄の様な車両です。そして3つ目の駅が空港出口です。そこで降りて、皆さんに付いて行くと、荷物受取場がありました。やっとの思いで、トランクを持って北京空港のロビーに降り立ちました。

しかし、指定された待ち合わせ場所に中国人はいません。一難去って、また一難。携帯で連絡したところ、北京市内が混んでいて、約1時間後に空港に着きますという返事でした。トランクに腰を落として待つこと1時間30分、やっと中国人に会えました。タクシーでホテルへ行き、翌日環境展を見学しました。

 今回の旅は、余裕を持ったスケジュールでしたので、故宮博物館と万里の長城へ行くことが出来ました。この2つの観光地への珍道中をお話します。

 

(1)故宮博物館

 故宮博物館は天安門広場の奥にあります。北京の地下鉄に乗るときは飛行機の荷物検査と同様、荷物のX線検査があります。乗る人は全員、荷物を機械に通します。

私は、ペットボトルを持っていましたが、検査員から「ペットボトルの飲料を私の前で飲みなさい。」と言われました。しかたなく一口飲んで見せました「行ってよい。」と言われ、地下鉄のホームへ降りた次第です。

『前門』という名前の駅で降り、大きな毛主席記念堂を左に見て天安門広場へ出ました。とにかく人が多く、つまり、人が渋滞しているという感じです。

 

天安門広場にて

 

 日曜日でもないのに、大変な人出です。視界に入る人々の数は、右を見ても、左を見ても、どこを見ても100人以上います。これぞ、本当の中国なのだと実感しました。

天安門広場を歩き、天安門の中に入ると故宮博物館の切符売り場があります。そこで、パスポートを見せて切符を買うのです。年齢がわかってしまい、購入した切符は『老人票』というものでした。

北京・故宮博物館入場券(老人用)

 

確かに大人50元のところ老人は30元なので安いのですが、ちょっとムカッとしてしまいました。「私はまだまだ、若いのだぞー。」と言いたいほど切符売りの女性は淡々と、こちらを見ずに知らんぷりして切符を窓口から出したのでした。

 

 

北京・故宮博物館の内部

 

 故宮博物館は非常に広く、一日では回りきれないほどです。写真などの撮影は禁止されていません。大きな石仏や石版など迫力のあるものばかりです。ここでも、人だかりがすごく、一番前で見ることは出来ないほどでした。半日を要して見学しましたが、全体の半分も観られないほど、展示場、展示物が多くありました。満足、満足。

 

(2)万里の長城

 次の日朝早く、昨日と同じように地下鉄で前門駅まで行き、そこからバスに乗って3時間余りかけて万里の長城を見学しました。

 2時間ほどバスに揺られていると、遠くに万里の長城が見えてきます。「わー、すごい、万里の長城だ。」とみんなが騒ぎ出したのですが、バスガイドは「あれは、今から見学する万里の長城ではありません。お金持ちが自分のお金を出して作った偽物の万里の長城です。」という説明です。相当な大富豪で、お金に任せて万里の長城の隣に自分だけの万里の長城を建設したもののようです。日本人の感覚でしたら、何千年も風雨にさらされた万里の長城の修復に寄付するのですが・・・、ちょっと感覚が違うのでしょうね。

そして、ぴったり3時間で本物の『万里の長城』へ到着しました。

 そこからロープウエイでのぼり、万里の長城を散策しました。ここでもやはり、人が渋滞しています。

 

 

万里の長城入場券(こちらは老人票ではない)

     

  万里の長城を見学した日は、本当に良く晴れて、スモッグなどありませんでした。こんな天気はまれだという説明がありました。長く連なっている万里の長城が遠くまで見えるのです。

 写真を見てください。空はどこまでも青く、遠くまで撮影することが出来ました。しかし、坂の多いこと、息が切れて大変な思いをしました。

万里の長城にて。(混雑ぶりが分かります)

 

 万里の長城では、アスファルトで補修していたり、老人のための手すりが、万里の長城にドリルで穴をあけて設置してあります。日本では考えられないことですが、万里の長城のデコボコ床面はアスファルトで滑らかに、横の手すりは、重要な文化財にもかかわらず、穴をあけて手すりを設置するのです。

少し休憩(こんなに快晴の日はないという説明でした)

 

文化財に対する考え方が日本と違っていることに驚きました。

 2時間ほど万里の長城で過ごした後、ロープウエイで降り、みやげ店を見て回りました。万里の長城での記念品にと孫に帽子を買いました。帽子には万里の長城の英語として「 Great Wall と書かれていました。孫は大変喜びました。

翌日は日本へ帰る日でした。午前中、ちょっと時間がありましたので、北京の繁華街を散策しました。百貨店には、ドラえもんやキティーちゃんの縫いぐるみが山のように積んでありました。食料品売り場には何でもあるという状態で中国の生活物資の消費はすごいと思いました。

 

足をバタつかせたタツノオトシゴとサソリの串物を売っていた。

(足をバタつかせて、元気よく生きている)

 

 一方、昔ながらの露店もいくつかありました。上の写真のように、タツノオトシゴやサソリの生きたものを売っている露店(その場で焼き鳥のように焼いて、タレを付けていました。買った人は歩きながら口に運んでいます。)もあり、行き交う若者はジーンズを履き、大きなサングラスをかけています。

中国という国は、これからもどんどん変わって行くのではないかと思いました。

 

反省

<その1> 思い込みの激しさ(天津飯と天津甘栗)

 天津では、天津飯を食べたい、天津甘栗を買いたいと思っていましたが、ダメでした。天津と名がつくものは全てその発祥が天津と思ってはいけないのです。思い込みの激しさに反省です。

<その2> 国が違えば考えも違う(自己責任)

 日本のルールは外国では通用しないのです。日本では環境汚染を浄化する責任は汚染者に有りますが、中国では責任はないのです。ビックリです。

<その3> いつまでも若い?(故宮博物館、万里の長城)

 古希に入ったが、体力はまだまだ、そして、気持ちは20代と思っていました。しかし、故宮博物館で渡された『老人票』はショックでした。そして、万里の長城でのアップ・ダウンの道は、やはり古希なり、と反省しました。


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第19話 トンチンカン先生、『学会発表に参加する』の旅

 

実は、昨年、トンチンカン先生は40年ぶりに学会に参加しました。それは「地下水・土壌汚染とその防止対策に関する研究集会」という5つの学会の共同主催の研究集会でした。場所は九州大学です。伊都(いと)キャンパスでの開催です。伊都キャンパスは新しく大学を統合移転したばかりで、ちょっとした丘の上に10階建ての校舎が3棟大きくそびえ立ち、まるでパルテノン神殿のような異様な姿でした。その中の椎木(しいき)講堂という円形の講堂で開催されたのです。