第34話 アンポンタン老人、夏休み自由研究を手伝う
「おじいちゃん。夏休みの自由研究、手伝って~。」と言うので、目に入れても痛くない孫からのお願いに、「OK。任せなさい。ヴィランさま※。」と即答しました。
ところが、いつもの様に大変な目にあいました。テーマは『愛知県の三英傑の研究』です。愛知の三英傑と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人です。この3英傑は、名古屋祭りなどのイベントで多いに宣伝されています。東海地方では、「あいちの三英傑」という言葉が定着しています。孫の自由研究は、その人物の生誕地や活躍の場、愛知県との関係を整理する『研究』です。
「OK。任せなさい。」と言ったものの、どうしようかなと考えていましたら、愛知県庁の刊行物展示場に「あいち武将観光ガイドブック」(図―1)というものが置いてありました。自由にお持ちくださいとありましたので、とりあえず1冊頂いて、これを参考に現地を視察し、感想を書き、研究内容としたのです。
愛知武将観光ガイドブック
図-1 愛知武将観光ガイドブック(30ページ)
<投稿した原稿>

訪ねた場所は、徳川家発祥の地(豊田市松平地区)や家康生誕の城である岡崎城(岡崎市)など8地点です(表-1)。私の運転する自動車で3日間かけて見学し(1日当たり平均150キロ走行)、そこで、おみくじ1回(100円)、絵馬1枚(500円)、その場所の歴史が書かれた郷土の歴史本1冊の購入(1500~2000円)、そしてオマケとしてお賽銭(100円)など、全て私の財布から出ていき、さらにお昼ご飯は、孫の希望で、ウナギ定食(岡崎市の山間部で)、コチの刺身定食(知多半島の海鮮専門食堂で)、天津飯+餃子(岡崎市内の中華飯店で)のランチなど思いのほか多くの出費となりました。
訪問した寺院等
表-1 訪問した寺院等(全て愛知県内にあります)
今回訪問した8カ所のうち、最も印象深かった2つの寺院について、ご紹介し、訪問結果をお話します。
※「任せなさい。ヴィランさま。」はNHKの「ヴィランの言い分」と言う番組を毎週見ている結果でして、つい出てしまう言葉になっています。「ムダ毛、ゴキブリ、紫外線」という世間から忌み嫌われる悪役"ヴィラン"。でも役に立っている部分がある、聞いてほしい"言い分"があるという内容の番組です。面白い番組です。(毎週水曜日午後7時25分から30分間)

1 滝山寺(たきさんじ)
<概  要>
滝山寺は鬼祭りで有名で、奈良の東大寺二月堂のお水取りの様に、2月という寒い時期に祭りは行われ、火のついた松明(たいまつ)を持って鬼の面を付けた白装束の人が本堂の回り縁(縁台、舞台とも言います)を走り回る様子は二月堂のお水取りとほぼ同じです。
しかし、もっと重要なことは2点あります。まず、岡崎市の北東部に位置し、三代将軍家光は岡崎城の鬼門を守護する滝山寺の境内に滝山寺東照宮(日吉山王社とも言われている)を創建しました。日本三大東照宮の一つでもあり、国の指定重要文化財です。次に、それよりもっとすごいのは、運慶(うんけい)、湛慶(たんけい)作の寺宝の『聖観音・梵天・帝釈天三尊像』は、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。この聖観音像は源頼朝公の等身大で、運慶作の東大寺南大門の『金剛力士像』で代表される筋肉質の荒々しさはなく、もち肌、なで肩の仏像でした。仏身には、源頼朝の死後、頼朝の顎髭(あごひげ)と歯を頂き、これを胎内に納めたとされていることです。
寺宝である仏像のレントゲン写真
図―2 寺宝である仏像のレントゲン写真
(口元に頼朝の顎ヒゲ(あごひげ)と歯が写っている)
<調査結果>
住職の話では①源頼朝の従兄弟(寛伝:かんでん)は、当時、滝山寺の住職をしていた。②住職は、頼朝の3回忌の法要の時に鎌倉に行き頼朝の体の一部である顎ひげと歯を頂いて来た。③これを、運慶・湛慶が作成した寺の寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像の胎内へ納めた(図―2)。④従兄弟は熱田神宮の神官(宮司)が祖父である。④徳川家康は源頼朝を非常に尊敬していたといわれている、などと説明があった。
源頼朝の母は、熱田神宮大宮司の娘(由良)であり、頼朝は熱田神宮に隣接する「誓願寺」で誕生している。父は清和源氏系の源義朝(よしとも)である。義朝は平清盛と戦った「平治の乱」に敗れ関東へ落ち延びる途中、義朝の妻(由良)に関係が深い熱田神宮へ寄り、その後逃げる計画であった。しかし、愛知県知多半島にある「野間大坊」近くで暗殺された。
この様に源頼朝は愛知県で生まれ、母は熱田神宮、父は知多半島の野間大坊、源頼朝の遺髪などは滝山寺など、頼朝がこんなにも愛知県と関係が深いとは知りませんでした。(図―3)
熱田大宮司家家計図
図―3 熱田大宮司家家計と源頼朝、義経の父義朝、従兄弟の寛伝
滝山寺は拝観者が少ないためか、住職は私たちを離さず、寺宝について次から次へと説明し、仏像の前で更に次から次へと詳しくお話しを頂いたため、滝山寺の滞在予定時間を大幅に超過しました。この結果、不幸にも、お昼の食事は午後1時30分過ぎとなり、最も近い食堂がウナギ専門店であったので、私の通常食する昼食としては、最高の値段であるウナギ料理(ひつまぶし)を食べる羽目に陥いってしまったのであります。

2 野間大坊(のまたいぼう)
<概  要>
鎌倉幕府を開いた源頼朝の父源義朝(よしとも)が眠る寺です。父義朝の墓や頼朝寄進の大門、狩野探幽の手による「義朝最期図」の絵などがあります。客殿は伏見城の遺構を移築したものと伝わっています。また、豊臣秀吉との戦いに敗れた信長の三男織田信孝の墓もあります。さらに、すでに消失しました、源頼朝が創建・寄進した五重塔の遺構もあります。
このように、野間大坊は源賴朝、織田信長、豊臣秀吉の時代を通して、この地域で大きな力を持ち、雄大な伽藍配置をした寺院でした。
野間大坊説明看板
図-4 源義朝の墓所前に設置されていた説明看板の抜粋
源義朝の墓
図―5 源義朝の墓(野間大坊の境内にある)
花の代わりに多くの木太刀がお供えされている。
<調査結果>
野間大坊は住職始め関係者が不在であり、淋しく、静かな寺院でした。源頼朝が建立した五重塔も火災で焼失後は再建されず、礎石だけ残っているようです。頼朝の父、義朝(よしとも)の墓と頼朝が寄進した大門があるだけでした。本堂はその時代以降建立されたもので文化財ではありません。参拝者、訪問者もなく、木太刀、絵馬は無人販売所で並べて売られていました。鎌倉幕府の衰退とともにさびれて行ったのかもしれないと思いました。交通の便も良いとは言えず、知多中央道美浜(みはま)インターより15分ほどの距離でした。JR名古屋駅からは名鉄知多線に乗り特急電車で約1時間、野間駅で降り、タクシーがないので30分ほど徒歩となるので、自家用車での参拝、観光バスによる団体参拝でなければ訪問できないのではないかという状況でした。
野間大坊の絵馬
図ー6 義朝、頼朝、義経が描かれた、野間大坊で購入した絵馬
(無人販売店で500円、間違いなく支払いました。)
野間大坊の調査を終えるとお昼の12時を過ぎていました。この近辺は伊勢湾に面した地域なので食事をするところは海鮮料理の食堂しかありません。やむなく入った食堂で、最も安価と思われた「本日のオススメ」とメニューに書かれていた『コチの刺身定食』を注文しましたが、思いも寄らない高額でびっくりです。コチは高級魚だそうでして、食べたときの感想は、白身の刺身で、食感がモチモチして大変美味しいものでした。短絡的に、瞬発的に注文した結果、財布の残額が急に減少してしまいました。

☆結論
一般的に、愛知県にゆかりのある武将は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康であり、「あいちの三英傑」と言われています。しかし、今回の孫とアンポンタン老人(私)の『共同夏休み自由研究』では、源頼朝の生誕から死亡、死後の遺体の一部保存など各所に源賴朝の足跡がありました。生誕地は名古屋市の熱田神宮近く、父義朝は知多半島の野間大坊近くで暗殺されている。頼朝は野間大坊に五重塔を建設し寄進しているなど、あいちの3英傑に劣らないほど関係が深い状況にありました。
この研究の結果、源頼朝も加えて、表―2のように『あいちの武将 4英傑』と言った方が良いのではないかと言う結論に達しました。
愛知の武将 四英傑
表―2 愛知の武将 四英傑
☆終わりに
ちなみに、今回の研究成果は私の汗と涙の結晶、つまり、自動車の運転手という労働提供(汗)、多大なる資金拠出(涙)により、安城市夏休み自由研究、『歴史のひろば展』で『歴史賞』を受賞しました。現在、『安城市歴史博物館』に模造紙で書かれた研究成果が展示されています。
自由研究の積極的なお手伝いでした。そして、この様にいつまで経っても『孫離れ』しない、アンポンタン老人でした。

しかし、化学屋という理系の頭の私が何で文系の歴史調査研究で表彰を勝ち取ったか、今でも不思議で、不安で、何かあったのではと思うのです。
それでは皆さん、ごきげんよう、さようなら。また書きます。

<参考> 表彰状と楯
私の言っていることはウソではないという証拠です。
表彰状
表彰状:表彰式典では、教育長さんから直接いただいた。
副賞の盾
副賞の表彰の盾:孫の机の上の飾ってある。